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コギトを真としない幾何学と真とする幾何学

2012.04.18

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國分『スピノザの方法』(2012)167-8p読書ノート

分析と総合(幾何学的様式)

デカルトの省察=分析(非幾何学的様式)→コギト命題(スピノザは命題ではなく大前提のある三段論法というCogito ergo sum)

デカルトの諸根拠=総合(幾何学的様式)→神の3つの証明(アプリオリな神証明と2つのアポステオリな神証明)

スピノザの幾何学的様式 →コギトを真とする幾何学(Ego Sum Cotitans)

《デカルト的分析とコギトを真としない幾何学》⇔《コギトを真とするスピノザ的幾何学》

(読書メモ)國分167-8p デカルトは『省察』を分析といい、総合=幾何学的様式と区別している。このデカルト的総合(つまりデカルト的幾何学観)では、アプリオリな神の存在証明から論述する順序となるが、スピノザ的総合(幾何学観)では、神証明から論述する順序に必然性はなかった。
posted at 06:29:59

(読書メモ)國分168p 幾何学とは様式だが、デカルトとスピノザの幾何学観=総合の差異。國分によるとスピノザは、デカルト的総合はコギトを真とできなかった、と考えていたことになる。デカルト的幾何学ではコギトは論証できない。そのためにスピノザは幾何学的にコギトを真にしようとした。
posted at 06:35:34

(読書メモ)同頁。神のアプリオリな証明であるデカルトの幾何学(総合)に必然性はない。それに反論するなら、コギトを真としたスピノザ的総合を反証できなければならない。つまりスピノザはデカルトの幾何学観を不完全と捉えている。デカルトにおいてコギトが真であるのは分析においてのみだ。
posted at 06:48:15

(読書メモ)國分168p デカルト的幾何学はコギトを論証していない、というスピノザ。それは、デカルトのコギトは分析(非幾何学的)だ、という論証になっている。デカルトは総合では、体系に読者への要請を混入させ、アプリオリな神証明を論述している。スピノザは同じ様式でコギトの論証を行う。
posted at 06:53:36

(読書メモ)國分168p 幾何学的様式とは定義・公理・要請・定理等の命題で論証することを指す。したがってそれは論述の順序を意味しない。スピノザにとっては、書き換えによって異なる順序(神を真とするのではなく、コギトを真とする順序)が可能だったからだ。
posted at 07:07:01

(読書メモ)國分168p 言い換えると、なぜデカルトにとってコギトは分析的様式でしか論述されず、幾何学的様式=総合では神が真であらなければならないのか? スピノザの問題意識はおそらくその一点だった。・・・という流れになっているようだ。2ページの整理でも難儀する。
posted at 07:12:44

(読書メモ)國分168p 神を真とするデカルト的幾何学観と、デカルトの分析(非幾何学的様式)では真とされたコギトを、幾何学的様式の真とするスピノザ、という同ページまでの朝の読書終わり。それを読んで、カントは数学を総合、現代数学は分析、という点を考えると頭がクラクラする。
posted at 07:15:49

(読書メモ)國分167-8pまとめ しつこいようだが、もう一度まとめると、167-8p 《デカルト的分析とコギトを真としない幾何学》⇔《コギトを真とするスピノザ的幾何学》という感じ。やっと命題に要約された。(・_・;)

参考:

カントは数学を総合、現代数学は分析。デカルトは総合で神、分析で我。スピノザは総合でも我といった。という國分氏の論述を読んでたとこだった。https://t.co/IGx8hAsx
posted at 18:23:07

RT @schizoophrenie: 純粋理性批判 http://t.co/Dmwi54FX では数学は綜合的な判断であるとされているが、現代数学は数学を分析的な判断として規定する。数学に対するこの2つの態度は、定型発達者と発達障害の論理と一定のアナロジーをなす。

RT @schizoophrenie: 綜合的判断には経験や対象が関わっているのに対して、分析的判断は記号の工学的操作によって全てが説明される。前者が定型発達的で、後者が発達障害的。ヒルベルトをアスペ的というのはこの点において(もちろん、彼の生活史や息子のことなども考慮した上である)。