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無神論は真に可能なのか?

2012.05.02

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無神論(全てを含まないこと)という随意は可能か?

2012年04月29日(日)

RT @femmelets あなたの意見が分かりません。「数学や無限や神」などと等置できるのでしょうか。「表象する自己」との関係をそれほど簡単にいえるのでしょうか。私にいえるのは、17世紀の哲学が神を無限者として、自己(私)を有限者として捉えたということだけです。

2012年05月01日(火)

土日は授業の合間なので十分に汲み尽くせないことがあるのですが、ご指摘の点は同意です。勿論、17世紀の無限=神と、現代数学の無限は同定できない(差異がある)。どうもTL上、直前の読書ノートへの反論と、寝ぼけた車内で誤解したようなレスをしたみたいです(^-^)/@femmelets
posted at 23:09:32

國分テクストの読みが土日から中断してますが、私は何も17世紀の無限=神を、現代の複素数の無限性に同定したかたったわけではなく、逆説的に言えば、たしかに17世紀のテクストには「無神論は実在していなかった」という、確認をしただけでしょう。@femmelets
posted at 23:20:45

私も宗教を前提に17世紀テクストの問題を読んでいるつもりはないですが、逆になぜその後無神論が可能になったのか、という興味は否定できない。哲学的に神という語義は「全てを含む」程度でしょう。その語義を前提としない無神論的テクストが本当に可能なのかと考えるわけです @femmelets
posted at 23:30:57

RT @femmelets: 17世紀の主要な哲学者のテキストには無神論は存在しないでしょうが、同時代のリベルタンにおいては存在していたでしょう。
posted at 23:31:47

つまり歴史的にはそうなんでしょう。しかし今日があります。なぜ「全てを含む」という語義に過ぎないものを、皆無化できたんでしょうか? @femmelets 7世紀の主要な哲学者のテキストには無神論は存在しないでしょうが、同時代のリベルタンにおいては存在していたでしょう。
posted at 23:33:38

そこで國分氏の論を読んでいるわけです。私ではなく、國分氏がデカルト=表象論と明示した訳ですが、その延長で、「全てを含む」という数学的な語義が、何らかな歪み被っただけではないのかと仮説を立てて、読まざるを得なくなっているのです。つまり無神論は可能なのかと。@femmelets
posted at 23:41:54

おそらく、デカルトは、「全てを含む」が存在するというのは、詭弁になるから懐疑論者を説得するために、アナロジーで「広大な存在ならある」とするわけですが、それは単なる便法にみえるのです。つまり懐疑論は可能なのかと、思えてしまっているのです。@femmelets
posted at 23:46:42

同時に17世紀と現代のタイムラグがある。その間に超越論的転回もあった。しかし現代数学では単に無限は有限の先ではない、というだけです。この名付ければ無限の転回から捉えると、すべての懐疑は実は懐疑ではないのではないか、そんな危険な仮説から読んでいます(笑) @femmelets
posted at 23:50:21

もちろん、この國分氏を哲学の解決として読む読み方は、危険、つまり哲学的主体、あるいは私性や、懐疑する私の、全面否定なので、大変危険な匂いがするのですが、しかし対立項として立てるのには、面白い気がしています。まあ個人的にはそれだけなんですが・・・ @femmelets
posted at 23:57:52


2012年05月02日(水)

というのは、この懐疑主体の素朴な否定は、17世紀の無神論者のリベルタンでもそうですが、性の主体性の問題になってしまう。単純に、性が繁殖だけのためで、主体の快楽のためではない、という論点に帰着しそうです。懐疑の解決はしかし、そういう二分法の解決なのでしょう。@femmelets
posted at 00:04:40

こうした懐疑・無限・性という問題を、何らかな形で隠蔽してしまうのが、その後の転回的な言説なのかしら?と素朴な疑問が浮かんでくるほどなのです。いかがでしょうか?(^-^)/ @femmelets
posted at 00:06:15

よくわからないのだが、デカルトとカントをマルクス的史観でくらべると、主体が何かを隠蔽するものとして立ち現れると感じる。史観はしたがって、もう一度転回されなければならないのだろう。つまりマルクスよりカント、カントより柄谷的哲学の起源へ。もちろん哲学とは宗教的懐疑なのだろう。
posted at 00:15:55

RT @femmelets いろいろな問題をそれはそれとして考察しなければなりません。懐疑は懐疑であり、性は性であるというしかないでしょう。
posted at 00:15:55

懐疑というのは「含む」ことへの対立項なので、たぶんそれが「無神論」なるものを存在させた原因であるだけだ、という感じなのですかね? @femmelets いろいろな問題をそれはそれとして考察しなければなりません。懐疑は懐疑であり、性は性であるというしかないでしょう。
posted at 00:17:25

ちょっと生理作業をすべく、ツイッターを離脱するよー(^.^)/~~~
posted at 00:18:51

全てを含むべく生理作業離脱するのだが、あっち方面を特に含むことを黙示しませんので、念のため。でも確かに主体性って快楽は誰のものか?という命題に行き着く気がしてきた。でも全てを含むとミイラになっちゃいそう(^-^)/
posted at 00:30:36

