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スピノザの自動性からエポケーのタルムード化まで

2012.06.14

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自動化する自由という話

國分氏がスピノザから取り出す(指導の)自動性。17世紀の「先行する実体=欺く神」という証明が齎した主体性。証明のエポケーとしてのフッサールから、タルムードに回帰するレヴィナスの流行を批判するデリダまで。

先ほどhttp://www.sunamajiri.com/blog/diary.cgi?no=232 の続き。

2012年06月14日(木)
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ふつう世間では、疑われたい疑われたいってキョドってる人って、それだけでうざがられるのよねー。それにしても日本語ってすごいね、キョドるの一言で西欧哲学の全容を表現してるものねー(^-^)/
posted at 17:16:24

私もたまーにブルースとかやってて、一分ぐらい寝てる時あるよー。自動化するよ。(^-^)/ @issop0730 今日はフルート吹きながら寝てしまったし、あほみたい。よく落とさなかったものだ
posted at 19:16:53

寝てそっちいっちゃたら困るけど、あっちいっちゃうのは自動化だからいいのよ。めざせ音楽の自動化(^-^)/ @issop0730 プロではないにせよ、演奏中に寝るやつっているか
posted at 19:17:51

そうそう、1~2分寝てても、ブルースが正確に自動化されてて、そういうのがイイ。ビートのある音楽だからできるので、クラシックでは真似しちゃダメよーww (^-^)/ @issop0730 そうでしたか、たまにある事だったのですね。自動化はいいですね(^^)
posted at 19:20:18

ほんとは自動化したほうがいいきもするけど、心こめろとか言われると自動化したくなるしwww (^-^)/ @issop0730 そうでしたか、クラシックは自動化に不向きと、φメモメモ
posted at 19:36:09

RT: 3.11を契機とし法治国家は解体され、「強制的同一性」という抑圧体系が樹立され、この社会はレミングの群れのように姿のない扇動者が破滅へと加速させている。~すでに我々はイデオロギーによって人間性を喪失しているのかもしれない。http://t.co/h3mCa60J
posted at 22:51:02

ちなみに國分氏が、デカルトの実在性の量(自我)と対置したのが、スピノザの(証明手続きの破棄による指導の)自動性だ。その対局がフッサールの(自動性の)留保と仮定して、本当に自動性は操られて、こういうファシズムの原因になるのだろうか? http://t.co/h3mCa60J
posted at 23:14:26

さっきの纏め ルイヴィトン財布スーパーコピーでは、疑われるから自動性への道が生まれる、という話になっていた。「疑われ」が先にあると、実在性の量で説得するか、無視して自動化するかしかない。つまり、自動性と操る主体は単に別人というだけではないか?
posted at 23:14:51

そもそも、疑うのは、そういう操る主体を対象にした疑いだ。それ以外に具体的に疑うものがあるわけではない。自動性は疑いによって齎されているものの、それが操られる原因というのは、循環論だ。つまり自動化させるイデオロギーが操られる原因とは思えない。
posted at 23:15:16

実際の自動性https://t.co/YMIi3Ls9 は、中沢新一氏がいうようにhttps://t.co/FN0WLL3t イデオロギーというより音楽で、操られて気分を害したら、ただ音楽の自動性がストップする、というだけに思える。それでも操られるのだろうか?
posted at 23:34:27

RT @nakazawa_quotes: 「神」とよばれるその知性体は、音楽という言葉の構造をこえた構造をとおしてはじめて、ぼくたちの生きる知覚と感情の世界に、巨大なそのすがたの一端を浮上させる。~『バルセロナ、秘数3』
posted at 19:46:45

自動化が自由意志と反対なのではなく、自動化する自由がある、とかそんな具合に見える。マインドコントロールのように操作されることと、自動化を同一視することこそ、何らかな論理操作に見える。
posted at 23:45:49


2012年06月15日(金)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120615

どうも体調がすぐれず寝床にいるとRT連投してしまう。TLは、やはり世界の非常識の日本の原発ね。下級官吏のような修身安定に憑かれた社会主義人間だらけだから、日本だけやめられないんでしょ。やめられないのは理性ではなく、貧乏根性よ。あそこの社員は死んだ魚のような表情じゃない?
posted at 06:50:27

理性というのは、明日はどうなるかわからない、ということに対処する能力なのに、それが怖くて、家族の安定や保身だけに走る社会主義人間は、単なる本能的な動物。ああいうものを人間扱いしてはだめ。私は徹底的にああいう安定志向の人間はいじめる。(^-^)/
posted at 06:53:16

夜半 https://t.co/YMIi3Ls9 の続き。そもそもデカルトが省察するとおり、我が疑われるのは、欺く神(操やつる神)によってであって、スピノザのような欺かない神は疑いもしない。にも拘らず無神論者は、無際限に操られていると疑うのだ。もちろんそこに理性があるのではない。
posted at 07:18:59

理性を失わせる安定志向や、諸々の社会主義的な国有化が今や妄想に見えてきているように、無神論者の論理操作https://t.co/BaaF6NWl は、単なる詐術だろう。無限の疑い(欺く悪霊)があってこその問いだ、ということを判断留保できるわけではない。
posted at 07:39:38

