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ビビるデカルト、キョドる哲学

2012.06.14

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ビビるデカルト、キョドる哲学
http://www.sunamajiri.com/blog/diary.cgi?no=232
https://www.facebook.com/kaoru.ohmoto/posts/334992346578987

フッサール省察12節までの吟味から、ますますビビっているデカルトを感じてしまう。キョドるデカルト氏。画像は彼のお墓。


2012年06月13日(水)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120613

スピノザを國分流に「実体の放棄」と捉えた上で、フッサールの省察を読み進めると結構楽しめる。フッサールはデカルトが、疑いの余地のない前提として、超越論ではなく超越的(二元論的な)我思うを置いたというのだが、スピノザが相対化したように、それは思っている我=実体という等式のことだ。
posted at 17:54:51

デカルトが我=実体と定義したことになるのは、スピノザの再定式化によれば、実在性の量を省察=分析したからに過ぎない。神を実在性の量(リアリティー)とすると、実体は神ではなく、その対立項の「思っている我」の側に布置される。しかし等号で結ぶ鋭さは得られない。
posted at 17:57:55

それに対して、フッサールは、そうした実体の等式そのもの、つまり「疑いの余地のないこと=実体」を、「思っている我」と等号で結ぶ、という関係性を保留にしようとしているのだろう。
posted at 18:00:36

捕捉すると、フッサールによれば、デカルトが「思っている我」=「疑いの余地のないこと」=「実体」としたというのは、心身二元論でいう心の実体化、霊魂のようなものに、「閉ざす」ことなのだという。この霊魂、実体=心が、超越的な主観と呼ばれる。
posted at 18:05:11

では、フッサールは、エポケー(判断停止)を、「疑いの余地のないこと=実体」と等式で結ぼうとしているのだろうか? つまりエポケー=実体なのだろうか? おそらくデカルトと同様、等式で結ばないために、分析的な省察を行なっているのだろう。
posted at 18:09:55

通常、スピノザは様態(神を実体という本性にし、我を本質を表現する様態)にしたと見做される。この捉え方は、エポケー=実体ならぬ、エポケーで実体を隠す書き方=分析(超越論)で、やっと可能になっている。このように分析とは、実体との等式の留保のために与えられる言語だ。
posted at 18:16:27

では、國分功一郎氏が結論した、スピノザによる証明(実体)の放棄とは何なのだろう? おそらく、従来の超越論(分析)では取り出すことが困難だった何かだ。
posted at 18:24:30

スピノザは実在性から量を捨てることで、実体の証明を終結させる。つまり従来は、実体が量と等号で結ばれていたということだ。分析(超越論)やエポケーは、じつは量を実体と等式で結んでいる、ということなのだろうか?
posted at 18:25:32

余談だが、思考停止ならぬエポケーは、私達にはむしろ自然だ(もちろん、フッサールは自然を、デカルトのような、霊魂=実体、つまり実体のほうに置くのだが)。その自然的にエポケーな私達が、西欧文明に接触してまず獲得したのが、超越的な主観、つまり霊魂的な内心だったのも興味深い。
posted at 18:34:53

明治以降、内面を文学的に作ろうとして(日本近代文学)、現在の国語教育(現代文)では、それを読解させて、内面性の否定を合理性とする、というのも面白い話だ。
posted at 18:37:44

とにかく困ってしまうのは、デカルトが心を実体と等式で結ぶために、実在性の量(リアリティー)にされてしまった神という語彙が、明治になって日本語に流入してしまったことなのだ。そのために、内面が生霊のように実体化し、子供たちが読解できなくなる日本語が生まれたのだ。
posted at 18:43:01

彼らには等式は「疑いの余地のないこと=実体」なのだろうが、もちろん私達には「実体=疑うこと」(実体とか言うから疑いが生まれるんだろ)にしか見えてない、という、このなんとも厄介な話。だからみんな思考停止したり、自分の内面に閉ざされてしまうのかしら?(^-^)/
posted at 19:19:26

「疑いの余地のないこと=実体」というのは、だから実際にはどれだけ、という量になってしまい、原発をめぐっては、こんなhttps://t.co/SuZLUEGc あほな言い方が生まれるんだろうねー。
posted at 19:22:08


2012年06月14日(木)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120614

エチカ定義一原文。Per c a u s a m s u i intelligo id, cuius essentia involvit existentiam, sive id, cuius natura non potest concipi nisi existens.
posted at 03:18:02

エチカの原文サイト。http://t.co/rxSB0QCJ
posted at 03:22:53

エチカの英訳サイト。http://t.co/wNoX6JC5.
posted at 03:23:29

エチカの和訳(畠中訳を定訳にした)サイト。http://t.co/np0HexO2
posted at 03:25:00

英訳は140字で収まらないが、By that which is self-caused, I mean that of which the essence involves existence, or that of which~、より和訳のどこか直接的に見える。
posted at 03:26:56

ちなみに、河出の高桑訳は「自己原因とは~解する」ではなく、「自己原因によって私は、それの本質が、それの存在を含んでいるようなもの、もしくは、それの本性が、存在しつつあるものとしてしか考えられないようなもの、のことを理解する」と、英訳(独訳)からの直訳調に見える。
posted at 03:29:41

國分氏が定訳として使った畠中訳が「自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの、と解する。」
posted at 03:31:31

ん? 柄谷のNAMって攝津君の批判ぐらいでしか心得ていないのだけど、エチカと直結してるってこと?(^-^)/ @aoinatsunosora NAMか・・ RT @sunamajiri: エチカの和訳(畠中訳を定訳にした)サイト。http://t.co/rGgwYDYX
posted at 03:44:08

NAMは全然わからない。攝津君が憤怒してるなということぐらいしか。柄谷はhttp://t.co/NGFg5O1m の時点以降、最近まで読んでなかった。坂部さんはご近所さんで、どう柄谷がカントを正しくしたのか、質問しようと思ってたら他界してしまった。@aoinatsunosora
posted at 03:51:01

最近はWEB発信もするのよね(前からかなのだろうけど)、これhttp://t.co/iJAUSHMP は、数カ月前に読みました。(^-^)/ @aoinatsunosora 彼のサイトはたまに覗きますね。http://t.co/c3QJmh1D
posted at 03:57:15

日本語の西欧哲学用語ばかり読んでると、勘が鈍るのでたまには英文で。デカルト派的二元論では人間にしか心がないことになるが?といういつものアレ。Was Descartes a Cartesian? (デカルトはデカルト派だったか?)http://t.co/rnteyNvq
posted at 06:13:22

FBみたら攝津君が今朝はますます共同体の話にいってるみたい。そんなに人間と交わりたいのかなー。私は人間を遮断したいぐらいなのだが(死ぬ時ぐらい静かに一人になりたいじゃない?まだ死なないがw)、彼は遮断してるから交わりたくなるのかなー。私は人間よりうさぎさんと交流したい(^-^)/
posted at 06:34:40

昨日の攝津氏は、パスカルは神より職業選択の偶有性が面白いというのと、悲劇的でない現代文学に悲劇を探そうとした吉本隆明が複雑に交差してて、人との交流の糸口の話なのね、って思ってたのだが、まだ若いのよね。あれで孤独になる話ができたら本物というか面白いのに(^-^)/
posted at 06:41:49

たぶん柄谷行人のNAMというのも、べつにアソシエートするつもりがなかったのに、周りが集まってきちゃって、え?って感じだったのかなー、と勝手に想像してしまった。何とか村とかみたいよねアソシエーションって。(^-^)/
posted at 06:49:10

一人になるか、二人でいるか、それが問題だ。(^-^)/
posted at 06:49:21

RT @gendaibuntan: 人間と他の動物の違いっていろいろあるけれど、よく挙げられるのが「言語を使用する点」ね。最初は学習できる点が違うとか考えられていた時期もあったけれど、マウスだって学習することが研究によって分かってきた。だから、言語という「思考を成すもの」を他の動物との違いとするの。
posted at 16:01:46

現代文たんhttps://t.co/DWKi6BzA 私の昔の髪型ににてて、かわいい(^-^)/
posted at 16:02:41

フッサールの第二省察12節。私にだけ先立ってある我(主観)は、他人からは疑われる。デカルトの我は、疑われる我、絶対的でなく空疎な同一性だ。しかしそれを放棄すればいいのではない。
posted at 16:05:53

12節続き。確かに個別の経験には疑いの余地がある。しかし、自己経験も多様だ。それを経験の構造と素描できた時、自己経験が無限になり、アプリオリ(先立つ)規則を素描する学問になる。
posted at 16:08:17

感想。國分氏が指摘するようにスピノザが実体の論理構造の解決(神の描出による証明の破棄)なら、フッサールは、デカルトが描出しなかった(疑われる)我の論理構造を解決しようとしているかのようだ。
posted at 16:16:02

よくポストモダンに対する批判で、主体も心もないというのは他のもの(神?)により操られる決定論だ、というのがある。たしかにスピノザの仕事は、実体の論理構造の解決ではあるが、そのままでは単に倫理になる。それは疑われる我の解決ではあるが、勿論、フッサールはその先を考えなければならない。
posted at 16:20:14

どこまでも他人に疑われる(ているように思える)自分。まあ気持ちの持ちようよ、という話なのではあるが。そのために、フッサールは12節で、それ(明証)を、スピノザのように、方法論と名指している。
posted at 16:22:54

デカルトのままでは疑われる我で、デカルト主義者=操られない主体性のようにはなっていかないという話だが、これでは人間以外は心のない機械だという天動説に回帰してしまう。勿論在るのは心ではなくて言語だからだが、その言語は本質的には疑う他人がいないと、発せられそうもない。
posted at 16:48:56

このように人間であるための証明はw、疑う他人ありき、ということになるのだろう。当たり前だが、アプリオリというか先行するのは「疑う他人」でしかない。疑われているからこそ言語を発して、人間様になる。しかし、そういう偉そうな人間が、個人的には疑いの対象だったりする。(^-^)/
posted at 16:52:02

もちろん、この疑う他人を現実にはなかなか得られない、得難い懐疑論者、得難い先行者というのが、実際上問題になる。それで、疑う他人ほしさに、色々な言葉を発する人が出てきってしまう。しかしそれは病理に見える。
posted at 16:53:41

スピノザの知性改善論によれば(それによらずとも)、疑いこそ無限連鎖なわけだ。しかし、神が死んだように、じつはこの無限の疑いも、どこかに消えてしまったように見える。だから疑われたくて仕方がない人達、病人が出現してしまったのだろうか?
posted at 16:56:50

・・・以上、フッサールのデカルト的省察http://t.co/rrrRDwmW 第二省察12節までの、途中感想文でした(^-^)/
posted at 16:59:50

デカルトってなんかキョドってる(^-^)/
posted at 17:25:34

キョドってる人って嫌い、ばかみたいなんだもん(^-^)/
posted at 17:25:44

デカルトの場合、キョドるじゃなくて、びくついてるって感じなのが、すごいのかしら?(^-^)/
posted at 17:26:55

ふつう世間では、疑われたい疑われたいってキョドってる人って、それだけでうざがられるのよねー。それにしても日本語ってすごいね、キョドるの一言で西欧哲学の全容を表現してるものねー(^-^)/
posted at 17:16:24

RT @aoinatsunosora: @sunamajiri raison d'etreに煽られたんでしょうね。
posted at 17:32:16

なんか、びびりまくってるわよねーデカルト氏(^-^)/ @aoinatsunosora raison d'etreに煽られたんでしょうね。
posted at 17:32:43

FBのほうが読みやすいか。■ツイートまとめ■ビビるデカルト、キョドる哲学 https://t.co/eQnUd3AG フッサール省察12節までの吟味。疑うあなたが欲しい(^-^)/
posted at 19:02:04

デカルトの幽霊は怖いのか?

2012.06.14

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デカルトの幽霊は怖いのか?

