記事一覧

無限観念を前提しない日本的理系言語と道徳

2012.04.20

ファイル 200-1.jpg

http://www.sunamajiri.com/blog/diary.cgi?no=199
から続き(^-^)/

理系のガラパゴスと言語混乱の共有に至るツイートまとめ:

フーコーの専有https://t.co/75zjlUv9 といえば、人が神化することへの警戒、人の相対化だが、それは神の絶対視と同義なのかと、國分スピノザの方法をじっくり読みながら考えていた。https://t.co/slwl1GMM
posted at 18:11:05

RT @shingoinao: 「他者からの愛は権力である、つまりその権力を使えばその相手を支配できる」みたいな馬鹿なつぶやきをしていた人間がいたが、それは間違ってはいないが当然正しくはない。先のフーコーのリツイートにある「専有」とはこの間違った権力のことを指すと思う。ただ、自己の変化を目指す試練というのは…?
posted at 18:05:15

(忘備)専有の対立項は真の順序だ。それは起源というより体系の記述順の真http://t.co/Nbrn1AOP のことだ。つまりいかにも真の順序というデカルトはフーコー的だが、その厳命を守ったスピノザはフーコー以上に専有的だ。認識と神証明の困難な問題を浮き彫りにするからだ。
posted at 18:23:50

(読書メモ)國分4章の4、186~193p。読書忘備録。いよいよ認識と神証明の矛盾性という厄介な問題をはらむスピノザとデカルトの公理の比較。真の順序にデカルトを整序するスピノザは、観念と実在、つまり認識の原因の公理でデカルトと真逆の注釈をつける。
posted at 18:26:32

(読書メモ)國分186~193p。真の順序にとって認識の原因とは何か? それは無限の実在との無矛盾性であるはずだ。それをデカルトは神証明として明示した。認識とは観念の原因を実在とする想定だが、にも関わらずその想定が認識の全ての根拠だとすると、認識できない観念を存在させてしまう。
posted at 18:40:00

(読書メモ)國分186~193p。観念の無限が認識できない、神が存在しない、というのは、単に「観念の中の実在性の量」が体系に前提されていないからだ、としてスピノザはデカルトへの注釈を書く。ところがここではじめてスピノザの記述に明確な混乱の痕跡が記されている、と國分は言う。
posted at 18:43:42

(読書メモ)國分186~193p。國分的スピノザを読むのは、良質な推理小説より楽しい。だからじっくり読んでいるので、読書忘備録はすべて途中。何らかな見解ではないので念のため。
posted at 18:46:48

読解塾の生徒さん、学校の二人の国語教師のうち、現代文の担当者が受験教材のマニュアル音読しかしない。もう一人は、自然対神とか近代の話をしてくれる、という。確かに前者の教師は分かっていないと言えるのかもしれないが、だからといってもちろん現代文は道徳の教科ではない。
posted at 19:00:42

もちろんデカルトもスピノザも高校では国語ではなく、公民で教えられるはずだ。ところで、國分をじっくり読む傍ら、無数の本を読んでいる。さっき30分ほどで読んだのは、日本人の美徳を育てた「修身」の教科書 (PHP新書) 金谷 俊一郎 http://t.co/lMoL9eDp
posted at 19:02:48

(読書メモ)https://t.co/TswoLUbW もちろん観念の無限を認識できないというのは、「本当は分かっていない」「それを他人に説得する必要はない」とスピノザ的國分は論じていることになる。いわば無限の原因(いや原因の無限かな?)なのだろうか?
posted at 19:08:53

(続)それに対して、戦前戦中の修身http://t.co/lMoL9eDp という教科は、空気、共有、分かるはずだ、という教育なのだろう。もちろん現代の教育に美徳が欠如しているというのは誤解だ。それは自己相対化する国語力のない読みにすぎない。だから現代文が重要なのだ。
posted at 19:17:07