いわゆる17世紀の問題を、一文に纏めれば、先行する実体は欺く神だった、という普遍論争の解決だったのだろう。実体という先行するものは単に欺く神(無際限に我が疑われること)だというのが、彼らの存在証明だ。フッサールも言うようにそれをエポケーできるわけではない。
posted at 07:46:05

私は無神論という安易な逃避は誤謬だと思っていて、好き嫌いで言うと嫌いなのだが、マルクスの存在論でさえ、無神論と誤解できないと、なんとなく感じていた。安定志向の制度化のようになった社会主義的なものが、いま非理性的な様相に見えるのも、そういう直感からのように思える。
posted at 07:50:35

RT @femmelets: 残念なことですが、私は、絶対的で徹底した無神論者です。 @sunamajiri 私は無神論という安易な逃避は誤謬だと思っていて
posted at 08:00:49

RT @femmelets: 私が完全且つ執拗に否定し続けるのは、神だけではなく、神のように見え、神の代理をするありとあらゆるもの、エコロジストにとっての自然、マルクス主義者にとっての歴史、プロレタリアートなど、一切合切全部です。 @sunamajiri
posted at 08:00:54

そうですね、でも徹底は悪いことではないと思う。無神論も必要なのです、徹底しているならば。@femmelets 残念なことですが、私は、絶対的で徹底した無神論者です。 @sunamajiri 私は無神論という安易な逃避は誤謬だと思っていて
posted at 08:01:36

RT @femmelets: 神を残酷に否定する幾通りもの、無数で無限の方法が存在します。つまり、とんでもない帰結を徹底的に推し進めてみるのだ、ということですが、そうしますと、一切の救いや慰めなどがなくなります。非常に荒廃し荒涼としたワールドです。そこには見棄てられた人々が住まいます。 @sunamajiri
posted at 08:05:23

RT @femmelets: 徹底した無神論は、端的に存在しますよ。 RT @sunamajiri: そうですね、でも徹底は悪いことではないと思う。無神論も必要なのです、徹底しているならば。
posted at 08:08:34

いや、たぶん私はそれほど端的にはなれないにせよ、無神論者と大差ないとおもいますよ。多くの日本人と同様、信仰があるわけでもないし。なのであるのは、徹底や端的さと、そうではないという差異のようなものなのでしょう。@femmelets 徹底した無神論は、端的に存在しますよ。
posted at 08:08:29

RT @femmelets: 大多数の日本人は、キリスト教徒でもイスラム教徒でもない、一神教を信じていないという意味で無神論者でしょうが、仏教、神道、儒教、道教、民間信仰などはどうでしょうか。それから、あからさまに宗教の貌をしたものだけではありませんよね。自己啓発セミナーとか。 @sunamajiri
posted at 08:12:42

同感です。たとえば、中沢新一にたまたま昨夜触れましたが、あの頃のニューアカとかそういうのは、オウムと同じに見えていたほどですから。しかしオウムより、本物の官僚や東電の悪辣なのが3.11でばれた。本当に、為す術がないのでしょうか?(^-^)/ @femmelets
posted at 08:15:28

RT @femmelets: 3.11以降ばれたことは、世俗的なシステムの問題と看做すべきでしょう。政・官・財の鉄の三角形プラス御用学者連中、「原子力ムラ」の権力支配、ということですが、それは世俗的、経験的、唯物的になくすしかないものです。 @sunamajiri
posted at 08:18:22

その世俗で、安定志向や、民間なのに官僚並みの終身雇用や年金や、そんなものを機械的に欲望するだけになってしまい、遂ににっちもさっちもいかなくなっている、その急先鋒が世界の中での今の日本というのが、なんともやりきれない。@femmelets
posted at 08:20:48

RT @femmelets: @sunamajiri お気持ちは分かりますが、そこから出てくるのは、「辛うじて成り立っているちょっとした総体的安定もぶっ壊す」というような結論です。東京電力の社員連中が無意味に威張っている、経営陣がまるで責任を取らないのは問題ですから、特権を剥奪し、責任を取らせるべきですが。
posted at 08:31:08

そういえば昨夕は、(日本の)ポストモダンの不甲斐なさ、にすこし接近https://t.co/OZb5Cy2e したのだけど、省察しそこなった(^-^)/ @femmelets
posted at 08:33:42

RT @femmelets: @sunamajiri ゆっくりお休みください。私が「社会主義」ととりあえず呼んだのは、信仰ではなく、世俗主義と合理主義の徹底であり、かつての「科学的(学問的)」社会主義の再興です。その意味で、私は、佐々木力に賛成です。彼はセクハラで罠に嵌められ、失脚、抹殺されましたが。
posted at 08:38:26

RT @femmelets: @sunamajiri 日本のポストモダンが不甲斐ないかどうかはともかく、思想の内実をまるで問わない商業主義だったことは確かで、それはレヴィナスの流行に看て取れます。レヴィナスはサルトルの先輩であり、フーコー、ドゥルーズ、デリダとは全く違いますよ。文脈が無視されたわけです。
posted at 08:46:27

