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神は神と言わないというスピノザ(^-^)/

2012.04.02

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2012年03月29日(木)

國分功一郎の博士論文『スピノザの方法』おもろい。スピノザという異端によって可能だった哲学の近代性を「反省」するとスピノザの「幾何学的方法(定理)」に至るという、三角形の形してない神様の話。デリディアンの著者が東大でも哲学科でないのが楽しいhttp://t.co/QQOOTyQj
posted at 23:52:53

國分は1974年生まれ、私より10も若い。つまり東某と同世代。東の郵便論的という東大哲学科の博士論文にあった混乱が、どうもないようだ。東の混乱はただ目立ちたがりのファルスに陥ったが、國分には哲学を感じるなー(^-^)/
posted at 23:57:47


2012年03月30日(金)

國分スピノザ論の序文。近代を論じるならこういう気概が必要。スピノザならそのきっかけになるが、音楽の、ましてや啓蒙的伝統には、近代論の契機はない。それは三角形の神でじつはアニミズムですらない。伝統は実は擬人法でアニミズムではない。 http://t.co/HJBseer1
posted at 04:29:08


2012年04月01日(日)

國分『スピノザの方法』をじっくり堪能しはじめてるが、超人は超人だと自己証明しないという命題、あるいは知り得てる人は知り得ていることを証明する必要のないことを知っている、というデカルト的近代、つまり自己証明としての近代性への根本的反措定が見えて、やはり爽快感があるね(^-^)/
posted at 20:02:37

勿論、國分のスピノザ論に「超人」という言葉が出てくるわけではない。たまたまさっきTLにそういう論争を見掛けたので。知ってる超人は知ってるとは言わない(証明しない)。なぜなら証明はソフィストの無限連鎖に陥るから。にも拘らず証明しようとしたデカルトをスピノザは批判しているのだという。
posted at 20:14:54

読みはじめたばかりの國分スピノザ論を、擬人論に超訳すると、神は自分で神と言わないから神だ、という話になるようだ。デカルト的近代は、無限連鎖や神を自己証明するものと仮定した新たな擬人法という話になりかねない。別に神は死んだわけではなさそうだ笑(^-^)/
posted at 20:21:55

日本人なら2ちゃんねるでも、神というのは自分で神といわないから神だ、という感覚を共有しているのだが、西欧人は神なら神と言うに違いない、と擬人法していたりしそうだ。音楽の天才も自分で宣伝する奴は似非っぽい、というのと極めて相似。(^-^)/
posted at 20:26:30

しかし、もちろんこんな擬人論で超訳しても「分かったこと」にならないから、デカルト以降の近代の証明性は厄介なのだろう。命題と理由節で厳密にテクスト論をしようとする國分氏の叙述は緩慢だ。思わず眠くなるのだが、それでもそこで言われてることにはワクワク感がある。(^-^)/
posted at 20:33:16

スピノザの方法 國分 功一郎 http://www.amazon.co.jp/dp/4622075792/ref=cm_sw_r_tw_dp_LvoEpb1JAGD5W