RT @yutakioka: 虐待を受けてる子供が親に虐待されてると言い出せなくしている倫理観の一つ。

posted at 19:29:26

RT @LitoSnowfield: まぁ…文系が非論理的というお話自体が非論理的なのですが…(*uou)>
posted at 19:27:40

RT @LitoSnowfield: と…いうか(*u_u)> いわゆる一つの理系な方々が非論理的である場合も少なくない…というのを改めて知った一年間でもあったりで…(*uou)>
posted at 19:30:37

RT @yutakioka: @dongyu_chiba たぶん、命題論理と述語理論に触れていれば大丈夫だと思います。たまに様相理論的な内容も出てきますがw。デイヴィッドソンの後にクリプキを読まれるとスムーズかと思います~。クリプキはかなり難解ですがw。
posted at 19:32:11

↓様相論理とかクリプキすら、最近は現代文に出題されるのよね。少なくとも大手予備校の模試は最近そういうの好き。クリプキはけっこう楽しいよ。そのあたりで思考停止したがww(^-^)/
posted at 19:33:19

知らない生徒さんのためにクリプキをWIKIと思ったら、一文しか書いてなかった。辞典的定義が出来ないクリプキ (^-^)/ http://t.co/JCU865nI
posted at 19:35:24

クリプキのWIKI記述が一行なの笑った。「「基盤のない真理」の概念に分析を加えて自己言及のパラドックスの議論に貢献、指示の因果説などの言語哲学分野での貢献、ウィトゲンシュタイン研究。」
posted at 19:36:13

大手予備校の現代文の模試で、クリプキ論とかでてきて、クリプキって何ですか?って生徒さんが質問してきたときは、さすがの私もぶっ飛んだ(^-^)/
posted at 19:37:37

高校生にクリプキの可能的、あるいは様相論理を説明するのまんどくさいから、これが高校生が読める解説書、だから新書を読めってば(^-^)/ 哲学の最前線―ハーバードより愛をこめて (講談社現代新書) 冨田 恭彦 http://t.co/Q2SKLYeW
posted at 19:39:26

クリプキとか様相論理ついでに言えば、今朝読んでいたスピノザ的國分http://t.co/Nbrn1AOP は可能性、偶然性、必然性という問題で、クリプキ向き(^-^)/ http://t.co/AIgvlocm
posted at 19:42:12

にしても、どうして近頃の高校生は(大学生もだろう)、新書というのを知識源にすること忘れているのだろうか? 新書はPHPとか新興勢力が、サラリーマンの儒教教育するメディアになってきてしまってるね。本当は最も良質な受験参考書なのに。(^-^)/
posted at 19:45:14

RT @LitoSnowfield: というか…理系の方の言葉の使い方に独特な癖や誤りがある為に、話が通じなかったりややこしくなったり…なケースも少なくなかったような(*uou)>
posted at 19:46:18

言葉の共有を極限まで問い詰めてないのが日本の理系にありがちなパターンだから、私的言語の宇宙で何か喋って、そこから抜け出せなくなる。(^-^)/ @LitoSnowfield 理系の方の言葉の使い方に独特な癖や誤りがある為に、話が通じなかったりややこしくなったり
posted at 19:47:33

最新の高校生向けの新書でお薦めはこれだね。タイトルが「生きる」とかなってて誤解するけど、中身は現代文のキーワード解説ね。(^-^)/ いまを生きるための思想キーワード (講談社現代新書) 仲正 昌樹 http://t.co/WCI6Z02m
posted at 19:49:36

養老孟司なんかも高校生が国語でやらされると撃沈するよw @LitoSnowfield これは私的言語である”ということに無自覚の為に、以前にsunamajiriさんが仰っていた“単語に躓く”のをよく見掛けましたし、違う筋道を持ち出し始めるというのも多いようでした(*^o^)>
posted at 19:53:21

