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ファルス化するそのもの=諸用語たち

2012.05.27

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ファルス化するそのもの=諸用語たち
http://www.sunamajiri.com/blog/diary.cgi?no=221

諸用語そのものに躓くのを哲学とは言わない。そのものを表象するお金と違って、ファルスに退行するのは遡行ではなく独善だ、という文脈の自分用切抜き集です。

そのものの好きな現代思想の宿痾

スピノザの定理に、諸用語そのものはない。この「それ自体」に躓くと、何かが対象化や外部化されてしまう。そのものを表象する貨幣なら一般的(おそらく社会的)だが、中には外性器そのものに退行してしまう妄想が起こるらしい。しかしそれは哲学的遡行とは別物だ。食うか食われるかというファルスは遡行できなければ独善的に切除される?

という文脈のツイート自分用切抜きです。


2012年05月26日(土)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120526

定理化する諸用語(実体、属性、本質)は、それら自体では内容(語義)ではない。諸用語自体が内容とは別に形式的にあると仮定するのが形而上学であるに過ぎない。諸用語が蜂起するわけではない。という感じだろうがなんか微笑ましい箇所だ。 http://t.co/5Sy2EXYq
posted at 05:54:18

http://t.co/5Sy2EXYq 表現ではなく思わず蜂起といったのは、攝津君がhttps://t.co/ILu2grI7 スピノザの自然→レーニンの物質というので、白井聡が中沢新一論として書いた「物資の蜂起~」を思い出したからだ。http://t.co/iFvLzuyC
posted at 05:59:23

http://t.co/5Sy2EXYq おそらく純粋実体(実体そのもの)など諸用語そのものが、無意味なのと同じか、それ以上に、國分を読んでいると、スピノザの自然即神や、自然自体は誤解に思えてくる。あるのは諸用語に対抗した形式言語のようなものに見える。
posted at 06:02:23

はっきりいえば、恐らく「神そのもの」なんて読解が「貨幣そのもの」のようには行かないのと全て同型に見える。読解塾で、一番手に負えない高校生は、必ず「人って何ですか?」「神って何ですか?」と躓く。そのくせ「じゃあお金って何よ?」って反問すると、答えられなくなる。それに似てる。
posted at 06:19:19


お風呂出てまたフルートを吹いてしまったののが運の尽き、その後寝ようとしたら不眠症勃発。最近、音楽聴いただけで数時間頭が覚醒して寝られなくなってしまう。だから普段、音楽は無用に聴かなくなってきたのだが。フラフラでデパスで落とすしかないので、今日は夕方からの読解塾はお休みするね。
posted at 12:51:22

お風呂直後はすぐ身体が弛緩して寝つけることが多いのだけど、同時に指も軽くなってるから、つい楽器をさわりたくなってしまう。そうすると音に極度の集中をするので目が覚めすぎて、数時間寝付けなくなる悪循環に入り込んだ。
posted at 12:57:19

最近は音楽モードの時以外はあまり音楽受け付けない、感極まって泣き出したりするような覚醒、ナチュラルハイになるから。一方、テクスト読みも中毒化する。たぶん読書の中毒化の影響で音楽が鋭敏化してしまうのかも。昔からなのだ言語と音楽両立ができない。受け付けなくなる。(・・;)
posted at 13:03:06

一昨年までは読解塾は、音楽の息抜きのバイトだったんだが負担数倍になったら、バランスが崩れて、不眠症とか鬱病症状が出てきて、コントロールできなくなってきている。鬱病の薬は、デパスしか飲んだことないのだが悪化しそう。読解塾の仕事は好きなんだけど、音楽でる影響がストレスなのだろう。
posted at 13:08:51

最後に、ガーシュインが、ショウペンハウアーを読んでたあのつらい夜の日々・過去を忘れましょう。まるで夢のようだわ。という歌詞のIsn't it pittyを一緒に歌って終わらせられた筈なのに、涙が溢れて寝られなくなっちゃったのよ。(・・;)
posted at 13:17:11


どうも最近、たとえるなら音楽とテクストの統合失調で、朝寝る前に楽器を触ってしまったら、興奮状態で数時間吹きっぱなしになり、涙が止まらなくなって、寝ようとしたら数時間一切寝付けず、あえなく当日キャンセル特権の読解塾をお休みした。おい小遣いが減ってしまうのが困るのだが。
posted at 23:44:01

テクストを精読すると音楽(をする時間)がなくなり、音楽が宇宙(の時間)の外延してしまうと、読解塾を犠牲にするという悪循環になりはじめている。とにかくテクストで寝られず音楽でさらに寝られず、睡眠を優先するため外出ができなくなる、完全な疾病状態だ。3つのどれかをやめると治りそうだが。
posted at 23:46:15

この状態になっているときは、ほとんど音楽を聴かない。音楽を聴きはじめると止まらなくなり、たぶん寝ないで聴いてしまうからなのだが。テクストはやめれるからまだタチが良い。要するに最近テクストを読むのがこの病気の始まりだと、自己診断できるのだが。
posted at 23:47:42

分析するに、本来テクストは、読解塾が暇だから、暇つぶしに色んなテクストを再読していたのだが、去年から読解塾が忙しくなり、こちらは予約に対して受け身だから、塾の仕事外でもテクスト読みをするようになった、というところからこの悪循環が発症したとしか考えられない。
posted at 23:50:09

一昨年ぐらいまでは、読解塾の片手間でテクストを読んで時間を潰し、自宅では一切テクストを読まず、音楽に没頭し、ライブとかもできていたのだが、それができなくなってしまった、というのが悪循環のはじまりだ。音楽とテクストを両立しようとしようと、へんになってくる。絶対に相容れない。
posted at 23:51:29

楽器と書籍をタイマー付きの金庫にいれて、アクセスできなくしたら、たぶん寝られる(^-^)/
posted at 23:52:51


2012年05月27日(日)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120527

人生にテクストが不要なのだろう。https://t.co/e2Yjktu0 あらゆる語彙、諸用語に意味は無いが、テクストがそれらを有意味化させるわけでもない。他方、音楽は言語化できないが没頭すると、とても気持ち良いので、テクストは生活に不要なのだ。
posted at 00:10:56

RT @femmelets: 私が熟考してみたのは、誰を破壊すべきかということだ。それは松本治でもmiyaさんでも後藤さんでもなく、柄谷行人でも鎌田哲哉でもなく、ましてTwitterで偶然擦れ違った赤の他人でもないはずである。破壊しなければならない誰かが、きっと存在するはずである。それを見出さねばならない。
posted at 00:15:26