RT @femmelets: レヴィナス流行が変なのは、ユダヤ教の文脈を外すことはできないはずなのに、エロス、愛撫、糧などなどの彼のカテゴリーが一見「具体的」、「現実的」だから爆発的に読まれた、ということで、『実存から実存者へ』だけの問題に切り縮められている。
posted at 08:58:49

RT @femmelets: 日本の知的流行、ファッション(衣裳)のおかしさは、カトリックの文脈からくる速度批判、テクノロジー批判を抜きにして、ポール・ヴィリリオを『速度と政治』だけで読み、評価、称賛、肯定、称揚するというような身振りにも表れている。
posted at 08:59:08

RT @femmelets: レヴィナスの「顔」の倫理はともかく、ヴィリリオの文章を総体的に読めば、過剰な速度、非人間的な速度は緩めるべきだし、近代テクノロジーは疑い抑制すべきだ、という意見になるはずではないのか。
posted at 08:59:12

RT @femmelets: デリダは『エクリチュールと差異』及び後期(『アデュー』でしたっけ?)で二度、レヴィナスを批判していますが、デリダの批判は、レヴィナスの非常に特殊、特異な哲学・倫理学だけではなく、ユダヤ思想そのものに向けられている印象です。 RT @sunamajiri: そういえばレヴィナスBO
posted at 09:05:20

RT @femmelets: @sunamajiri レヴィナスはフッサール、ハイデガーに非常に忠実な立場から出発して、誤解だと思いますが、ハイデガーを批判し、ユダヤ教・ユダヤ思想、タルムードなどの影響を濃厚に受けた倫理学を創りました。それはいいのですが、それはキリスト教思想以上に我々には疎遠なものでは?
posted at 10:03:53

あちらではユダヤ教はキリスト教の対ですが、日本はキリスト教がないために日ユ同祖論に逃げるような感じになる。@femmelets ハイデガーを批判し、ユダヤ教~タルムードなどの影響を濃厚に受けた倫理学を創りました。それはいいのですが、それはキリスト教思想以上に我々には疎遠なものでは?
posted at 10:37:56

ビビるデカルト、キョドる哲学

2012.06.14

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ビビるデカルト、キョドる哲学
http://www.sunamajiri.com/blog/diary.cgi?no=232
https://www.facebook.com/kaoru.ohmoto/posts/334992346578987

フッサール省察12節までの吟味から、ますますビビっているデカルトを感じてしまう。キョドるデカルト氏。画像は彼のお墓。


2012年06月13日(水)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120613

スピノザを國分流に「実体の放棄」と捉えた上で、ブランド トートバッグ コピーフッサールの省察を読み進めると結構楽しめる。フッサールはデカルトが、疑いの余地のない前提として、超越論ではなく超越的(二元論的な)我思うを置いたというのだが、スピノザが相対化したように、それは思っている我=実体という等式のことだ。
posted at 17:54:51

デカルトが我=実体と定義したことになるのは、スピノザの再定式化によれば、実在性の量を省察=分析したからに過ぎない。神を実在性の量(リアリティー)とすると、実体は神ではなく、その対立項の「思っている我」の側に布置される。しかし等号で結ぶ鋭さは得られない。
posted at 17:57:55

それに対して、フッサールは、そうした実体の等式そのもの、つまり「疑いの余地のないこと=実体」を、「思っている我」と等号で結ぶ、という関係性を保留にしようとしているのだろう。
posted at 18:00:36

捕捉すると、フッサールによれば、デカルトが「思っている我」=「疑いの余地のないこと」=「実体」としたというのは、心身二元論でいう心の実体化、霊魂のようなものに、「閉ざす」ことなのだという。この霊魂、実体=心が、超越的な主観と呼ばれる。
posted at 18:05:11

では、フッサールは、エポケー(判断停止)を、「疑いの余地のないこと=実体」と等式で結ぼうとしているのだろうか? つまりエポケー=実体なのだろうか? おそらくデカルトと同様、等式で結ばないために、分析的な省察を行なっているのだろう。
posted at 18:09:55

通常、スピノザは様態(神を実体という本性にし、我を本質を表現する様態)にしたと見做される。この捉え方は、エポケー=実体ならぬ、エポケーで実体を隠す書き方=分析(超越論)で、やっと可能になっている。このように分析とは、実体との等式の留保のために与えられる言語だ。
posted at 18:16:27

では、國分功一郎氏が結論した、スピノザによる証明(実体)の放棄とは何なのだろう? おそらく、従来の超越論(分析)では取り出すことが困難だった何かだ。
posted at 18:24:30

スピノザは実在性から量を捨てることで、実体の証明を終結させる。つまり従来は、実体が量と等号で結ばれていたということだ。分析(超越論)やエポケーは、じつは量を実体と等式で結んでいる、ということなのだろうか?
posted at 18:25:32

余談だが、思考停止ならぬエポケーは、バレンシアガ トートバッグ コピー私達にはむしろ自然だ(もちろん、フッサールは自然を、デカルトのような、霊魂=実体、つまり実体のほうに置くのだが)。その自然的にエポケーな私達が、西欧文明に接触してまず獲得したのが、超越的な主観、つまり霊魂的な内心だったのも興味深い。
posted at 18:34:53