RT @LitoSnowfield: 日本の理系さん達、ご自身がガラパゴスだったり…と少し心配だったり…(*u_u)>
posted at 19:58:58

おお、今日の金言、あほりずむ(^-^)/ @LitoSnowfield 日本の理系さん達、ご自身がガラパゴスだったり…と少し心配だったり…(*u_u)>
posted at 19:59:27

うさちゃん、なんかちはやぶりたくなってきたー(^-^)/
posted at 20:02:23

RT @LitoSnowfield: 実は…ドキドキしながらのTweetでしたが(*^o^)> 自分の生まれ育った国の言葉を論理的に使えなくて…理系と仰るのは少し恥ずかしくないですか?…と思うときが少なくなかったりでした(*uou)>
posted at 20:03:00

欧米では考えられない便宜的な科学(カテゴリー)が日本の理系なのよね。西欧のエンジニアなら国語(言葉を共有すること)の達人であるはず。日本の文系の私的造語も然り。@LitoSnowfield 自分の生まれ育った国の言葉を論理的に使えなくて…理系と仰るのは少し恥ずか
posted at 20:07:42

RT @LitoSnowfield: ん〜…(*u_u)> 養老さんの文章は分かり易い方だと思うのだけれども…(*uou)⁇

まだマシな方ですが、それでも養老が戦後の自由とか語り始めちゃうと、高校生気の毒なほどに言語混乱をきたすよー。こういうのを授業でだすんですよ。これは入試問題でもあるし。http://t.co/uN1BtPh5 @LitoSnowfield 養老さんの文章は分かり易い方
posted at 20:13:04

実在は可能性ではない。人文の真ということ。

2012.04.20

ファイル 199-1.jpg

國分『スピノザの方法』読書忘備録

第四章の3 171-186pの忘備録です。

(読書メモ)國分4章の3。國分氏の論は、よりテクスト内的になり、量VS実在、観念VS本質(実在)、可能的VS必然的など、デカルトの公理の用語をスピノザがどのように再公理化されたかがテクスト実証されている。なかなかスリリングで、個人的には当分楽しめるという感じ。(^-^)/
posted at 05:56:00

(続)攝津氏が「人文に真はない、つねに相対的だ」とツイートしていたが、國分的スピノザも同じ観点でデカルトを批判的に再定式化する。そこでは、順序だけが真だ。デカルトは先行するものは後続するものより優先する、と命題化しているが、その言いつけを守り、より真となる順序をスピノザは導く。
posted at 05:56:32

(続)真の順序は、デカルトの並べ替えを要請する、と國分はいう。ここでは、ホッブスがデカルトの最大の謎といった「実在性の量」の公理が真の順序に置換される。デカルトにとっては自明な「量」だが、これをスピノザは削除できない。デカルトの3つの神証明の論拠だからだ。
posted at 05:58:51

(続)次に、可能的と必然的という公理が書き換えられる。デカルトは実在を可能的=含有量と公理するが、それをスピノザは実在に対する観念に布置する。観念=実在の量=可能的は、単に実在(本質)ではない。つまり、デカルト的な明晰判明の量は実在を示さない。実在は量=可能性の問題ではない。
posted at 06:01:55

(続)國分171-186pを命題化すると、真の順序ではデカルトの量(可能的)は観念になり、実在を示さない。つまり明晰判明さが自己を示すものではない、となりそうだ。スピノザにとってはそれだけがデカルトの3つの神証明と無矛盾だった、と國分は論証している。今日はここまで。
posted at 06:08:10

(続)ところで、攝津氏のhttps://t.co/bcFYd71O を人文に真はないと要約するなら、私にはそれが無神論というより、人には真がなく(つまり人間の言動は懐疑すべきだ)、何か神的なものに真がある、ということに近似して聴こえてしまうのだが、どうなのだろう?(^-^)/
posted at 06:25:16

画像はhttp://diseaseoftheweek.wordpress.com/2010/03/10/thw-wednesday-post-10032010/
からで、他意はありません(^-^)/