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無限ではない無限を表象するデカルトの自我

2012.04.28

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無限ではない無限を表象するデカルトの自我

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http://www.sunamajiri.com/blog/diary.cgi?no=208
続く・・・

RT @femmelets: スピノザの『エティカ』の神は超越神・人格神・創造神ではありません。パスカルのようなカトリック信者にとっては、既にデカルトの『省察』の神が「哲学者の神」として否定されるべきものでした。デカルトやスピノザが彼らなりに敬虔だったとしても宗教家には関係ないのです。
posted at 13:13:

無限は観念としては信じれても、例えば無限小はゼロより大きいか?という命題が起こるのでしょう。無限を信仰に飛躍させても意味がないのと同様に、無神論を実体化させることはできない、なぜなら無限=観念が存在するからだ、という強い意味に思えました。幾何学なのかと。@femmelets
posted at 13:26:29

現代からみれば当然素朴な数学として、なぜその数学的観念=無限という語義で、倫理や神学まで演繹する余地があるのか、ということに興味が湧くだけですね。彼らのテクストを帰納(神という特殊な語義から一般を導出する)と見なすのは、くだらなそうです。@femmelets
posted at 13:38:53

そうです、だから質問したのです。上野さんがキリスト者でスピノザを無神論者としたいのか、あるいは逆にご自分が無神論者でスピノザを無神論者と意味付けているのか? 後者でしょうね。(^-^)/ RT @femmelets 上野修さんのスピノザ論の題名が『無神論者は~』というものです。
posted at 13:44:08

RT @femmelets: 上野さん自身のことは分かりませんが、今度調べてみます。
posted at 13:55:10

RT @femmelets: 現代人からみれば無限を宗教的に捉えることそのものが意味不明でしょうね。ただ、17世紀でも経験論者は有限主義的だったと思います。合理論では無限を認識可能だと考えられたということでしょう。
posted at 13:55:19

そうです。スピノザの無限証明では無神論も信仰も無意味です。しかし現代数学は総合ではなく分析的になり有限的なのでしょう。なぜなのかが面白いのかと。@femmelets 現代人からみれば無限を宗教的に捉えることそのものが意味不明でしょうね。ただ、17世紀でも経験論者は有限主義的だった
posted at 13:58:22

RT @femmelets: 無限の問題は20世紀以降も解決していないようです。ウィトゲンシュタインは数学的に「厳格な有限主義」だったそうですが、数学者達は全員そのウィトゲンシュタインに反対したそうです。いずれが正しいのか分かりません。
posted at 13:58:30

そういう点からの(スピノザへの)関心しか起こらないと思います。敬虔云々は演繹です。@femmelets 無限の問題は20世紀以降も解決していないようです。ウィトゲンシュタインは数学的に「厳格な有限主義」だったそうですが、数学者達は全員そのウィトゲンシュタインに反対したそうです。
posted at 14:00:29

RT @femmelets: 綜合(総合)ではなく分析的というのはよく分かりませんが。数学の判断はカントの主張とは異なり分析判断だというのがラッセルの意見でしたが、それが現在でも維持されているかどうかは私は知りません。
posted at 14:13:17

ゲーデルで振り出しに戻されそうですね。(^-^)/ @femmelets 綜合(総合)ではなく分析的というのはよく分かりませんが。数学の判断はカントの主張とは異なり分析判断だというのがラッセルの意見でしたが、それが現在でも維持されているかどうか
posted at 14:14:36

ですね。にも関わらず、素数の無限性がリーマン予想として可能だったりする。そのあたりが(わからないけど)面白そう。@femmelets ゲーデル自身はプラトン主義的だったそうですね。そのへんはややこしいですから、よく分かりません。
posted at 14:18:23

RT @femmelets: ゲーデル自身はプラトン主義的だったそうですね。そのへんはややこしいですから、よく分かりません。
posted at 14:26:49

いやー、数学は命題の立て方だから大した問題じゃないですよ、冗談ですが笑(^-^)/ @femmelets QT: そのことについては、私はよく知りません。子供の頃から数学が苦手でしたからね。
posted at 14:29:42

読解塾比較的暇なので、國分スピノザの方法の(自分用)読書メモでもして、時間を潰すか(^-^)/
posted at 16:35:07

(読書)國分5章4 ア・プリオリな証明。神という語義に存在が含まれるかという命題の証明。スピノザはこのデカルトの証明に同意するが、しかしデカルトがこの証明を中心に据えなかったのには、根本的な不満があると國分。
posted at 16:40:06

(読書)証明というのはむしろ語義定義に近い。無限vs神の差異で捉えるのが現代の我々だ。つまりそのように、神を無限から、無限から神を相対化させる読みからは、スピノザによる証明は、神を無限と同定するようなものに見える。しかし、デカルトはそうではない。神が必ずしも無限に含まれない。
posted at 16:56:18

(読書)國分~233p ア・プリオリな証明は、神という語彙に真理という語義が「含まれるか」という証明だが、デカルトは「神がある」と最初に言うと証明ではなく詭弁になるから、(懐疑論者を)説得するために、無限ではない無限を証明してしまう。この幾何学的体系の不徹底にスピノザは不満がある
posted at 16:57:05

(読書)國分233p スピノザが証明の前提となるデカルトの公理から削除したのは「神の本性の広大さが、神存在の原因だ」という一文。つまり人より大きな神というデカルトのアナロジー(このアナロジーを可能にするために、デカルトは表象論を構築する)。
posted at 18:04:56

(読書)スピノザが削除したデカルトの一文「神の本性の広大さが、神存在の原因だ」。デカルトはアルノーから「神は三角形と同じに、〈誰が存在させたか〉と起生原因を問えないから神なのではないか」と反論されている。そこで思わずデカルトはスピノザが後に使う「自己原因」とポロッといってしまう。
posted at 18:06:13

それにしても、表象(心に浮かんだり、絵に描いたりするすること)に比べて、表象論(心像を自我と同定しようと論じること)は、一言キモイ。以前、近代は音楽論の不可能性(音楽が何であるかは古代数学の命題だ)と言ったが、その代わり表象論者が自我という。なんかオタッキーでキモイ(^-^)/
posted at 18:17:29

デカルトの言い訳、オタクとか東何某とかロリコンとかの言い訳と重なって、キモくて正視できないほどかも。こいつらのいう自我にだけはなりたくない、と虫唾が走ってしまう。完全拒否反応(><) http://t.co/aUPfZsei
posted at 18:33:36

「無限を有限に結びつける偉大なるζ(ゼータ)は、虚数i と円周率πによってできている。幻想と思われた無限大∞は、目に見えない虚数i と永遠なる超越数πによって我々の目の前に現れてくるのです」「感動する数学」有限の先にはない無限 http://t.co/zL2aeWRv
posted at 23:21:37

■写真は、無限な素数の並び間隔を表す数式が、偶然、原子核運動の不規則性を表す方程式と一致してしまった、という図解。
http://www.scientifictopcs.pureheart-counseling.com/new-interpretation-of-physics/prime-numbers