明治以降、内面を文学的に作ろうとして(日本近代文学)、現在の国語教育(現代文)では、それを読解させて、内面性の否定を合理性とする、というのも面白い話だ。
posted at 18:37:44

とにかく困ってしまうのは、デカルトが心を実体と等式で結ぶために、実在性の量(リアリティー)にされてしまった神という語彙が、明治になって日本語に流入してしまったことなのだ。そのために、内面が生霊のように実体化し、子供たちが読解できなくなる日本語が生まれたのだ。
posted at 18:43:01

彼らには等式は「疑いの余地のないこと=実体」なのだろうが、もちろん私達には「実体=疑うこと」(実体とか言うから疑いが生まれるんだろ)にしか見えてない、という、このなんとも厄介な話。だからみんな思考停止したり、自分の内面に閉ざされてしまうのかしら?(^-^)/
posted at 19:19:26

「疑いの余地のないこと=実体」というのは、だから実際にはどれだけ、という量になってしまい、原発をめぐっては、こんなhttps://t.co/SuZLUEGc あほな言い方が生まれるんだろうねー。
posted at 19:22:08


2012年06月14日(木)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120614

エチカ定義一原文。Per c a u s a m s u i intelligo id, cuius essentia involvit existentiam, sive id, cuius natura non potest concipi nisi existens.
posted at 03:18:02

エチカの原文サイト。http://t.co/rxSB0QCJ
posted at 03:22:53

エチカの英訳サイト。http://t.co/wNoX6JC5.
posted at 03:23:29

エチカの和訳(畠中訳を定訳にした)サイト。http://t.co/np0HexO2
posted at 03:25:00

英訳は140字で収まらないが、By that which is self-caused, I mean that of which the essence involves existence, or that of which~、より和訳のどこか直接的に見える。
posted at 03:26:56

ちなみに、河出の高桑訳は「自己原因とは~解する」ではなく、「自己原因によって私は、それの本質が、それの存在を含んでいるようなもの、もしくは、それの本性が、存在しつつあるものとしてしか考えられないようなもの、のことを理解する」と、英訳(独訳)からの直訳調に見える。
posted at 03:29:41

國分氏が定訳として使った畠中訳が「自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの、と解する。」
posted at 03:31:31

ん? 柄谷のNAMって攝津君の批判ぐらいでしか心得ていないのだけど、エチカと直結してるってこと?(^-^)/ @aoinatsunosora NAMか・・ RT @sunamajiri: エチカの和訳(畠中訳を定訳にした)サイト。http://t.co/rGgwYDYX
posted at 03:44:08

NAMは全然わからない。攝津君が憤怒してるなということぐらいしか。柄谷はhttp://t.co/NGFg5O1m の時点以降、最近まで読んでなかった。坂部さんはご近所さんで、どう柄谷がカントを正しくしたのか、質問しようと思ってたら他界してしまった。@aoinatsunosora
posted at 03:51:01

最近はWEB発信もするのよね(前からかなのだろうけど)、これhttp://t.co/iJAUSHMP は、数カ月前に読みました。(^-^)/ @aoinatsunosora 彼のサイトはたまに覗きますね。http://t.co/c3QJmh1D
posted at 03:57:15

日本語の西欧哲学用語ばかり読んでると、勘が鈍るのでたまには英文で。デカルト派的二元論では人間にしか心がないことになるが?といういつものアレ。Was Descartes a Cartesian? (デカルトはデカルト派だったか?)http://t.co/rnteyNvq
posted at 06:13:22

FBみたら攝津君が今朝はますます共同体の話にいってるみたい。そんなに人間と交わりたいのかなー。私は人間を遮断したいぐらいなのだが(死ぬ時ぐらい静かに一人になりたいじゃない?まだ死なないがw)、彼は遮断してるから交わりたくなるのかなー。私は人間よりうさぎさんと交流したい(^-^)/
posted at 06:34:40

昨日の攝津氏は、パスカルは神より職業選択の偶有性が面白いというのと、悲劇的でない現代文学に悲劇を探そうとした吉本隆明が複雑に交差してて、人との交流の糸口の話なのね、って思ってたのだが、まだ若いのよね。あれで孤独になる話ができたら本物というか面白いのに(^-^)/
posted at 06:41:49

たぶん柄谷行人のNAMというのも、べつにアソシエートするつもりがなかったのに、周りが集まってきちゃって、え?って感じだったのかなー、と勝手に想像してしまった。何とか村とかみたいよねアソシエーションって。(^-^)/
posted at 06:49:10

一人になるか、二人でいるか、それが問題だ。(^-^)/
posted at 06:49:21

RT @gendaibuntan: 人間と他の動物の違いっていろいろあるけれど、よく挙げられるのが「言語を使用する点」ね。最初は学習できる点が違うとか考えられていた時期もあったけれど、マウスだって学習することが研究によって分かってきた。だから、言語という「思考を成すもの」を他の動物との違いとするの。
posted at 16:01:46