だんだん昇華してきた。パワーアップ(^-^)/
posted at 00:37:00

生理作業終わり。食事だったのだがww 昇華はこれから?(^-^)/
posted at 01:46:54

コレにアレは含まれない。この事柄の弁別が、たとえば科学的史観とか唯物的史観で、そうしなければ主体性が奪われるわけなのだが、主体的になろうとすればするほど、有限と弁別された、あるいは有限の先ではない、対立項としての「無限」が単に出現してしまう。困ったものだ。
posted at 01:55:18

この「無限」なるもの、つまり対立項を伏せてしまうと、弁別されたもの、あるいは弁別する主体が、分からなくなってしまう。主体のいわば非科学化みたいなことになる。つまり却って宗教的みたいになる。単に対立項を弁別できなかったために。
posted at 01:55:30

RT @nonomurax: 転移を証明することは難しい。
posted at 01:56:24

確かに(日本のような)宗教的サンクチュアリでは、弁別(コレにアレは含まれない)だけが科学的に見えるのだが(実際、学習やテストもそうやる)、じつはそれが一番宗教的に見えてしまう。有限だけでは対立項が単に弁別されてないから。そんな思考に陥りそう。困ったものだ。
posted at 01:59:00

この宗教と無神論とか、無限と有限の妙な戦争状態こそ、徹底した弁別の方法が必要に見える。スピノザの方法でも何でもいいが、真の弁別、あるいは懐疑を真にすること。無神論は単にあったわけではないだろう。それは多分、テクスト内的=唯物史観的にも存在しない気がする。
posted at 02:03:53

というより、國分氏が論証するように、スピノザの方法は、単に主体性を、偽の懐疑や、偽の弁別や、偽の科学から、奪い返すことのようにしか見えない。なぜそれを懐疑でないとか、弁別でないとか、科学でないとか、主体でないと、言い切れるのか、そこが私には分からん。(^-^)/
posted at 02:05:37

例えば國分氏のスピノザの方法を私の主体性で敷衍すると、それは弁別されてなくて非科学的で、テクスト内的でなく唯物的でないという批判に晒されかねない。しかし、國分氏のテクスト自体は、「全てを含む」を真に弁別して、偽の懐疑を解決してるに過ぎない。
posted at 02:10:11

そう考えると、そこ(17世紀的なスピノザの問題意識)に、含まれない問題があるのか、と考えざるを得ない。性の問題が性の問題だけで、数学の問題が数学の問題だけで、と弁別するのは、たぶん転回としても偽に感じられてしまう。たぶん、批判をすると、真は可能なのか、という批判になるのだと思う。
posted at 02:13:20

科学=含まないこと、というのはそれだけで可能なのではない。だいたいテクスト論や唯物論というのは、それこそスピノザの写本の例ではないが、テクストの丸写しのことではない。テクスト性とはそういう問題ではない。
posted at 02:17:11

テクスト性は寧ろ全てを含むことだww 写本の例ではないが、それこそスピノザが転移してきたような感じだ。そういうのをテクスト性という。https://t.co/UeXJJnbj 転移はしたがって証明されうるものであるはずだ。フロイトまで乗り移ってきそうだ。ww
posted at 02:22:47

主体性とか労働とか、そういう問題が単にそれだけであるという弁別の仕方は、おそらく真の懐疑ではない、という気がしながら、スピノザの方法を読まざるをえない。そんな感じに位置づけて良いのだろう。(^-^)/
posted at 02:28:26

ちなみに私は宗教者ではないですし、インテリジェンスデザイン(アメリカの進化論否定科学)、とか眉唾どころではありません(^-^)/

それにしてもこの唯物とか科学の問題は、現代文で、神なんて対立項いらないですよ、対立項なんかで読まなくても読めるはずだ・・・・ところで、文中の「神」とか「人間」ってどういう意味ですか?と質問に来る受験生と、同じ知的レベルに見えてしまうのは私だけなのだろうか?
posted at 03:20:29

国語で、命題をテストできるというのは恐らく日本独特だ。文脈を読んでいて、コレはアレでなく、アレはコレに含まれない・・・、あれ?結局アレは何だっけ?となる様な読み方や、それゆえ書き方は日本語にしか存在しないといっても過言ではない。だから命題を客観テストするのが国語になってしまった。
posted at 03:24:24

これは従って、近代日本人の知性というか、独特なものなのだ。つまり無神論であること、科学的であること。全てに含めないこと。対立項を無視すること。そのために命題が不明になり、それを国語のテストで問えること。そういう国語があるのは、日本とそのコロニアル文化圏?だけだろう。
posted at 03:24:58

そうですね、東アジアの共産主義みたいになる人は単に頭が固いが、逆にそうならない人は、欧米のような囚われがなく突き抜ける。野うさぎの走りのように跳躍していきますね(^-^)/@aoinatsunosora けっこう日本が突き抜けるのは、そのことばによるしかないのではと考えています。
posted at 03:31:52

日本語は便利なんだよー。「対立項」なんて便利な読解用語なんてものは西欧語にはない。AとBのdichotomy(二分法)としか表現できない。神を対立項なんて言える言語は、現代日本語ぐらいかもしれない(^-^)/
posted at 03:44:36


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