フッサール省察の第一省察読了前後のツイートまとめです。デカルトの創りだした危険な二元論的な心、つまり幽霊は、そんなに怖いものなのだろうか?という話が中心でした。


2012年06月12日(火)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120612

RT @femmelets: 柄谷行人『「世界史の構造」を読む』(インスクリプト)、読了。柄谷は、政治、経済、社会、歴史の話をするのをもうやめ、「普遍宗教」とかいうくだらない妄想だけ語るべきだし、9.11に衝撃を受け、ゼロから考え直すためにNAMを解散しようとした、などという虚偽を撒き散らすべきではない。
posted at 09:27:58

それは、9.11の直後柄谷行人は数学に没頭していたし、その後の委員会では浅田彰、山城むつみと一緒になって「9.11はただの犯罪だ」という空疎な結論に到達した、という客観的な事実である。
posted at 10:34:15

RT @femmelets: ところが、柄谷行人や浅田彰は、9.11はただの犯罪だから、犯罪としてのみ処理すべきだし、暴力はよくないのだ、というような陳腐で空虚な意見に終始したのである。
posted at 10:34:55

RT @Chisaka_Kyoji: シェリングのついでに言うと、フィヒテとシェリングは個別の研究者以外では、カントとヘーゲルの通路のように見られがちかもしれないが、フィヒテの「非我」やシェリングの「無底」は、カントの先験的統覚やヘーゲルの絶対精神からすれば他者的な可能性を開いていることを見る必要があるだろう。
posted at 16:10:13

RT @Chisaka_Kyoji: テロ肯定論者はテロを行うこと、その是非を問う場合が多い。しかし、人間にとってはテロは行うものではなく、行われるものということだ。人間が実行犯となるテロは、いかなる理由であれ全否定されるべきだ。ベンヤミン風にいえば神的テロのみが肯定されるが、その場合、神性たる所以の神義論が必要だ。
posted at 16:19:41

ジャズもロック(スピリッツ)だぜい。うそうそ(^-^)/ RT @neajazz: もちろん僕の話している「ロック」は、スピリッツ(精神)の話ではなく、単純に音楽的な話です。スピリッツの話などし出したら、AKBだって長渕剛だってそれに「ロックを感じれば」ロックなんだから。
posted at 21:22:10

デカルトのように幾何学的公理にこだわって、思っている我を心(スピリッツ)のように実体化されるとえらいことになるわけだが、音楽もスピリッツになった時(音楽的に)つまらなくなるからなー。スピノザみたいに(自己)証明を破棄しなきゃだめよー(^-^)/
posted at 21:25:49

RT @neajazz: 大本さん「だぜい〜」とか、すげー似合わない笑
posted at 21:36:27

RT @heidegger_bot: ほとんどデカルトと同時に、パスカルは計算する理性の論理学に対して、心情の論理学を発見している。心情空間の内面と不可視性は、計算する表象行為の内面よりも内面、従ってより不可視的であるばかりか、それは同時に、単に作成しうるところの諸対象の領域よりも、さらに大きい…「乏しき時代の詩人」
posted at 22:34:19


2012年06月13日(水)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120613

おお、さすが鋭いですねー(^-^)/ @YoNakagawa わざわざ、楽しんでいる人もいる音楽に、もしもし、あなたミミないですね~なんて悲しいこと言うのが、音楽評論家の仕事ではないのです。
posted at 00:21:49

幽霊は二元論だから怖くないけど、宇宙人はほんとに草葉の陰からでてきそうで怖い((((;゚Д゚)))) @nakagawasun "こわい(・・;) RT「宇宙人に注意」 #自分のピクチャフォルダの中で一番意味が分からないものをうp http://t.co/Q0jOzEVV"RT
posted at 00:46:49

RT @nakagawasun: @sunamajiri あら(^^)。幽霊が二元論?(今のところ全然わかってないけど、おほほ)私は墓場は恐い方よ。
posted at 01:05:14

うん、改めてフッサール読んだら、デカルトは我思うって定義しようとして、身体とは別に心を霊魂にしちゃった(心身二元論)、あいつは困ったものだ、って書いてあったよー(^-^)/ @nakagawasun あら(^^)。幽霊が二元論?(今のところ全然わかってないけど、おほほ)
posted at 01:06:54

対立項が因果律(つまり存在ということ)をどう捉えてきたかは、意外と面白いねー。エポケーしてたから(実体=存在の哲学は)つまらないと思ってたんだが(^-^)/
posted at 01:39:11

デカルトの省察だと因果律の定理が不徹底になり、「思っている我」を実体化(霊魂)→二元化させてしまう。なのでスピノザの方法は、証明を破棄する証明をする平行論になる。フッサールは省察しなおして、証明自体の停止(エポケー)と世界を二元化させちゃう。みんな帳尻が合ってしまう。
posted at 01:44:43

RT @B_Pascal_jp: あまり早く読んでも、あまりゆっくりでも、何も解らない。§69 パスカル
posted at 02:00:14

RT @nakagawasun: @sunamajiri ワタシは、きっとこれから質問して教えていただきたいことがでてくるかもしれません、そのときは、どおぞよろしくぅ~。とりあえず、今、電池がすくなくなりまして。じゃ。
posted at 02:12:28

たいしたこと教えられないよー。因果律は歯が立たないもん(^-^)/ @nakagawasun
posted at 02:12:51

デカルトのようにすると、真心とか霊魂とか、そういう生霊みたいのがどんどん生み出されちゃうから、けっこう怖いよねー、って話でした(昨夜の話)(・_・;)
posted at 08:32:50

うん、あちらの哲学は、根本原因を汲みつくす言葉は書けるか?って話だからね、それができなくて、色んな物(化物)が飛び出すよー(^-^)/ @nakagawasun 因果律?電池があと20%
posted at 09:16:39

おお、解説本ではないから論述はめんどくさいとこありますが、解説文でないだけにあるポイントに達してて面白い本ですよー(^-^)/ @nakagawasun 「スピノザの方法」買ったんです。國分功一郎ってそんな若いとも知らなかったし、こうゆう人いるんだなあと思いまして。
posted at 12:56:22

國分さんがカルチャースクールで、一般向けにスピノザの方法講義をしてるみたいですよ。なんか毎回、感極まって泣く人がでるらしい。それだけ哲学を解決してるのかしら。あるつっかえが抜けるのは確かだと思います。@nakagawasun ありがとーございます~♪(^^)通信教育講座みたい~♪
posted at 13:54:59

RT @LitoSnowfield: 確かに…国分さんの“スピノザの方法”は頭の蓋が開くような感じはあるかもなぁ〜…(*uou)> ただ…私はそれを説明出来る程は理解していないので読込みは続くのでありますが…(^o^;)>
posted at 14:01:50

RT @nakagawasun: @sunamajiri それは現代文たんツイートで「現代の哲学は哲学そのものを問う哲学の懐疑ね、ウフッ♪」っていうアプローチなんですね?素朴に解らないのは、科学領域研究が高度にぶもんごとに細分化されるのはそうだろうな、と納得できて「哲学」が誰はハイデッガー、誰はプラトン、
posted at 14:15:34

RT @nakagawasun: @sunamajiri (西洋哲の場合)そうやって、一筋研究になるのが、解らないです。(長くなりました)すごく素朴に。
posted at 14:15:36

デカルトの情念VSスピノザの感情https://t.co/6x0wzS8p やヘーゲルの精神https://t.co/6yqoXdEz は國分本には出て来ません、その前提となる証明の破棄の話です。証明を破棄できないと情念や精神になるのでしょう。@nakagawasun
posted at 14:15:00

疑わなくてもすむための原因を証明するのが彼らの哲学ですよ。それをやめられない。たぶんスピノザだけが証明をやめる証明を見出したという感じ。フッサールですら判断停止と言いつつ証明を続けますから。@nakagawasun しょうめいのはき…
posted at 14:32:31

ハイデガーといえばフッサールの第一省察の付論「デカルトは超越論的な転換に失敗した」では、デカルトの先入観が説明されているけど、スピノザの方法のように、それを実体との関係で証明(証明の破棄)できてないんです。http://t.co/yYCfvcXQ @nakagawasun
posted at 14:38:33

一貫した論点しかないからねー。必ず先行者への言及(批判)だし。当然ギリシャ人がいけないことしちゃったわけなので、彼らの実体http://t.co/1KQWSTwd という語彙が危険すぎるのです。(^-^)/ @nakagawasun 時代が前後するのは気にしないんでしょうか?
posted at 15:01:29

たとえばデカルトの空の例や太陽の例に対してスピノザがどうしたとか、そう読むといい。でも太陽の例に対してスピノザは幾何学というのだが、それも最後に裏切られて、幾何学定理を片付けて(実体の証明手続きの破棄)次に進むのがエチカだ、とかなるのだけど。@nakagawasun
posted at 15:17:57

ねおたんスピノザみたいね。デカルトまでずっとそれやってて、それあほらしいからこうするともう言えなくなるだろう、とやっちゃった。@neajazz 1+1=2であったら、世界は何と楽なことか。しかしまた、で、あったなら、芸術なんて確実に必要ないだろう。だって、書くことないもの。
posted at 15:24:23

シュタイナーhttps://t.co/ShJIn8YF と現代文たんhttps://t.co/UqP8fZ4J が同じようなこと言ってる。教育だからね。教育は必ずしも哲学ではない。
posted at 17:18:09

本の単一性を疑う多量な本

2012.06.14

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本の単一性を疑う多量な本

フッサール省察を乱読しはじめた、最初の意識の流れ。本の単一性から、転向を証明する多量な本、用もないのに他人の悪口をいう日本語まで。


2012年06月10日(日)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120610

乱読態勢中。ウィットゲンシュタインの哲学は言語の誤謬だで正気を保ちながら、実は嫌いなフッサールのデカルト的省察を読み始めた。懐疑論→実在性の量→神証明の破棄不能→経験→認識→エポケー→現象という閉鎖的な系は、言語の誤謬に見えて、あまり好きではない。(^-^)/
posted at 12:11:38

実在性を量にすると信憑性の問題が起こり、分かっていても相手を分からせられるとは限らないから、エポケーしてバカはスルーしようという系、エポケー(判断停止)という用語も最近はめっきり聞かなくなった。何にどう言い換えられて拡散霧散したんだろう?脱構築?(^-^)/
posted at 12:49:22

フッサールの省察、デカルトの陥った幾何学では明証な経験という学問の真正のイデアは得られない。あらゆる現前=経験に先行する第一経験こそが十全な明証だ。量的すぎて証明手続きを破棄する述定に至らずウロウロしてるだけね。病気ね(^-^)/ http://t.co/sSCUUxp7
posted at 20:29:45

今日買ったブックカバーhttp://t.co/gCgMyXEp 合皮の色合いがきにいった。お花柄の裏地が表にちらっとでてるのも。ご本はカバーに入れて読むと、宇宙に唯一の本みたいになるよー。いろんな本がごちゃごちゃあると錯乱するから、本は一冊で聖化するのが好き。でも教徒ではない。
posted at 23:19:32

大抵の錯乱病(サクランボウと呼んでる)は、ご本が宇宙に五万とあって、参照関係がカオスになり、何言ってるのか読解できなくなると発病するはずだから、一回文明を終わらせて、一冊だけのご本にすると、みんな元気になるかもよ(^-^)/
posted at 23:22:11

RT @deleuzebot: 概念とは、思考がたんなる意見や見解に、あるいは議論や無駄話になりさがるのをさまたげるもののことを指す。したがってあらゆる概念が逆説となる。それで当然なのです。(『記号と事件』)
posted at 23:44:38

おお、時代は量ね(^-^)/ @sskyt 第83回哲学/倫理学セミナー■6/30(土)@文京区民センター3-B会議室■真田美沙「ヘーゲル哲学における量論について」■中原真祐子「ベルクソンにおける表現の問題」■自由参加 http://t.co/MtBw5ODz
posted at 23:54:17


2012年06月11日(月)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120611

おお、ドナルド・デイヴィッドソンhttp://t.co/OiGdRHQw はこの10年で邦訳されてたのか。http://t.co/6fqOAkxg 久々に英文を引っ張りだしてきて読もうかと思ってたんだが。
posted at 07:53:27

ところでデイヴィッドソンのような、人間に主体はないhttp://t.co/lQKMG9CX みたいなことをいうと、結局それは厳密には○○主義の亜流で目新しくない、というのが日本の哲学部出身者の主体性になってそうで、困るなー。
posted at 07:54:14

哲学部の輩の厳密性は、何かの系について中心化した論者を、系統の樹のどの枝葉の何々主義と名辞化するか、それが収まらないと固有名で呼ぶというだけだ。しかしそれは哲学という行為とは真っ向から矛盾する述定だし、実は最も厳密性から程遠い態度だ。スピノザではないがあらゆる系に固有名はない。
posted at 08:02:23

國分氏が最も論じられていないスピノザの著作として取り上げた『デカルトの哲学原理』は、当時としては異例なデカルト論(固有名を論じたテクスト)なのだという。しかし、今や哲学部の言う厳密性は、◯◯論として定立できているかという、論に指示対象があるという錯覚だけだ。
posted at 08:08:18

スピノザが、他人であるデカルトの論を書名にしたのは当時として異例で、解説本を書いて欲しいという周囲の要請の結果らしい。非常に近代的な事情だ。近代とは解説文の空間だからだ。
posted at 08:11:26

このように、AさんがBさんを論じるというのが哲学的厳密性というのは、最も信用ができない。普通、哲学とは用語間の関連性を証明する営為だからだ。なので先ほどのデイヴィッドソンのような、系を移動する哲学者を、◯◯主義と分節化しても、おそらく無意味だ。哲学者とは厳密にそういう主体だろう。
posted at 08:14:20

フッサールは、おそらく◯◯主義と呼ばせないために、いち早く(かどうかはしらないが)、◯◯学的な造語をしたのだろう。もちろん、◯◯主義という系に中心化される前に(言われる前に)、自分で名付ければいい。世界のあらゆる事柄は、厳密には名乗りでしかないので、そういうことになる。
posted at 08:17:44

たしかに論証は、Aという言い回しを、Bという言い回しに、言い換えることでしかない。それを◯◯氏の後期は、◯◯氏の前期からの転向だ、と論証するために、誰それ論という、指示対象論にしてしまう。それは哲学としてもっとも厳密性を欠いた証明に見える。欧米の大学でそういう論文は全否定される。
posted at 08:31:42

つまり日本では転向を論じるのが論証のようになってしまっているが、これは西欧社会では学問とは見なされない。ところで日本では国文学部が、誰それ論(作家論)を書く。哲学部と代わり映えがしない。日本では文芸批評と哲学が混淆するのもそのためだ。日本の近代性は文学の中にしかないのだろう。
posted at 08:39:46