RT @femmelets: それから、詭弁、修辞学、弁証論など、積極的に虚偽に関わり虚偽を展開するありとあらゆる技術が重要だ。それらと真理が別箇にあるというのは、古典的な意見である。プラトンにおいては詭弁とは別に哲学があり、カントにおいては弁証論と別に分析論、論理学があるが、私の問題はただ単に詭弁である。
posted at 00:18:59

RT @sydneyminato: 脳という器官は、元々時間の概念を持っていなかったと見たとき、時間は社会という魔術を、社会は時間という魔術を条件反射的に取り出す様に仕組まれている。この大きな魔術を解く者には時間の規範意識を超える能力が得られます。時間は、条件から見たものであって、脳から見たら本当は存在してません。
posted at 00:24:42

RT @femmelets: @shoukootaden 戦後の日本でもそうですが、若い男子が陰茎癌で陰茎を除去されますと、性欲だけはあるから非常に苦しかったそうです。後に、睾丸も一緒に除去する手術に変わったそうですが、現在もそうなのかどうかは全く分かりません。2ちゃんでは発狂するケースもあったそうです。
posted at 00:27:49

うーむ、神や自然や実体という単独の語義がテクストでも有意味化しなくなると、より直接に、陰茎とか睾丸という語彙を外部化させて、切除したりするようになるのよね。そういう人何人も知ってて、切除した睾丸を持って来ました見ます?といわれて、ドン引きしたことがある。「そのもの」はいらない。
posted at 00:30:54

「そのもの」という思考に躓く人が多い。思春期の子供にきいてみるといい、対立項なきそのものに、何か意味があるか?と。諸用語もファルスも、それ自体で意味があった試しがない。彼らが読解で正解を求めてるのはそういうものだよ。
posted at 00:42:09

あらゆるテクストも、諸用語やファルスや神という「そのもの」を、真に有意味かできたためしは、たぶんないだろう。だからテクストの内部など無意味なのだ。テクストは時間の浪費。
posted at 00:43:14

「そのもの」は、テクストでも蜂起しない。物欲は「そのもの」からもテクストからも蜂起しない。だからといって、「そのもの」を対象化して分節化して切除しても、テクストも蜂起もたぶん何事も起こらない。そんな気がしている。
posted at 00:45:13

表象という対象に苦しむショーペンハウアーhttps://t.co/Zzhou7Pm を、忘れられて、夢のようだ、と歌うのがガーシュインなのだよ。夢を見たいのではなく夢のような現実なのよ(^-^)/ 寝る前にこの歌を歌うと寝られるよー。http://t.co/5R17vimP
posted at 00:53:37

RT @Janome_Narcot ど、どこの国の話です(かなり引いている
posted at 01:00:

フォロワーさんが去勢願望の話をしていたので、性転換症じゃなく性器嫌悪症の人が獣医で外性器を切除してもらったといって、シャレーに入ってますが見ますか?と言われたことがある。うちの学生だったんだが。やめてってw  @Janome_Narcot ど、どこの国の話です(かなり引いている
posted at 01:00:19

あなたとあえて夢のようだ。毎晩ショーペンハウアーを読んで辛かった、あの過去を二人で忘れよう。契をむすぶのだ。ギャンブルも辛い労働も全部忘れられる。この世で一番幸せな女の子になれる。あなたがそういってくれれば。ガーシュインすごいな。http://t.co/5R17vimP
posted at 01:02:53

うん15年ぐらい前、セクシャルマイノリティーの支援団体をやってて(今はそっから世田谷区議になった人がいるけど)、性転換症じゃないのに性器不快症の男子が殺到してしまって、獣医で取るとにっくき男性器をシャレーにいれておみあげにくれるらしいw @Janome_Narcot …
posted at 01:07:25

ショーペンハウアーを忘れられて、まるで夢のようだ。アイラ・ガーシュイン (^-^)/ http://t.co/5R17vimP
posted at 01:15:26

そういう男子意外に多いので私も戦慄した。自分が不甲斐ないと思えると自分の男性器を攻撃の対象にしちゃうタイプの人達らしい。可哀想(・_・;) @Janome_Narcot …怖いですTT(震えが止まらない…
posted at 01:19:17

そのもの哲学のお馬鹿なショーペンハウアーを読むあの辛い夜を忘れれれて、夢のようだわ、この世で一番幸せな女の子になれるわ、アイラ・ガーシュイン(^-^)/ アップできたか?http://t.co/rbAbPQGp
posted at 01:31:02

え~売り物にしないのーww そのもの表象の貨幣の本体は性よきっと(^-^)/ @LitoSnowfield あはは(*^o^)ノシ☆ 基本非売品ですから(笑)
posted at 01:34:07

またこうやって、テクストというより、そのものと関わっていると、寝られなくなって、また読解塾を休んで、物欲の資源であるお小遣いがへってしまうから、このあたりで、そのもの哲学とはおさらばなのだ(^-^)/
posted at 01:35:25

神を存在と言い換えたり、観念と言い換えたり、そのものと言い換えたり、換喩はほんとに下らん。哲学というのは雑談としてはつまらん。単に学者が学位を取る、証明としてしか意味が無い。それを他にあるはずとやるから、変なこと言う人達が出てくる。
posted at 01:39:41

思春期の子供たちのほうがよほど素直に、「そのもの」には何か対立項があると分かっている。知性というのは本来そういうものだ。AをBに言い換えて、というのは読解での解法だが、ただそれだけのことで、他に何か意味があるわけではない。(^-^)/
posted at 01:40:57

挙句に、そのものを対象化=切除して、その、ファルスの対立項としての自己になる、という言説、虫唾が走るのだった。性感帯の自由というのが現代思想における唯一の自由という語義だが、別に罪悪感も懺悔もいらないんではないか? 私は彼らとは違うから分からないが単に尊重しているだけだ。
posted at 01:45:37

ファルスから移動した性感帯、アナルがどうのという人達の懺悔は、哲学ではない。彼らのほうが懺悔のような告白に陥ってるだけで、よほど宗教的に聴こえる。なぜ罪悪感をもつのだろう。たんなる性感固着の話だ。精神分析のレベルですむ話で、精神異常ですらない。妄想と思いたいのだろうか?
posted at 01:51:20

