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スピノザの宇宙の言論的転回

2012.05.11

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2012年05月08日(火)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120508

変な思弁を書き留める夢をみた、曰く「神は語義だから非超越者にならず単に存在する。宇宙も語義としてなら有限にならない。 神を存在という語義以外とすれば却ってそれは存在できない。神=語義が存在できる。この言明だげが固有な発言者=人に属さない。この言明だげが人を超越者にさせない。 」
posted at 21:13:46

夢の中の思弁の続き「神という語彙を抑制すると超越者が生まれるか、その語彙が言及されずとも神という語義があることになるかのいずれかだ。神という語彙も単に存在する。」どうも十七世紀という近代の根本問題に思いを馳せすぎると、やはり言語論的転回で神という語彙が再出現してしまうらしい。
posted at 21:21:23

RT @femmelets: 多分大本さんがお書きのことはそれほど意味不明にならないと思いましたが。近代人が神の観念を厄介払いしても、神の代わりに他の何かを信じないなら、その人の生活は成り立たないんじゃないでしょうかね。全く何も信じないというのは事実上不可能だと思いますよ。恐らくは。
posted at 21:36:37


2012年05月09日(水)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120509

國分第二部は先日堪能しすぎた。その総括の通り、デカルトのいう観念が、既存の神の表象のことだとスピノザによって転回された。実在としての神(の妄想)に匹敵することなく、語彙としての神の存在を証明すること。まさに表象論的転回だ。 http://t.co/bDqGOBSk
posted at 03:20:03

17世紀という近代の根本問題を勉強していると、夢までみてしまう。https://t.co/q0r4umEM まるでスピノザがデカルトの精神分析者や、ソシュールに見えてしまう。近代が神という語彙を不可能にし、神を実在化させる(超人化させる)問題として、再度整理されるかのようだ。
posted at 03:24:09

スピノザをソシュールに重ねる(つまり言語論的転回として見る)と、神の実在というより、神という語義の存在証明に見える。そういう話なのだが、最近はそういう夢ばかり見るようになってきてしまった。https://t.co/IhPto3sO
posted at 03:27:02

個人的には、近代の日本語への受容という一点だけが関心事だ。言い換えると、神という語義が、日本語の近代化から、どのように抜け落ちていったかに関心がある。なぜなら、スピノザが言うように神という意味は、語義としてのみ存在できるからだ。
posted at 03:40:54

その点で、スピノザが日本では全集化が失敗し、マイナーな部分的訳出として言説化されているのも興味深い。乱暴に言えばドイツ観念論のカウンターなわけだが、それが日本語化されていないとも言える。ある重大な語義を日本語化しないことで、日本語の近代化が成立している。
posted at 03:47:28

國分氏はスピノザを脱表象論とみなすことで、明確に「哲学の解決」と言明するのだが、それはまるでドイツ観念論的な日本の「哲学部」の解決に見えてしまう。彼が哲学部でないことが重要だと、私はこの本を読み始めた時に言ったのだが、それが実感となってきている。
posted at 03:51:10

日本語の近代化とは、先日ムハメット氏https://t.co/i5VmpyjQ が言うように、西欧の漢字化であるわけだが、それは西欧の神を表象化した反面、じつはスピノザが証明するような神という意味の存在を、漢字化=存在化できない、ことのように思えた。
posted at 04:00:35

https://t.co/FeNG1WCG デカルトが存在証明した神は実在の神(既存の表象化した神)だが、スピノザは神という語義が存在できるかを証明する。しかしそれが日本語化されていない。
posted at 04:04:07

日本でスピノザ全集は一度2巻まで出されたが、ドイツ語からの間接訳と、畠中氏に指摘されて中断したのだという。https://t.co/39cHlsHI
posted at 04:06:52

畠中訳を踏襲する國分氏だが、一点だけ畠中訳の重大な誤訳を指摘するのも、スピノザの観念が、デカルトとは異なり、実在(の神)を指示していないのに、実在の表象(再現)であるかのように誤解させる箇所だけだ。http://t.co/bKtLHwPW
posted at 04:11:55

