実在性の量(デカルト)から指導の自動性へ(スピノザ→國分氏の方法)。それは可能的自由や主体性という信心を限りなく疑う素直さのことなのだが、しかし東アジアはその(哲学という問いの)外部であるらしく、とくに日本では現代文でそうした(主体性という)宿痾の読解を課せられる。しかし、分からない人に、分からせるのが教育ではない。そういうサディズムについて。
2012年06月08日(金)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120608
哲学は必然性とは何かという話しかできないのに、主体性の外の(所有できない)世界https://t.co/FyJ2DYHk は偶然だhttps://t.co/9FOXjp03 というS君の思想は、東アジアなだけに北朝鮮や中国とあまりに安易に直結して見えてしまって困っている(笑)。
posted at 06:11:25
確かにコミュニズムの外には宗教しかない。それはまるで東アジアの内部にだけ、宗教とは異質な主体性があるかのように想定するのと相似だ。しかし実際にあるのは、しみったれた現実https://t.co/vzdMWIck か、そこから出家して帰依する世界があるだけ。その方がよほど偶発的だ。
posted at 06:12:30
国語教育でも、この東アジア的な主体性との格闘しかない。そしてそれは大抵の場合、合理的に不正解なのだ。現代文から西欧を取り払えば、何一つ主体的なものは残らないからだ。なぜそれほど(合理性の)外部を希求するのか? その情熱がいまいち理解できない。個人的には主体性は嫌いだ。(^-^)/
posted at 06:25:45
RT @TAKEMITSU_bot: たしかに音楽は数理的な秩序のうえに成り立っているものでしょう。けれどもそれはヨーロッパの音楽ということであって、その規則とはべつにぼくは音のなかで生活し、太陽を見てくしゃみをし、地下鉄の振動をみんなとともに感じつつ、作曲の着想を得てきたのです。武満徹
posted at 08:33:03
RT @sasakitoshinao: 「オウム真理教の代わりになるものはいまも存在していない。魂は行き所なくいまも浮遊し続けているのでは」と。あれから17年、拠り所がさらに消滅した現在にオウムの意味をもう一度問い直す必要があるかも。/浮遊した17年間 47NEWS http://bit.ly/LgvI4j
posted at 08:39:34
RT @tokaiama: 意思によって世界が進むなら、もちろん意思によって変えられる。世界はパラレルワールドである。たくさんの意思の結果が生じ、たくさんの存在が同時進行しているとも考えられる。大量死の起きる日本も、起きないで平和な日本も、どちらも意思の結果であり真実なのだ。我々は心の望む世界に生きている
posted at 05:04:19
2012年06月09日(土)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120609
今北産業なのでこれから拝見します、トートロジー?(^-^)/ @yutakioka 「言葉の定義は人それぞれ(任意の言葉は個人がどのように解釈してもよい=言葉の意味は決定できない)?」をトゥギャりました。 http://t.co/xeemBQTM
posted at 02:24:45
https://t.co/eajY2CxB トートロジー(命題の同語反復)以外は、宿痾の現象学になる人がいるのかな?→懐疑論者?(^-^)/
posted at 02:30:01
バカ(懐疑論者)は放っておけ。神がいるかいないかではない、神を基準に物事考えなければ気違いになるぞ(神存在の証明手続きの破棄)といってるだけだ、というスピノザの方法(倫理)を読むと、そんな気分になってくる。(^-^)/
posted at 02:33:57
國分氏の方法。『知性改善論』が示唆する2つの逆説は、懐疑論者の説得の要請で生まれたデカルト的循環(コギト命題)を実在性の量の否認で再定式化した結果、名目から実在性を証明した神という証明手続き自体が解消され、知性・教育(分かること)の問題(自動性)に解決された。量から自動へ。
posted at 02:35:43
そうだろうとおもったけど、まあふくだにいわれたら同じようにやばそう(^-^)/ @yango_ritsukosk サッカーの話しですよ。
posted at 02:16:50
なんか、ある種のリアリティー(実在性の量)を感じさせちゃうらしい。いや冗談よ(^-^)/ @yango_ritsukosk なんでですかw
posted at 02:39:08
私のジョークは、アメリカンジョークより、他人に伝わりづらい、という自覚はある。(^-^)/
posted at 02:39:41
國分氏の方法。実在性の量から、指導の自動性へ。
posted at 02:41:00
一々、テクストの神と背比べhttps://t.co/8BcFnAqf する(存在証明する)懐疑論者http://bit.ly/KPjLVN たち。そういうバカに指導はいらない。分かるまで放っておけ。
posted at 02:46:18