だれも恋人でもない他人の性感帯の告白に、哲学なんて感じない、ただそれだけの話だ。みんな無関心なだけだよ。無関心としての尊重なんではないのかしら? そこには社会性という問題は無いと思う。
posted at 01:53:55

・・・と、苦言を呈するほどに、男子のペニス不感症やアナル性感の懺悔が哲学になると、うざいものはない。誰もそんなものに感心はない。少なくとも女子には感心がないし、そういう言説そのものが、女子を蚊帳の外においてきたのだ。とっとと氏ねってかんじwww (^-^)/
posted at 01:57:45

男子が独り善がりに自己の性感帯の不在の話を、哲学と錯覚するような現代思想の連中というのは、それだけで、つねにすでに女子を排除する独善性にみえて、虫唾が走るのだった。最悪(・_・;)
posted at 02:20:01

RT @Michael_Ende_jp: 物語が、もはや外的な<ほんとらしさ>の世界によって立つことができなくなった瞬間から、内的な論理を展開し出さなければならないのです。明快な遊びのルールとは、この内的な論理のことであるはずです。 『ミヒャエル・エンデ ファンタジー神話と現代』
posted at 03:16:26

え~、可哀想。ところでスイスアルプスhttp://t.co/FRd2UJnp で野うさぎになると捕食されるので、そこに写ってる乳業に乳牛したいんだけど、もし雄に生まれたら食肉にされちゃうの? @aoinatsunosora Is a kangaroo delicious?
posted at 03:50:54

そう考えると雄一般ってなんか食肉っぽいわね。雌に生まれればお乳で栄養源を与えられるのに(^-^)/ @aoinatsunosora 種牛になるしかないですね。
posted at 04:05:45

RT @Schopen_bot: 普通の人間、自然が毎日幾千と作り出す工場製品のごとき人間は、前にも述べたことだが、あらゆる意味で完全に利害を離れた観察――これが本当の静観 Beschaulichkeit であるが――をおこなう能力をもたないものである。少なくとも長時間おこなう能力だけは絶対にもたない。ショーペンハウアー
posted at 04:00:06

RT @Novalis_bot: 自我も、非我によって表象されるかぎりにおいてのみ理解される。非我は自我の象徴であり、もっぱら自我の自己理解に役立つ。また逆に、非我は自我によって表象され、自我がその象徴となるかぎりにおいてのみ理解される。 ノヴァーリス『一般草稿』
posted at 04:00:14

そう考えると雄一般ってなんか食肉っぽいわね。雌に生まれればお乳で栄養源を与えられるのに(^-^)/ @aoinatsunosora 種牛になるしかないですね。
posted at 04:05:45

http://t.co/FRd2UJnp スイスアルプスの野うさぎだと捕食されそうだから、乳牛に転生したいって考えてるんだけどw 雄に生まれたらどうなるの?って母に聴いたら、食べられちゃうんじゃない?って。雄性はほんと食うか食われるかなのね。(^-^)/
posted at 04:09:18

語りえないものを語れる宇宙の外

2012.05.26

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形而上学を奪った神学から近代は世界をどう取り戻したか、という話から、現代思想にとっての世界=性感帯論=語りえないものを、宇宙の外から語った雑多な文脈のツイート自分用切抜き集です。

神学から存在をどう取り戻し世界は性感帯論という語りえないものになったか?(^-^)/

2012年05月25日(金)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120525

(読書)電車座れなかったので、國分本を読んだメモ 「デカルトは実体の本質や本性で存在を証明するが、スピノザは原因だけで証明する。エチカ定理8~9の実体から属性への証明対象の変更。属性から表現される実体は、知性の知覚にはない。」 http://t.co/9RROMJCG
posted at 00:40:46

(読書)車中メモ。一つの属性を有する実体の複数性(エチカ定理8まで)から、無限に多くの属性を有する実体の唯一性(エチカ定理9以降)への証明対象の変更と、属性から表現される実体とは異なり、知性の知覚にある属性から構成される実体。 http://t.co/aZxNztCq
posted at 01:26:37

RT @gendaibuntan: 「表象」というのは、いわゆる「象徴(シンボル)」に近い意味を持つわ。基本的に「イメージ」という意味に置き換えると分かりやすいわね。ただ、他にも「記号の意味内容」という意味にも注意した方がいいわ。
posted at 06:46:09

RT @Novalis_bot: 懐疑論の多くは、未熟な観念論にほかならない。実在論者とは、自分自身についてはなにも知らない観念論者である―素朴な観念論―直接的な観念論は、実在論である。 『テプリッツ断章』
posted at 06:34:24

RT @Schopen_bot: 陰茎勃起のきっかけは一つの表象であるから、これは動機である。しかしながらこのきっかけはひとつの刺戟のもつ必然性をもって作用する。すなわち誰にもこれに抵抗することはできないのであって、勃起が作用しないようにするためにはそのきっかけを遠ざけてしまわなければならない。ショーペンハウアー
posted at 06:50:56

RT @Schopen_bot: 動物の場合、性衝動は目立った選択なしに満足を求めるけれども、人間の場合この選択は著しく推し進められ、しかもあらゆる反省から独立した本能的な仕方によって途方もない情熱にまでたかまる。ショーペンハウアー
posted at 06:51:29

RT @femmelets: カントが『純粋理性批判』で現象、表象という術後を使っても、ショーペンハウアーのいうような意味では全くなかったはずだが。カントの理屈が成り立つのかどうかはともかくとして、彼は《主観的観念論》を斥け、自らの主張をそれとは区別したいと望んでいた。
posted at 06:44:44

RT @femmelets: 「世界はわたしの表象である」、これが『意志と表象としての世界』冒頭にいきなり提示されているテーゼである。彼は、《生きて、認識をいとなむものすべてに関して当てはまるひとつの真理》、《なんらかの先天的(ア・プリオリ)な真理》といっているが、まさかそんなはずがないであろう。
posted at 06:48:05

RT @femmelets: ショーペンハウアーの有名な譬え話に、もし私が蝿を叩き潰すとすると、現象としての蝿を叩き潰すことはできるが、物自体としての蝿を叩き潰すことはできないとかいうものがあるが、どこからどうみても滑稽な戯画であろう。ただそこまで極端化され戯画化されると、かえってカントの意見の問題が見える。
posted at 06:58:29