RT @femmelets: そのカントにいいたいことは、神や宗教といった捏造物を信じるのを即刻やめるべきであるだけではなく、くだらない道徳を信じるのも今すぐ直ちにやめたほうがいいということだ。神は理論的に認識できない理念だとかいっても、道徳的、実践的に神が復活するなら全く無意味である。
posted at 10:48:17

素晴らしい(^-^)/@femmelets まさに、道徳的、実践的にこそ、神を否定すべきなのだ。デカルト、スピノザ、カントなどよりも、17世紀のリベルタンの思想と実践のほうが、遥かに優れているし有意義である。哲学者連中は、不敬虔な民衆のことを悪く言い過ぎるというのが、通例である。
posted at 10:49:00

RT @femmelets: ベルクソンよりもアランが好ましいし、アランよりもヴァレリーが好ましい。カミュよりもサルトルのほうが好ましいし、メルロ=ポンティはもっと好ましい。フーコー、ドゥルーズ、デリダを読むことに意味があるとは思わない。マルクス、ニーチェ、フロイトは粗雑で不確実である。
posted at 10:49:18

ところで、このメルロ=ポンティの素晴らしさというのが、私は知らないので分からない。教えて(^-^)/ @femmelets ~メルロ=ポンティはもっと好ましい。フーコー、ドゥルーズ、デリダを読むことに意味があるとは思わない。マルクス、ニーチェ、フロイトは粗雑で不確実である
posted at 10:50:30

RT @femmelets: @sunamajiri 心身の両義化といえるのかどうかちょっと分かりませんが、メルロ=ポンティには彼なりの心身問題についての考え方があり、『心身の合一』という題名だったか、本になっているはずです。議論の細部は忘れましたが、確かにデカルト的二元論では全くありませんでした。
posted at 13:52:52

知覚される身体は、対象を持たない言語と同じように、主客両義的という話なのかなと、なぜか勝手に思い込んでいたのですが、ちゃんと読まないとだめですね(・_・;)@femmelets 確かにデカルト的二元論では全くありませんでした。
posted at 14:05:43

RT @femmelets: @sunamajiri メルロ=ポンティにとって身体は、精神か物体かというデカルト主義的二元論で割り切れるようなものではなく、《生きた肉体》であり、最終的に『見えるものと見えないもの』で《肉》と規定されます。《自分に触れる身体が同時に触れられる身体でもある》交差配列(キアスム)。
posted at 14:16:33

現代思想は性感論みたいに聴こえることがよくあるんですが、このあたり非常に晦渋な雰囲気があります、和訳を読んで理解できるかなー(・_・;) @femmelets ~《肉》と規定されます。《自分に触れる身体が同時に触れられる身体でもある》交差配列(キアスム)。
posted at 14:21:24

ちなみに精神科に入院してしまう哲学者が、ポンティ論をやっていて、たしか俗っぽくいうと、性感の話から気が触れちゃう、という印象があるので、怖いので近づかないようにしていたんです。彼の論文がどっかにあるんですが、途中から読めなくなる(・_・;) @femmelets
posted at 14:24:05

思わず性感論的転回とか言いそうになってるんですが、私に理解できるか自信ないです。WIKIをちょっと確認したのですが、「既に言葉と対象を一致させた次元から始めるのではなく、そもそもの言葉の生成からの考察がある。」が気になりました。(・_・;) @femmelets
posted at 14:29:50

しかし、ハイデガー→メルロ=ポンティーが、思想的に前景化してくるようですね。存在の肯定がどれほど困難かという否定的な意識はたぶん思想たりえないのでしょう。ちょっと勉強の(研究ではないです)射程にいれないとならなさそうですね。(・_・;)@femmelets
posted at 14:34:32

