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震災後の柄谷行人と対自然

2012.03.28

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3.11直後、池田信夫がハイデガーのテクネーを引き合いに出して、柄谷行人の脱原発を猛烈に批判したのはネット界では有名。それで両者の言説比較を試みている。

柄谷行人は、震災前に「世界史の構造」で、脱文学的になっていた。それは、生産関係(対自然=資源の所有関係)ではなく、交換関係(人対人の資本論的関係)で、マルクス主義を批判するという大著。

柄谷は震災後に「哲学の起源」という新たな連載をスタートさせて、「世界史の構造」に不十分だった対自然関係への探求を開始したのだが、それを先取りした単行本「震災後に読む世界史の構造」を出版。それを読み進めながら、イケノブの柄谷批判という誤読が、なぜ可能なのかをツイートしています。

以下、ツイッターより。

ノマドになれないストレス。柄谷行人もイケノブも交換=経済の原点はノマド(遊動性)と一致するほど本源的?(^-^)/ヒルズ族よりノマド族(若者、地方へ)  :日本経済新聞 http://t.co/9tyXD5XL
posted at 14:49:02

帰ってきて仮眠してしまって起きたら頭がフリーズしてるのだが、漱石のテスト対策した複数の学校の生徒さんたち、みんなほぼ満点とれていて、いままでビリッケツだった子が学年トップになったり、すごいことになっていた。しかし、今日の考える命題はノマド論だった(^-^)/
posted at 05:00:29

(再掲)柄谷行人は生産(対自然)に対する交換(対人)の本源にイオニアや遊動性を、イケノブはハイエクの部族社会に公平性の遺伝子をみて、結局同じノマド論になっているようにしか見えない。 http://t.co/ZtL8Aof9
posted at 05:00:46

ここから、考えていたのだった。イケノブは遺伝子にそなわる公平性でハイエクの部族社会を捉えるが、柄谷はイオニアで相似的な遊動性(つまりノマド)を捉える。そのイオニアとは擬人法の問題だ。
posted at 05:02:51

何の話かというと、原発を脱という柄谷を、ハイデガーのテクネーを引き合いに出して真っ向から批判したイケノブだが、なぜそのような言説上の対立(誤読)が起こるのか、震災後の日本の論点はいかに可能になってるのかを見極めるという話だ。例えば両氏は遊動性への着目でシンクロしていた。
posted at 05:24:28

あらゆる近代論は西欧中世からの差異のみで、ある本源的な命題を隠蔽してしまう。つまり近代がそれを隠蔽するのだが、そのため山本義隆は近代科学史をギリシャ以前の隠蔽と捉え、イケノブはハイエクで人類史的遺伝子に言及する。(続く)
posted at 05:30:05

一方柄谷は、震災以前、生産(対自然)ではなく交換(人から人へのマルクス的命がけの飛躍)で世界史の構造を捉えていたが、震災後の世界史の構造で、人対自然という二元論に立ち返り、ギリシャ以降の哲学が、イオニアの擬人法批判を隠蔽したと言及している。 http://t.co/IDn8Gx2c
posted at 05:32:21

イケノブにとっては公平性は遺伝子の突然変異の問題。柄谷にとってデモクラシー(多数者支配)ではない自由は、イソノミア(イオニアのノマド的無支配)の自然哲学。ギリシャ以降、このイオニアの哲学(擬人法=共同体を批判し遊動的=自由ゆえに平等)が隠蔽され、デモクラシーが出現したという。
posted at 06:00:27

近代という近眼状態からは、デモクラシー(多数者支配)を自由と倒錯してしまうが、柄谷によるとイオニアの自然哲学(擬人法批判)から見ると、多数者支配としてのデモクラシーは共同体的で、自由はノマド的移動(イソノミア)にしかない。近代ではアメリカ植民のタウンに垣間見られただけという。
posted at 06:28:28

したがって重要なのは擬人法批判としてのイオニアの自然哲学ということになるわけだが、これが震災後の柄谷の世界史の構造の修正だ。生産に対する交換は人から人へのマルクス的命がけの飛躍だが、それでは却って対自然や擬人法批判を隠蔽して、共同体をデモクラシーとして復活させてしまうのだろう。
posted at 06:32:09

もちろん日本に論点などない。言論界というのも議論があるわけでなく、誤読の応酬、まさに言論ノマド状態。互いに俺は他人のことはしらない、と論じてる。ところが受験生は、こういう問題もあるああいう問題もあると言及してるだけじゃ合格しない。ある意味、子供たちは非常に理不尽な目にあっている。
posted at 07:34:45

つまり日本にあるのはハロルド・ブルームの誤読の不安だけ。たしかに日本の近代は西欧にはない近視眼的な近代で、いかにも論点があるように錯覚するのだが、大人たちは責任放棄して勝手なことほざいている。可哀想なのは受験生の子供たち、論点を明確化して論じ切らないと慶應なんか入れない。笑
posted at 07:37:59

スピノザはもし三角形が神を考えたら神は三角形の形をしてると揶揄した→私が神を考えたら、うさちゃんの形してそう(^-^)/
posted at 07:50:33