RT @femmelets: さて、現象界と別に叡智界を想定できなければ、第3アンチノミーの解決とやらも成り立たなくなり、消滅する。現象は全部因果連鎖で決定されていても、叡智界において主観は系列を自ら始める自由があるというのがカントの主張だったが、その区別そのものがないとすれば、どうだろうか。
posted at 07:02:29

RT @femmelets: そうすると我々は、デカルトとスピノザが対立していた17世紀の思想世界に連れ戻される。デカルトの意見を採用するかスピノザの意見を採用するかのふたつにひとつであり、私をデカルトを信用する。自分が知り得ないレヴェルでどうのということはともかく、我々が自分を自由と感じているのは事実だ。
posted at 07:02:33

たいへん分かりやすい解説、ぜひ続けて。第三アンチノミーが成り立たないスピノザとは、決定論の問題ね。叡智界とはたとえばスピノザにおける知性に対抗する用語? 一方、ショーペンハウアーの表象はかなり性的なのね。https://t.co/Zzhou7Pm @femmelets
posted at 07:12:55

RT @femmelets: ショーペンハウアーは、世界=私の表象とかが、空間・時間の観念性よりもっと深く根源的だなどというが、そんなはずがないだろう。昔から現在までそういう主張はある。世界=私の観念(idea)だといバークリ、世界=イマージュ(image)だというベルクソンなどである。
posted at 07:14:05

ショーペンハウアー自身が勃起に表象を喩えてるhttps://t.co/Zzhou7Pm とは知らず、さっき驚いたのだが、いわゆる現代思想が性感固着(という世界)の心理学に見えることがあって、それがなぜスピノザに逃避するのかと。スピノザは撞着的に見える。@femmelets
posted at 07:21:32

もうこのあたりでスピノザわけわからん(・・;) RT @femmelets: そうすると我々は、デカルトとスピノザが対立していた17世紀の思想世界に連れ戻される。 http://t.co/PWbsCYsC
posted at 07:32:47

属性は実体の表象ではなく、実体の本質の表象だ?http://t.co/PWbsCYsC この実体・本質・属性という用語は、スコラ哲学的にものすごくねじれてそうね。存在の原因を何かにこじつけると派生する用語なのかな? しかし結果派生する表象って可能なのかしら?
posted at 07:50:44

RT @femmelets: 私がデカルトを支持するのは、彼が、ただ単に《人間の意志が自由なのは自明である》とだけいって、その自由などを一見深遠そうな形而上学的原理にしなかったからである。例えば、ドイツ観念論にとって、《意志》は形而上学的な問題である。シェリングの『人間的自由の本質』など。
posted at 07:41:45

RT @curatorshinya: ドイツ語における移動動詞が日本語では自動詞になってしまうのは、やはり主体をめぐる一神教的要素とアニミズム的要素が反映されているからだという気がする。
posted at 07:46:22

自由というのも、フロイト以降は、性感固着(男性がペニスが感じるかアヌスが感じるか)の罪悪感の話(世界)にしか見えないのだけれど、何かが何かを表象するって、世界にはそれ(性感)しか十全にない=有意味に言明できない、ってことなのかと思っていた。男性は大変ねーという。(・_・;)
posted at 07:53:50

スコラ哲学、つまり神学だけど、それ以外は自由も、性感の言明にしかならないというペシミズムを、どっかでそうじゃないと誤解すると近代文明が派生しちゃうのかな? なんでそんなものが生まれちゃったのかな? そればかり考えちゃう。いらないのにね。(・_・;)
posted at 07:56:30

うん、なかなかよい。あの調子で攝津くんに、一日中講義していて貰いたい(^-^)/ RT @LitoSnowfield: 燃えてらっしゃいますね〜(*^o^)/
posted at 07:58:22

ちなみに、風俗店をやってる知り合いのニューハーフによれば、ニューハーフが性転換手術をしないのは、ペニスではなくアヌスに性感が固着してるからだという。男子って集中力が勝負みたいだけど、一点に固着したもの、他に移動できなくなるらしい。大変ね。(^-^)/
posted at 08:11:33

男子の集中力はすごすぎる。すべての論理や喩を、性感の一点に集中して世界になろうとする。疲れないのかなー。でも大抵の人はあまり疲れないらしい。他に固着すると、弁解がましくなるみたいだけど。
posted at 08:14:39

知り合いの米国の精神科の学者が、男性から女性への性転換手術希望者は、アヌスに性感がない、といっていた。ところで女性ホルモンや性転換手術をすると、一気に性感の集中が霧散して、ボディー全体に散らばるのだという。男子の身体(心理?)って神秘ね(^-^)/
posted at 08:18:17

ちなみに、その知り合いの米国のドクターによると、欧米人はインポや不能になると、女性に性転換したがる後天的な性転換症が多いらしい。日本のように性同一性障害を先天的と捉えようとするのとは、かなりギャップがあるらしい。
posted at 08:20:39

あらゆるものは性的だというフロイディアンではないが、自我のいう世界とかいうのは(つまり自我性というのは)、そういう性感の話にしか見えない。しかしそのために費やされた(る)言明の病理、おそらく哲学史は、読んでいて面白い。
posted at 08:24:28

タイやアジア人の性同一性障害先天性願望は、ポスコロ(ニアリズム)で捉えられるものでしかないよ。だって白人どもは中年になってペニス不感症になると性転換希望者が殺到するらしいから。深淵な問題ではない気がする。(^-^)/ @slitsandfrills へぇ
posted at 08:34:37

ちなみに、東ひろなんちゃらの博論は、一貫して性感としての表象論なのだが、彼はヘテロでしょ? つまりヘテロの懺悔告白みたいな言説に見えた。罪悪感というのは若いのよね。たぶんスピノザもヘテロっぽいが、中年化して衰えてるでしょ? だから懺悔しない。
posted at 08:38:05

ところで、音楽というのは、そういう性感とは個人的には対極にあって、音楽で感じたり、という芸当は想像できない(したくない)。不感症の時に音楽が湧いてくる。不感症というと聴こえが悪いが、相容れないという意味で昇華なのだろう。
posted at 08:40:37

RT @deleuzebot: 歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ。子供は歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが、歌それ自体がすでに跳躍なのだ。(『千のプラトー』)
posted at 08:45:06

RT @nakazawa_quotes: ドーナツのまん中には穴が開いている。それと同じように、東京の中心にも穴が開いている。この都市の中心は空なのである。~『アースダイバー』
posted at 08:46:20