日本の現代文から西欧を取り払えば主体はない、それがいかなる場合でも現代文の確定的正解、といつも高校生に教えるのだが、大学未満の高校には、誰それ論こそ存在していない。ある意味健全である。ところが学部生になると、とたんに転向論になるしかない「誰それ論」に陥る。
posted at 08:51:28

この「誰それ論」で身を立て転向する、ということを回避するためには、日本では「可能性の中心」や「探求」に収斂したわけだが、そうした探求は社会学にはまだかろうじてあるように見える。しかし、柄谷はだめでもサンデルのストレートさは大衆受けしたのだ。
posted at 08:56:13

RT @M_Foucault_jp: ヘレニズム・ローマ期の哲学における、ひとが生涯を通じて行ってきた救済、救済の行為、救済の活動が齎す報いの二つの形式。 アタラクシア:動揺の不在。ひとがいかなるものによっても動揺させられないようにする自己の統御 アウタルケイア:自己以外の何者も必要としない自己充足 -主体の解釈学-
posted at 14:58:59

RT @gameover1001: 日本人は、なんで用もないのに知らん人間の悪口を言うのに必死なんだ?と日本に住んだ中国人が不思議がっていたが、日本語インターネットに出入りしだして以来、わしも同感である。他人のことも他国のことも、どーでもいいんちゃうか?なんで、そんなに「他」が気になって悪口を言いたいのか謎である
posted at 22:25:00

主体性の量という信心を放置するサディズム

2012.06.09

ファイル 229-1.jpg

実在性の量(デカルト)から指導の自動性へ(スピノザ→國分氏の方法)。それは可能的自由や主体性という信心を限りなく疑う素直さのことなのだが、しかし東アジアはその(哲学という問いの)外部であるらしく、とくに日本では現代文でそうした(主体性という)宿痾の読解を課せられる。しかし、分からない人に、分からせるのが教育ではない。そういうサディズムについて。


2012年06月08日(金)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120608

哲学は必然性とは何かという話しかできないのに、主体性の外の(所有できない)世界https://t.co/FyJ2DYHk は偶然だhttps://t.co/9FOXjp03 というS君の思想は、東アジアなだけに北朝鮮や中国とあまりに安易に直結して見えてしまって困っている(笑)。
posted at 06:11:25

確かにコミュニズムの外には宗教しかない。それはまるで東アジアの内部にだけ、宗教とは異質な主体性があるかのように想定するのと相似だ。しかし実際にあるのは、しみったれた現実https://t.co/vzdMWIck か、そこから出家して帰依する世界があるだけ。その方がよほど偶発的だ。
posted at 06:12:30

国語教育でも、この東アジア的な主体性との格闘しかない。そしてそれは大抵の場合、合理的に不正解なのだ。現代文から西欧を取り払えば、何一つ主体的なものは残らないからだ。なぜそれほど(合理性の)外部を希求するのか? その情熱がいまいち理解できない。個人的には主体性は嫌いだ。(^-^)/
posted at 06:25:45

RT @TAKEMITSU_bot: たしかに音楽は数理的な秩序のうえに成り立っているものでしょう。けれどもそれはヨーロッパの音楽ということであって、その規則とはべつにぼくは音のなかで生活し、太陽を見てくしゃみをし、地下鉄の振動をみんなとともに感じつつ、作曲の着想を得てきたのです。武満徹
posted at 08:33:03

RT @sasakitoshinao: 「オウム真理教の代わりになるものはいまも存在していない。魂は行き所なくいまも浮遊し続けているのでは」と。あれから17年、拠り所がさらに消滅した現在にオウムの意味をもう一度問い直す必要があるかも。/浮遊した17年間 47NEWS http://bit.ly/LgvI4j
posted at 08:39:34

RT @tokaiama: 意思によって世界が進むなら、もちろん意思によって変えられる。世界はパラレルワールドである。たくさんの意思の結果が生じ、たくさんの存在が同時進行しているとも考えられる。大量死の起きる日本も、起きないで平和な日本も、どちらも意思の結果であり真実なのだ。我々は心の望む世界に生きている
posted at 05:04:19


2012年06月09日(土)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120609

今北産業なのでこれから拝見します、トートロジー?(^-^)/ @yutakioka 「言葉の定義は人それぞれ(任意の言葉は個人がどのように解釈してもよい=言葉の意味は決定できない)?」をトゥギャりました。 http://t.co/xeemBQTM
posted at 02:24:45

https://t.co/eajY2CxB トートロジー(命題の同語反復)以外は、宿痾の現象学になる人がいるのかな?→懐疑論者?(^-^)/ 
posted at 02:30:01

バカ(懐疑論者)は放っておけ。神がいるかいないかではない、神を基準に物事考えなければ気違いになるぞ(神存在の証明手続きの破棄)といってるだけだ、というスピノザの方法(倫理)を読むと、そんな気分になってくる。(^-^)/
posted at 02:33:57

國分氏の方法。『知性改善論』が示唆する2つの逆説は、懐疑論者の説得の要請で生まれたデカルト的循環(コギト命題)を実在性の量の否認で再定式化した結果、名目から実在性を証明した神という証明手続き自体が解消され、知性・教育(分かること)の問題(自動性)に解決された。量から自動へ。
posted at 02:35:43

そうだろうとおもったけど、まあふくだにいわれたら同じようにやばそう(^-^)/ @yango_ritsukosk サッカーの話しですよ。
posted at 02:16:50

なんか、ある種のリアリティー(実在性の量)を感じさせちゃうらしい。いや冗談よ(^-^)/ @yango_ritsukosk なんでですかw
posted at 02:39:08

私のジョークは、アメリカンジョークより、他人に伝わりづらい、という自覚はある。(^-^)/
posted at 02:39:41

國分氏の方法。実在性の量から、指導の自動性へ。
posted at 02:41:00

一々、テクストの神と背比べhttps://t.co/8BcFnAqf する(存在証明する)懐疑論者http://bit.ly/KPjLVN たち。そういうバカに指導はいらない。分かるまで放っておけ。
posted at 02:46:18

ところで、久々にウィットゲンシュタインの論理哲学論考をひっぱりだしてきたら、悪名高いラッセルの序文をまた読んでしまった。あれは悪名高いな(・_・;)
posted at 02:50:15

まあ、存在証明の命題は、どうみてもトートロジーみたいになるわけだが、それがわからない宿痾というのが、こまったものなのだが。ラッセル先生は嫌いではない。
posted at 02:53:30

分析するから主体になるのだが、ラッセルは「主体なるものがない。というのは確かではない。点や瞬間がない、というのが確かでないのと同様である。主体なるものはあるのかもしれない。ただ、あると考える理由がないのだ」(ラッセル「命題について」より)
posted at 02:55:51

ところで、おそらく指示表出の言い換えである國分氏の指導の自動性は、分析というより存在証明するから実在性が量になる、といっているのだと思うのだが、乱暴に考えると、存在証明はもちろん分析の言い換えなのかしら? たぶんそうなのだろう。
posted at 02:59:42

男子生徒が、文中の人間とは?神とは?何か教えろ、それを分かるように教えてくれなければ、自分が国語は好きになれない。自分にはプライドがあるからだ、という時に、指導者がすべきことは、もちろん放置である。(^-^)/
posted at 03:01:52

同様に、神は何かとは問わないが、自己の主体性はあると信心するhttps://t.co/Ej4JZvEP という懐疑論者に対しても、指導者は放置すべきなのだが、しかしそこからは確かに面白い分析が成り立つ。https://t.co/WWz8AVL9
posted at 03:04:48

スピノザを、指導の自動性の方法https://t.co/iPQTiaKg にした國分功一郎氏にとって、量とは実在性の量ではなく、分からなさの量だ。分からない懐疑論者の主体などは、分かるようになる(自動化する)まで、放っておけばいい。それがスピノザの倫理、つまり指導ということだ。
posted at 03:11:04

さて、指導の自動性=存在証明の破棄を齎した、実在性からの量(表象でもある)の排除は、属性で実体を捉え直したことなのだが、その結果、決定論や必然性になった。ウィットゲンシュタインには、トートロジーを排除する事実や事態があるが、様相論(可能的自由?)が問われてるとは思えない。
posted at 03:19:20

わたしはプロパーではなく、遊んでるだけだが、このあたり、つまり様相論的自由などない、というので少し遊んでみると、楽しそうだ。(^-^)/
posted at 03:20:26

ふつう無限ループというのは懐疑論の側なのだが、決定論をどれだけ無限にできるか、というのがサディスティックで楽しいのであった。(^-^)/
posted at 03:26:04

RT @Schopen_bot: 本物の哲学者は世界そのものを見すえることから混乱にみまわれるのであるが、贋の哲学者にとっては、これにひきかえ書物や出来合いの体系から混乱が生じるのである。ショーペンハウアー
posted at 02:46:52

RT @deleuzebot: 哲学史というものが哲学における抑圧の機能をはたしているのは明らかだ。はっきり言って、あれは哲学におけるオイディプスだ。「あれこれ読んで、あれについてのこれを読まないうちから、まさかきみは自分の名において語るつもりじゃあないだろうな」というわけだ。ドゥルーズ(『記号と事件』)

RT @M_Foucault_jp: 1.プラトンからデカルトを経てフッサールに至る、根源性という方向。2.プラトンから聖アウグスティヌスを経てフロイトに至る経験的拡張の方向での連続的な歴史。このどちらの場合も、明示的にであれ、暗黙の内にであれ、主体の理論が練り上げられずに、背後に残されてしまう。-主体の解釈学- ミッシェル・フーコー
posted at 03:04:59

RT @wit_bot: 授業の間に優れた成果を、それどころか驚くべき成果をもたらす力があっても、それだけで優れた教師だとは言えない。というのも生徒たちは、直接教えてもらっている間、生来備わっている以上の能力を引き出してもらうにしても、自力でその高さまで伸びたわけではないので、ウィットゲンシュタイン
posted at 05:03:40

RT @wit_bot: 教師がその場からいなくなれば、たちまち化けの皮が剥がれてしまう。それは私のことか。私はあることを考えていたのだ。(マーラーが非公開のオーケストラ演奏にて指揮をしていた。彼が指揮している間は申し分なかったが、彼が指揮をしなくなってからは、オーケストラは沈み込んでしまった)ウィットゲンシュタイン
posted at 05:36:20

■ツイートまとめブログ■主体性の量という信心を放置するサディズム http://t.co/0LYnO69L 実在性の量から指導の自動性へ向かう必然性の外部に、主体性の量を信心してしまう人々(^-^)/
posted at 04:15:59

さてそろそろ寝なければならぬ。土日は読解塾が気が重い。前はストレス解消の読解塾だったが、主体性の量が低迷中なのかもしれない(^-^)/
posted at 04:17:04

國分功一郎氏の方法は分からせたのか?

2012.06.07

ファイル 228-1.jpg

■分からない人もいる。その素直な結論。

この本を読むまで、国語を教えていても、分かるを他人に伝授するのが、さほど困難とは思えていなかった。しかし、世の中には、いくら分からせても分からない人が存在する。それを素直に認めて、気が楽になれたのかもしれない。

懐疑論者(分からない人)はスピノザに自我ではなく神を見る。だから自然即神や倫理という狭い受容となる。しかし、エチカは、神の証明手続き自体を解消し、知性(分かること)の問題へと解決する。

國分功一郎氏の『スピノザの方法』は、デカルト的循環(懐疑論者を説き伏せるコギト命題の矛盾)に真っ向から立ち向かったスピノザの軌跡を、周到に取り出す。その論述はまるでオブジェクト指向のように、関数の入れ子が相次ぐ。そのため小出しに精読するはめになり、読了に時間を要してしまった。

日本語の近代化にとって、こうした17世紀の問題は、ストレートな問題意識を呼び覚ます。


2012年06月05日(火)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120605

『スピノザの方法』、國分氏の方法、つまり言い換えや証明を捉えるためにじっくり精読したのだが、いま本論やっと読了。 http://t.co/cEX6kyKt
posted at 20:00:10

懐疑論者を説得するデカルトのコギト命題が回避したコギトの状態描出で方法を得たスピノザは、無神論者の説得ではなく神の状態描出から存在証明を完成させた。スピノザの方法とは描出から導出する名目の破棄だ…という第3部結論部でした。http://t.co/cEX6kyKt
posted at 20:09:40

描出なき導出、それは神とは何か?の前に神の存在を証明してしまうデカルトのことだ。この神とは何かを回避するとデカルト的循環が生まれるに過ぎない。しかしそれは単に懐疑論者の説得のためだった。よってこれは哲学の解決だ…ということらしい。http://t.co/cEX6kyKt
posted at 20:25:27

國分テクストの手続き的な文体は、最後はかなり乱暴な畳み掛け(何を指示しているのかの明示も曖昧にした言い換えの連続)で、玄人っぽさがないのは好感が持てたのだが、言っていることが鋭いだけに、もう少し論述にキレが欲しかった印象を否めなかった。
posted at 21:08:57

