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実在は可能性ではない。人文の真ということ。

2012.04.20

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國分『スピノザの方法』読書忘備録

第四章の3 171-186pの忘備録です。

(読書メモ)國分4章の3。國分氏の論は、よりテクスト内的になり、量VS実在、観念VS本質(実在)、可能的VS必然的など、デカルトの公理の用語をスピノザがどのように再公理化されたかがテクスト実証されている。なかなかスリリングで、個人的には当分楽しめるという感じ。(^-^)/
posted at 05:56:00

(続)攝津氏が「人文に真はない、つねに相対的だ」とツイートしていたが、國分的スピノザも同じ観点でデカルトを批判的に再定式化する。そこでは、順序だけが真だ。デカルトは先行するものは後続するものより優先する、と命題化しているが、その言いつけを守り、より真となる順序をスピノザは導く。
posted at 05:56:32

(続)真の順序は、デカルトの並べ替えを要請する、と國分はいう。ここでは、ホッブスがデカルトの最大の謎といった「実在性の量」の公理が真の順序に置換される。デカルトにとっては自明な「量」だが、これをスピノザは削除できない。デカルトの3つの神証明の論拠だからだ。
posted at 05:58:51

(続)次に、可能的と必然的という公理が書き換えられる。デカルトは実在を可能的=含有量と公理するが、それをスピノザは実在に対する観念に布置する。観念=実在の量=可能的は、単に実在(本質)ではない。つまり、デカルト的な明晰判明の量は実在を示さない。実在は量=可能性の問題ではない。
posted at 06:01:55

(続)國分171-186pを命題化すると、真の順序ではデカルトの量(可能的)は観念になり、実在を示さない。つまり明晰判明さが自己を示すものではない、となりそうだ。スピノザにとってはそれだけがデカルトの3つの神証明と無矛盾だった、と國分は論証している。今日はここまで。
posted at 06:08:10

(続)ところで、攝津氏のhttps://t.co/bcFYd71O を人文に真はないと要約するなら、私にはそれが無神論というより、人には真がなく(つまり人間の言動は懐疑すべきだ)、何か神的なものに真がある、ということに近似して聴こえてしまうのだが、どうなのだろう?(^-^)/
posted at 06:25:16

画像はhttp://diseaseoftheweek.wordpress.com/2010/03/10/thw-wednesday-post-10032010/
からで、他意はありません(^-^)/