ビビるデカルト、キョドる哲学
http://www.sunamajiri.com/blog/diary.cgi?no=232
https://www.facebook.com/kaoru.ohmoto/posts/334992346578987
フッサール省察12節までの吟味から、ますますビビっているデカルトを感じてしまう。キョドるデカルト氏。画像は彼のお墓。
2012年06月13日(水)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120613
スピノザを國分流に「実体の放棄」と捉えた上で、フッサールの省察を読み進めると結構楽しめる。フッサールはデカルトが、疑いの余地のない前提として、超越論ではなく超越的(二元論的な)我思うを置いたというのだが、スピノザが相対化したように、それは思っている我=実体という等式のことだ。
posted at 17:54:51
デカルトが我=実体と定義したことになるのは、スピノザの再定式化によれば、実在性の量を省察=分析したからに過ぎない。神を実在性の量(リアリティー)とすると、実体は神ではなく、その対立項の「思っている我」の側に布置される。しかし等号で結ぶ鋭さは得られない。
posted at 17:57:55
それに対して、フッサールは、そうした実体の等式そのもの、つまり「疑いの余地のないこと=実体」を、「思っている我」と等号で結ぶ、という関係性を保留にしようとしているのだろう。
posted at 18:00:36
捕捉すると、フッサールによれば、デカルトが「思っている我」=「疑いの余地のないこと」=「実体」としたというのは、心身二元論でいう心の実体化、霊魂のようなものに、「閉ざす」ことなのだという。この霊魂、実体=心が、超越的な主観と呼ばれる。
posted at 18:05:11
では、フッサールは、エポケー(判断停止)を、「疑いの余地のないこと=実体」と等式で結ぼうとしているのだろうか? つまりエポケー=実体なのだろうか? おそらくデカルトと同様、等式で結ばないために、分析的な省察を行なっているのだろう。
posted at 18:09:55
通常、スピノザは様態(神を実体という本性にし、我を本質を表現する様態)にしたと見做される。この捉え方は、エポケー=実体ならぬ、エポケーで実体を隠す書き方=分析(超越論)で、やっと可能になっている。このように分析とは、実体との等式の留保のために与えられる言語だ。
posted at 18:16:27
では、國分功一郎氏が結論した、スピノザによる証明(実体)の放棄とは何なのだろう? おそらく、従来の超越論(分析)では取り出すことが困難だった何かだ。
posted at 18:24:30
スピノザは実在性から量を捨てることで、実体の証明を終結させる。つまり従来は、実体が量と等号で結ばれていたということだ。分析(超越論)やエポケーは、じつは量を実体と等式で結んでいる、ということなのだろうか?
posted at 18:25:32
余談だが、思考停止ならぬエポケーは、私達にはむしろ自然だ(もちろん、フッサールは自然を、デカルトのような、霊魂=実体、つまり実体のほうに置くのだが)。その自然的にエポケーな私達が、西欧文明に接触してまず獲得したのが、超越的な主観、つまり霊魂的な内心だったのも興味深い。
posted at 18:34:53
明治以降、内面を文学的に作ろうとして(日本近代文学)、現在の国語教育(現代文)では、それを読解させて、内面性の否定を合理性とする、というのも面白い話だ。
posted at 18:37:44
とにかく困ってしまうのは、デカルトが心を実体と等式で結ぶために、実在性の量(リアリティー)にされてしまった神という語彙が、明治になって日本語に流入してしまったことなのだ。そのために、内面が生霊のように実体化し、子供たちが読解できなくなる日本語が生まれたのだ。
posted at 18:43:01
彼らには等式は「疑いの余地のないこと=実体」なのだろうが、もちろん私達には「実体=疑うこと」(実体とか言うから疑いが生まれるんだろ)にしか見えてない、という、このなんとも厄介な話。だからみんな思考停止したり、自分の内面に閉ざされてしまうのかしら?(^-^)/
posted at 19:19:26
「疑いの余地のないこと=実体」というのは、だから実際にはどれだけ、という量になってしまい、原発をめぐっては、こんなhttps://t.co/SuZLUEGc あほな言い方が生まれるんだろうねー。
posted at 19:22:08
2012年06月14日(木)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120614
エチカ定義一原文。Per c a u s a m s u i intelligo id, cuius essentia involvit existentiam, sive id, cuius natura non potest concipi nisi existens.