特に、この十七世紀の問題は、哲学の基本語彙(存在などだけでなく、構成や表現)に対する論述になるが、記述の中の語彙が、スピノザの原文の用語を指しているのか、意図的にズラされているのかが、黙示的になることが多い書き方で、まるで高校生に出題される指示内容問題の集大成のようだった。
posted at 21:18:38

興味としては、指示関係が曖昧な論述スタイルが、なぜ生まれてくるのか、という病理分析だったのだが、そろそろ帰宅なので、また今度考えよう。
posted at 21:20:13


2012年06月06日(水)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120606

物語論に後説法というのがあって、読んでいけば後でなるほど、と思えることを先取りして書いていたりするのだが、國分氏の論述、総括まで来ると別に何の疑問も残らない。ただその過程では、関数の入れ子みたいになって、どれがどれの言い換えだか、あまり明示的ではない。
posted at 00:19:42

しかも、指示語が全部哲学の基本語彙ばかりで、スピノザの原文を指しているのか、それをズラして別の意味でその語彙をそこで使ったのかが、数ページ読み進めないと確定しないような書き方。これも後説法のようになっていて、結末に来ると全部関数が解けるみたいな塩梅。
posted at 00:22:52

どんな文も一筆書きではなく推敲を重ねるものだが、何度も博論が却下されて書きなおしたということなので、ちょっと複雑怪奇なところがあるようにおもえた。少なくとも素直に読み進められる文とは言えない。しかし、内容は大変鋭い。
posted at 00:24:21

指示語を関数の入れ子のようにする、この國分氏の博論の独特の論述は、まるで受験生が指示問題ばかりやらされた挙句に書くような、独特な構造をなしている。これは日本の教育の一つの集大成を成す文体に思えたほどだ。
posted at 00:28:30

ふつう文章は論述文でも、何らかな要約のしようがあるのだが、國分氏の文は、すべてが要約の連続のような書き方で、その関数の解法が示されるまで、要約が不可能な文脈が多々あった。
posted at 00:32:22

文体としては、どこか読み手を統合失調のような迷路に誘いかねない文なのだが、書き手は神の視点のように、予め全て分かった上で小出しに論証を重ねる。なので、研究者以外は寄せ付けない文になっているのだろう。
posted at 00:33:54

文はふつうA対Bが何かの理由で対比されて、その同質性が言明されたりするが、最後の最後まで、あえてテクスト外の情報を無視すると、論述がAに収まるのか、Bに収まるのか、ハラハラさせられる文脈になっていた。そういう意味ではスリリングだ。
posted at 00:35:48

たとえば結論では実体の系譜学という関数がでてくる。これはエチカの定理8までと9以降を区別する手続きを総称するものだが、それがエチカにとって真なのかとおもったら、その手続の破棄が真だ、と結論付けられる。その最後に言及されたのがデカルトだった。http://t.co/cEX6kyKt
posted at 00:41:52

この後に最終総括が1見開きくるのだが、知性にとっての矛盾(それは懐疑論という矛盾でもある)が、スピノザの名目から実在に向かった手続きでどう解決されたかが纏められ、それが恐らく哲学のあらゆる問題への鮮やかな解決に映じて見えてしまう。http://t.co/WKHxYfS1
posted at 01:01:38

結論はこの第三部の次に数ページくる。そこではこの問題が、分かる人が分かることを他人に伝えられない、という問題であると克明に示される。
posted at 01:51:44

デカルトは、その分からない懐疑論者に、お願いして説き伏せる。そのためのものがコギト命題だが、スピノザは淡々と方法を示す。それによってコギト命題がもたらす全ての、分からないという事態、無限ループに陥る懐疑論という哲学の基本問題が解決しているのだと、結論されているように思えた。
posted at 01:55:12

これは昨日、芦田先生の吉本隆明論で、自己表出(自分だけ分かる)と、指示表出(分かるを共有する)に似た問題に思えた。しかし吉本が解決できなかった問題を、確かにスピノザが解決しているように思えたのだから、國分氏の立論は当然、成功しているように見える。
posted at 01:56:44

國分氏は、スピノザの方法は従って教育論だと結論で述べていたが、日々、人にモノを、しかも文の理解を教える仕事をしていると、この自分が分かるということと、相手に分からせることの違いを、人一倍意識してしまうのだが、その意味では大変面白い論考だったと思う。教育者は読むべきだ。
posted at 01:59:20


2012年06月06日(水)午後
http://twilog.org/sunamajiri/date-120606

大著とはいえないのに、昨晩もツイートしたように、独特の読みづらさから、小出しに読んでいた國分氏の『スピノザの方法』昨日読了して、清涼な読後感だったためか、何か口寂しいのであった。
posted at 18:28:02

コギトや神観念を日本語が受容するにあたって、とんでもないミッシングリングが生まれていることだけは確かなのだが、國分氏の提起した、懐疑論者(わからない人)を分からせる必要がない、という問題は、日々現代文を教える立場としては、大いに考えさせられてしまっている。
posted at 18:28:19

独特の読みづらさというのは、オブジェクト指向というか、関数が関数の入れ子になり、そのうち値が、どちらの概念を指しているのかが、明示されないような書き方の病理だったという点なのだが・・・。
posted at 18:32:35

もちろん、このオブジェクト指向みたいになるのは、スピノザ自身の問題なのだろう。それを例えばヘーゲルのように、そうではないと受容することで起こった誤解を解くためには、また概念の入れ子のような、妙な書き方になる、という話なのだと思えた。
posted at 18:35:38

國分功一郎『スピノザの方法』を纏めれば、『知性改善論』が示唆する2つの逆説は、懐疑論者の説得の要請で生まれたデカルト的循環(コギト命題)を再定式化し解消した結果、名目から実在性を証明した神という証明手続き自体が解消され、知性・教育(分かること)の問題に解決された、という感じだ。
posted at 18:45:10

https://t.co/bQv506lS なお、私が「神の証明手続きの解消」と更に関数化したものは、國分氏の文中では「実体の系譜学の破棄」という関数で呼ばれていた。いずれにせよ、それが解消されたのは、分からない人(懐疑論者)を説き伏せるのではなく、導く合理性を得たということだ。
posted at 19:03:13

したがってこれは、國分氏が結論で明言するように、ある種の教育論になっているという点だ。わからない人に無理強いするためにはコギト命題が要請されたのだが、そこでの神は信心される神だ。しかしエチカ冒頭で破棄される神の証明手続きは、知性に矛盾なく合理性を導出してしまう。
posted at 19:07:40

この國分『スピノザの方法』が突きつける、分からない人を本当に分からせる、という問題は、現代文の授業で毎回頭が痛いのだが、昨晩指摘したように、国語教育における吉本隆明氏の「指示表出」の焦点化ともつながっていて、大変興味深い。https://t.co/1DOcqztU
posted at 19:11:28

スピノザの「神の証明手続きの破棄」の最大の誤解者は、私にはヘーゲルに見える。https://t.co/6yqoXdEz 。ヘーゲルの言う精神とは、証明手続きとしての自己原因の以前にもう一度信心する神を宿すという程度の問題のはずだ。
posted at 19:25:23

そのヘーゲルの精神云々について、もはや現代文の国語教育からは、省みられなくなった小林秀雄が、こんなことをいっているわけだ。https://t.co/sqoaZK2W
posted at 19:27:04

もちろん、世の中、分かれば天国、分からなければ地獄というだけなのだが、分からないのではない教育者は、頭が痛いのである。だが命を削ってまで教えるつもりは毛頭ないのであった。(・_・;)
posted at 19:30:31

(とくに)男子の生徒は苦手だ。現代文と自分のプライドを天秤にかけて落胆したりして、きのうも参った。女子は言語論的転回していて、一々、文中の神や存在と自分を天秤に掛けるような、妙な感情論的読み方はしない。男子って大変よねー、文と自分の背比べばかりするよ。(^-^)/ #国語教育
posted at 19:51:20

家族扶養って幕府の洗脳教育か?

2012.06.05

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扶養義務というのは社会が棄民する封建制のようだ。

RT @yutakioka: 「適切でないXはダメ」と言う話をなぜか「X一般がダメなんですね」と藁人形論法してくるバカがいる。
posted at 06:30:35

藁人形論法わらった。日本人は名目的に一般化する強迫観念に憑かれてますね。辺境ゆえの焦りなのでしょうが、最近、憑依現象に見えてますww @yutakioka 「適切でないXはダメ」と言う話をなぜか「X一般がダメなんですね」と藁人形論法してくるバカがいる。
posted at 06:32:42

RT @yutakioka: キツネが取りついたんでしょうねwRT  @sunamajiri 藁人形論法わらった。日本人は名目的に一般化する強迫観念に憑かれてますね。辺境ゆえの焦りなのでしょうが、最近、憑依現象に見えてますww
posted at 06:35:44

RT @NaturPerm: @yutakioka @sunamajiri そもそもの法律の正当性について盲目的に信奉していて、思考停止していますね。
posted at 06:38:12

憑依霊への服従というか、なんか徳川時代への埋没にみえますね。なぜそれほど自信がないのだろう?(・_・;) @NaturPerm そもそもの法律の正当性について盲目的に信奉していて、思考停止していますね。 @yutakioka
posted at 06:41:30

RT @yutakioka: 法治主義を無視して社会通念・道徳・倫理・制度を批判する人を犯罪者と言い出すこの人が考える世界こそ非自由民主主義的全体主義国家だと思うけど。
posted at 06:42:22

RT @yutakioka: これは恐ろしいですね。RT  @sweetsnakany214 一見すると単なるトンデモですが、日本において、高校までの教育で受けた知識のみを前提にすると、むしろ、一般的な思考かと思います。
posted at 06:49:57

RT @NaturPerm: @sunamajiri @yutakioka まぁ彼自身の思想に伝統的な家族観的なものが横たわっているので、それへの疑いを差し向けられてしまうと「社会正義に反してる!!」としか出てこないのでしょう。是非とも扶養義務の正当性について熱弁をふるって欲しかったですね。
posted at 06:50:46

やはりその話でしたか。個人的に親族に生活保護者がでて、役所から扶養するか?という書簡を受け取って、こっちのほうが保護されたいと、突っぱねた経緯があるので、いくらでも議論するのに(^-^)/ @NaturPerm 是非とも扶養義務の正当性について熱弁 @yutakioka
posted at 06:54:27

生活保護の家族扶養って、国民国家や社会が棄民を積極的に奨励する、封建制への回帰にしかみえない。幕府なんてもともと荘園を武力で奪った、乞食が出自の盗賊どもの統治だが。そんなものは許さん(^-^)/
posted at 07:02:34

パズル化された存在と指示表出の問い

2012.06.05

ファイル 226-1.jpg

2012年06月02日(土)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120602

読解塾最初の授業終わって暇になったので、スピノザの方法~334pのテクスト読み。対立項は、各属性によって表現された実体の本質に対する、無限に多くの属性を有する実体の本性。本質を表現する属性を無限に多く有する実体の本性。 http://t.co/9qclFN0R
posted at 19:18:55

エチカ定理八までは、語の関係性から実在を証明し、定理九以降は実在から神存在の証明へ、という移行はどのようにして可能か、という國分氏の論。八までは、一つの属性が表現する本質、九以降は、無限に多くの属性を有する本性。 http://t.co/se8xzNFb
posted at 19:40:08

いくつかの対立項。名目から実在の証明vs実在から存在の証明。結果から遡行する証明vs原因となる観念の中での証明。実体の本質を表現する各属性vs無限に多くの属性を有する実体の本性。
posted at 19:57:44

メモ。エチカ定理八までが、前段の仮定に基づき結果から遡行する用語の関係性の証明(実体の本質を表現する各属性の証明)。九以降は、無限に多くの属性を有する実体の本性を、原因となる観念(言語)の中で証明。 http://t.co/LBtwKKQo
posted at 20:01:18

國分氏によると、書簡集に残るエチカ草稿の痕跡から推論される蓋然性として、エチカ定理八までと、九以降の証明対象の変更は、こんな対立項(画像下部)として描けるようだ。ややこしい。 http://t.co/7XwGVsEF
posted at 20:25:31

RT @ya039_kiyoshi: @sunamajiri スピノザの定義によれば、実体は一つであり、それは神のことを指していますね。
posted at 20:25:47

そうですね、たとえば自然や、実体の本質を表現するものとしての一つの属性ではなく、実体の本性は一つ、つまり神ですね。RT @ya039_kiyoshi: スピノザの定義によれば、実体は一つであり、それは神のことを指していますね。
posted at 20:27:29

授業が暇だから、ホワイトボード使って、論述の対立項を抜き出しながら、読んでいる。図解しないと、誤読しそう。(^-^)/ http://t.co/8x84hArA
posted at 20:32:27

属性め、勝手に思惟していろ(そんな現象が何だと言うんだ。この不存在者めが)(^-^)/
posted at 20:50:28

RT @LitoSnowfield: あ…独特な書き方をなさっていらっしゃるような感じがします(^o^;)> 一つ一つの言葉と関係を押さえて行かないと行方不明になりそうです(*uou)⁇
posted at 20:52:15

RT @LitoSnowfield: @sunamajiri このややこしさが日本語の特質に関わっているのかも知れませんね~…(*u_u)⁇
posted at 20:57:09

