記事一覧

超越=解説する主体のいかがわしさ

2012.05.14

ファイル 216-1.jpg

超越する解説言語のいかがわしい分かりやすさ

http://www.sunamajiri.com/blog/diary.cgi?no=215
からの続き。

言語を超越する主体とは、解説する主体だ。しかしそうした解説文は、分かった気にはさせるが、実は「分かる」とは別物だ。だから、超越はいかがわしくみえる。そういう文脈の、自分用ツイートまとめです。

2012年05月11日(金)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120511

RT @lethal_notion: 俺はこの〈世界への超越〉というのが、やはり良く分からない。いや、ある意味では分かる。そして、そうだったらなんかいいな、という気持ちすらある。しかし、本当に人間は〈世界への超越〉を生きているのだろうか。動物と人間を比較していろいろなことは言えるだろうが、けれど、
posted at 20:33:29

言語に対しても存在に対しても恣意的な逆説者であるのは、日本の書き手だからといって免れない、という攝津くんのように、超越を前にして肉を超越しない意志も、人間と見られていて人間でないつもりの私と同じぐらい、たぶん大変なんだとおもう(^-^)/
posted at 20:59:00

https://t.co/2VrVb2OZ 超越というのは、書き手となることなのだと思うのだが、なぜ人は書き手となることで人になろうとするのだろう。書き手にならないという決断があってもいいだろう。実際、音楽の即興では書かない。ある週の没頭があるだけだ。
posted at 21:04:46

かつて、書き手になるとは一つの逆説の実践だったはずだが、いまやその逆説の逆説を書こうとする。そうした超越に、何か意味があるだろうか? そんなお話をしている夢を見た(・_・;)
posted at 21:06:05

パラドックスがあるから書ける。だから多くの人は書かない(むしろ読むことで矛盾が転移するだけだ)。書かないことが証明だ。でも書いて超越してしまう。だからいつまでも逆説がある。証明が終わらない。
posted at 21:20:04

あまりツイートしない國分さん、なんか今夜はツイートしてるねー、どうしたんだろう? 私は人(他人)が書き始めると心配になる。@tadashisettsu 國分功一郎さんのツイート面白いですね。確かに、ハイデガーのいう現存在の超越などをそのまま鵜呑みにしていいかどうかは疑問ですね。
posted at 21:23:06

そうなの。人(他人)が書き始めると、ただ心配になる。私ですら書く時にはなにかしら危ない葛藤があるからなんだけど。言葉にならない何かを言葉にしようとして、思わず書いてしまう時は、結構危ない。(・_・;)
posted at 21:26:04

だから、他人の書いたものを、まず信用しない、疑ってかかるというのは正論だと思う。鵜呑みにしたら、自分に残るのは多分、他人が省察しようとしたパラドックスだけだから。受験生の国語でも、兎に角、他人の書いたものを鵜呑みにするなと教える。書かれたものは、言われたことより超越的だからだ。
posted at 21:31:41

https://t.co/Fw0EtIca プラトニックは危険よね。そうね、それが嵩じると隠れて動物虐待とかする病者になりかねないのかも。病的なイケノブさんの顔がとっさに浮かんだ(・_・;)
posted at 21:46:22

いつからか、書き手になりたがる人を疑るようになった。何故人は作者になりたがるのかという命題が重要でもない。殆どは自己顕示欲とさほどかわらないからだ。それがより唐突に現れるジャズセッションで言うと分かりやすい。自分が楽しむより、自己顕示欲を楽しんでいる人の演奏は、禁欲的に聴こえる。
posted at 22:01:59


2012年05月12日(土)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120512

厚木になんか旅客機みたいにみえる飛行物体が進入して行った、はじめてみた(^-^)/ http://t.co/G7xBCeim
posted at 17:06:56

RT @jyunnda: アメリカ大富豪が日本に続々と移住しているそうだから、その連中ではないか?@sunamajiri 厚木になんか旅客機みたいにみえる飛行物体が進入して行った、はじめてみた(^-^)/ http://t.co/3y8Lizbu
posted at 18:52:42

何で日本に移住?(^-^)/ @jyunnda QT: アメリカ大富豪が日本に続々と移住しているそうだから、その連中ではないか?@sunamajiri 厚木になんか旅客機みたいにみえる飛行物体が進入して行った、はじめてみた http://t.co/G7xBCeim
posted at 17:46:11

RT @jyunnda: @sunamajiri 何処かには出てると思うが、私はまだ掴んでない。ただ、彼らはゼオライトによる、放射線除去の方法を確立してるようだから、私が今のところ推測しているのは、東日本から人を追い出しておいて安くで買い叩こうという魂胆ではないかとみている。日本の国力は知っているから。
posted at 18:52:42