RT @Nietzsche_Words: 手のひらほどの広さの底があれば、人はその上に立てる。真の良心的な学問の世界には大小の区別はない。
posted at 08:47:50

(男子は)ビジュアルでリビドーになったりするみたいだけど、音楽はそういう意味では表象ではない。もし音楽がリビドーになったら、それはもはや音楽ではない。
posted at 08:52:16

今日は金言するよー。性感の世界をコミュニケーションに転倒してはならない。(^-^)/
posted at 08:55:46

私も金言集をどっかにアップしたくなってきたなー。ウィットゲンシュタインみたいにクラリネットは吹けないけど、フルート吹いてるし。金言ばかりツイートすると楽しそう(^-^)/
posted at 08:57:52

RT @wit_bot: 私が経験することは、どんなことでも、思索中の事柄のイメージやモデルになる。(これは、ある意味では女性的な態度だろうか。)ウィットゲンシュタイン
posted at 09:02:27

RT @femmelets: 《存在》をただ単に、何らかのもの(存在者)があるということのその《ある》そのものだと考えれば、それは別に肯定的(豊穣)でも否定的でも何でもないというしかないであろう。それ以上を読み込むのは推測、放恣な空想、臆測でしかない。
posted at 09:07:02

ところで前から素朴な疑問だったのだが、アリストテレスが原因として存在を言い出したのを、存在ー者と造語したのは誰なの? スコラ哲学? @femmelets 《存在》をただ単に、何らかのもの(存在者)があるということのその《ある》そのも
posted at 09:09:12

存在者ってどんな術語撞着なんだろう? 存在という問題はソフィストhttps://t.co/mpD3ybmY の話としか思えないが、中世神学で一旦擬人化されて、それがまた現代思想で存在者と擬人化されたのかしら? 存在者というより原因者?(・_・;)
posted at 09:22:29

存在者たんとか、原因者たんというのは、あんまり可愛くなさそう(^-^)/
posted at 09:24:32

RT @akiyama_s: 肉体をハードウェア、精神をソフトウェアにたとえると話が分かりやすいと思う。ハードは遺伝的な要素で優劣が決まりやすいが、ハードが劣っていると認識するのはソフト。ソフトが常に自分のハードの優劣についてチェックするルーチンを持つと、それだけで全体の処理効率が下がる。
posted at 09:27:24

私の前任の現代文の先生(私が今朝みたいな哲学=性感論の身も蓋もない転回をすると、神の顕現だとかいって、精神病院に入っちゃうのだが)が訳出したhttp://t.co/4beTVjip のようにギリシャ人の言う原因としての神というのも、この神でしょ? 
posted at 09:35:26

シヴァとディオニュソスの同祖論http://t.co/4beTVjip にある神が、ソフィストのいう存在という原因なら、それが波及していない辺境では、存在者なるものが先鋭化されちゃうのかな、とふと思った。でもじつはその本見ると、日本の道祖神みたいに見えるのよね。ご神体とか。
posted at 09:40:04

http://t.co/4beTVjip を訳出した前任の現代文の先生、本職はジャズピアニストのメルロ=ポンティ研究者だが、私が世界は性感だとか身も蓋もない転回ならぬ転倒をしてあげるものだから、神がどうのと言い始めて、病院はいっちゃって、家族が私を有害扱いにした(^-^)/
posted at 09:42:05

その彼(周囲ではあだ名が哲学者なのだが)のご家族が経験なプロテスタントで、彼女がカトリックなのだが、私はかどわかす、つまり欺く悪神扱いで、二年前から私との交流は禁止されてしまった。
posted at 09:50:32

彼は湘南ではたぶん一番人脈のあるジャズピアニストだったのだが、私が欺く神とキリスト教徒のご家族から裁断され、交流禁止となった、おそらくあおりで、私は湘南のジャズ界では、ほされちゃったわよ。(^-^)/
posted at 09:51:49

敬虔さが足らないと、ジャズ界からもほされちゃうみたいで、困ったわー(^-^)/
posted at 09:53:07

まあ彼だけがピアニストではないので、ほされたというのは冗談半分なのだが、しかし、真面目な哲学者である彼を、欺いた悪いやつ、ぐらいに回りに吹聴されてそうで。不真面目な魔女扱いなのよ。哲学の言う世界を性感だ、とか言っちゃいけないものらしい(^-^)/
posted at 09:54:59

語れないもの=世界にあってはならないものについては、口を閉ざさなければならない。さもないと干される(^-^)/
posted at 09:56:08

きょうは金言に終始するなー。一昨日は諸事物の日だったけど、今日は金言の日ね(^-^)/ https://t.co/kMNrdmFe
posted at 09:58:43

RT @LitoSnowfield: @sunamajiri ジャズ界の魔女さんになってしまったのですか…(・o・)>
posted at 10:01:43

そうなのよ、彼なんだけどね。http://t.co/Qq5lHxsd まあ彼だけが湘南のピアニストでないからいいのだけど、世界は性感だとかいったら、気が狂って病院入ったので、私は不真面目な悪い奴と吹聴されまくってそう(^-^)/ @LitoSnowfield ジャズ界の魔女さん
posted at 10:00:50

そうなのよ、このライブhttp://t.co/jNtc6W1i のプロデュースしてくれたのよ。湘南のジャズファンは彼のファンがおおいので、集客してもらってたのよ。そしたら家族から私が有害認定されちゃった。ずいぶん本とか貸したのに返してくれない。@LitoSnowfield
posted at 10:18:15

そう?この頃下手だったなー、最近もっとぶっ飛んでるんだけど、全然人前でやらないからなー。やってもいいんだがめんどくさいww @LitoSnowfield あらら…(^o^*)> 地元の大御所さんを倒した大魔女さんに。。 んでもsunamajiriさんのフルート…良いなぁ〜
posted at 10:27:41

(哲学の言う)世界は性感(帯論)で、なんでソフィストの言う欺く悪霊、語れないもの=世界にあってはならないもの、になるかいまいちわからん。彼らは、世界をどうあるべきと妄想してるんだろう? 自由?
posted at 10:33:43

横浜のライブハウスからやってやっていわれるのだけど、とにかく去年までは読解塾週2だったのが、いまは週4で、気力がわかないの。(・_・;)@LitoSnowfield あ…そういえば今年はライブなかったような(・o・)! いつか是非聴いて観たいです…ぶっ飛びフルート(*^o^)v
posted at 10:35:00