なんかそんな気がする。日本語は自己化する属性と親和性が強そう。本性は語らないな。 RT @LitoSnowfield: このややこしさが日本語の特質に関わっているのかも知れませんね~…(*u_u)⁇
posted at 20:58:31

RT @LitoSnowfield: @sunamajiri 日本語はど真ん中をスパッと直接に指摘するのが苦手なように感じるときがあります…(*^o^)>
posted at 21:30:04

んで、属性の変な自我のつもりになって、思惟しすぎたり、本物の偽物に表象したりするのかしらねー?(^-^)/@LitoSnowfield QT: 日本語はど真ん中をスパッと直接に指摘するのが苦手なように感じるときがあります…(*^o^)>
posted at 21:32:17

RT @LitoSnowfield: @sunamajiri あ…先日の紛い物に繋がるような…なんて(*^o^)>
posted at 23:31:27

そうそう。紛い物=表象に翻弄される思惟する(バカ)自我=アイデンティティーみたいな。なんか思惟=属性って今でいうアイデンティティーに見える。本性じゃない仮面になり切りみたいな。RT @LitoSnowfield: あ…先日の紛い物に繋がるような…なんて(*^o^)>
posted at 23:37:56

アイデンティティーだけは受け付けない。属性も。思惟する自我にだけはなりたくないよー(^-^)/
posted at 23:41:28

これから、現象とかいって思惟するバカみたら、この属性め、いつまでもアイデンティティーしてろ、と罵倒することにした。まあ二次元とか表象のほうが、たしかに(本物より)カワイイという気持ちは分からないではないけどねー(^-^)/
posted at 23:48:44

思惟してないで愛してると言え、属モノどもが(^-^)/
posted at 23:49:13


2012年06月03日(日)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120603

量としての実在性(realitas)に対して、属性量による存在(esse)。デカルトが(事物を)実在性の量(リアルさ)で神観念化したのに対して、量をいわば属性化することで、観念(言語)にいわばア・プリオリにある神を単に証明すること。 http://t.co/ASBoj4lA
posted at 20:22:43


2012年06月04日(月)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120604

おお、スタトレヴォイジャーみたい(^-^)/ RT 【タイムパラドックスを回避する方法】いわゆる「親殺しのパラドックス」問題。こうした矛盾を回避するという「事後選択」説が検証されている http://t.co/SALwRdDe
posted at 09:59:04

スタトレとか、タイムパラドックスもの、時空工学ものにナルのに対して、日本のSFは、なぜか歴史認定てきになる、と前から考えていたのだが、そうかゲーデルだったか。アインシュタインの解法として時間が輪になっているといったのは。http://t.co/lHWDuxrV
posted at 10:01:56

そして、アインシュタインの解法としてゲーデルが示した時間的閉曲線(タイムトラベルのパラドックス解消の一つ)は、スピノザと比較される。http://t.co/aIWLcZt2
posted at 10:03:07

https://t.co/28pi35Ke 量を実在性(デカルト)から属性にするスピノザの神証明は、結果からの証明の遡行ではなく、原因からの証明=観念だが、現代量子論で問題になっているアインシュタインの解法としてのゲーデルの時間的閉曲線の問題と、似た問題系であるらしい。
posted at 10:07:47

私がそもそも問題にしているのは、巽孝之氏の論考ではないが、日本のSFが、家畜人ヤプーのようなタイムパラドックスでも、歴史叙述のヴァリアントになるのに、米国のSFでは、タイムパラドックスの扱いが別の系になる、という問題なので、非常に面白い。
posted at 10:11:04

アインシュタインの時空のゲーデル的解である時間的閉曲線とスピノザの決定論の差異が、まだ理解できていないのだが、このあたり個人的に一番ワクワクする話だ。ちょっとずっと考えてみよっと。(^-^)
posted at 10:14:27

スタートレックシリーズは、女艦長のヴォイジャーシリーズ(90年代後半)になって、タイムパラドックスの可能性をやりつくすような挿話だらけになった。その後に9.11が起こり、それを東氏たちが論じていたのだが、ちょっとその問題を再考してみたい。
posted at 10:20:16

RT @heidegger_bot: フッサール自身、「序言」を書いたときに、自分自身の仕事を誤解し、改良された心理学として把握するというまったく間違った解釈をおこなったのでした。「カッセル講演」
posted at 10:29:53

心理的なものや、量を実在性の量にするようなものは、証明が矛盾を抱えるからどうでもよい気がする。
posted at 10:30:52

量を実在性(リアリティー)ではなく属性にすると、観念を結果ではなく原因とできるというスピノザの方法と、時間閉曲線というゲーデルの決定論の解法、について何か考える方法は無いものだろうか? 日米SFのタイムパラドックス比較で十分な気もするが。(^-^)/
posted at 10:32:28

シェリング対スピノザhttp://t.co/RHnsZ8bJ 「しかし、スピノザが本当に異色であるのは、観念と物質とが関わらないと主張したことの方」。観念とは語彙、平行とは言語と指示対象の峻別のこと。
posted at 13:30:07

http://t.co/RHnsZ8bJ 言語(語彙)と指示対象の平行。つまり意味は語彙(観念)同士の証明によって得られるしかない。これをシェリングはヘーゲルの入れ知恵でどう誤読していったか?という話だ。
posted at 13:32:30

次に、ヘーゲルVSスピノザ http://t.co/Hwb8myoH 実体と証明=命名された自己原因の前に、絶対精神が欲しくなってしまうヘーゲルのスピノザ誤読。しかし、ついぞ弁証法だけでは、自己原因を実体と命名する証明、つまり言語論的な転回は得られない。
posted at 13:41:33

デカルトVSスピノザ http://t.co/YjTgppUe デカルト二元論では、身体が実体であるため、受動的な精神が身体を支配する能動性が情念だが、スピノザでは実体は観念=言語であるため、感情は単に他人と関わる時に生じる問題にすぎない、等々。
posted at 13:50:55

デカルトVSスピノザ 体系の変形http://t.co/CyKAIZIU スピノザは、汎神論だとか神と物質を混同していると非難されたが、それは彼にとっては心外だった。「人々が私の立場は神と自然を同一視する思想に立っていると考えているのは~全然間違いです。」(書簡73)
posted at 13:54:11

・・はっきりいってスピノザは、ただ読解には対立項が必要だ、そうだとわからないのなら、その対立項の両輪を証明して上げよう、といっているに過ぎないように見える。それがスピノザの平行論なのだが、近代はこうした言語性の誤読として精神を生んでしまう。
posted at 13:56:26

ゲーデルVSスピノザhttp://t.co/aIWLcZt2 これは午前中ツイートしたように、量子物理学で問題になるタイムトラベルには自由意志があるか?というパラドックス。ゲーデルはスピノザに対しして、時間閉曲線をアインシュタインの解法として解いた、という話。決定論と矛盾がない。
posted at 13:59:13

物理学のタイムパラドックスhttp://t.co/NQP2Q4I0 はスピノザ的決定論を対局にして時間湾曲説や事後選択説になっているという。アメリカのSFが好む題材。日本では家畜人ヤプーのタイムトラベルしか生じない。それはなぜか?という言説分析。
posted at 14:02:35

では國分氏は何を論証したのか? エチカが記号と対象(延長)の平行性によって、神を実体と命名できたのが、知性改善論の2つの逆説、つまり無限ループに陥る懐疑論を説得しないという観点だ。これを誤読すると情念やヘーゲルになったりするのだろう。情けない。(・_・;)
posted at 14:06:13

RT @gendaibuntan: 「自我」って本当に絶対確実なものなのかしら? デカルトは「我思う故に我あり」という風に、疑っている自分だけは否定出来ないとしたけれど、でも結局自我って他者(他我)との関係性の中で生じているんじゃないの? ほら、アイデンティティとか。フフッ♪ どういうことかしら?
posted at 14:08:24


2012年06月05日(火)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120605

RT @FukushimaKokugo: 「(読解で)『それ』とは何かを考えさせるのは重要」と芦田先生。自己表出としての「それ」の〈像〉をつかんでいるかどうかを考えさせるのならば、と。受験問題の「それとは何か」は単に言葉を並べさせるだけで終わっています、と私が言うと、それは指示表出を問うにとどまった問題、と。なるほど。
posted at 03:40:30

RT @FukushimaKokugo: 「接続詞より名詞が重要」「論理論理というやつはすぐ接続詞に走るからいけない」。このあたりは吉本隆明をもっと読まないと、深くは理解できません。
posted at 03:41:15

起きたらTLに国語塾の福嶋先生が、芦田先生と電撃的会食をして、国語は指示表出の評点だ、という吉本隆明論をやってきた、というツイートが目に止まった。https://t.co/ulU7K8Z4
posted at 04:30:00

一ヶ月ぐらい前に摂津君と何かの文脈で自己表出、指示表出という吉本隆明論になった。『言語にとって美とは何』か、はもう四半世紀も前に読んだので覚えていないのだが、芦田先生がうまくまとめて下さっている。http://t.co/N8ZzACZ8
posted at 04:32:35

http://t.co/N8ZzACZ8 芦田氏によると、晩年の吉本隆明が、自己表出・指示表出をわかりやすく解説したという。僕にだけ分かる文学の感動が自己表出、それを他人と共有するのが指示表出。だから国語の問題では、それを指示して問える、という話のようだ。
posted at 04:34:14

http://t.co/N8ZzACZ8 芦田氏によると、指示表出を沈黙にすり替える柄谷行人や蓮実重彦の唯物論は、文学受容の誤謬という指摘だ。この晩年の吉本隆明のNHKの番組を見てないので、見てみたくなった。
posted at 04:37:20

ところで、吉本隆明の自己表出・指示表出という論点は、言語は平行性というスピノザの哲学=言語観をツイートしていた私に、たしか攝津君が一ヶ月ぐらい目に指摘していたのが興味深い。http://t.co/2GCoxqJB
posted at 04:41:05

なぜこのことが興味深いかというと、芦田先生と会食した福嶋先生のツイートhttps://t.co/OvSsaXCJ にあるように、私の読解法は、接続詞を飛ばして読め、必要なのは対立項と、対比の理由だ、というものだからだ。つまりそれが指示表出だと、生徒に教えているわけだ。
posted at 04:43:28

吉本隆明を最後に読んだのが四半世紀近く前なので、吉本のジャーゴンに引き寄せて指摘できないが、この接続詞を省け、名詞同士の関係性から理由を抽出せよ、というのが指示表出=国語の解法のように思えている。
posted at 04:45:04

あまり妥当な極論ではないが、接続詞は自己表出、名詞により作られる対立項と理由が指示表出、そういう読みのほうが、子供たちの国語力が伸びる、ただそれだけの話だ。
posted at 04:47:33

しかしこれは、ヘーゲルが誤読https://t.co/6yqoXdEz したスピノザの言語観https://t.co/RhqG9n6f そのものであり、こうした「指示表出」を取り出せなかったのがデカルトhttps://t.co/X1kcTECq なのだろう。
posted at 04:49:34

ではなぜhttp://t.co/N8ZzACZ8 柄谷行人は、蓮実重彦のように、文学の指示表出を沈黙させたのだろう? ヘーゲルがスピノザに満足せず弁証法で、自己原因に先行する精神を仮定したからなのだろうか? そのあたりを考えよう。https://t.co/6yqoXdEz  
posted at 04:53:36

問題は子供だ。子供たちは物語は読めても、解説文である論説文が読めない。なぜかというと、文中の接続詞に躓き、何の話題か、というところに入っていけない。それで解けない。だから接続詞の飛ばし方を、まず最初に教えることになる。
posted at 05:05:28

さらにいうと、そういう読解力なので、指示表出としての物語文(小説)も、子供たちはじつは読めていない。しかし、学校では接続詞を読ませようとしている。こういう生徒さんが一番多いわけです。
posted at 05:07:17

構造主義や物語論を誇張しても何も出て来ませんね。つまり何も伝えたことにならなさそうです。@aoinatsunosora 物語を構造で思考しても、理解や意味への思考が不足すれば、思考そのものがただの積み木遊びにしかならないと思います。
posted at 05:21:03

自責化する日本語

2012.06.05

ファイル 225-1.jpg

2012年06月02日(土)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120602

RT @LitoSnowfield: @sunamajiri 何となく、スピノザさん→国分さんの流れの中で日本語の…sunamajiriさんがご指摘なさった…逆転が見えてきたように思います(*^o^)> ふと…架空の書籍の評論集の「完全な真空」という作品を思い出しました(笑) http://t.co/bXcLyzTK
posted at 23:58:56


2012年06月03日(日)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120603

自分は社会人じゃないから、ブッキッシュに本(小説文学)の中に本当の実存を探すんだ、といって気が狂う人が周りで後が立たない。どうやら彼らは、「自分」はなるものだ、という病気らしい。一人は強烈なマザコンだった(母親がすごいプレッシャー源)、それで結局実存になれない。イロニー?
posted at 00:07:49

さっきのマザコンさん、私より一つ上でもう50だが、どうも3~4つ下に断層があって、筒井が笑えなくなる世代が出現してると、いつも話していた。@LitoSnowfield 一時期、筒井康隆さんの影響で実験的な小説ばかり読んでいました。“ん~…分からない。わはは(笑)”なノリに近い~
posted at 00:15:55