現代文たんhttps://t.co/DWKi6BzA 私の昔の髪型ににてて、かわいい(^-^)/
posted at 16:02:41

フッサールの第二省察12節。私にだけ先立ってある我(主観)は、他人からは疑われる。デカルトの我は、疑われる我、絶対的でなく空疎な同一性だ。しかしそれを放棄すればいいのではない。
posted at 16:05:53

12節続き。確かに個別の経験には疑いの余地がある。しかし、自己経験も多様だ。それを経験の構造と素描できた時、自己経験が無限になり、アプリオリ(先立つ)規則を素描する学問になる。
posted at 16:08:17

感想。國分氏が指摘するようにスピノザが実体の論理構造の解決(神の描出による証明の破棄)なら、フッサールは、デカルトが描出しなかった(疑われる)我の論理構造を解決しようとしているかのようだ。
posted at 16:16:02

よくポストモダンに対する批判で、主体も心もないというのは他のもの(神?)により操られる決定論だ、というのがある。たしかにスピノザの仕事は、実体の論理構造の解決ではあるが、そのままでは単に倫理になる。それは疑われる我の解決ではあるが、勿論、フッサールはその先を考えなければならない。
posted at 16:20:14

どこまでも他人に疑われる(ているように思える)自分。まあ気持ちの持ちようよ、という話なのではあるが。そのために、フッサールは12節で、それ(明証)を、スピノザのように、方法論と名指している。
posted at 16:22:54

デカルトのままでは疑われる我で、デカルト主義者=操られない主体性のようにはなっていかないという話だが、これでは人間以外は心のない機械だという天動説に回帰してしまう。勿論在るのは心ではなくて言語だからだが、その言語は本質的には疑う他人がいないと、発せられそうもない。
posted at 16:48:56

このように人間であるための証明はw、疑う他人ありき、ということになるのだろう。当たり前だが、アプリオリというか先行するのは「疑う他人」でしかない。疑われているからこそ言語を発して、人間様になる。しかし、そういう偉そうな人間が、個人的には疑いの対象だったりする。(^-^)/
posted at 16:52:02

もちろん、この疑う他人を現実にはなかなか得られない、得難い懐疑論者、得難い先行者というのが、実際上問題になる。それで、疑う他人ほしさに、色々な言葉を発する人が出てきってしまう。しかしそれは病理に見える。
posted at 16:53:41

スピノザの知性改善論によれば(それによらずとも)、疑いこそ無限連鎖なわけだ。しかし、神が死んだように、じつはこの無限の疑いも、どこかに消えてしまったように見える。だから疑われたくて仕方がない人達、病人が出現してしまったのだろうか?
posted at 16:56:50

・・・以上、フッサールのデカルト的省察http://t.co/rrrRDwmW 第二省察12節までの、途中感想文でした(^-^)/
posted at 16:59:50

デカルトってなんかキョドってる(^-^)/
posted at 17:25:34

キョドってる人って嫌い、ばかみたいなんだもん(^-^)/
posted at 17:25:44

デカルトの場合、キョドるじゃなくて、びくついてるって感じなのが、すごいのかしら?(^-^)/
posted at 17:26:55

ふつう世間では、疑われたい疑われたいってキョドってる人って、それだけでうざがられるのよねー。それにしても日本語ってすごいね、キョドるの一言で西欧哲学の全容を表現してるものねー(^-^)/
posted at 17:16:24

RT @aoinatsunosora: @sunamajiri raison d'etreに煽られたんでしょうね。
posted at 17:32:16

なんか、びびりまくってるわよねーデカルト氏(^-^)/ @aoinatsunosora raison d'etreに煽られたんでしょうね。
posted at 17:32:43

FBのほうが読みやすいか。■ツイートまとめ■ビビるデカルト、キョドる哲学 https://t.co/eQnUd3AG フッサール省察12節までの吟味。疑うあなたが欲しい(^-^)/
posted at 19:02:04

デカルトの幽霊は怖いのか?

2012.06.14

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デカルトの幽霊は怖いのか?

フッサール省察の第一省察読了前後のツイートまとめです。デカルトの創りだした危険な二元論的な心、つまり幽霊は、そんなに怖いものなのだろうか?という話が中心でした。


2012年06月12日(火)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120612

RT @femmelets: 柄谷行人『「世界史の構造」を読む』(インスクリプト)、読了。柄谷は、政治、経済、社会、歴史の話をするのをもうやめ、「普遍宗教」とかいうくだらない妄想だけ語るべきだし、9.11に衝撃を受け、ゼロから考え直すためにNAMを解散しようとした、などという虚偽を撒き散らすべきではない。
posted at 09:27:58

それは、9.11の直後柄谷行人は数学に没頭していたし、その後の委員会では浅田彰、山城むつみと一緒になって「9.11はただの犯罪だ」という空疎な結論に到達した、という客観的な事実である。
posted at 10:34:15

RT @femmelets: ところが、柄谷行人や浅田彰は、9.11はただの犯罪だから、犯罪としてのみ処理すべきだし、暴力はよくないのだ、というような陳腐で空虚な意見に終始したのである。
posted at 10:34:55