そーなのよー、それも前出の前任の先生がお隠れになった流れなのよね。ほんとは手分けしてたのに。なんでわたしが読解塾の先生が本業にならなきゃならないのよねって感じ。テクスト読むと音楽できなくなるのよー。それでストレスで最近蕁麻疹(・_・;)@LitoSnowfield ん〜…塾の奴め
posted at 10:37:39

テクストなんて、そこらの欺かれまいと必死なソフィストにやらせときゃいいのよ。知ったこっちゃないわ(^-^)/
posted at 10:38:43

その前任の先生天才的で、彼に掛ると国語ビリの生徒が三ヶ月で学年トップになる。私もできるのだが、オールマイティーではない。しかし彼の方法を、私が、だから神だろ?と言い換えたら、あんたゲスだなー、地獄に落ちろといわれた(^-^)/
posted at 10:40:10

んで、去年あまりに読解塾が私一人忙しいので、東大の哲学科のOBを数人呼んで、手分けさせたけど、生徒から分かりづらい、といわれたらしくて、その先生がずっと私の授業を壁越に何時間も偵察にきていたらしい。私がすぐ神はというからなんだが。(^-^)/
posted at 10:44:10

まったく神は神は、って読解塾で牧師にでもなった気分だわ。ストレスたまるわよまったく(^-^)/
posted at 10:45:53

RT @LitoSnowfield: と…SNSは(・o・)> 物凄いフルート奏者さんともお話が出来たりして物凄いのです(*uou)v
posted at 10:42:01

あらま~、ありがとう、うれしいわ(^-^)/ @LitoSnowfield と…SNSは(・o・)> 物凄いフルート奏者さんともお話が出来たりして物凄いのです(*uou)v
posted at 10:44:29

ぶっ飛ぶの大好きなのよー。宇宙の外までぶっ飛びたいの。それであの前出の東大の方に、あんたの演奏はエレガントだが精神は下劣だといわれる(・_・;) @LitoSnowfield あは(*^o^)> お話を伺ってぶっ飛んで…演奏を聴いてぶっ飛ばされておりますので(笑)
posted at 10:49:17

たぶん語れない世界は性感という命題に匹敵する、神という主語を、口してしまうから、宇宙の外までぶっ飛ぶほど下劣なのだろう(^-^)/
posted at 10:51:24

RT @LitoSnowfield: @sunamajiri え〜…(・o・;)? やはりジャズは鳥籠から飛び出して空を飛ばなければ始まりませんよ(*^o^)/
posted at 10:53:56

RT @femmelets: フロイト的《もの》(chose)が左翼が考える物質のことなのかどうかは、非常に疑わしいと思うが。フロイトにdas Dingがありラカンにla choseがあるのは文献的な事実だろうが。
posted at 10:46:27

RT @femmelets: 私は思想は有害だといいたいわけではないが、ラカンの《現実界》が我々が考える現実とは違うし、スピノザの《自然》も経験的な自然概念では全くないなどのことはどうしても申し上げなければならない。
posted at 10:52:21

RT @femmelets: 《物》、物質もそうだが、現実(界)、自然なども、我々の日常的な概念と名称だけは共通だから誤解してしまうし、躓くということである。
posted at 10:53:35

RT @femmelets: 簡単にいえば、スピノザの自然、レーニンの物質などをどう捉えた​ら妥当なのだろうか、というような関心から読んでいるが。
posted at 11:02:12

RT @sontag_bot: 言語のスラム街に沈み込まないよう気をつけること。
posted at 10:56:15

RT @gendaibuntan: 「近代化」というと、主に中世の封建社会やキリスト教的価値観から民主社会/産業社会への移行を指すわね。近代化を論じる上で問題になりやすいのは西欧以外の諸国、特に日本で西欧化が近代化と同義である故に、自らの近代を前近代として完全な近代化を求めたりしたの。
posted at 11:08:46

ゆとり世代が心配とされるみたいだが、それより素直すぎるなと思えていた、いわゆる氷河期世代が、何もかも真に受けるような馬鹿正直、生真面目で融通の効かないお役所みたいな思考力になっているのが、最近恐ろしくなってきている。ないのは免疫なのか?(・_・;)
posted at 11:13:00

「哲学者が原発を止めたドイツ」という新聞切り抜きだって。恥も外聞もなく自己性とかいうエコノミックアニマルになるのに必死などこかとは大違いなのかしらねー(^-^)/ https://t.co/GLYmsQET
posted at 13:15:15

日本近代文学が侍のルサンチマン(怨念)の言説だったように、なぜか周囲で西欧哲学に言及する人達が、自分の不甲斐なさ、といった私小説みたいなことを言うのが気になる。
posted at 15:30:50

さっきhttps://t.co/V0VQhFcJ 言及した哲学者も、自分の社会性のなさ、実存の不甲斐なさばかりを執拗にぼやいていた。実存や自己性なるものが、あるという幻想なのだろうか? だからといって社会的地位を得ても彼は満足しなかっただろう。
posted at 15:36:00

彼らは(哲学のいう)世界が何か別なもので、それに対して自己の社会性のなさ、不甲斐なさをぼやくのが哲学だと確信しているようなのだが、これは柄谷行人がかつて日本近代文学の起源で指摘したルサンチマンというより、架空の地位、上から目線のように見えて仕方がない。
posted at 15:38:54

さっきの人物、自分の学友から貴族的生活と言われてたが、つまり働かないでも食べれて、哲学する時間がありあまっている。それを不甲斐ないとか、実存がないとぼやくのだが、その不甲斐なさがどこからどう繋がるのか、形而上学の大問題とショートカットして、処理がオーバーヘッドぎみになる。
posted at 15:48:24

彼は物欲というのも軽蔑していて倹約家。収入がなくても食べれるが収入がないから神経質に浪費を排除する、そんな感じ。だから貴族的な浪費家というのとは正反対なのだが、それでも食べるに困らないわけで、後は死ぬのを待つだけだ。実存に直面できない、そういうぼやきばかりをいうのだ。うざいのだ。
posted at 15:56:35

要するにパラサイト貴族みたいな御仁なのだが、それだけに後ろめたさがあるみたいで、実存を創りあげなければ、とせっせと哲学をやっていた。たぶん世の中にはそういう人がゴマンといるような気がしてきた。
posted at 15:58:45

