信仰VS無神論という音楽論http://www.sunamajiri.com/blog/diary.cgi?no=205 をしてしまったが、スピノザとデカルト、どちらが無神論というのもあまり意味がない。マルクス的無神論や唯物というのは、文字通りにという意味だから、現代からそれを曲解すれば、それこそ魔術になる。
posted at 03:20:12
つまりデカルトが無神論なのか、スピノザが無神論なのか?という問いそのものが、マルクス的唯物論にこそ反する命題に見える。最近の言葉ではテクスト論的ではない。だいたい先述したように、無神論という字義通りがあるわけではない。
posted at 03:23:42
何度も断っておくが、無神論とか唯物論というのはテクスト論と同義のはずだ。書かれたものがすべて=唯物論、実在するテクストに後になって何か神格化を付け加える読み方(解釈)が、無神論に反する何かというだけで、原理的に考えても無神論それ自体が存在するとは誰も書いていないし書けないはずだ。
posted at 03:28:46
その点で、哲学者は宗教者と差異があるというだけだ。哲学者はマルクスでなくても、テクストに忠実な唯物論者であるだけだ。恣意的解釈ができないから、それはテクストというだけだ。文学研究では聖典性(キャノン)という。そうしたテクスト性がないテクストは単にテクストではない。
posted at 03:33:05
もっと言えば、テクストとは破綻がないということだ。矛盾があればテクストとして成立しないからだ。破綻は存在できない。だから哲学者を唯物論か否かという命題自体がナンセンスだ。言い換えると、テクストの無破綻性を、恣意的に神格化するなど解釈するというのは、単に権力でしかない。
posted at 03:41:30
たとえば、日本的近代は唐突にテクスト(西欧のテクスト性)を恣意的に解釈する主体になってしまった(権力を創造しようとしたのだから当然だ)。そのため諸々の反転が起こり、唯物論もそれ自体で存在するように見えただけだ。しかしそれは恣意的解釈に原因があるだけで、テクストに起源はない。
posted at 03:44:04
そうなんです。たとえば無神論と和訳語にした途端、問題がスケールダウンする。だから本論の蚊帳の外にいつもなってしまう。たぶん近代以前もそれがありつづけたはず。要は辺境だったんです。@aoinatsunosora 御意。「くつがえせなさ」の桁がぜんぜん違いますね。
posted at 03:51:49
さて、國分氏のテクスト論は、スピノザがデカルトのテクストの破綻性をどう修復して、より無破綻なテクストを作ったか、という実証研究です。つまり破綻がないテクストです。
posted at 03:59:36
超訳すると、無限は比較ではないのに、デカルトは「より大きなもの」と規定したために、無限も有限も外部の第三者によって存在させられていると証明してしまった。つまりデカルトにとってその外部がコギトなわけですが、スピノザはこのアナロジーの破綻を修復してコギトを書き直しエチカに至る・・・。
posted at 04:07:29
無限の外部者というデカルトの命題を修復しようとするスピノザ。極限的な話で、140字で超訳を試みようとすると、これは無理ではないかと疲れてしまう(^-^)/
posted at 04:21:19
無限をより大きなもの(アナロジーを証明)とすると、無限の外部者(他者原因)を想定してしまう。それがコギト・エルゴ・スムとすると、それは無限ではない、というスピノザの証明。
posted at 04:23:22
いま宗教者デカルトVS哲学者スピノザみたいな対立項になっているんですが、たぶん哲学者なら丸呑みにするんだろうなーやはり(^-^)/@aoinatsunosora 私はあの「絶対矛盾的自己同一」は、くつがえせぬ世界をひとまず丸呑みしなければならぬ、という決意表明だと読んでいます。
posted at 04:30:12
無限は有限のアナロジー(対比)であり、無限は有限のように存在させられ得る(デカルトの神精錬)。つまり無限の外部者がコギトエルゴスムだから無限は存在させられる、というデカルト的証明を、スピノザはそれは無限が予めないという思い込みであり、思惟(コギト)ではない、と証明しているようだ。
posted at 04:36:38
無限に外部者があるというのは、無限という語義と矛盾する。だから無限という語義はある、と捉えるのが、コギト(真の思惟)であり、スム(存在)は、コギトエルゴスム(偽の思惟)を原因としない。コギトエルゴスムは命題ではなく三段論法(小前提)だ、そんな話にまとめていいのかな?(・_・;)
posted at 04:42:13
うーむ、デカルトは丸呑みしようとしてるんでしょうね。スピノザはぜんぶ吐いてしまう(汚い表現になってきたっw)のかな?(^-^)/ @aoinatsunosora ところでスピノザよりデカルトの方が丸呑みできてますよね。
posted at 04:44:52
なんというかユダヤ教的というか、デカルトとは違うね。相容れない気がする。スピノザはユダヤ教からも破門されたそうですが、真のラビかも(・_・;)@aoinatsunosora スピノザはそういう意味で、ぜんぜんデカルトを継いでいません。笑
posted at 04:48:38
ラビさんって文字通りと語義通りを永遠比較するからなー。無限という語義を思惟するわけね。
posted at 04:50:40
もっぱら、ラビさんたちにとっては、文字通りと語義通りの差異の永遠性が無限だったりしそうだからなー。たしかにそれは無限な気がする。
posted at 04:53:37
無限というと、神というより、個人的にはリーマン予想(無限な素数)の話しにみえてしかたがない。リーマン予想は整数論的には素数頻度の話(最近では原子核運動の頻度との偶然の一致の話)だが、無限の話に思えるなー。
posted at 05:02:54