posted at 03:18:02
エチカの原文サイト。http://t.co/rxSB0QCJ
posted at 03:22:53
エチカの英訳サイト。http://t.co/wNoX6JC5.
posted at 03:23:29
エチカの和訳(畠中訳を定訳にした)サイト。http://t.co/np0HexO2
posted at 03:25:00
英訳は140字で収まらないが、By that which is self-caused, I mean that of which the essence involves existence, or that of which~、より和訳のどこか直接的に見える。
posted at 03:26:56
ちなみに、河出の高桑訳は「自己原因とは~解する」ではなく、「自己原因によって私は、それの本質が、それの存在を含んでいるようなもの、もしくは、それの本性が、存在しつつあるものとしてしか考えられないようなもの、のことを理解する」と、英訳(独訳)からの直訳調に見える。
posted at 03:29:41
國分氏が定訳として使った畠中訳が「自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの、と解する。」
posted at 03:31:31
ん? 柄谷のNAMって攝津君の批判ぐらいでしか心得ていないのだけど、エチカと直結してるってこと?(^-^)/ @aoinatsunosora NAMか・・ RT @sunamajiri: エチカの和訳(畠中訳を定訳にした)サイト。http://t.co/rGgwYDYX
posted at 03:44:08
NAMは全然わからない。攝津君が憤怒してるなということぐらいしか。柄谷はhttp://t.co/NGFg5O1m の時点以降、最近まで読んでなかった。坂部さんはご近所さんで、どう柄谷がカントを正しくしたのか、質問しようと思ってたら他界してしまった。@aoinatsunosora
posted at 03:51:01
最近はWEB発信もするのよね(前からかなのだろうけど)、これhttp://t.co/iJAUSHMP は、数カ月前に読みました。(^-^)/ @aoinatsunosora 彼のサイトはたまに覗きますね。http://t.co/c3QJmh1D
posted at 03:57:15
日本語の西欧哲学用語ばかり読んでると、勘が鈍るのでたまには英文で。デカルト派的二元論では人間にしか心がないことになるが?といういつものアレ。Was Descartes a Cartesian? (デカルトはデカルト派だったか?)http://t.co/rnteyNvq
posted at 06:13:22
FBみたら攝津君が今朝はますます共同体の話にいってるみたい。そんなに人間と交わりたいのかなー。私は人間を遮断したいぐらいなのだが(死ぬ時ぐらい静かに一人になりたいじゃない?まだ死なないがw)、彼は遮断してるから交わりたくなるのかなー。私は人間よりうさぎさんと交流したい(^-^)/
posted at 06:34:40
昨日の攝津氏は、パスカルは神より職業選択の偶有性が面白いというのと、悲劇的でない現代文学に悲劇を探そうとした吉本隆明が複雑に交差してて、人との交流の糸口の話なのね、って思ってたのだが、まだ若いのよね。あれで孤独になる話ができたら本物というか面白いのに(^-^)/
posted at 06:41:49
たぶん柄谷行人のNAMというのも、べつにアソシエートするつもりがなかったのに、周りが集まってきちゃって、え?って感じだったのかなー、と勝手に想像してしまった。何とか村とかみたいよねアソシエーションって。(^-^)/
posted at 06:49:10
一人になるか、二人でいるか、それが問題だ。(^-^)/
posted at 06:49:21
RT @gendaibuntan: 人間と他の動物の違いっていろいろあるけれど、よく挙げられるのが「言語を使用する点」ね。最初は学習できる点が違うとか考えられていた時期もあったけれど、マウスだって学習することが研究によって分かってきた。だから、言語という「思考を成すもの」を他の動物との違いとするの。
posted at 16:01:46
