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無限語義のラビ的思惟の出現

2012.04.27

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信仰VS無神論という音楽論http://www.sunamajiri.com/blog/diary.cgi?no=205 をしてしまったが、スピノザとデカルト、どちらが無神論というのもあまり意味がない。マルクス的無神論や唯物というのは、文字通りにという意味だから、現代からそれを曲解すれば、それこそ魔術になる。
posted at 03:20:12

つまりデカルトが無神論なのか、スピノザが無神論なのか?という問いそのものが、マルクス的唯物論にこそ反する命題に見える。最近の言葉ではテクスト論的ではない。だいたい先述したように、無神論という字義通りがあるわけではない。
posted at 03:23:42

何度も断っておくが、無神論とか唯物論というのはテクスト論と同義のはずだ。書かれたものがすべて=唯物論、実在するテクストに後になって何か神格化を付け加える読み方(解釈)が、無神論に反する何かというだけで、原理的に考えても無神論それ自体が存在するとは誰も書いていないし書けないはずだ。
posted at 03:28:46

その点で、哲学者は宗教者と差異があるというだけだ。哲学者はマルクスでなくても、テクストに忠実な唯物論者であるだけだ。恣意的解釈ができないから、それはテクストというだけだ。文学研究では聖典性(キャノン)という。そうしたテクスト性がないテクストは単にテクストではない。
posted at 03:33:05

もっと言えば、テクストとは破綻がないということだ。矛盾があればテクストとして成立しないからだ。破綻は存在できない。だから哲学者を唯物論か否かという命題自体がナンセンスだ。言い換えると、テクストの無破綻性を、恣意的に神格化するなど解釈するというのは、単に権力でしかない。
posted at 03:41:30

たとえば、日本的近代は唐突にテクスト(西欧のテクスト性)を恣意的に解釈する主体になってしまった(権力を創造しようとしたのだから当然だ)。そのため諸々の反転が起こり、唯物論もそれ自体で存在するように見えただけだ。しかしそれは恣意的解釈に原因があるだけで、テクストに起源はない。
posted at 03:44:04

そうなんです。たとえば無神論と和訳語にした途端、問題がスケールダウンする。だから本論の蚊帳の外にいつもなってしまう。たぶん近代以前もそれがありつづけたはず。要は辺境だったんです。@aoinatsunosora 御意。「くつがえせなさ」の桁がぜんぜん違いますね。
posted at 03:51:49

さて、國分氏のテクスト論は、スピノザがデカルトのテクストの破綻性をどう修復して、より無破綻なテクストを作ったか、という実証研究です。つまり破綻がないテクストです。
posted at 03:59:36

超訳すると、無限は比較ではないのに、デカルトは「より大きなもの」と規定したために、無限も有限も外部の第三者によって存在させられていると証明してしまった。つまりデカルトにとってその外部がコギトなわけですが、スピノザはこのアナロジーの破綻を修復してコギトを書き直しエチカに至る・・・。
posted at 04:07:29

無限の外部者というデカルトの命題を修復しようとするスピノザ。極限的な話で、140字で超訳を試みようとすると、これは無理ではないかと疲れてしまう(^-^)/
posted at 04:21:19

無限をより大きなもの(アナロジーを証明)とすると、無限の外部者(他者原因)を想定してしまう。それがコギト・エルゴ・スムとすると、それは無限ではない、というスピノザの証明。
posted at 04:23:22

いま宗教者デカルトVS哲学者スピノザみたいな対立項になっているんですが、たぶん哲学者なら丸呑みにするんだろうなーやはり(^-^)/@aoinatsunosora 私はあの「絶対矛盾的自己同一」は、くつがえせぬ世界をひとまず丸呑みしなければならぬ、という決意表明だと読んでいます。
posted at 04:30:12

無限は有限のアナロジー(対比)であり、無限は有限のように存在させられ得る(デカルトの神精錬)。つまり無限の外部者がコギトエルゴスムだから無限は存在させられる、というデカルト的証明を、スピノザはそれは無限が予めないという思い込みであり、思惟(コギト)ではない、と証明しているようだ。
posted at 04:36:38

無限に外部者があるというのは、無限という語義と矛盾する。だから無限という語義はある、と捉えるのが、コギト(真の思惟)であり、スム(存在)は、コギトエルゴスム(偽の思惟)を原因としない。コギトエルゴスムは命題ではなく三段論法(小前提)だ、そんな話にまとめていいのかな?(・_・;)
posted at 04:42:13

うーむ、デカルトは丸呑みしようとしてるんでしょうね。スピノザはぜんぶ吐いてしまう(汚い表現になってきたっw)のかな?(^-^)/ @aoinatsunosora ところでスピノザよりデカルトの方が丸呑みできてますよね。
posted at 04:44:52

なんというかユダヤ教的というか、デカルトとは違うね。相容れない気がする。スピノザはユダヤ教からも破門されたそうですが、真のラビかも(・_・;)@aoinatsunosora スピノザはそういう意味で、ぜんぜんデカルトを継いでいません。笑
posted at 04:48:38

ラビさんって文字通りと語義通りを永遠比較するからなー。無限という語義を思惟するわけね。
posted at 04:50:40

もっぱら、ラビさんたちにとっては、文字通りと語義通りの差異の永遠性が無限だったりしそうだからなー。たしかにそれは無限な気がする。
posted at 04:53:37