彼が羨み欲していたのは、本当に切羽詰まる、ということだった。それを彼ははっきり実存と呼んでいた。パラサイト貴族だから切羽詰まれない、しかし後ろめたい。だから切羽詰まることに直面できている実存の人に、どうやったら自分がなれるかを、何十年も思索に耽っているようだった。ご苦労な話だ。
posted at 16:06:04

常人と違うのは集中力で、一度哲学の問題に取り組み始めると、なんと二週間以上一切睡眠しなくなり、その度に発狂してしまう。東大哲学科では伝説だったそうで、からかう私に対して、周りの東大OBが腫れ物を触る扱いだったのが、印象に残っている。
posted at 16:10:59

二週間どころか一ヶ月、全く寝ずにずっと思索に耽るって、どうやったらできるのか、そっちのほうが勿論興味深い。精神科では非定型精神病と診断されるらしいが、発狂したときは統合失調になるようだ。
posted at 16:17:53

普段でも放っておけば数日寝ずに哲学を考えるそうで、お風呂とか着替えとか、まったく頓着しないから臭いw ピアノもどんな音楽もその場ですぐ模倣でき、改変して、全く違うものに換骨奪胎させて創りだしてしまう。弾き始めると際限なく弾いてそうだ。文字通り超人だったりするのかもしれない。
posted at 16:24:38

私に文学的な才能があるなら、彼を題材に存在論的文学でも書けるのだが、しかし彼の学友にも、一週間ぐらい寝ないで考え詰めるというのが、東大哲学科には普通にいるらしく、読解塾に紹介した方も、数日寝ないで考えるらしい。思惟する故の自我おそるべし。もしかして東大ならではなのか?
posted at 16:33:26

彼の周囲はとにかく腫れ物を触る感じ。そこをズバズバ突き付ける私は、意表をつく存在だったようで(普通のことを言っただけなのだが)、私を神よばわりして入院して以来、嫌われてしまったようだ。残念だ。
posted at 16:39:55

だから、そういう自立できない不甲斐なさに、哲学を重ねる完全な欺瞞に、教訓としてそれ以来手厳しく接するようになった。醜悪な欺瞞だと思う。許しがたい。
posted at 16:43:52

日本語という事物の非言語性

2012.05.25

ファイル 219-1.jpg

言語の事物化という話や、永井均の西田幾多郎論から脱線して、西欧を和訳するのは仏典の日本語化以上に何かを欠如させる、日本語は言語ではないのかもしれない、という文脈の自分用ツイート切抜きです。

2012年05月23日(水)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120523

RT @jai_an: 世の中の人は、みんな同じように間違っている。これを超越論的仮象と呼ぶ。言い換えれば、正しく間違っている。
posted at 01:58:49

芦田氏のhttps://t.co/8phFdk3h は、日本の哲学界https://t.co/wbndZCDd の不甲斐ない、翻訳https://t.co/E1TXry0G つまり日本語化された西欧哲学の何らかな誤訳という意なのかな?(・_・;)
posted at 06:56:49

芦田氏の話https://t.co/AiOOA0rg 多分、明治以來の西欧哲学の和訳化は、それこそ大野晋http://t.co/fNBL4aAu じゃないが、かつての仏典や漢語の和訳?化より、問題を孕むということだろう。特に存在より言語という概念の誤訳が孕まれてそう。
posted at 07:06:39

外来の概念を素朴かつ軽薄に受け取れる、という脳天気が気になるわけだが、それ以前に仏典も満足に薬籠中とできなかったというのは、和訳というか、訳そうとする側の言語がどこか不全なのかなと、いつも考えてしまう。膠着語にアーリア語族は訳出しない方がいいのかもしれないw
posted at 07:18:50

よく日本語は柔軟というが、じつは根本的に日本語に訳せない事柄があって、それに真摯に向き合えるかどうかだけが、国内では学者の真価になってしまうという話。なかなか面白い。
posted at 07:32:00

極論だが最近、日本語は言語ではないのではないか、とさえ考えてしまう。大抵の人は日本語は柔軟で外来のすべての概念を吸収しているつもりなのだが、最も肝心な事柄だけが日本語にできない。そんな気さえする。
posted at 07:38:13

二葉亭四迷から夏目漱石に至る言文一致の成立史、つまり日本近代文学も、じつは翻訳文体が確立できず、翻案をすることで、何かを取り忘れるという系譜だったのかも知れない。かつての仏典以上に、近代化した西欧的主体、つまり懐疑という問題は翻案では訳出しきれず、寧ろ欺く神を翻案した気さえする。
posted at 07:49:32

出版不況とか読者離れといわれるけど、実は新書とか最近の解説書はかつて無い程充実してるから、興味のあるテーマを片っ端から読むだけで、かなり意識がしっかりしてくるよ(^-^)/ @yango_ritsukosk わかりました!
posted at 07:57:54

RT @neajazz: はっとさせられました。なるほど。RT @sunamajiri: 極論だが最近、日本語は言語ではないのではないか、とさえ考えてしまう。大抵の人は日本語は柔軟で外来のすべての概念を吸収しているつもりなのだが、最も肝心な事柄だけが日本語にできない。そんな気さえする。
posted at 08:07:34

意識ってそのままでははっきりしないからね。人は何かの因果関係を意識しようとして、対立点(対立項)が生じた時、何か概念的な明確な意識になるだけだから。それ以外に、意識が確かにあるわけではない。だから常に対立項に身を晒さないと、どんどん不随意になっていくよ、つまり寝ちゃう(^-^)/
posted at 08:08:40

寝るときに、何か対立的な悩みがあると、なかなか意識が消えないでしょ? だから意識をしっかりさせるためには、常に対立点を模索していないと、たぶん寝ちゃう。(^-^)/
posted at 08:10:33

よく日本語では主客は問題点にはならないという話をきく。言語は主述で主客の対立を起こす、おそらく意識化なのだろうが、ご存知のように主語を省略したほうが自然な日本語では、主客を問題にしづらいということなのだろう。まるで対立点のない意識の睡眠状態にすら見える。
posted at 08:29:29

今私がツイートした文にも主語がない。この文にも主語がない。もし主語を付けるなら「私は、今私がツイートした文にも主語がない、と~した」とかになるが、従節だけで疎通ができてしまう。それが日本語の不思議なのだが、一方で、事物自体を直接客体化しやすい、ということはあるのだと思う。
posted at 08:34:02