彼等が知っているというその「日本の国力」というのがxっぽいですね。欧米の大富豪の選民的な願望は日本人になりたいという話? でも日本人追っ払われたんでしょうか、なかなかしぶといですよ(^-^)/RT @jyunnda ~魂胆ではないかとみている。日本の国力は知っているから。
posted at 19:05:43

ところで、超越は「いかがわしい」という話に対して、書く人が心配に見える、と昨日言ったのだが、超越=書くこと、超人は書く人(著者性)とはいっても、いまや読み手に移行した超越性の方が、遙かにいかがわしく見えたりする。
posted at 19:15:20

この話を考えながら「分かることを分かる」は解説=超越できないという國分本を読むと、いかがわしさ=分からない、に思えてくる。つまり、超越とは解説したり解説されたりすることなのだが、それで、分かっていたものが分からなくされる。それがおそらく「いかがわしさ」ということなのだろう。
posted at 19:18:09

つまり、彼等のいう「いかがわしい超越性(著者性)」というのは、解説されると「分からないこと」が作られる、という陰謀論と同じ構造なのが興味深い。解説とその受け手は、いかがわしい=分かっていない。だから超越がいかがわしく感じられるのではないか?
posted at 19:23:19

最近の書物は分かりやすさを念頭に解説しまくる。新書のような解説書は欧米にないジャンルだが、日本語はこのように超越論的=解説書に満ちている。受験現代文のいう評論というのは、純度百パーセントの解説文だ。だからその解説にいかがわしい主体性を重ねると、分かっていないと不正解になるだけだ。
posted at 19:28:40

RT @jyunnda: 原発事故は仕組まれたものだから、そういう狙いがあると思う@sunamajiri 米の大富豪が日本に移住したくて日本人を追っ払う?汗 RT @jyunnda 彼ら はゼオライトによる放射線除去の方法を確立してるようだから、私が今のところ推測しているのは、東日本から人を追い出し
posted at 19:30:07

余りにも「分かりやすく」解説するもので、却って現代文の勉強法が「分からなくなる」のか、今日は授業が暇。このように解説より、読解は生徒に実践させるべき、というのが最近の私の判断。分かりやすさを売りにしてから本も売なくなった。塾が暇だから國分本で哲学タイム(^-^)/
posted at 19:48:41

超越文、つまり評論も近代小説も解説文として捉える現代文は、命題を解説してしまうと、生徒の読解の実践が停止する。それで文を模式図とか絵に書かせ、それを命題文に記述させる、という授業をしないと、生徒が分かった気になって、こなくなるようだ。もちろんそれは「分かる」や「正解」ではない。
posted at 19:59:48

前任の哲学者の現代文の先生は、とにかく殆ど解説してなかったと思う。黙ってその場で生徒に文を図解させ、その間、先生は勝手に自分の読書時間に当ててたようだ。たしかにその方が生産的なのだが、生徒がじーっと黙り込むのが、どうしても対面授業では間がもてなくなる。それがいけない。(・・;)
posted at 20:09:37

「分かる」を解説で共有させることは、授業でもできない。解説は分からせない。その話題からも、上野修氏の新書では、エチカの解説書と位置づけられたスピノザの『知性改善論』を、エチカが「排した」テクストと読む國分氏がやはり面白い。 http://t.co/sX1UQEho
posted at 20:33:45

RT @femmelets: ついおしゃべりが過ぎるこの私がリツイートしてみるなう。RT @Indianteachings: ■「話しすぎる人間は他人の想像力を侮辱している。」【アパッチ族】
posted at 21:25:02

RT @simoneweil_bot: プラトンの大怪獣──マルクス主義は、真理としてならば、大怪獣についてのプラトンの一ページの中にそっくりそのまま述べつくされている。そしてまた、その反証もそこに述べつくされている。

少なくとも私みたいに地球時間の規則を超越じゃなく逸脱しちゃう人は、哲学とか絶対に向かないのだけは確か。カントなんてあまりに規則正しい生活で、周囲がカント時計とあだ名してたらしいが、そういうの無理(・_・;)
posted at 22:55:46

RT @gendaibuntan: アニメとか、芸術の批評で「テクスト」とかいう言葉が使われているのは見たことある? 「テクスト」というのは芸術に込められたメッセージのことね。近代では作者の意図と作品が単線的な図式としてあったのだけれど、「テクスト」はもっと自由で多様な解釈を肯定しているの。
posted at 20:54:33