現代文たんhttps://t.co/DWKi6BzA 私の昔の髪型ににてて、かわいい(^-^)/
posted at 16:02:41
フッサールの第二省察12節。私にだけ先立ってある我(主観)は、他人からは疑われる。デカルトの我は、疑われる我、絶対的でなく空疎な同一性だ。しかしそれを放棄すればいいのではない。
posted at 16:05:53
12節続き。確かに個別の経験には疑いの余地がある。しかし、自己経験も多様だ。それを経験の構造と素描できた時、自己経験が無限になり、アプリオリ(先立つ)規則を素描する学問になる。
posted at 16:08:17
感想。國分氏が指摘するようにスピノザが実体の論理構造の解決(神の描出による証明の破棄)なら、フッサールは、デカルトが描出しなかった(疑われる)我の論理構造を解決しようとしているかのようだ。
posted at 16:16:02
よくポストモダンに対する批判で、主体も心もないというのは他のもの(神?)により操られる決定論だ、というのがある。たしかにスピノザの仕事は、実体の論理構造の解決ではあるが、そのままでは単に倫理になる。それは疑われる我の解決ではあるが、勿論、フッサールはその先を考えなければならない。
posted at 16:20:14
どこまでも他人に疑われる(ているように思える)自分。まあ気持ちの持ちようよ、という話なのではあるが。そのために、フッサールは12節で、それ(明証)を、スピノザのように、方法論と名指している。
posted at 16:22:54
デカルトのままでは疑われる我で、デカルト主義者=操られない主体性のようにはなっていかないという話だが、これでは人間以外は心のない機械だという天動説に回帰してしまう。勿論在るのは心ではなくて言語だからだが、その言語は本質的には疑う他人がいないと、発せられそうもない。
posted at 16:48:56
このように人間であるための証明はw、疑う他人ありき、ということになるのだろう。当たり前だが、アプリオリというか先行するのは「疑う他人」でしかない。疑われているからこそ言語を発して、人間様になる。しかし、そういう偉そうな人間が、個人的には疑いの対象だったりする。(^-^)/
posted at 16:52:02
もちろん、この疑う他人を現実にはなかなか得られない、得難い懐疑論者、得難い先行者というのが、実際上問題になる。それで、疑う他人ほしさに、色々な言葉を発する人が出てきってしまう。しかしそれは病理に見える。
posted at 16:53:41
スピノザの知性改善論によれば(それによらずとも)、疑いこそ無限連鎖なわけだ。しかし、神が死んだように、じつはこの無限の疑いも、どこかに消えてしまったように見える。だから疑われたくて仕方がない人達、病人が出現してしまったのだろうか?
posted at 16:56:50
・・・以上、フッサールのデカルト的省察http://t.co/rrrRDwmW 第二省察12節までの、途中感想文でした(^-^)/
posted at 16:59:50
デカルトってなんかキョドってる(^-^)/
posted at 17:25:34
キョドってる人って嫌い、ばかみたいなんだもん(^-^)/
posted at 17:25:44
デカルトの場合、キョドるじゃなくて、びくついてるって感じなのが、すごいのかしら?(^-^)/
posted at 17:26:55
ふつう世間では、疑われたい疑われたいってキョドってる人って、それだけでうざがられるのよねー。それにしても日本語ってすごいね、キョドるの一言で西欧哲学の全容を表現してるものねー(^-^)/
posted at 17:16:24
RT @aoinatsunosora: @sunamajiri raison d'etreに煽られたんでしょうね。
posted at 17:32:16
なんか、びびりまくってるわよねーデカルト氏(^-^)/ @aoinatsunosora raison d'etreに煽られたんでしょうね。
posted at 17:32:43
FBのほうが読みやすいか。■ツイートまとめ■ビビるデカルト、キョドる哲学 https://t.co/eQnUd3AG フッサール省察12節までの吟味。疑うあなたが欲しい(^-^)/
posted at 19:02:04