メタフィクションじゃないが、そういうの楽しむのが文学じゃないの?と思ってたら、人生を学ぶために文学があるとか思い込んでる世代が出現したみたいなのよ。あれは驚天動地だって。その筒井のどこが面白いんですか?と言ったアラフォーさん、真剣に人生を問い詰めて出家したいとかいってた。
posted at 00:31:05

RT @LitoSnowfield: @sunamajiri 大雑把に言えば、筒井さんは設定や状況で笑って、今の流行りは登場人物のキャラクターで笑う…みたいな違いがあるのかも知れませんね(*^o^)> 文房具が宇宙船にのって彷徨う“虚構船団”も「どこが面白いの?」になりそうです(笑)
posted at 00:31:21

なるほど、文学が言葉遊びじゃなく、アイデンティティー探しなのね。そういえばそういうがよく御大手予備校の模試でだされるなー。で皆解けないw @LitoSnowfield 大雑把に言えば、筒井さんは設定や状況で笑って、今の流行りは登場人物のキャラクターで笑う…みたいな違いがあるのかも
posted at 00:36:04

そうそう、哲学だってそういう言葉遊びに近いものがあるのに、真に受けて自分探しとかしちゃう人が出てきてる。あれは危ない。(・_・;) @LitoSnowfield 文房具が宇宙船にのって彷徨う“虚構船団”も「どこが面白いの?」になりそうです
posted at 00:37:02

哲学概念を観念、つまり言語操作の遊戯みたいに思えないで、自分探しがそこから出来ると思い込む危なさって、筒井が断筆宣言の時に問題になっていた、ポリティカル・コレクトネスのような言語の硬直と同じね。結局、読解力がないから、ポリコロしか眼中になくなる。単なるバカw
posted at 00:42:42

RT @LitoSnowfield: @sunamajiri ああ~~(*^o^)ノシ☆ だから自分探しで自分が見つからなくて自責化するのかっ! …なんて(笑) 何か真面目というか一途?なのでしょうね…。自分はそこにただ在るだけなのに。古典の“青い鳥”でも描かれているように…(*uou)>
posted at 00:46:03

そうそう、自分が悪いんだ悪いんだって生真面目にいってるでしょ? それをアラフィフあたりは、はぁ?って。@LitoSnowfield あ~~(*^o^)ノシ☆ だから自分探しで自分が見つからなくて自責化するのかっ! …なんて(笑) 何か真面目というか一途?なのでしょうね…。~
posted at 00:47:40

究極的に弄ってるからね。言葉の最大値が多いよ、無限とか、必然とか、永遠とか。読解できない子は、なんでそんな言葉が出てくるのか理由もわからず、無限とか考えて出家しちゃうのかな?@LitoSnowfield 哲学も言葉遊びの延長(*^o^)> 確かに色々と弄くりまわして発見してしまう
posted at 00:51:33

ちょっと違うけど、こういう模試が最近やたら多い。読書で人生勉強するな、という評論ね。もちろん文学で自分探ししたら不正解で大学入れない、という模擬試験ww (^-^)/ http://t.co/ogY6wiSo @LitoSnowfield
posted at 00:54:16

まあ文学や哲学を言語遊戯のように軽くとらえられないのも、女子が男子に重い物つきつける、へんな時代だからなのかもねー。もっと軽く考えられないものなのかしら? 軽さと重さよ。趣味判断じゃなく、重量判断(^-^)/
posted at 00:56:14

そうそう、自分が悪いんだ自分が悪いんだ、って言い続けるのよね。バカか病気w RT @LitoSnowfield: あ…対立項が読めないから、自分の言動と他者の言動の混乱が起こり易いのかも知れませんね~…(*uou)> 自分は探せないのに力技で正当化する傾向もよくお見掛けします
posted at 01:01:49

あの筒井とかが危険視した生真面目な世代がほんとに跋扈しはじめたのよ。読解力もないし。あれはほんとに自分探ししちゃうよ。たぶん彼らにはわれわれは理解できないのじゃないか、と最近感じる。
posted at 01:06:28

生真面目は思惟する属性になるよー。アイデンティティーして重い物背負わされるよー。自分がすべて悪く思えちゃうよー。(^-^)/ そういう生真面目→重たい、というのが日本の病理かな?
posted at 01:08:18

RT @watarihoukou: @sunamajiri @LitoSnowfield 自分を責めたら問題解決できるという幻想。せいぜい誠実さを演出できるだけ。自分を苛めたら世界が変わる、または救えるという所まできたらもうビョーキ。
posted at 01:08:42

ですね。私の知り合いの入院しちゃうまでいくひとが、世界を救いたがっていた(・_・;) @watarihoukou 自分を責めたら問題解決できるという幻想。せいぜい誠実さを演出できるだけ。自分を苛めたら世界が変わる、または救えるという所まできたらもうビョーキ。
posted at 01:09:20

そういえばその自分が悪い→哲学は存在論的言葉遊びではない、というすぐ入院しちゃう御仁が、ついに演繹だか帰納だかしたら、自分がキリストだとわかった、あなたが神だから、と電話してきた翌日、入院しちゃったなー(・_・;)
posted at 01:10:46

https://t.co/RqYS66Wb そういえば、人生で始めて神といわれたなー。全然うれしくなかったけど。言った人はカント学者の弟子のメルポンティープロパーさんだったが(・_・;)
posted at 01:15:27

RT @LitoSnowfield: @sunamajiri あはは(*^o^)> そういう世代にとってはお説教のような模試ですね(笑) 物語…虚構…を読み続けて、以前は同一化を卒業する時期が来るものですが。反面すぐに“ヤラセヤラセ”と言い出す反転のような現象が興味深いです(*uou)>ムゥ
posted at 01:18:44

そうなのよ、人生勉強だとおもってるからね。一番すごかったのは、読書の仕方を教えて下さいというので、本屋で好きな本選んでこいといったら、自己啓発本を買ってきた子。目も当てられなかった。でもそれより目も当てられないのは、啓発本以外で啓発されちゃう人。 @LitoSnowfield
posted at 01:21:06

2012年06月03日(日)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120603

TLに生活保護が家族扶養のモラルの問題ではなく、バブル以降政治家が雇用を創出しないモラルの低下だという話が流れているが、昨晩ツイートした、文学や哲学を真に受けて自責にとらわれる世代の出現も、シンクロしてるよね。https://t.co/rjaMSsBC
posted at 13:48:12

RT @yutakioka: そして、他の社会保障などを整えれば、必然的に生活保護も減る。生活保護受給者が増えてるのはモラルクライシスではなくて、他の社会保障制度が機能しなくなってきていることの表れに過ぎない。
posted at 13:37:28

RT @yutakioka: そうですね、その大前提はバブル崩壊とともに崩壊しましたね。 RT  @yoshino 制度設計の大前提『ワーキングでない故にプア』が崩壊したからですかね
posted at 13:38:36

RT @kazukazu881: いつから政治家の仕事は上から人々に仕事の選り好みをするな、働け、さもなくば社会保障を打ち切るぞと脅迫し人々を奴隷化することになったのかしら!政治家の本来の仕事は雇用の創出と労働環境の改善だろう、バカタレが!
posted at 13:40:21

それゆえ、現代文(国語)でも、最近は、文学は人生勉強とは別だ、と読ませるテクストが豊富になってきている。https://t.co/xmogjZYI
posted at 13:51:46

読解力がないと、自分が悪いんだと自責する人間が作られ、たとえば生活保護でも家族が扶養しないのが悪いという誤ったモラルを強いられるようになる。しかし本当のモラルは、雇用を創出できない罪悪のほうにしかない。https://t.co/SWdbBmPy
posted at 13:53:14

https://t.co/rJs2XO6b ちょうどバブルの頃、現代思想はジャーゴンで遊んでいた。しかし本来、哲学とは存在論級の言語遊戯であり、寧ろ健全だったはずだ。それを今や悪者扱いにする風潮が気になる。思想を真に受けて自責に憑かれた世代が、説得のモーメントの罠にかかったようだ
posted at 13:56:27

ところで、國分氏のスピノザ論も、説得のモーメントや自責の克服の言説に見える。この東大理二生https://t.co/Outgp7so の、むしろ柄谷行人のデカルトはスピノザだ、がよく要約できていると思う。説得するより遊戯する。本当の自我性とは、自責の強迫に憑かれていないのだ。
posted at 14:07:10

https://t.co/Outgp7so 存在論級の言語遊戯、神証明は懐疑論者を説得しない。だからデカルトの妥協の産物は、スピノザのような観念=存在論級言語の遊技者のターゲットとなる。柄谷行人もデカルトをターゲットにスピノザ化しようとした。そういう健全が困窮し今や自責の時代だ。
posted at 14:07:56

それは、バブルというより冷戦の終結以降、雇用創出のモラルが崩壊し、ついには生活困窮者の保護のモラルに矮小化した自責の時代に、思想を真に受ける人々が続出しているという事態だ。彼らは観念論をたぶん真逆に捉えるはずだ、何かを説得されたがっているからだ。
posted at 14:12:39

冷戦後、雇用されない人々は、存在論を懐疑し、道具を作るためには先行する道具がいる、という哲学の無限ループ、つまり懐疑論に陥った。それがモラルを自分に適用し自責に囚われる人々だ。そういうものは単に自我とは呼ばれない、それだけだ。彼らは文学も哲学も自己啓発書のつもりで読む。
posted at 14:23:51

おそらく、バブルや冷戦後などの一過性の出来事に普遍性を適用するのは無意味だ。それにもかかわらず、彼らはモラルの問題だと思っている。あるのは雇用されないモラルではなく、雇用しないモラルという状況だけだろう。
posted at 14:26:51

バブル時代には、哲学も文学も、存在論級の言語遊戯だった。それは労働としての近代がそこそこ潤っていたからだ。柄谷行人を見ればよく分かる。それが崩れると、とたんに言語遊戯は懐疑論に取って代わられる。だから國分功一郎氏のスピノザの方法が、このタイミングの言説なのだろう。
posted at 14:31:24

自分が悪いという自責する雇用されない人々は、読書に自己啓発しか期待していない。彼らの言う懐疑論は実は懐疑論にもなっていない。だから最近の受験国語では、ほとんどその問題ばかりが出題される傾向にある。誤謬は正される必然性があるからだ。https://t.co/AEERalYd
posted at 14:34:19

雇用されない人々の自責の歪んだモラル観に乗じてるのがご存知ブラック企業だが、松下幸之助のような人こそhttps://t.co/dLy0c8wR と根性論しかいわない。まあ対立項は天才より平凡という文脈のはずだが。このように雇用創出者の側にモラル、いや哲学がないというだけの話。
posted at 14:41:58

はっきりいって、モラルのない松下幸之助のようなブラックな人々に、平凡がいいよ根性を出しなさい、と言いくるめられて、雇用されないのは自分が悪いと自責の念に憑かれるというのは、国語教育の側から見ると読解力=国語力がない、というのと一枚岩。そういう話。
posted at 14:47:46

生活保護の問題も、国内に家族のいない、扶養者のいない外国人が貰いやすいという(本当かどうかしらないが)話が浮き彫りにするように、家族なら扶養という負い目を感じさせて、ますます自責の念を煽られるんだろうね。よからぬことだね。(・・;)
posted at 16:22:16

(近代=)労働と背反した(自然との共生)という過去問 http://t.co/bGAZjrBP を理解させるために使ったホワイトボードの図のメモ http://t.co/jsBIGahG
posted at 19:48:52

いい所まではいった紛い物の乗り越え

2012.06.01

ファイル 223-1.jpg

攝津氏の不合理としての戦後文学のような文脈からのツイート切抜き(自分用メモ)です。三島の自決どころか大江や春樹に宿る茶番。自殺の乗り越え譚。紛い物としての表象への欲望。そんな流れだったような・・・・。(・_・;)


2012年05月31日(木)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120531


攝津氏を一部だけRT

RT @femmelets: 当時既に自民党の議員であった石原慎太郎は、三島の自決に接して、理解できない、三島は狂気であるという談話をマスコミに公表したはずだが、確かに論理的に理解できる振る舞いではない。だが、狂人とは思えない文章を書く三島がどうしてそういうことをやったのかは、やはり謎というしかない。
posted at 23:44:53

RT @femmelets: 三島に限らずフーコーについても、ただの同性愛、マゾヒズムとだけ解釈する意見があるが、恐らくそうではないであろう。それでも彼らの思想や表現に、何らかの非合理的なものや影があるのは事実である。
posted at 23:44:56

RT @femmelets: 例えば三島の最後の小説、『豊饒の海』は、転生という宗教的虚構を信じることで成り立っているが、どういうわけか『天人五衰』のラストでそれを否定してしまう。否定されるのは輪廻だけではなく、主人公の記憶の総体である。つまり、確かにリアルであったはずの何かが、全部消滅してしまうのだ。
posted at 23:45:07

RT @femmelets: 三​島の文章にも似たものを感じる。根っこに非合理があるというのは​、そうでなければ、いきなりインドの唯識思想に飛びついたりする​はずがないからだが、それはともかく、その設定の範囲内で、三島​由紀夫も合理的だと思うが。
posted at 23:47:44