RT @Chisaka_Kyoji: シェリングのついでに言うと、フィヒテとシェリングは個別の研究者以外では、カントとヘーゲルの通路のように見られがちかもしれないが、フィヒテの「非我」やシェリングの「無底」は、カントの先験的統覚やヘーゲルの絶対精神からすれば他者的な可能性を開いていることを見る必要があるだろう。
posted at 16:10:13

RT @Chisaka_Kyoji: テロ肯定論者はテロを行うこと、その是非を問う場合が多い。しかし、人間にとってはテロは行うものではなく、行われるものということだ。人間が実行犯となるテロは、いかなる理由であれ全否定されるべきだ。ベンヤミン風にいえば神的テロのみが肯定されるが、その場合、神性たる所以の神義論が必要だ。
posted at 16:19:41

ジャズもロック(スピリッツ)だぜい。うそうそ(^-^)/ RT @neajazz: もちろん僕の話している「ロック」は、スピリッツ(精神)の話ではなく、単純に音楽的な話です。スピリッツの話などし出したら、AKBだって長渕剛だってそれに「ロックを感じれば」ロックなんだから。
posted at 21:22:10

デカルトのように幾何学的公理にこだわって、思っている我を心(スピリッツ)のように実体化されるとえらいことになるわけだが、音楽もスピリッツになった時(音楽的に)つまらなくなるからなー。スピノザみたいに(自己)証明を破棄しなきゃだめよー(^-^)/
posted at 21:25:49

RT @neajazz: 大本さん「だぜい〜」とか、すげー似合わない笑
posted at 21:36:27

RT @heidegger_bot: ほとんどデカルトと同時に、パスカルは計算する理性の論理学に対して、心情の論理学を発見している。心情空間の内面と不可視性は、計算する表象行為の内面よりも内面、従ってより不可視的であるばかりか、それは同時に、単に作成しうるところの諸対象の領域よりも、さらに大きい…「乏しき時代の詩人」
posted at 22:34:19


2012年06月13日(水)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120613

おお、さすが鋭いですねー(^-^)/ @YoNakagawa わざわざ、楽しんでいる人もいる音楽に、もしもし、あなたミミないですね~なんて悲しいこと言うのが、音楽評論家の仕事ではないのです。
posted at 00:21:49

幽霊は二元論だから怖くないけど、宇宙人はほんとに草葉の陰からでてきそうで怖い((((;゚Д゚)))) @nakagawasun "こわい(・・;) RT「宇宙人に注意」 #自分のピクチャフォルダの中で一番意味が分からないものをうp http://t.co/Q0jOzEVV"RT
posted at 00:46:49
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RT @nakagawasun: @sunamajiri あら(^^)。幽霊が二元論?(今のところ全然わかってないけど、おほほ)私は墓場は恐い方よ。
posted at 01:05:14

うん、改めてフッサール読んだら、デカルトは我思うって定義しようとして、身体とは別に心を霊魂にしちゃった(心身二元論)、あいつは困ったものだ、って書いてあったよー(^-^)/ @nakagawasun あら(^^)。幽霊が二元論?(今のところ全然わかってないけど、おほほ)
posted at 01:06:54

対立項が因果律(つまり存在ということ)をどう捉えてきたかは、意外と面白いねー。エポケーしてたから(実体=存在の哲学は)つまらないと思ってたんだが(^-^)/
posted at 01:39:11

デカルトの省察だと因果律の定理が不徹底になり、「思っている我」を実体化(霊魂)→二元化させてしまう。なのでスピノザの方法は、証明を破棄する証明をする平行論になる。フッサールは省察しなおして、証明自体の停止(エポケー)と世界を二元化させちゃう。みんな帳尻が合ってしまう。
posted at 01:44:43

RT @B_Pascal_jp: あまり早く読んでも、あまりゆっくりでも、何も解らない。§69 パスカル
posted at 02:00:14

RT @nakagawasun: @sunamajiri ワタシは、きっとこれから質問して教えていただきたいことがでてくるかもしれません、そのときは、どおぞよろしくぅ~。とりあえず、今、電池がすくなくなりまして。じゃ。
posted at 02:12:28

たいしたこと教えられないよー。因果律は歯が立たないもん(^-^)/ @nakagawasun
posted at 02:12:51

デカルトのようにすると、真心とか霊魂とか、そういう生霊みたいのがどんどん生み出されちゃうから、けっこう怖いよねー、って話でした(昨夜の話)(・_・;)
posted at 08:32:50

うん、あちらの哲学は、根本原因を汲みつくす言葉は書けるか?って話だからね、それができなくて、色んな物(化物)が飛び出すよー(^-^)/ @nakagawasun 因果律?電池があと20%
posted at 09:16:39

おお、解説本ではないから論述はめんどくさいとこありますが、解説文でないだけにあるポイントに達してて面白い本ですよー(^-^)/ @nakagawasun 「スピノザの方法」買ったんです。國分功一郎ってそんな若いとも知らなかったし、こうゆう人いるんだなあと思いまして。
posted at 12:56:22