ほんとはクリプキをもう一度読んで、ウィットゲンシュタインをもう一度読んで、ゲーデルの数式が理解できない辺りを慰めようとおもっていたのですが、そんな《作られたパラドックス》に囚らわれるより、実存か現存在か身体をもっと肯定してあげないと、殺されるだけなんだわきっと(・_・;)
posted at 14:37:58


2012年05月10日(木)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120510

RT @femmelets: @sunamajiri 私はハイデガーの哲学思想についてはそれほど詳しくありませんが。ただ、彼は、著作よりも講義のほうが遥かに分かりやすいというタイプの思想家の一人です。そういう人々は結構います。例えば、『カントと形而上学の問題』を読むより、同じテーマの講義のほうが読み易いです。
posted at 04:46:05

RT @femmelets: @sunamajiri 触わる、触れる、触覚というところから考察する人々は、メロ=ポンティ以外、余りいないように思います。触覚が五感のうちで根源的だという発想は結構あるのですが。
posted at 04:46:08

RT @femmelets: @sunamajiri それほど難しい話ではないですよ。《自分で自分が話している声を聴く》(デリダ)、《自分の手が自分の手に触れるのを感じる》(メルロ=ポンティ)というのは、一般的にいえば、カント以来の《自己触発》という問題系に属しています。
posted at 04:46:20

RT @femmelets: @sunamajiri 流行の後には沈黙するといいますか、ジャン=リュック・ナンシー、ラクー=ラバルト以降フランス思想がどうなったのか、全く情報がありませんね。
posted at 04:46:23

私は薬物は合わないのでやらないのですが、アメリカでマリファナやらされたときに、急性中毒みたいに気を失って、数分後に意識が戻ったら、自分は喋ってないつもりなのに、自分が喋ってる声が彼方で聴こえる、という幻覚体験をして、デリダのはそれかなと思ってたんです。@femmelets 《自分で自分が話している声を聴く》(デリダ)、《自分の手が自分の手に触れるのを感じる》(メルロ=ポンティ)
posted at 05:01:11

この存在・無というのは、どうも大戦への言及性がありそうなんですよね。今度読んでみましょう(^-^)/ @aoinatsunosora 第二次世界大戦というアクションへの両者の違いがよく分かる本です。そしてそれは互いの「存在・無」への示唆に充ち満ちています。面白いですよ。
posted at 05:05:14

フランスの思想は、ナショナルランゲージの存在論みたいに見えて、彼らの言う「存在」が何を指しているのかは、あまり役に立たないようにずっと思ってたんです。国語思想の論点としては宇宙的な印象はあるんですが。何かあるのだろうか?(^-^)/ @aoinatsunosora
posted at 05:17:00

RT @Novalis_bot: 因果性の概念は、たとえば、ある種の関係の恣意的記号(超越論的記号)である。超越論的論理学。 『一般草稿』
posted at 06:00:04

RT @wit_bot: 他人の深層をもてあそぶな。
posted at 06:59:02

RT @femmelets: @sunamajiri デリダは《自分で自分の声を聴く》という伝統をカントというよりも、プラトンにまで遡って批判していたはずです。デリダの特異性は、自己触発や自己の自己への純粋な現前を徹底的に批判していることでしょう。彼以外にそういう意見を知りません。
posted at 09:10:58

RT @femmelets: @sunamajiri 恐らくそういうことではなく、超越論的な思考そのものへの批判でしょうね。それはカント以降と考えるのが普通ですが、西洋哲学は最初からそういうものだった、というのがデリダの意見です。
osted at 09:11:00

そうですね、私はデリダは結構昔英語で読んでましたので、わかります。わからないのはメルロ=ポンティのほうがすごい、という昨日の点なんです。デリダは超越論的なものを脱構築しますが、それに対してメルロ=ポンティには何があるんでしょう?知覚? @femmelets
posted at 09:13:37

『弔鐘』は批評空間で昔読みましたが手許にないです。東が『郵便論的~』で否定神学としてのハイデガーに絡めて何か言ってましたね。RT @femmelets メルロ=ポンティのほうが凄いというよりも、デリダの主張、特に中期はよく分からないところが多いということですよ。『弔鐘』とか。
posted at 18:17:45