RT @femmelets: 三島由紀夫のライヴァルは大江健三郎だが、大江は進歩的だという発想は疑うべきである。彼らの関わりで重要なのは、障害がある子供を受け入れるという『個人的な体験』のラストを三島由紀夫が安易であると批判したことである。
posted at 23:47:52

RT @femmelets: そもそも三島由紀夫は、戦後文学への美的な否定性としてあったが、大江健三郎に対してもそうだったということである。そして戦後文学(戦後派)にせよ大江健三郎にせよ、それほど健全ではない要素が濃厚に存在している。
posted at 23:48:25

攝津君のツイート刺激的。最近文学を考察しないからだが。
posted at 23:57:23


2012年06月01日(金)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120601

攝津君が考察しているように、確かに現在、日本に唐突にあるのは、三島の自決というある種の合理性への負い目と化した石原慎太郎の文学的コンプレックスが、文学ではなく政治の不合理のように全体を覆っていることだ。それは大江のようなある種の不合理ではない気がする。合理性の捻れ。
posted at 00:01:54

三島由紀夫が照らしだしてしまう合理性の問題は、日本では単に政治的だが、世界に照射されると、西欧やヘレニズムに遡行するあらゆる合理性を照射してしまい、逃げ出せなくなるようなイメージだ。
posted at 00:04:25

たとえば、いまちょうど「スピノザの方法」を読みながら、なぜ古代のsubstance=実体http://t.co/1KQWSTwd が、スピノザに概念から実在性を証明させてしまうのか、というところを考えていたところだが、摂津くんの三島考察は、それよりも広大なのかもしれない。
posted at 00:09:12

RT @femmelets: @sunamajiri 私は日本近代文学の素人ですよ。事実関係は、三島由紀夫は同時代人に理解されない不可解な死に方をしたし、現在もなお謎は解明されていないということだけです。彼が『豊穣の海』を書き上げて死んだのは奇妙ですね。自分の死を意味づけたわけでもないようですから。
posted at 00:14:37

いやいやジャズに対しても戦後文学に対しても、フーコ的な読みの実践としてはプロのはずですよ笑 @femmelets 私は日本近代文学の素人ですよ。事実関係は、三島由紀夫は同時代人に理解されない不可解な死に方をしたし、現在もなお謎は解明されていないということだけです。
posted at 00:16:59

母が自決の日ちょうど豊饒の海を読み終わり、この人は死ぬわと思ったら、ニュースが入ってきたというのと、村上春樹が自殺譚を三島へのトラウマかオマージュで物語るのとが頭に固着しています。@femmelets 『豊穣の海』を書き上げて死んだのは奇妙ですね。自分の死を意味づけたわけでもない
posted at 00:20:31

私から見ると、要するに自決というか、自殺の合理化のような話として、三島は今の日本の政治や、世界の遡行を照射してしまうようなパースペクティヴに見えてしまう。安楽死ではないが、自殺の自由という究極の倫理というか。
posted at 00:22:03

大江というと、村上春樹がオマージュしたように、ノーベル文学賞のタイミングの緑の森三部作では、トランスジェンダーが物語の合理性、というよりハッピーエンドをかろうじて維持してしまう。その大江は脱原発と声高だが、かつては推進派的な戦後のある種の政治みたいなところがあった。
posted at 00:24:46

RT @femmelets: @sunamajiri 専門外を語り過ぎると、大風呂敷を広げて、といわれますからね。確かに『天人五衰』はもう死ぬ感じがしますが、なんといいますか、本当に無意味な死ですね。右翼的なものであれ、政治的な意味や動機はないでしょう。自衛隊のクーデターなどもちっとも現実的ではなかったし。
posted at 00:26:23

RT @femmelets: @sunamajiri そして三島由紀夫には政治的な無意味が分かっていたでしょう。彼が市ヶ谷の駐屯地を「楯の会」と乗っ取って、自衛隊員に蹶起せよと演説したが、若い自衛隊員連中の反応は、意味不明、わけがわからない、何を馬鹿なことをいっているんだ、などの罵声・嘲笑でしたからね。
posted at 00:26:28

そう、茶番みたいな自決だからこそ、彼はたぶん個人的に自殺という自由を得た、みたいに見えるというか。現在の大江氏より茶番なわけです。たぶんどんな日本人より茶番。@femmelets 三島由紀夫には政治的な無意味が分かっていたでしょう。
posted at 00:28:20

ポスト3.11的には、この大江的な合理性とか、三島の自決の茶番的不合理とかが、原発に日本人だけが執着する亡霊化みたいな、政治の文学化のようなものに、輪廻してしまってるように見える。あれは何だろうと。
posted at 00:34:52

あれはわからないよね、5回読んで分からなかった。イエーツに言及する物語の自由のような話なのだが。@femmelets 大江健三郎の『燃え上がる緑の木』のトランスジェンダーは、確かによく分からないんですよね。
posted at 00:36:51

たとえば、日本だけ原発に固執するのが、世界的には茶番(アメリカはどうかしらないが、アメリカは世界ではない)というのが、三島の茶番の世俗化にみえてしまうわけです。大江の茶番はトランスジェンダーでイエーツとかに戻るんです。あれは何?
posted at 00:38:33

日本の原発は、たぶん茶番なアメリカのなせる技だとはおもうんだけど(アメリカなんて巽孝之さんによれば、海賊だし信仰告白譚だし、私から見れば茶番)、でも三島の茶番は、もっと確信犯的、合理的な、自殺という個人の自由みたいな、非常に厄介な問題を投げかけたなと。
posted at 00:40:49

まあアメリカとか茶番劇は、傍観者的には(つまり受け手的には)エンターテインされておもしろいんだけどね。三島の茶番は全然面白くない。
posted at 00:42:20

まあアメリカとか茶番劇は、傍観者的には(つまり受け手的には)エンターテインされておもしろいんだけどね。三島の茶番は全然面白くない。村上春樹なんて、その面白く無い茶番をトラウマで、オウム以降も引きずってる気がする。
posted at 00:43:25

RT @femmelets: @sunamajiri 大江健三郎の『燃え上がる緑の木』のトランスジェンダーは、確かによく分からないんですよね。
posted at 00:43:44

RT @femmelets: @sunamajiri 大江健三郎の或る時期から(『個人的な体験』以降?)の小説はどれも難解ですが、『燃え上がる緑の木』はトランスジェンダーという設定の必然性がさっぱり分かりませんね。
posted at 00:43:46

RT @femmelets: @sunamajiri 細かい話をいえば、『洪水はわが魂に及び』では、主人公が若い活動家連中のオーラルセックスを目撃して、不自然だと憐れむ場面があります。ちょっと古い性意識だと思いましたね。膣=ペニス性交(挿入)が自然で正しいセックスだというのはね。『緑の木』までは遠いです。
posted at 00:43:51

そうですね、スピノザが知性改善論で匂わせるようなww 性遍歴しかない。大江は頭くるから数年前全部捨てちゃって手許にないんだけど。@femmelets ~ちょっと古い性意識だと思いましたね。膣=ペニス性交(挿入)が自然で正しいセックスだというのはね。『緑の木』までは遠いです
posted at 00:45:47

この前、大江さんが夢に、徘徊老人役ででてきたぐらいだからなー。認知症になった大江さんが書店の床に寝転んで泣き喚く夢、でも悪い人ではなさそうだけど。大江さんの茶番は三島的茶番を超えてはいないなー。大江さんの闇、実存の闇、あれは何なの?
posted at 00:51:42

ちょっと語弊があるけど、三島さんのようにもっと楽しく自殺できたら、たぶん自殺しなくなるんだろなー、とは思った。性遍歴みたいなものだけでは、そういう境地に達せないんだろうなーって。ああ、死にたい。(^-^)/
posted at 00:56:19

三島じゃないが、肉の牢獄を最近感じるのは、天人五衰つまり老化のせいなのよねー。寝れないし寝てないから身体がしんどくてというような。解き放たれたい。笛吹いてる時だけだ解き放たれるのは。昇華したい。なんでできないのだろう?(・_・;)
posted at 01:00:15

あ~、また巽さんにRT https://t.co/cNI5kCvA されちゃったわねー。最近文学は考察してないので、どんどん読みに五衰があらわれ、不随意におぼつかなくなってるので、妄言ですよ文学については。
posted at 01:02:44

摂津くんにしろ、巽さんにしろ、厳格なフーコーディアンの前では、妄言を吐くぐらいしかできないのです。(・_・;)
posted at 01:03:43

ところで、哲学は学んだことがないので、テクスト外の哲学者の伝記とかしらないもので、清水禮子「破門の哲学」の冒頭が、自殺の話ではじまるで一瞬ぎょっとした。清水氏はスピノザを自殺の乗り越えとして書こうとしてるね(70年代の物語風博論)。それも気になっている。
posted at 01:09:55

RT @keio_sf: 三島は何やっても言ってもネタのように見えてわからん。腹は切ったが、その腹の中が終いまでわからん。
posted at 01:10:00

RT @sazameyuki: @sunamajiri 死んじゃダメですよ~
posted at 01:18:28

うん、そうなのよねー、そこが難しい、たぶん死ねないけど、簡単ではないよねー(^-^)/ @sazameyuki 死んじゃダメですよ~
posted at 01:13:13

RT @Flauteie_exerci: @sunamajiri @sazameyuki 突然失礼します。フィリップ・グラスがMishimaと言う曲を作曲してますね。http://t.co/JH9VEQL2
posted at 01:18:30

けっこう落ち着く綺麗な曲なんですよね。バレエのベジャールが三島のバレエをやったり、けっこう三島は今でも世界の中心? @Flauteie_exerci ~フィリップ・グラスがMishimaと言う曲を作曲してますね。http://t.co/FMT2HcLJ @sazameyuki
posted at 01:19:44

自殺社会日本的には自殺って、ニートとか失業とかネガティブなんだけど、三島の時代には成功が自殺のきっかけ、みたいなのが可能だったんだろう。それでも死にたいみたいな。まあいずれ死ぬのだが。はやく転生したいし。ちょっと妄言だけど。(^-^)/
posted at 01:23:33

三島の自決の時、私小学校1年生、九段の小学校だったのだが、母が車で迎えに来ていて、私の学校が終わるのを待ちながら、豊饒の海を車内で読み終わり、ラジオをつけたら自決のニュースだったらしい。それ以来、文学というのは、その話しか、思い浮かばないものなのかと思ってはいる。
posted at 01:28:07

清水禮子「破門の哲学」という70年代の博論。スピノザを自殺の乗り越え、のように捉えるのが論証なのか? それに対して「スピノザの方法」の國分さんの論証は、何なのんかまだわからん。論証はどう変移したのだろう?そればかり考えてしまう。
posted at 01:33:20

そうですね、たぶん母が言ってるのは一巻目のことでしょうね。この人死ぬわとおもったらしいので。@sazameyuki それはすごいお話ですね。三島は自決の日に豊饒の海を書き終えてから市谷の駐屯地に向かったんですよね。三島自決の日何をしていたのかだいたいみなさん鮮明に覚えているそう
posted at 01:35:55

その母が、未だに、私をこの人死ぬわ、とは思ってくれない。それは何なのだろう? 私は実体や存在ではないのか?と、最近ますます焦燥してしまう。単なるファミリー・ロマンスなのだが。(・_・;)
posted at 01:37:27

RT @Mishima__Bot: 政治の本質は殺すことだ。
posted at 01:38:28

そういえば、私も周囲の人(他人)をみて、この人死ぬわ、と思ったことは、少なくともあまりないなー。死にそうな人を実は見たことがないのかもしれない。身体の病気とかは別にして。
posted at 01:40:00

意外と平和な日常なわけよね。まあいいのだが。(^-^)/
posted at 01:41:12

そうなんですよ、いまだに母にあうと、あんたが小学校一年の時迎えにいった車で読み終わり死ぬと思った、ラジオをつけたら自決のニュース、というのを繰り返し聴かされて困るんです。(・_・;) @KouzaShibuya すごい話ですね。女の勘。。。午後の曳航1963
posted at 01:58:18

小学校が九段の靖国神社のそばなので、母がいつもこの靖国の隣接https://t.co/CYetW7ST したところで車をとめていたのだけど、自決の午後、ヘリだかパトカーだとか、大変な騒ぎで、ラジオをつけたんだそうです。
posted at 02:02:46

いやさすがに正面ではなく、この酒屋さんの前だったな、母が車をいつもとめてたのは。ここ酒屋じゃなくなったのかな。九段は久しぶりに行ってない、たまには散歩しにいくかな。このあたりは小学生の頃の遊び場だ。靖国神社とか。https://t.co/wZXB4cYH
posted at 02:06:12

それにしても、大阪万博って、今残っている写真見ても変色がすごくて、ひどく昔の思い出なのだが、あの頃にはもう三島はいなかったんだがな。それ以来、日本の言説空間というのは、何一つ動いてないようなきがするから、昨日の話のような印象があるんだけど。
posted at 02:29:21

リンリンランランもロンドンロンドンも、三島はみてないのか。三島のほうが新しく感じてしまうな。遠近感が歪みまくってるな(・_・;)
posted at 02:30:29