國分さんがカルチャースクールで、一般向けにスピノザの方法講義をしてるみたいですよ。なんか毎回、感極まって泣く人がでるらしい。それだけ哲学を解決してるのかしら。あるつっかえが抜けるのは確かだと思います。@nakagawasun ありがとーございます~♪(^^)通信教育講座みたい~♪
posted at 13:54:59

RT @LitoSnowfield: 確かに…国分さんの“スピノザの方法”は頭の蓋が開くような感じはあるかもなぁ〜…(*uou)> ただ…私はそれを説明出来る程は理解していないので読込みは続くのでありますが…(^o^;)>
posted at 14:01:50

RT @nakagawasun: @sunamajiri それは現代文たんツイートで「現代の哲学は哲学そのものを問う哲学の懐疑ね、ウフッ♪」っていうアプローチなんですね?素朴に解らないのは、科学領域研究が高度にぶもんごとに細分化されるのはそうだろうな、と納得できて「哲学」が誰はハイデッガー、誰はプラトン、
posted at 14:15:34

RT @nakagawasun: @sunamajiri (西洋哲の場合)そうやって、一筋研究になるのが、解らないです。(長くなりました)すごく素朴に。
posted at 14:15:36

デカルトの情念VSスピノザの感情https://t.co/6x0wzS8p やヘーゲルの精神https://t.co/6yqoXdEz は國分本には出て来ません、その前提となる証明の破棄の話です。証明を破棄できないと情念や精神になるのでしょう。@nakagawasun
posted at 14:15:00

疑わなくてもすむための原因を証明するのが彼らの哲学ですよ。それをやめられない。たぶんスピノザだけが証明をやめる証明を見出したという感じ。フッサールですら判断停止と言いつつ証明を続けますから。@nakagawasun しょうめいのはき…
posted at 14:32:31

ハイデガーといえばフッサールの第一省察の付論「デカルトは超越論的な転換に失敗した」では、デカルトの先入観が説明されているけど、スピノザの方法のように、それを実体との関係で証明(証明の破棄)できてないんです。http://t.co/yYCfvcXQ @nakagawasun
posted at 14:38:33

一貫した論点しかないからねー。必ず先行者への言及(批判)だし。当然ギリシャ人がいけないことしちゃったわけなので、彼らの実体http://t.co/1KQWSTwd という語彙が危険すぎるのです。(^-^)/ @nakagawasun 時代が前後するのは気にしないんでしょうか?
posted at 15:01:29

たとえばデカルトの空の例や太陽の例に対してスピノザがどうしたとか、そう読むといい。でも太陽の例に対してスピノザは幾何学というのだが、それも最後に裏切られて、幾何学定理を片付けて(実体の証明手続きの破棄)次に進むのがエチカだ、とかなるのだけど。@nakagawasun
posted at 15:17:57

ねおたんスピノザみたいね。デカルトまでずっとそれやってて、それあほらしいからこうするともう言えなくなるだろう、とやっちゃった。@neajazz 1+1=2であったら、世界は何と楽なことか。しかしまた、で、あったなら、芸術なんて確実に必要ないだろう。だって、書くことないもの。
posted at 15:24:23

シュタイナーhttps://t.co/ShJIn8YF と現代文たんhttps://t.co/UqP8fZ4J が同じようなこと言ってる。教育だからね。教育は必ずしも哲学ではない。
posted at 17:18:09

本の単一性を疑う多量な本

2012.06.14

ファイル 230-1.jpg

本の単一性を疑う多量な本

フッサール省察を乱読しはじめた、最初の意識の流れ。本の単一性から、転向を証明する多量な本、用もないのに他人の悪口をいう日本語まで。


2012年06月10日(日)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120610

乱読態勢中。ウィットゲンシュタインの哲学は言語の誤謬だで正気を保ちながら、実は嫌いなフッサールのデカルト的省察を読み始めた。懐疑論→実在性の量→神証明の破棄不能→経験→認識→エポケー→現象という閉鎖的な系は、言語の誤謬に見えて、あまり好きではない。(^-^)/
posted at 12:11:38

実在性を量にすると信憑性の問題が起こり、分かっていても相手を分からせられるとは限らないから、エポケーしてバカはスルーしようという系、エポケー(判断停止)という用語も最近はめっきり聞かなくなった。何にどう言い換えられて拡散霧散したんだろう?脱構築?(^-^)/
posted at 12:49:22

フッサールの省察、デカルトの陥った幾何学では明証な経験という学問の真正のイデアは得られない。あらゆる現前=経験に先行する第一経験こそが十全な明証だ。量的すぎて証明手続きを破棄する述定に至らずウロウロしてるだけね。病気ね(^-^)/ http://t.co/sSCUUxp7
posted at 20:29:45

今日買ったブックカバーhttp://t.co/gCgMyXEp 合皮の色合いがきにいった。お花柄の裏地が表にちらっとでてるのも。ご本はカバーに入れて読むと、宇宙に唯一の本みたいになるよー。いろんな本がごちゃごちゃあると錯乱するから、本は一冊で聖化するのが好き。でも教徒ではない。
posted at 23:19:32