2012年05月11日(金)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120511

ところで、國分本は、同じく博論の東の郵便論的~との対照で読みたくなったと前ツイートしたんですが、東の冒頭に、ゲーデル問題、あるいはハイデガーの否定神学に呼応して、デリダは散種・弔鐘・手紙で非形式言語化した、というのがありましたね。この点はいかがですか? @femmelets
posted at 06:29:42

最近はWIKIに存在論的郵便論的のまとめまであるのね。びっくり(・_・;) http://t.co/fExegdDE
posted at 06:36:18

デリダの中期をゲーデル問題とハイデガーの否定神学へのある種の抵抗として東が博論を書いたわけですが、WIKIでは東が依拠した柄谷行人のゲーデル理解は誤謬という指摘があったんですね。http://t.co/fExegdDE @femmelets
posted at 06:41:49

東の博論は出版当時2~3度読み返しましたが、デリダ中期の非形式性を手がかりに、ハイデガーを否定神学http://t.co/57xSlpIO と見做すんでしたっけ?そろそろ思い出せなくなっています。時間が立つのが早い。(・_・;) http://t.co/PcsDNKmq
posted at 06:47:09

ところで、日本には新書という、専門書とは別の系の教養書が充実していて、これは欧米にはない事情だと以前ツイートしたんですが(続)
posted at 06:54:41

(続)講談社新書の上野修のスピノザhttp://t.co/VYvlndQFは、NHK出版の「無神論者」は宗教を肯定できるか」http://t.co/brXT29sZというコピーライティング的に弄れたタイトルをつけたシリーズより、直球で面白いです。
posted at 06:58:52

(続)國分氏が「分かることを分かる」のを「伝えられない」という逆説を指摘する知性改善論から上野修も新書を書いていて、哲学を「どう生きるか」より前に、事物に語らせる幾何学(いわば形式化)だ、と見做しているのが、大変面白かったです。 http://t.co/O3RFRxfr
posted at 07:05:20

そして、観念と事物が、神という語彙において、存在するほど転回される?という、スピノザの逆説を探るべく國分氏にまた回帰してしまう。この逆説は東が見逃したらしいゲーデル的矛盾を、どこか解決するように見えてしまう? そんな夢を見そう。http://t.co/bDqGOBSk
posted at 07:10:38

■ツイートまとめブログ■「スピノザの宇宙の言語論的転回」http://t.co/eiHIv89H 言葉が存在する(^-^)/
posted at 07:22:07

RT @curatorshinya: 言語の違いとは、宇宙の切り取り方の違いに他ならない。私は異なる言語を通過していく中で、異なる言語の型によって切り取られた宇宙が、顕在意識として認識される以前の無意識の段階でどうなっているのかさえ、もう少しだけ正確に把握できる様になれた気がする。
posted at 07:25:03

RT @curatorshinya: 敵対概念を不可避的に生み出してしまう、ギリシアの民主主義から発達した近代国民国家から脱却できる様、知恵を絞る正念場に来ていると思う。自由意志を前提とした現行型のシステムではなく、梵我一如を前提とした新たなシステムを、アジアから、日本から構築できないだろうか?
posted at 07:31:21

RT @curatorshinya: 日本人という、想像上の存在がネーションとして固定化して行った歴史は、まだ150年ほどしかない。そうだとしたら、何故私達の中にあるエジプト人やペルシャ人の文明の歴史を感じて、それを近代によって成立した想像上の存在以上に大きなものとして大切にし、共有することができないのだろうか?
posted at 07:31:48

RT @curatorshinya: 近代から生まれたフィクションのフィクションを連続体として捉え続けることで成り立っているのが意識であり、それを可能にしているのが時間ではないか、とふと考えたら、私はデリダの差延と結局同じことを考えているのではないか、と気がついた。
posted at 07:37:15