一昨日RTされてきた現代文BOTのツイートhttps://t.co/808XMXNt どれもさっきの解説のさらなる解説みたいで、受験生が読むとさらなる混乱をきたしそうで、ちょっと心配。大人が読む分にはよいのだろうが。
posted at 22:58:09

https://t.co/808XMXNt 解説の解説の解説をするとw、テクストのメッセージ性がどうのではなく、テクストとは作者の作品ということ。伝記とか評判とかと異なる作品自体のこと。
posted at 23:02:03

現代文たんhttps://t.co/aKHYcBlr 、おもろいのだけど、今のほとんどの高校生はたぶん、何の話か分からなさそう。彼らの、分かるをあんまり汚さないで(^-^)/
posted at 23:11:02

言語を超越する主体性

2012.05.14

ファイル 215-1.png

言語を超越する主体性

http://www.sunamajiri.com/blog/diary.cgi?no=214
に続く、ツイートの個人用切抜きです。

超越(超越性や超越論)という言語は何なのか? 言語は人のものなのか、人は言語で人でなくなるのか、という文脈ですが、攝津氏とのツイッター上での会話の続きです。

2012年05月11日(金)

このNHK出版の哲学のエッセンスという冊子本シリーズは、デカルトを神証明から、スピノザを無神論者の汎神論?から、そしてカントも神の問題で扱っていて、なかなかクセモノなのか、アマゾンの読者レビューが「人VS神」化してて面白い(^-^)/ http://t.co/UYcAmPDv
posted at 09:42:48

RT @femmelets: @sunamajiri 東浩樹さんの「存在論的」と「郵便的」とを対比する議論は私にはよく分かりませんし、デリダの或る時期からの奇妙な書き方へのそれほど有効な説明でもないような気がしますが、どうなんでしょうかね。
posted at 08:40:21

RT @femmelets: @sunamajiri 基本的には、デリダによるラカンの脱構築の試み『真実の配達人』を中心とした議論でしょうね。郵便的なシステムにおいては手紙が宛先に届かないこともある(必ず届かないというわけではない)、誤配の可能性がある、それも原理的に、というのはその通りでしょうが。
posted at 08:40:26

RT @femmelets: @sunamajiri ただ、その誤配可能性というのをただ単に事実問題として、或いは経験的に語るだけではなくて、原理的にいうことができるかどうかというのはちょっと分かりませんが。コミュニケーションに失敗や誤解の可能性が孕まれているのは自明でしょうが、原理的にそうなのでしょうか。
posted at 08:40:28

RT @femmelets: @sunamajiri 私は現代数学に詳しくなく、ゲーデルを内在的に理解できませんから、その議論の評価は控えますが、柄谷行人の「形式化」の妥当性は極めていかがわしいのは、彼のテキストだけからも窺えるように思えますが、sunamajiriさんはどう思いますか?
posted at 08:40:30

そうなんです。あの形式化のいかがわしさのようなものが、不可解なんです。あれは何なんだろう? @femmelets 柄谷行人の「形式化」の妥当性は極めていかがわしいのは、彼のテキストだけからも窺えるように思えますが、sunamajiriさんはどう思いますか?
posted at 08:42:49

RT @femmelets: @sunamajiri 分かりませんねえ。ゲーデルの不完全性定理にありとあらゆる思想的問題を詰め込むことができるとかいうのは、どこからどうみてもただの妄想以外のものではないでしょう。私は、そう思いますが。
posted at 11:05:50

そうね、証明不可能、はい終わりみたいな。柄谷さんがそうかは知りませんが(・_・;) @femmelets ゲーデルの不完全性定理にありとあらゆる思想的問題を詰め込むことができるとかいうのは、どこからどうみてもただの妄想以外のものではないでしょう
posted at 11:07:11

詩的すぎる吉本隆明を意識しすぎたとか?@femmelets 証明不可能、はい終わり、かどうか知りませんが、ゲーデルで全部片付くはずがないでしょう。柄谷行人は詩的に語る曖昧さが厭だったそうですが、それはともかく、曖昧さを斥けること=全部数学で処理すること、ではないはずですよね。
posted at 11:18:21

RT @femmelets: @sunamajiri 証明不可能、はい終わり、かどうか知りませんが、ゲーデルで全部片付くはずがないでしょう。柄谷行人は詩的に語る曖昧さが厭だったそうですが、それはともかく、曖昧さを斥けること=全部数学で処理すること、ではないはずですよね。
posted at 11:18:58

