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音楽自体の論的不可能性とは?

2012.02.28

音楽を政治や社会として論じるのではなく、音楽自体で論じることの不可能性が、近現代哲学の大きな特徴の一つになっている、という話。ツイートのまとめ(^-^)/

摂津君がFBでの哲学の話に【Facebookのみ】をつけるようになってしまったな。たしかにインタラクティブなSNSでモノローグしても、反応されてうざいということだろうけど、それならコメントできない設定のブログでやればいいのに。FBはTLがどんどん埋もれて読みづらい。(・_・;)
posted at 09:49:13

大時代の哲学の体系語りから、近年の評論語りまで、色々な語り方があるのだが、SNSだとインタラクティブですぐ腰を折られるというのを感じているのだろう。ブログのコメント禁止設定だけの問題だと思うのだが。(^-^)/
posted at 09:50:46

どういう話をしているかというと、音楽を論じることはいかに不可能か、というのを哲学史の大きな流れから、思いつくままに語っていて、たいへん面白い。だけれどFBのフレンド以外には見せない方針のようだ。発表するからではなく、責任がもてないからということらしい。懐疑的すぎるのだろう。
posted at 09:52:24

音楽自体を論じることは不可能に近い。実際、哲学者ほど音楽論を避ける。私はそれが近代哲学の特徴だと前述した。音楽は近代的な言語観とは対立的なのだ。誰かが音楽を論じるときは、必ず政治や社会など、他の事情に相対して論じてしまうのもそのためだ。
posted at 10:02:49

攝津君は、その音楽自体を論じることの不可能性となった近現代の哲学について、反証を試みようとしていて、実に面白い。http://t.co/NDdJEZaQ どんな論も試論の過程でしかなく、独断や誤謬に遠慮していたら、神しか語れないものを作ってしまう。大胆にやればいいのに(^-^)/
posted at 10:09:20

たとえば舞踊という現象なら身体論から認識することができる。しかし音楽は、つねにその身体性の外部に存在してしまう。音楽を認識するというのは知覚の問題としてしか論証できない。そのために近現代の哲学者は音楽論を避け、政治論としてしか音楽は語られなくなってしまったのではないか?
posted at 10:23:11

音楽が、舞踊のような身体性の外部に、つねに位置してしまい、なおかつ単なる聴覚以上の認識現象になる。なぜ外部なのか? それが音楽自体を論じる不可能性という命題だ。
posted at 10:24:59

政治論としてしか音楽を言語化できなくなった反動で、アンチ政治的なポップスが、一時期商業的に成功した。しかし現在、CDセールスの低迷などで、音楽のPOP性が岐路に立たされ、政治的メッセージなのか、それとも音楽自体なのか、という論点が再浮上しているのだと思う。
posted at 10:28:05

音楽自体の論的不可能性は、じつはクラシック音楽の内部からは命題化できない。攝津君の視点がおもしろいのは、クラシックの外部としてのジャズから、反証を試みようとしている点にある。ジャズもかつて実存や政治として論じられたが、いまはそうした論が不可能になってきたからだ。
posted at 10:30:10

いうまでもなく、近代国家は音楽と共にある。ナショナリズムは音楽で具現化される。だから音楽ほど政治的なものはない。POPでは、その政治性そのものを弄ぶのが音楽だ。しかしそれが音楽自体だとはとても思えない。この到来するかのごとく外部の音楽を認識できないところから、近代は迷走した。
posted at 10:42:18

音楽自体の論的不可能性という大命題は、近代論の山場だと思ってるんだけど、それへの攝津君の反証試論は、対談たりえてるのにね。@LitoSnowfield
posted at 20:18:43

音楽自体の論的不可能性こそ近代だという大命題。たとえば坂本龍一ですら音楽の政治論に陥る。その反動でジョビンはリラックスだといってボサノバやったりする。そういう支離滅裂性も実は論的不可能性の実践だったりする。@LitoSnowfield
posted at 20:19:09

作曲家が他の楽器の演奏者の気持ちは想像してみるしかないのと同じように、音楽というのは、傍目からは理解しがたい。やってみるまでわからない。演奏者もやってみるまでわからないほど。だから音楽は論じても無意味になってしまう。と、午前の音楽自体の論的不可能性の話。
posted at 19:50:47