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音楽を論じるのはいかに不可能か

2012.02.12

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FBにコメいただいても、レスしあってる同士にしかみえてないので、ツイッターでお話ししましょう(^-^)/ http://www.facebook.com/femmelets/posts/347859605236325?notif_t=feed_comment_reply

音楽は評論できない(ギリシャ以後哲学は音楽を論じることを避けた)という話に、音楽家は評論を利用してスタイルになる、というレスを頂きましたが、元々の論点は、音楽を批評できるという一時期のムードは実存主義、単純化すれば商業主義への抵抗で、音楽はやはり評論できないという流れでした。

スタイルというのは、トラッドとビバップとポストバップの違いとかですよね。でもそれはスタイルの違いじゃなく、リズムや乗り方の違いだったりしますよ。@LitoSnowfield sunamajiriさんは即興演奏のときにスタイル…のようなものを意識されないのですか(・o・)?

マイルスのBOTじゃないですがw 違うことをやろうという意識があっても、マイルスはマイルス、自分のできる範囲なんですよ演奏って。たとえば私はラテンとかプエルトリコとかアレルギーで聴いてられないのだけれど、できないかと言われれば、同じように吹くだけ。@LitoSnowfield

演奏に思想書が影響与えたという、それこそ「唯物論的」な証拠、系譜学的な実証はたぶんできないとおもいます。そうじゃないんですよジャズのアドリブって。自分の指グセの範囲でリズム感があれば、トラッドのコールアンドレスポンスから抜け出せるというだけ。@LitoSnowfield

50年代のマイルスも、60年代のマイルスも、エレクトリック・マイルスも、どこにスタイルの違いがあるのか私にはわからないです。アレンジはちがいますよ、でもマイルスっていつも同じ吹き方してる(むしろへたってってるw) それはスタイルじゃなく実存なんです@LitoSnowfield

それがLiteさんの実存です。ところがそれを論じることに意味があるのかないのかという話なんです。パーカーだってコルトレーンだってショパンだってバッハだって指グセが実存です。とくにシングルトーンでは際立つというだけです。@LitoSnowfield 演奏してみるととても実感ですね

攝津さんが、舞踊論と音楽論を比較していましたが、舞踊論は身体論なんです。だとすると音楽論は指ぐせ論にしかならないんです。バッハの中指がどうだったとか、そんな話にしか行き着かないはずです。ww  @LitoSnowfield

もちろん、コルトレーンチェンジではパーカーフレーズをどうフラグメント化するかとか、そういう話には意味があるんですが、そこにスタイルだとか実存主義を読み込むのは、ドゥルーズがいう弱い思想家だけが音楽を語るという点なんです。音楽論は原理的に不可能なんです@LitoSnowfield

音楽がギリシャ哲学以後、言語外的な存在で、哲学者ほど音楽について語らないんです。ギリシャでは哲学と科学は渾然一体でしたが、いまや哲学は言語内的な問題で音楽はその外なんです。(^-^)/ @LitoSnowfield 何となく“音楽を語る”ことの“気恥ずかしさ”に近づいたようですね

攝津さんは「ドゥルーズは、フーコーは音楽に逃避するような弱い人間ではなかった、という意味のことをいっているが、人間と音楽の関係ってそういうものなんだろうか。」という命題から論考してますね。彼は日本独特のジャズ評論についての論考を書くべきだ。@LitoSnowfield

ですね、じつに面白い論考でした(彼は謙遜して自覚してないけど、謙虚だなーw)。でも私から見れば明白なんですよ、音楽は言語ではない、だから音楽だというだけなんです。だからあらゆる言語は音楽の前に大敗を期するんです。哲学者は逃げますよ音楽から(^-^)@LitoSnowfield

ギリシャ人にとって音楽は科学だったんでしょうが、今でも音楽は身体論ですら歯がたたないほど、精巧な対象なんですよ、言語にとっての。だから言語では置き換えられないのが音楽なんだと思います。それを何とかイズムとか何とかスタイルというのは便宜的な認識論です。@LitoSnowfield

絵画なら認識論とかいろいろやりかたもあるのでしょうが、音楽って認識論しても意味ないのよねー。舞踊ほど単純な身体性ではないし。とても音楽は語れない。@LitoSnowfield 西洋の芸術論の歴史な本を読んだことがありまして。絵画や文学は仲間で音楽は少し外れたような感じに書いてあっ

ギリシャ以降、哲学者ほど音楽は論じない。https://twitter.com/#!/sunamajiri/status/168065344395685888 という昨夜の話で思い出したけど、たしかに音楽は身体論も認識論も現象学も無意味として、じつは作品論という形で言語化=唯物化されるんですよね。そのために言語でないから音楽という音楽が作品になった。

つまり、音楽を作品として捉えるようになったのは、そもそも音楽がギリシャ以降の哲学で論じられない裏返しである、ということを念頭に置かないと、音楽を見誤るのかなと思いました。ジャズは、そうした作品としての音楽自体をフェイクしようとする。もしジャズを作品と感じるなら、根本的に耳が病気。

通俗的だけど、よくアマチュアがジャズの曲を演奏するのをジャズだと思ったり、ジャズ以外の曲をジャズ風味にアレンジするのがジャズだ、と思ったりするんですが、そういう作品を基点とした演奏のどこがジャズなのか。もちろんそれとは別によい演奏ならそれはそれで気持ちいいしジャズなのだけど。

音楽は哲学できないから作品化するしかなかった、というのが実は近代ですね。科学としての音楽を廃したのが西欧哲学ですが、それによって音楽という世界で作品化が起こったのと、音楽だけを理性からのけものにすることで編み出されたのが近代社会ですね。そういう遠近感でしか音楽みれないなーw

それで、作品ではなく演奏者の実存なんだと論じようとしたのが、日本独特のジャズ評論だったののでしょう。しかし、結局、演奏者の実存主義というのは、べつに商業主義に敵対していたわけではなかった。結局、演奏者を政治学的に論じることも無意味だったわけです。やはり音楽は原理的に論じれない。

だから、音楽は作品として論じる以外にない。問題はジャズは作品ではなく演奏だという点。ただし同時にクラシックと違って作品を演奏するのが演奏ではないジャズでは、アドリブの採譜を作品論的に系譜付けることで、最近の欧米の音大ではジャズ論が盛んというだけ。あんまり面白い学問じゃないですよ。

採譜を作品論的対象にして、系譜学をするというのが音大で流行りとして、結局はそれは教育法の開発なんです。つまりほんとは何も論じていない。音楽なんて思想的にも政治的にも論じて何も得るものはない。へたをするとウイントンみたいに伝統主義に陥るだけ。柄谷用語で言う転倒です。(^-^)/

近代の哲学体系が音楽を斥けたことで、音楽がロマン主義的作品になったのと同時に、社会が近代化して行ったと見えるけど、音楽が商業主義と結びついた時、それへのプロテストで実存実存と言い始めた。でも勿論それは私より前の世代で、音楽家の実存って政治的抵抗ではなく、ただ利己的享楽ってだけよ。