無限というと、神というより、個人的にはリーマン予想(無限な素数)の話しにみえてしかたがない。リーマン予想は整数論的には素数頻度の話(最近では原子核運動の頻度との偶然の一致の話)だが、無限の話に思えるなー。
posted at 05:02:54

心から自由にさせる太鼓

2012.04.27

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■心から自由にさせる太鼓■

そうそう。著作権ほど近代(性)の悪い面が凝縮したものもない。私有の拡大解釈。たぶんそのうち淘汰されるだろう。魔術の極み。私有事態も魔術的だけど。 @neajazz 著作権なんてここ何百年かの話なのだから。著作権などなくとも、バッハもベートーヴェンも出現したのだから大丈夫だよ。
posted at 23:51:22

そうそう。コピーできるはずという思い込みが著作権。あるいはそういう思い込みを制限しようとして著作権ができた。要するにコピーできるはずがない。(^-^)/ @neajazz コピーできないものは、できない。コピーできるものは、その程度のものだということだ。
posted at 23:55:12

著作権の用語に引き寄せれば、表現とはフェアユースする自由でしかない。表現は天地創造ではない。必ず先行する作品に影響を受ける。あるいは引用するかもしれない。よりよいものを作りたいと思うかもしれない。イケノブがハイエクの説明で、そのように言っていたのを思い出した。多分正論だろう。
posted at 00:18:54

しかもそれが表現者の実感と寸分変わらない。天地創造ではない表現する自由とは、慣習的にも、ただそういうものだっただけ。だから著作権というのは、版権とフェアユースの話でしかないが、英米法的な運用でないと、なかなか難しいというだけの話。大した話ではない。よってあまり興味がわかない。
posted at 00:20:30

言い換えれば、そういう慣習を無視して、著作権を表現の自由の権利と誤謬すると、おそらく、表現を天地創造と同義に扱っている可能性すらある。何かを実体化させてしまう。実際に実体化するのは、権利団体の利権でしかないわけだが、理念としてはそういうことになる。それは表現の慣習に逆らっただけ。
posted at 00:22:12

モントルーhttp://t.co/IgM7I59y とか観てると、もう確実に日本のジャズ置いてきぼりの寂しさを感じて、実は昨日から元気がない。ww
posted at 00:53:17

バブルの一時期は、日本がジャズ(消費)のメッカだったのに、もうジャズは日本を相手にしてない空気が伝わってきて、モントルーとか観てると疎外感感じるんですけど。だめだな日本にいるからなんだろうな。朝からずっとその想念が浮かんでは消える。(・_・;)
posted at 00:54:14

http://t.co/IgM7I59y 交互に出てくるジョナサン・バトラーという南アフリカのおじさんみてたら、アフリカ音楽どっぷり聴きたくなってきた。あの明るさが欲しい。アフリカ行きたくなってきた。人類のゆりかごに引っ越したくなってきた。アメリカはもういいw (^-^)/
posted at 00:56:08

ジョージ・デュークの繊細な面はいいね。MCで昔初めてモントルーに出たときはフュージョンしてたと会場を沸かせてるが。シンセでブラスセクションもホーンソロも必要としないのがよい。パート楽器の管楽器がフロントというのは、ラインが解放されるまでの過渡期の話だから。音楽が自由になればいらん
posted at 02:21:40

アフリカはいいねといったが、ジャズに重要なのはオリジンではない。メロディーがフェイクされてラインになったり、そういう音楽の自由を総称すると、歴史的にジャズしか成し得なかったというだけ。
posted at 02:25:21

ところがやっぱりアフリカにはそもそもそういう囚われのなさ、つまりリズムがあるのよね。西欧はロマン派のようにメロディー(抑揚という表象)に感情(心)込めて、太鼓を止めてしまうから。そこから自由になること。つまり音楽が心から自由になること。
posted at 02:26:48

しかも、https://t.co/eIxrG3na 近代は信仰と無神論の対比を派生したが、そもそも世界は音楽的没頭ができるかできないか、でしかなかった。なかなか没頭できるものでないのが音楽だから、宗教が生まれた、という代償行為に思える。
posted at 02:33:48

太鼓はなかなかうまく叩けない。習得しない者には何もない。だから最終的には言葉で神体験を補った。それが信仰というものであり、そもそも無神論というものがあるというのも矛盾に感じる。
posted at 02:39:50

youtubeでジャズという音楽の神々があまりにも簡単に視聴できるようになると、みんな信仰しかしなくなりそうだな。(^-^)/
posted at 02:49:15

心から自由になりたいhttps://t.co/f3MnQSQM そのために人はジャズに目覚めるだけなのだ。心を取り出して踏みつぶしてやりたい。いや他人の心を踏みにじるわけではない。他人は心であっていいのだ。自己の心は踏みつけたいww(^-^)/
posted at 02:55:13

たとえば、定年後の親父に人生で後悔することのアンケートを取ると、楽器を習得しなかったこと、というのが一番に挙がるそうだ。心を打開するための太鼓を、大人に成ってから習得するのは至難だからだ。もう生まれ変わるしかない。言語と音楽の習得はかなり反比例的だ。
posted at 03:05:15

昨日と違って今夜はなぜか音楽に没頭できない、言葉がよぎるので、少し國分『スピノザの方法』の読書ノートでもするかな。第二のア・ポステリオリ証明の項目は佳境なので、色々と去来する。思いつきレベルをノートするかも。(^-^)/
posted at 03:19:13