RT @femmelets: @sunamajiri 吉本隆明は《巨匠のように語る》小林秀雄とは違って、理論を地道に構築しようと『言語にとって美とはなにか』を書きましたが、どこからどうみても、言語を日本近代文学の観点から語ることができるはずがないでしょう。
posted at 11:24:45

言語を固有名詞と捉えたり、神話の固有性を再生産したり、そういう話?(・_・;) @femmelets どこからどうみても、言語を日本近代文学の観点から語ることができるはずがないでしょう。
posted at 11:29:09

RT @femmelets: @sunamajiri 私は、文芸批評家が哲学者の代理をすることなど全くできなかったと思いますよ。
posted at 11:29:23

そうですね。日本ではあまりに近代性が特異なのか、文学的な現象みたいに見えていたのでしょうか? そこに宇宙の始まりも終わりもないのに。@femmelets 私は、文芸批評家が哲学者の代理をすることなど全くできなかったと思いますよ。
posted at 11:31:08

RT @femmelets: @sunamajiri 自己表出と指示表出の度合いや比率から言語を捉えることなどできるはずがないということですよ。文学とは関係がない日常言語をどうするのでしょうか。
posted at 11:34:32

RT @femmelets: @sunamajiri 西田幾多郎よりも小林秀雄に優位があるというのが文学者連中の意見ですが、本当なのでしょうかね。私はそう思いませんが。
posted at 11:37:00

そういう文学が柄谷じゃないけど、終わってしまってますからねー。@femmelets 西田幾多郎よりも小林秀雄に優位があるというのが文学者連中の意見ですが、本当なのでしょうかね。私はそう思いませんが。
posted at 11:37:43

ところで私は哲学者のつもりがないのだけど、攝津さんは、そのあたり、彼らはどうすべきだった、と考えているんですか?@femmelets 自己表出と指示表出の度合いや比率から言語を捉えることなどできるはずがないということですよ。文学とは関係がない日常言語をどうするのでしょうか。
posted at 11:39:22

RT @femmelets: @sunamajiri 西田幾多郎のテキストがおかしな意味で《孤独》であるというのは事実でしょうが、小林秀雄が平明で読解可能だとしても、どうみても逆説だらけでしょう。そういう小林秀雄のほうが一般読者に開かれているなどといえるのでしょうかね。坂口安吾がいうように《教祖》でしょう。
posted at 11:41:53

その平明と逆説ゆえか、四半世紀前は受験国語の王者だったそうですね小林は。@femmelets 西田幾多郎のテキストがおかしな意味で《孤独》であるというのは事実でしょうが、小林秀雄が平明で読解可能だとしても、どうみても逆説だらけでしょう。
posted at 11:42:50

RT @femmelets: @sunamajiri メルロ=ポンティ、ラカン、吉本隆明のソシュール理解、より一般的にいえば言語理解は妥当ではないと思いますよ。表現としての言語とか、満ちたパロールとか、自己表出などは成立しないのではないでしょうか。私はそう思いますが、どうでしょうかね。
posted at 11:47:02

RT @femmelets: @sunamajiri 小林秀雄の文章は、とにかく普通に読むことはできますよね。ところが彼は、論旨の展開の重要な部分を逆説的な表現で済ませているのではないでしょうか。そうすると、そういう彼の意見を思い込みや信仰以外で理解できるのでしょうか。『様々なる意匠』などはどうでしょうかね。
posted at 11:47:05

指示表出に対する自己表出というのは、「私が」という場合の主体性のことですよね?@femmelets メルロ=ポンティ、ラカン、吉本隆明のソシュール理解、より一般的にいえば言語理解は妥当ではないと思いますよ。~自己表出などは成立しないのではないでしょうか。私はそう思いますが、
posted at 11:48:22

あの手の文は生徒が持ってくるとうんざりです。@femmelets 小林秀雄の文章は、とにかく普通に読むことはできますよね。ところが彼は、論旨の展開の重要な部分を逆説的な表現で済ませているのではないでしょうか。そうすると、そういう彼の意見を思い込みや信仰以外で理解できるのでしょうか
posted at 11:50:52

RT @femmelets: @sunamajiri 正確にいうためには『言語にとって美とはなにか』から引用して検討を加えなければなりませんが、とりあえず、吉本隆明は対象を指し示す言葉とは異なる何かを想定したということでしょう。ところが、言葉のそのふたつの側面を分けることなどできるのでしょうか。
posted at 11:51:37

