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ある種の女は私と国語の大敵

2012.04.12

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↓結論から言うと、自立が悪いのではなく、自立してない女が、どうも私の大敵のようだ。(^-^)/

笛で遊びすぎて狂いまくってきたら、急に猛烈にお腹すいてきてヤバイ。www この遊ぶのが人生という感覚が、世の大半の女子には理解できないから、女子は悟れないと仏教では諭すんだなー、という感じの遊びまくり(^-^)/
posted at 06:31:40

遊べない人は、すぐ遊んでる人の邪魔しようとしたり、しちゃう。それが世の女性像だったりするから、女子は心して遊びまくってその女性像を払拭しないと、お腹すかないよー、遊んでくるいまくるために生きてるのよー(^-^)/
posted at 06:33:20

田舎じゃなく京は都だから自己中なのよ。頭悪い人って天動説になるよ。うちの母がそのタイプ。他者が困っていると自分に迷惑が掛かるという視点からしか物事みれない。@198819952007 赤か青かの証言のときも、「自分は大型バイク嫌いだから、原付の味方する」と言った警備員がいた。
posted at 20:09:39

階下工事の騒音で午前中寝て出講するためには来週はホテル暮らしだとかツイートしたら、母が自分に火の粉が掛ると思ったのか、うちには泊まる場所がない、ホテル代もあげれないとメールしてきた。さんざん愛人囲って私をよせつけなかった過去のある母だが、これだから女というか婆婆は苦手だ。w
posted at 20:43:13

誰もお前なんざ当てにしてないのに、予防線張ってくるのが家の女どもの常套。世間が期待する母性本能がなく、極端なファザコン。子供嫌いで、私が子供好きとか言うと信じられない、というような母。自分の話しかしない。最近呆けてきているが、元々病気だあれは。これで私がある種の女性性嫌いになる。
posted at 20:50:50

フロイトはダ・ヴィンチの昇華(性衝動から芸術への昇華)は、義母の寵愛によるというが、私の女性性は、まさに母のアンチ寵愛、母にヘイトされることで、昇華してる感じだ。
posted at 20:52:54

私の女性性が反転してる原因である、うちの女どものファザコンは、満鉄と戦後運輸を牛耳った曽祖父と、出来が悪くて慶應で医学者になって愛人つくって出てった祖父に向けられている。全く下らん。ファザコン家系だからか、私の女性性は、マザコン男性を受け付けない。そういう反転。
posted at 20:59:44

国語で自然VS労働と教えると、自立という女性的強迫観念ほど学問を新卒採用に同一視しちゃって誤答する子が出てくるhttps://t.co/sCueqBYm のだが、こういうリストラとかあの子たちはどう捉えてるんだろう? ソニー1万人リストラhttp://t.co/JA27k4IQ
posted at 21:30:11

日本の従来の国語教育というのは近代を脱封建制として読むhttps://t.co/v5rkOKyW のが、目を瞑っていても正解なわけだが、近代=自然=労働を、躓いて就職と思い込む女性的感性というのは、国語教育の可能性に拍車かける源泉ね。 https://t.co/snCI277x
posted at 21:37:20

画像は龍女成仏(りゅうじょじょうぶつ)
http://www.syo-kazari.net/sosyoku/jinbutsu/hokekyo/hokekyo7.html

私の大敵の遊びを知らない自立をしらない女は、まさに龍神成仏http://t.co/PiG5dmZi に出てくる女そのもの。母に法華経比喩経(ぼん)でも読ませとくかww http://t.co/vnxgxjMa
posted at 22:07:57

私の大敵の遊びを知らない自立をしらない女は、まさに龍神成仏http://t.co/PiG5dmZi に出てくる女そのもの。母に法華経比喩経(ぼん)でも読ませとくかww http://t.co/vnxgxjMa
posted at 22:07:57

龍女成仏http://t.co/PiG5dmZi で女は法華経=比喩を読むと成仏できるというが、女は比喩=国語を比喩と思えないで、へんな宗教に縋っちゃったりするから、困るのよねー。宮沢賢治とか絶対にわからないんだろーなーあいつらは(^-^)/
posted at 22:19:49

証明されるものとしての存在という誤謬

2012.04.12

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(読書メモ)國分氏によるスピノザとデカルトの対照は、近代的自我の捏造性に切り込んでいてほんとに痛快。スピノザが取り上げるデカルトは、不確かなコギトを確定するのが神だといったマイナーなテクスト。スピノザとデカルトでは極論的な対立項になるが、非西欧人にはさほど難しい問いではない。

(読書メモ)スピノザはコギトを論じて、神観念(神が何であるかを知ること)に一言も触れない。対するデカルトは、人々の神観念が不純であるから、コギトは不確かだ、つまり「考えるゆえに我あり」の自我存在の不確実性は、既存の神観念が不純だからだ、と明言している。

(読書メモ)つまり、デカルトは既存の神観念の不純さを精錬して、自我存在の不確実性の払拭を命題と捉えている(不純な神観念から存在の証明へ)。対するスピノザはそんなことに頓着しない。まるで自我が実在しているのだから、既存の不純な神観念以上に、存在は証明されている、とデカルトを解決してしまう。

(読書メモ)端的に言えば、デカルトは既存の信仰に対して人の存在の証明を目論見、証明できないものを作ってしまったが、スピノザがデカルトを論じると、既存の信仰を相手にせず、存在が証明されてしまっている状態になる、とでもいうように。國分氏スピノザ論第三章朝の読書終わり。

(読書メモ)スピノザの言説をデカルトの「解決」として読む國分氏。デカルトが存在を証明する必要があったのは、デカルト自身が言うように、不純な神観念が先行したからだ。既存の神観念から存在を証明する。それが明らかなのは、デカルトを論じたスピノザがそれを回避したからだ、という超越論。

(読書メモ)だいたい、あらゆる矛盾は存在を証明しようとしたところからはじまる。デカルトは証明が必要な理由を神と言明するが(デカルトはコギトの神による保証という)、スピノザはコギトとしか言明しない。それがスピノザによるデカルト論だという。國分第三章、追加メモ、終わり。

國分スピノザ論よんでると、しかしまあなんで近代人は存在を証明対象と強迫するようになっちゃんたんだろうねー、と感慨深くなるわ。自分の存在が不確かだとか、存在から証明しなければならないから、というのはスピノザによるデカルト論では、どうみても誤謬に思えてしまうから凄い。

さて第三章http://www.sunamajiri.com/blog/diary.cgi?no=190 が味わい深かった國分スピノザの方法、第四章は、スピノザによるデカルトの再体系化の実論証。デカルト『諸根拠』を論じたスピノザが、何(表象)をどう再体系化(脱表象論化?)しデカルトをどう解決し(乗り越えた)のか? 歯ごたえありすぎw