http://www.sunamajiri.com/blog/diary.cgi?no=196
からの続きのツイート集
勿論、私は哲学研究に興味があるのではなく、あくまで日本語の言説の達成度に関心があるだけ。一頃まで日本の哲学者の言説は思弁的に随意の弁証法で、論点を模索=探求するスタイルが主流だった。その点で國分氏の言説は博士論文だからか「解決しました、今から説明します」という様式で差異を感じる。
posted at 08:54:45
この差異は、もしかしたら日本のアカデミズムの中でむしろ哲学の方が、論点の混沌とした現代の欧米より、一歩先端に開けてしまってるのではないか、と思えるほどだ。
posted at 08:57:14
しかし、本当にそうなのか?という言説読みでは、國分氏の解決がテクスト内的実証であるため、読み手が弁証法で命題を補いながら読む負担がかかる。しかしそれでもなお、一頃まで何を哲学するのかを哲学=探求していた人達と比べて、ある哲学的な明証があるようで、欧米の言説より充実してるようにみえる。
posted at 09:03:16
おそらく欧米より混沌としていない哲学の明証性に行き当たっているというのは、欧米がやはり擬人法の、つまりキリスト教の文化圏であることを免れないからだと思う。もちろん日本的近代も西欧化だが、國分氏はスピノザのようにそれを相対化し、解決が見えてしまっているようだ。
posted at 09:08:06
もちろん、ここhttp://t.co/7BFrloai で読書メモした、デカルトとスピノザの対称性は、デカルトのコギトが擬人神に担保された三段論法で、スピノザはそれを前提としない主体という命題という話だ。
posted at 09:11:17
柄谷行人ですら、最新のテクストでは、擬人法の有無しか論じない。当たり前だが、言葉の問題は擬人法しか論点がない。平たく言えば、神は言葉をしゃべるか否かという点だ。しかし、國分氏はそうした弁証法をするわけではない。もちろんテクスト実証的(たぶん分析的)だからだ。
posted at 09:17:39
だから、読みやすいようで読みづらい。読者が弁証法しながら読まなければならないテクストだからだ。しかし、國分氏がいうように、テクスト内実証すると、スピノザの方法が確かに哲学的解決というのも頷ける。コギトの明証性は普通ゲーデルに至る矛盾でしかないが、スピノザにとっては解決だからだ。
posted at 09:22:50
それは「哲学的解決」といってよいかもしれない。國分氏は講演では悟りみたいなものと説明したそうだが、その「解決しました、だから説明(証明)します」という言説は、西欧の証明とは正反対の混沌とした言説にはない布石にみえてしまう。もしそうなら日本の言説は凄いことになっている。
posted at 09:26:20