人間の遠近感ほどいい加減なものはないなー。(^-^)/
posted at 02:33:38

だよねー。7~80年代も見てない三島のほうが、今日的だよ(^-^)/ @KouzaShibuya わかる。さっき三島botリツイしてて思った。三島のほうが親近感ある。誰も腹切らない時代に。。。あ・た・ら・しい
posted at 02:37:15

はっきりいって村上春樹の80年代のほうが遠く感じるぐらい(^-^)/ @KouzaShibuya わかる。さっき三島botリツイしてて思った。三島のほうが親近感ある。誰も腹切らない時代に。。。あ・た・ら・しい
posted at 02:37:48

RT @KouzaShibuya: @sunamajiri このさき10年・・・世代交代、20世紀の引き継ぎの時代。。。すざまぢいことになりそう。なんか挟まれてる世代のよな?でも長い歴史から見ればすべては一瞬。。。。 地層の厚みにすれば数ミリか数センチにも満たないか
posted at 02:45:11

セブンナップって発音するんだけど、あれはアメリカでたぶんいまでも現役。ミリンダもアメリカのものなのね、いまWIKIちらみしてはじめてしった。バヤリースオレンジもあった。@KouzaShibuya ミリンダ。。。。懐かしい。。。駄菓子屋の壁に看板あったよな。。。セブンUPも・・・
posted at 02:53:45

バヤリースも、ミリンダもぜんぶ外来種なのね。ああいうのが絶滅したのは、ローカルで商品開発するようになったからだけど、清涼飲料水からお茶系まで、いまだになじめないなー。今日はスタバいってないから、数年ぶりに缶コーヒーのんでるんだが、まずい(・_・;)
posted at 02:55:22

日本人がローカルにつくるものって、なんかみんな紛い物の味がする。なんでなんだろう?(・_・;)
posted at 02:56:30

RT @KouzaShibuya: @sunamajiri 鋭い指摘。世界的スタンダードが日本から生まれていないのは異常。缶コーヒーは外側の缶だけ進化した。
posted at 03:02:18

うん、コーク以外の外来種の代わりに味を作ろうとするのが全部紛い物級。味だけでなく世界から見ると・・・(・_・;) @KouzaShibuya 鋭い指摘。世界的スタンダードが日本から生まれていないのは異常。缶コーヒーは外側の缶だけ進化した。
posted at 03:03:30

なんか味覚とか視覚とか、日本人紛い物にあえて作りなおすところがあるみたいだけど、日本の紛い物テイストで、成功したのは萌え画だけにみえる。あれは確かに本物よりカワイイww(^-^)/ 
posted at 03:06:59

RT @kiyoshikasai: いい線まで行ったと思うけれど、『探求Ⅱ』以降の柄谷行人は後退しているようなので、今後に期待。まあ、他人のことはなんとでもいえるが、いったことは自分に返ってくる。そこが、なかなか怖いところでもある(笑)。
posted at 05:55:20

「それを取り除いてもお前がいるというのか?」

2012.05.31

ファイル 222-1.jpg

日本の学生は西欧より「俺」といい、哲学者は「自我」だ「無我」だという。しかしそんなものより前に、世界や物や音や言葉あるだけだ、という文脈のツイート、自分用切抜き集です。


2012年05月29日(火)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120529

http://t.co/yCGYHPHY ということで、國分氏の、表現に対する構成という動詞が表す「もの」、スピノザの諸用語たち、と戯れた二時間だった。眠いからおやすみー(^-^)/
posted at 08:17:38

http://t.co/yCGYHPHY の「受け取る」は、もちろん、文中の「それ(知性)に与えられるのはつねにひとつの属性~」に呼応して派生した概念だから、もちろん良いのだが、國分氏の論述の文体は興味深い。
posted at 08:23:44

お教室ついたけど、太陽出てきたし(^-^)/ http://t.co/Gd0WAv3d
posted at 18:06:23

読解塾。数ヶ月で国語の成績が急浮上した女子、テストで一問だけ不正解がこの問5。指示内容問題だが、「名付けの魔力」実が出そうな話である。(^-^)/ http://t.co/sMIvrACm
posted at 19:05:21

朝から晩まで実体に対する名前の話ばかりで飽きるわよまったく。だれだ実体とか存在とか言い出した阿呆はw(^-^)/ RT @LitoSnowfield: あらら…そちらでしたか(*^o^)>
posted at 20:11:04

高校国語の「名前の魔力」の授業おわって暇だから國分的スピノザ読んでるが、もうね名前しかないのよ。あるというのは名前なのよ。何が実体だ存在だ事実だよね、そんな言明はスルーよw RT @LitoSnowfield: あはは(*^o^)> 最近、そのお話が多いですね…表象とか(笑)
posted at 20:17:00

ほんとだよ、いくら奴隷がいて暇だったからって、存在とか実体とかくだらないこと考える暇あったら、名前で遊んでろって感じよ。(^-^)/ RT @LitoSnowfield: ああ…“もっと考えることは他にないのかっ‼”…ですね(*^o^)ノシ☆
posted at 20:21:25

単に飽きる。(^-^)/「属性そのものが複数であるのとは異なり、知覚が受け取る(表現され)、知性に与えられるのは、属性(が享受する)の唯一性である本質を表現された一つの実体=存在だ。」http://t.co/aQeQ0cUR @LitoSnowfield:
posted at 20:37:26

言語を発し始めると、名付ける対象を存在だ神だと誇大妄想したくなるんだろうね。そのうち実体化しちゃうんじゃない? 無理だと思うけど(^-^)/ RT @LitoSnowfield: まぁ…ついつい考えたり語りたくなる話題なのでしょうね(*^o^)>アハ
posted at 20:41:44

言明なんてAにBは含む、含まないしか表現できないのに、AはBの内部だが、Cによって、BはAの内部でもある、と言われたってね~(^-^)/ RT @LitoSnowfield:
posted at 20:52:59

そうそう。ヌルなのに現れだとか変状とか存在とか差異とか、名付ける(呼称する)わけだけど、じつは概念ですらないかもしれないし。RT @LitoSnowfield: あ〜…その手の論法…仲間内では“ヌルヌル”と呼んでいます(笑)…が少なくないですね〜(*^o^)>
posted at 20:58:49

まあ色んな名前持ち出して説明した気になって、趣味として楽しんでるんだろうね、振り回されたらたまったもんじゃないけど(^-^)/ RT @LitoSnowfield: 形而上に限らず形而下でも、名前を言換え始めたら黄色信号に思えて(*^o^)>周辺をグルグル回っているだけのようにも
posted at 21:19:58

趣味であれは物好きかもね。学位とか研究とか動機がなきゃ。言い換えに何かあるなんてのは病理だろうし。(^-^)/ @LitoSnowfield QT: ですね〜…(*uou)>
posted at 21:35:41

音数は無限時間と同じに無限だけど、言い換える語彙数は有限だしね。(^-^)/ @LitoSnowfield QT: あ…それで連続徹夜の世界へ徹夜(^o^;)> なんて(笑)
posted at 21:45:11

有限な言い換え語彙数より前に倒れちゃう人のほうが多そうだしね。だから言い換えに何かあると実利的に妄想してそうだから、趣味のつもりなさそうだし。(^-^)/ @LitoSnowfield QT: i その前に体力の限界が来そうです…(^o^;)>
posted at 21:56:13

言い換えてたら自分が存在者になれる気がするとか意外に前向きだったりしそう(^-^)/ @LitoSnowfield QT: あの…ヌルヌルは癖になるようなので“健康の為に程々に”…なりです(^o^;)>
posted at 22:04:56

存在者になって世界を治めたりするよーきっと、凄いな言い換え(^-^)/ @LitoSnowfield QT: あっ…(・o・;)! それはあるかもですね〜(^o^*)>
posted at 22:12:12

ヒトラーbotが、言い換えより演説だとか言ってるのに、まだ言い換えで存在者になれるとか思ってるのかも(´・_・`) http://t.co/5HYJ7ZCO @LitoSnowfield
posted at 22:45:55

ここまで言われてるしhttp://t.co/B1APdFQt 概念より言語行為?(´・_・`) @LitoSnowfield QT: あわわ…どちらも迷惑のような(^o^;)>
posted at 22:51:00

言ったもん勝ちの概念族をよりきる橋下さんみたいね。人が人一倍になりだがるときはきっとお相撲さんなのかしら?(^-^)/ @LitoSnowfield QT: むぅ…虚構的な人物が現実になる…というのはこういうことなのかも知れませんね…(・o・;)>
posted at 23:13:11

2012年05月30日(水)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120530

國分テクスト。言っていることはさして難しいと思えないが、どういう手続きでそれが言えているかを読もうとすると、非常に病的なテクストに見えている。何かを当然化するような独特な病理を感じる。この部位も手続読みはヘビーだ。 http://t.co/JSkqwfEs
posted at 09:20:46

http://t.co/JSkqwfEs - 「構成される知覚に対して、属性に表現される知性は、諸様態を唯一の実体=存在と「認識」させる。この認識の産出との一体化が、観念と事物の存在としての一体化に追いつくことが、知性改善論のいう「しかるべき順序」だ。」とでもできよう。
posted at 09:22:13

博論でも、誰がとはいわないまでも、年配の世代には、やたらと啓蒙的というか説明的なところがあり、内容のないものが多いとして、國分氏のテクストは、やたらと説明不足(あるいはその無秩序)が多く、主張や内容ばかりがあるようにみえる。http://t.co/JSkqwfEs
posted at 09:28:11

言明は普通、AはBを含むか含まないか、しか可能ではない。しかし17世紀の観念論が、二項対立の入れ子逆入れ子の錯綜なのは、専門家でなくても一目瞭然だ。
posted at 09:38:38

(承前)それをそのまま言明すると病的なのだが、分析すれば説明文=超越論になる。しかし幾何学的には言明できてしまう。これが困る。しかし言語は暫定的な名付けでしかない。
posted at 09:39:00

まあ開き直ったところで事態はさほど変わらないけど、自責ってやつはそれ以下だからね。自分を楽にしてあげなきゃ。(^-^)/ @LitoSnowfield ですね(*uou)> 自責のサイクルから抜け出るヒントになりますね
posted at 10:35:16

開き直りで思い出したが、最近の子は、西欧文明なんて興味ない、俺は俺だ、って居直り過ぎな子が目立つ。あれもこまったもの。きのうもそういう男子が読解塾にいた。
posted at 10:41:17

その高3男子、ヨーロッパとか考えたくもない、俺は日本人だと言い張っていたww @mimi_smpc000 男子の場合はっきりわかれるねー パスポートも持ったことないし外国に行くつもりもない、って子もいれば 世界旅行してる子もいる
posted at 10:48:23

現代文から西欧文明への言及性を取り除いたら、たぶんほとんど何も残らないよ、といったら、そこが国語の嫌いな理由です、と言われた(^-^)/
posted at 10:49:23

たぶんそういう子は「俺は神の中か?神が俺の中か?」なんて考えると気違いになっちゃうから、防衛的に思考停止するのよね、それで西欧はやばいとおもってるみたい。とてもわかりやすくておもろい(^-^)/
posted at 10:53:09


RT @neajazz: 例えばノート(音)が続いているとき、次のノートを選んでいるのは、いったい誰なのか?とか。少なくとも自分じゃない。「そこまでのノートが欲する、次の音」なんじゃないか、とか(神かも知れない笑)そういうこととか。これが哲学だと何というのかとかは僕には分からないんだけども。
posted at 00:48:22

いやそんな哲学的な話じゃなく、音を出したら相対的に次の音がたいていきまる、みたいな感覚があるのだよ、アドリブって。イディオムの場合もあるし文脈の場合もあるし。@LitoSnowfield 音楽は“自己表現”とされて“私が私が”のようですが、実はそうでもなく@neajazz
posted at 10:57:19

RT @neajazz: そうそう。きっと絵画でも「私」が描く、というよりも「筆が描く」という世界がある筈ですし。RT @sunamajiri いやそんな哲学的な話じゃなく、音を出したら相対的に次の音がたいていきまる、みたいな感覚があるのだよ、アドリブって。イディオムの場合もあるし文脈の場合もあるし。@L
posted at 22:44:19

そうそう無私の境地がどうのじゃなく、音自体はお前に関係なくあるんだよ、って感じね。お前がいなくても音楽はある。お前が弱まってる時には聴こえないだけ、みたいな(^-^)/ @neajazz そうそう。きっと絵画でも「私」が描く、というよりも「筆が描く」という世界がある筈ですし。
posted at 23:53:15


2012年05月31日(木)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120531

「お前に関係なく、歴史も世界も音もあるんだよ」 ただそれだけの話だ。(^-^)/
posted at 00:18:33

そうそう、世界はコールだらだけだ(^-^)/ @neajazz まだ続いてる。笑。「僕に関係なく世界は続いてゆく」笑。RT @sunamajiri: www なまはげは?(^-^)/ @tatsuakiyano ハゲのアカウントを前に「ハゲ、ハゲ」って連呼せんとってくれる~!ww
posted at 00:25:17

この確定記述の束はほんとおもろすぎる。言ってることは明快なのに、それを言うための言い方が最高。「証明されなければ仮定のままだ」ではだめなのよねきっと。ちなみにこの後、定理8までは言葉の定義で実在の証明ではない、と論じられる。 http://t.co/cgHp9Is3
posted at 01:16:34

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