大抵の錯乱病(サクランボウと呼んでる)は、ご本が宇宙に五万とあって、参照関係がカオスになり、何言ってるのか読解できなくなると発病するはずだから、一回文明を終わらせて、一冊だけのご本にすると、みんな元気になるかもよ(^-^)/
posted at 23:22:11

RT @deleuzebot: 概念とは、思考がたんなる意見や見解に、あるいは議論や無駄話になりさがるのをさまたげるもののことを指す。したがってあらゆる概念が逆説となる。それで当然なのです。(『記号と事件』)
posted at 23:44:38

おお、時代は量ね(^-^)/ @sskyt 第83回哲学/倫理学セミナー■6/30(土)@文京区民センター3-B会議室■真田美沙「ヘーゲル哲学における量論について」■中原真祐子「ベルクソンにおける表現の問題」■自由参加 http://t.co/MtBw5ODz
posted at 23:54:17


2012年06月11日(月)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120611

おお、ドナルド・デイヴィッドソンhttp://t.co/OiGdRHQw はこの10年で邦訳されてたのか。http://t.co/6fqOAkxg 久々に英文を引っ張りだしてきて読もうかと思ってたんだが。
posted at 07:53:27

ところでデイヴィッドソンのような、人間に主体はないhttp://t.co/lQKMG9CX みたいなことをいうと、結局それは厳密には○○主義の亜流で目新しくない、というのが日本の哲学部出身者の主体性になってそうで、困るなー。
posted at 07:54:14

哲学部の輩の厳密性は、何かの系について中心化した論者を、系統の樹のどの枝葉の何々主義と名辞化するか、それが収まらないと固有名で呼ぶというだけだ。しかしそれは哲学という行為とは真っ向から矛盾する述定だし、実は最も厳密性から程遠い態度だ。スピノザではないがあらゆる系に固有名はない。
posted at 08:02:23

國分氏が最も論じられていないスピノザの著作として取り上げた『デカルトの哲学原理』は、当時としては異例なデカルト論(固有名を論じたテクスト)なのだという。しかし、今や哲学部の言う厳密性は、◯◯論として定立できているかという、論に指示対象があるという錯覚だけだ。
posted at 08:08:18

スピノザが、他人であるデカルトの論を書名にしたのは当時として異例で、解説本を書いて欲しいという周囲の要請の結果らしい。非常に近代的な事情だ。近代とは解説文の空間だからだ。
posted at 08:11:26

このように、AさんがBさんを論じるというのが哲学的厳密性というのは、最も信用ができない。普通、哲学とは用語間の関連性を証明する営為だからだ。なので先ほどのデイヴィッドソンのような、系を移動する哲学者を、◯◯主義と分節化しても、おそらく無意味だ。哲学者とは厳密にそういう主体だろう。
posted at 08:14:20

フッサールは、おそらく◯◯主義と呼ばせないために、いち早く(かどうかはしらないが)、◯◯学的な造語をしたのだろう。もちろん、◯◯主義という系に中心化される前に(言われる前に)、自分で名付ければいい。世界のあらゆる事柄は、厳密には名乗りでしかないので、そういうことになる。
posted at 08:17:44

たしかに論証は、Aという言い回しを、Bという言い回しに、言い換えることでしかない。それを◯◯氏の後期は、◯◯氏の前期からの転向だ、と論証するために、誰それ論という、指示対象論にしてしまう。それは哲学としてもっとも厳密性を欠いた証明に見える。欧米の大学でそういう論文は全否定される。
posted at 08:31:42

つまり日本では転向を論じるのが論証のようになってしまっているが、これは西欧社会では学問とは見なされない。ところで日本では国文学部が、誰それ論(作家論)を書く。哲学部と代わり映えがしない。日本では文芸批評と哲学が混淆するのもそのためだ。日本の近代性は文学の中にしかないのだろう。
posted at 08:39:46

日本の現代文から西欧を取り払えば主体はない、それがいかなる場合でも現代文の確定的正解、といつも高校生に教えるのだが、大学未満の高校には、誰それ論こそ存在していない。ある意味健全である。ところが学部生になると、とたんに転向論になるしかない「誰それ論」に陥る。
posted at 08:51:28

この「誰それ論」で身を立て転向する、ということを回避するためには、日本では「可能性の中心」や「探求」に収斂したわけだが、そうした探求は社会学にはまだかろうじてあるように見える。しかし、柄谷はだめでもサンデルのストレートさは大衆受けしたのだ。
posted at 08:56:13

RT @M_Foucault_jp: ヘレニズム・ローマ期の哲学における、ひとが生涯を通じて行ってきた救済、救済の行為、救済の活動が齎す報いの二つの形式。 アタラクシア:動揺の不在。ひとがいかなるものによっても動揺させられないようにする自己の統御 アウタルケイア:自己以外の何者も必要としない自己充足 -主体の解釈学-
posted at 14:58:59

RT @gameover1001: 日本人は、なんで用もないのに知らん人間の悪口を言うのに必死なんだ?と日本に住んだ中国人が不思議がっていたが、日本語インターネットに出入りしだして以来、わしも同感である。他人のことも他国のことも、どーでもいいんちゃうか?なんで、そんなに「他」が気になって悪口を言いたいのか謎である
posted at 22:25:00