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滅びが前提のコギト国語教育

2012.04.25

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帰ってそのまま仮眠してしまったww 起きてTL眺めてたら、言葉が通じない話と、その通じない国語をどうしようか、という話でうまってて笑った。(^-^)/
posted at 03:50:27

阿吽とか空気に依存しすぎると、本当に言葉が通じない局面があるよねー。それで国語教育がコミュニケーションといって頑張るのはいいのだが、中途半端な命題を与えると、ポリティカル・コレクトネスの例があるように、却って「やっちゃいけないこと」ばかり意識化してしまう。結局空気を卒業できない。
posted at 04:09:24

(続)国語教育の命題というのは、もちろん単に、国語は規範ではない、というだけ。だからコミュニケーションが先にあるのではなく、規範から飛躍させる様々な能力を身につけさせてこそ、結果としてコミュニケートできる、というだけでしょう。そういう命題を整理せず国語教育といってはいかん(><)
posted at 04:10:37

(続)命題がない思考はぼやけて規範にしかならない。国語が規範(やっちゃいけないこと)に陥る子は、国語のそうした単純命題を伏せられているだけ。それも日本独特な、国語テストの客観性のために、命題だけが伏せられることの弊害であるに過ぎない。国語が分からない子は人為的に作られているだけ。
posted at 04:24:24

(続)伏せた命題を、あるテクストから示唆されたかどうかをテストするというのは、もちろん国語テストとしては不十分。しかしそのために、空気ばかり読み、字義通りに怯える、萎縮した国語力の子が増産される。一言で言えば自信の収奪だ。勿論、国語はまず命題を開示し、それに肉付けする学科だ。
posted at 04:25:48

(続)国語は自信を与える学科だ。教育の意図、つまり命題をはぐらかし子供たちの生得の自信を奪う学科ではない。それでは心理的あるいは精神的弱者しか増産しない。しかし、教育の能力も問題になる。本当に彼らは命題を提示する実力があるのか、疑わしいケースは実際多い。
posted at 04:36:57

(続)国語を規範と思わせたら教育の負けだ。個別指導ををしていると、実際に心理カウンセリングの様相を呈することが多々ある。子供たちは、本当にそう考えていいものなのか自信を得たくて質問に来る。つまり空気を読みに来る。だからその都度、何が命題なのかを明確に教える。言語は確定的なだけだ。
posted at 04:45:50

自殺文学に依拠した国語教育で思い出したが、スピノザから見るとデカルトのコギトは、存在を滅びるものと前提するから、より大きな存在を存在させようとしてしまう証明の矛盾に陥るのだった。滅びからは捏造が起こるのだな(^-^)/
posted at 22:04:14

(続)言語が恣意的というのは言語学という学問上の話で、国語教育とは直接関係がない。子供たちは言語の確定性に自信がないため、やっちゃいけない規範があると錯覚し萎縮してしまう。言語学や構造主義の中途半端な知識で、国語を恣意的に教えてはならない。言語は物理法則のように厳然と確定的だ。
posted at 04:53:26

ということで、TL上に言葉が根本的に通じないという話に並行して、混沌とした国語教育の話が押し寄せていたので、恣意的な言語はそういう規範にしかならず、言語力にはならないよ、という連続ツイートをしてしまった。ここからは言語の確定性、つまりスピノザ的デカルトの神証明の読書ノートへ。(略)
posted at 05:01:39

RT @miu7200: マスターのときは国語教育の授業も取ったけれど、確かにその国語教育の先生は、「国語教育史において、文学に重点を置いた国語教育と言語重視の国語教育は交互に現れては消えている」とおっしゃっていましたね。それでももう少し言語技術を磨けるタイプの国語教育が、いいかげん出てきてもよいと思う。
posted at 21:47:49

英語の講師に「日本の国語は、自殺の文学を教科書で堂々と教えてて、不謹慎だ。なぜアメリカのような国語にしない」と問い詰められて困ったことがあるのだが、はい、それが皆大好きな日本流近代的自我、コギトちゃんなのです。(^-^)/
posted at 21:55:56

自殺文学で滅ぼされるのは生徒の自信なのだろう。そういえばそういうツイートを今朝していたのだった。滅びがあるから抵抗として存在させてしまうデカルトに似てるね。日本の近代的自我そのものかもね
posted at 22:13:51