ところで、久々にウィットゲンシュタインの論理哲学論考をひっぱりだしてきたら、悪名高いラッセルの序文をまた読んでしまった。あれは悪名高いな(・_・;)
posted at 02:50:15
まあ、存在証明の命題は、どうみてもトートロジーみたいになるわけだが、それがわからない宿痾というのが、こまったものなのだが。ラッセル先生は嫌いではない。
posted at 02:53:30
分析するから主体になるのだが、ラッセルは「主体なるものがない。というのは確かではない。点や瞬間がない、というのが確かでないのと同様である。主体なるものはあるのかもしれない。ただ、あると考える理由がないのだ」(ラッセル「命題について」より)
posted at 02:55:51
ところで、おそらく指示表出の言い換えである國分氏の指導の自動性は、分析というより存在証明するから実在性が量になる、といっているのだと思うのだが、乱暴に考えると、存在証明はもちろん分析の言い換えなのかしら? たぶんそうなのだろう。
posted at 02:59:42
男子生徒が、文中の人間とは?神とは?何か教えろ、それを分かるように教えてくれなければ、自分が国語は好きになれない。自分にはプライドがあるからだ、という時に、指導者がすべきことは、もちろん放置である。(^-^)/
posted at 03:01:52
同様に、神は何かとは問わないが、自己の主体性はあると信心するhttps://t.co/Ej4JZvEP という懐疑論者に対しても、指導者は放置すべきなのだが、しかしそこからは確かに面白い分析が成り立つ。https://t.co/WWz8AVL9
posted at 03:04:48
スピノザを、指導の自動性の方法https://t.co/iPQTiaKg にした國分功一郎氏にとって、量とは実在性の量ではなく、分からなさの量だ。分からない懐疑論者の主体などは、分かるようになる(自動化する)まで、放っておけばいい。それがスピノザの倫理、つまり指導ということだ。
posted at 03:11:04
さて、指導の自動性=存在証明の破棄を齎した、実在性からの量(表象でもある)の排除は、属性で実体を捉え直したことなのだが、その結果、決定論や必然性になった。ウィットゲンシュタインには、トートロジーを排除する事実や事態があるが、様相論(可能的自由?)が問われてるとは思えない。
posted at 03:19:20
わたしはプロパーではなく、遊んでるだけだが、このあたり、つまり様相論的自由などない、というので少し遊んでみると、楽しそうだ。(^-^)/
posted at 03:20:26
ふつう無限ループというのは懐疑論の側なのだが、決定論をどれだけ無限にできるか、というのがサディスティックで楽しいのであった。(^-^)/
posted at 03:26:04
RT @Schopen_bot: 本物の哲学者は世界そのものを見すえることから混乱にみまわれるのであるが、贋の哲学者にとっては、これにひきかえ書物や出来合いの体系から混乱が生じるのである。ショーペンハウアー
posted at 02:46:52
RT @deleuzebot: 哲学史というものが哲学における抑圧の機能をはたしているのは明らかだ。はっきり言って、あれは哲学におけるオイディプスだ。「あれこれ読んで、あれについてのこれを読まないうちから、まさかきみは自分の名において語るつもりじゃあないだろうな」というわけだ。ドゥルーズ(『記号と事件』)
RT @M_Foucault_jp: 1.プラトンからデカルトを経てフッサールに至る、根源性という方向。2.プラトンから聖アウグスティヌスを経てフロイトに至る経験的拡張の方向での連続的な歴史。このどちらの場合も、明示的にであれ、暗黙の内にであれ、主体の理論が練り上げられずに、背後に残されてしまう。-主体の解釈学- ミッシェル・フーコー
posted at 03:04:59
RT @wit_bot: 授業の間に優れた成果を、それどころか驚くべき成果をもたらす力があっても、それだけで優れた教師だとは言えない。というのも生徒たちは、直接教えてもらっている間、生来備わっている以上の能力を引き出してもらうにしても、自力でその高さまで伸びたわけではないので、ウィットゲンシュタイン
posted at 05:03:40
RT @wit_bot: 教師がその場からいなくなれば、たちまち化けの皮が剥がれてしまう。それは私のことか。私はあることを考えていたのだ。(マーラーが非公開のオーケストラ演奏にて指揮をしていた。彼が指揮している間は申し分なかったが、彼が指揮をしなくなってからは、オーケストラは沈み込んでしまった)ウィットゲンシュタイン
posted at 05:36:20
■ツイートまとめブログ■主体性の量という信心を放置するサディズム http://t.co/0LYnO69L 実在性の量から指導の自動性へ向かう必然性の外部に、主体性の量を信心してしまう人々(^-^)/
posted at 04:15:59
さてそろそろ寝なければならぬ。土日は読解塾が気が重い。前はストレス解消の読解塾だったが、主体性の量が低迷中なのかもしれない(^-^)/
posted at 04:17:04