「自己表出」って吉本さんの造語でしたっけ?@femmelets ~吉本隆明は対象を指し示す言葉とは異なる何かを想定したということでしょう。ところが、言葉のそのふたつの側面を分けることなどできるのでしょうか。
posted at 11:54:23

RT @femmelets: @sunamajiri ええ、そうです。
posted at 11:58:47

RT @femmelets: @sunamajiri 機能主義的な言語観を論駁したかったというのが吉本隆明の動機ですが、ソシュールに限らずウィトゲンシュタインなどもそうですが、単なる機能主義、有用性の観点だなどといえるのでしょうかね。私は、そうではないと思いますが。
posted at 11:59:05

RT @femmelets: @sunamajiri 受験国語(現代文)、小論文などでは、試験(テスト)の正解をいわなければならないでしょうが、小林秀雄の文章の真意の解釈や特定に正解などあるのでしょうかね。小林秀雄は一見深遠に、実ははぐらかしているだけではないでしょうか。そうすると、正解などもないでしょうね。
posted at 11:59:38

だからそうとう前に時代遅れになり、その後の暗中模索みたいなのが現代文にみえます。@femmelets 受験国語(現代文)、小論文などでは、試験(テスト)の正解をいわなければならないでしょうが、小林秀雄の文章の真意の解釈や特定に正解などあるのでしょうかね。
posted at 12:01:11

言語が今やあまり問題になりませんね。@femmelets 機能主義的な言語観を論駁したかったというのが吉本隆明の動機ですが、ソシュールに限らずウィトゲンシュタインなどもそうですが、単なる機能主義、有用性の観点だなどといえるのでしょうかね。私は、そうではないと思いますが。
posted at 12:05:14

RT @femmelets: @sunamajiri デリダの『声と現象』は面白いですが、機能主義批判などではなく、むしろ表現というような観点への批判です。具体的には、孤独な心的生において主観が記号の意味を解読し劃定する、といった発想(フッサール)の批判的吟味です。
posted at 12:05:46

話が戻りますが、柄谷はどう見えます?@femmelets デリダの『声と現象』は面白いですが、機能主義批判などではなく、むしろ表現というような観点への批判です。具体的には、孤独な心的生において主観が記号の意味を解読し劃定する、といった発想(フッサール)の批判的吟味です。
posted at 12:09:53

RT @LitoSnowfield: そいえば…小林秀雄さんは(・o・)> 私の上の世代では“知のヒーロー”な感じだったなぁ〜…(*^o^)>
posted at 12:12:24

おそらく、四半世紀前まで国語テストは、ああいう逆説や飛躍を信仰するのがある種の正解になり、だから解釈問題は出せず、より単純な文中の指示問題しか作れなかったのかも知れませんね。@LitoSnowfield 小林秀雄さんは私の上の世代では“知のヒーロー”な感じだった
posted at 12:16:38

RT @femmelets: @sunamajiri 柄谷行人の、自己表出とは実は「自動表出」のようなものなのだという意見は面白いですね。『言語にとって美とはなにか』を生産的、有意味に読むにはそれしかないでしょうが、しかしながら、吉本隆明の発想そのものはそういうものではなかったでしょうね。
posted at 12:17:56

私もそっちの方がしっくりきます。ところでそれが攝津さんのいう、機能主義ではない表現と、どう布置されるのかが、いまいち理解できていない。@femmelets 言語は依然として問題でしょうが、ソシュールなどの20世紀以降の言語学だけではなく、英米系の哲学・思想も参照すべきでしょうね。
posted at 12:20:09

という風に、機能主義ではない表現という問題系について、色々伺いたいのですが、そろそろ睡魔が限界なので、離脱します。また具体的に教えてくださいね(^-^)/ @femmelets
posted at 12:22:48

RT @femmelets: @sunamajiri 恐らくソシュールで考えようと、ウィトゲンシュタイン以降のアングロサクソン哲学で考えようと、言語は機能主義的とも自己表現ともいえないと思いますよ。デリダはフッサールもソシュールも両方批判(脱構築)していますが、そのことは彼なりの言語観があってのものでしょう。
posted at 12:23:13

RT @femmelets: @sunamajiri ソシュールは、言語体系(ラング)は社会的なものだといっていますが、彼のいう社会的ということがどういうことなのかが問題にされます。デュルケムの社会実在論の影響があったといわれるのが普通ですが、どうみてもそれだけではないでしょう。
posted at 12:23:39

はい、ありがとう(◍′◡‵◍) RT @femmelets どうもお疲れ様です。ゆっくり休んでくださいね。
posted at 12:37:01

画像はThe Conflict Between Salvador Dali and Immanuel Kant