最近の米語なども、一人称(や二人称)という主節を省略して、従節だけのコミュニケーションになりつつあるように聴こえる。つまり、哲学の近代化は観念論というより、従節であった事物そのものの主体化、みたいなところがあったのだと思う。客が主になるような言語を、どれだけ意識化するかみたいな。
posted at 08:41:11

永井均の西田幾多郎-デカルト論を読んで感じたのは、おそらく日本語だと、この客が主になるのを、あまり意識化できないのではないかという点。主従ではなく主述がうまく意識化できない。だから剥き出しの事物が言語化されてしまう。事物即言語のようになり、言語が本来意識化させるようなものがない。
posted at 08:52:10

https://t.co/xWUD4MnB 日本語は柔軟ではなく、実は根本的に和訳できない何かを抱える言語ということだが、明治以来の実学、あるいは世界の奇跡日本の学部新卒の人達が、学ぶよりも却って何かに屈託なく直面できていたというのも、言語の特性によるところが大きい。
posted at 11:02:30

とはいえ、この(対象)に直面させすぎる便利な言語https://t.co/gQjuooJL も、そろそろ限界に見える。たぶん対象がある(と信じている)時だけ、うまくいく言語だからなのだと思うのだが、そんなに(世界に)対象があるのかと、訝しく思う。
posted at 11:12:18

たとえば、現代文という学科は難読文を概念化すると正解と言ってよいのだが、それも柔軟なはずの日本語が、実際には経文のような難読文を生むからできる国語教育であるに過ぎない。西欧で古典以外の難読性は、私達にとっては安易な造語や符牒の方にあったりする。
posted at 11:31:33

日本語の病理の話ついでに、國分氏の博論「スピノザの方法」、断定を避けるために却って断定してしまうような、独特な論述の文体の飛躍があって、難読な語り口ではないものの、厄介なテクストになってしまっている。哲学科ではないものの、日本の http://t.co/6UZCWrXI
posted at 12:30:14

日本の博論がおかしいのかもしれない。たとえば断定を避けているのに、予告(参照)なく、他の概念で言い換えて断定し、その関連性は示唆だけで、はっきりと命題化されない。しかし、その枠組自体は、問題の解決と繰り返される。この示唆文体は新たな難読文なんではないかと思えてしまうほどだ。
posted at 12:31:48

結局のところ、國分氏は、知性改善論は定義論で、デカルトの太陽の刺激の例と対比して、幾何学と神を弁別したが、エチカでは、無限遡行に陥らない「命名される神」(という解決を生んだ)、という話をしているだと思うのだが、どこか論述が撞着的だ。それはスピノザにある問題ではない(気がする)。
posted at 12:35:41

https://t.co/q7IoRrku 日本人は生物機械になるの好きね。人間になるための文明とか考えない。経済が進化論で説明されるしかなくなると人間やめて機械になるのが全てと錯覚する。人間が生物なのは当たり前だろうが、その上でどう向上するか考えないから低迷するとは発想しない。
posted at 13:22:42

RT @zeroichinose: アリストテレスは個々の具体的な事物が「ある」ことを哲学上の問題として提起している。そして彼はそれら諸事物の存在が存在として成り立っている究極的な原因を解明することを試みた。
posted at 13:59:14

RT @suna_kago: 柄谷行人がクリプキの哲学を通じて言おうとしたのは、固有名の単独性と並んで、命名行為の社会性でもある。社会的な命名とは、要するに子どもを名付けること(名付け親になること)を指しており、それはすなわち、かの吉本隆明が語った「対幻想」を理論的に受け継ぐものだったのではないか。
posted at 14:00:59

https://t.co/mpD3ybmY 諸事物の原因を、存在と命名する社会性https://t.co/TlwnWDK4 まで、単純に名前を事物にする=存在化させる言語は様々だ。
posted at 14:08:44

RT @aoinatsunosora: これをコマを使って説明できないか検討中です。 RT @jai_an: とりあえず、「世界-内-存在」における〈世界〉。 RT @caviar_asai: @jai_an 昨日の議論は興味深く拝見させていただきました。ところで芦田先生ご自身は、物と物との関係は物だと思いますか?
posted at 14:33:34

RT @Schopen_bot: 事物の各個ごとの作用については、事物がまさしく今、ちょうどこの場で作用せざるを得なかった帰結についてなんらかの原因を立証することはできよう。しかし、事物がそもそも、そしてまさしくこのように作用するそのことについては、けっしていかなる原因も立証はできない。
posted at 14:46:00

今日は事物の哲学の日だな(^-^)/ 
posted at 14:46:20

魔女化させるテクストたち

2012.05.22

ファイル 218-1.jpg

魔女化させるテクストたち

幾何学ではない神はテクストにしかいない。それは欺かない神だから、欺く神に対抗する「私」や自我などは、ただいない。さらに、それは与格の「私」で、懐疑論の近代化であるコギト命題は、じつは「彼思う故に彼在り」なのだという。

一方、信仰告白はゲイのカムアウトの儀式になったが、そうテクストを読む私はまるで魔女のようだ。そういう文脈の週末を挟んだ、自分用ツイート切抜きメモ帳です。


2012年05月16日(水)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120516

さっき、「スピノザを神即自然と読むと、幾何学としての言語が歪んで受容される。日本の西欧化でことさら言われる自我性も、実はそうした歪んだ幾何学が原因?」と、http://t.co/syYEcsTy 纏めたが、自我論は自己が不可解なのではないだろう。
posted at 10:21:01

それこそ文学論としてこそ真価のある柄谷行人https://t.co/3wQETEeE ではないが、日本の近代化でことさら言われる「自我性」とは、他人の心が不可解だというだけだ。自己の存在論という非科学が、近代にあるというのは、おそらく何らかな病気だろう。
posted at 10:24:46

スピノザを神即自然と読むと、幾何学としての言語が歪んで受容される。日本の西欧化でことさら言われる自我性も、実はそうした歪んだ幾何学が原因?という文脈のツイートの自分用切抜き。http://t.co/syYEcsTy
posted at 10:28:44

自分が誰だかわからない、などと普通考えるだろうか? そんなものが「近代的自我」であるわけではない。そうした歪みからは他人が分からない、ただそれだけだ。ことさら自我の哲学をすることに意味があるとは、思えない。
posted at 10:29:59


2012年05月17日(木)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120517


2012年05月18日(金)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120518

最近、朝は隔日で音楽とスピノザを往還する。昨日今日は音楽だったのだが、朝だけ読む國分氏スピノザの方法を少し。神がテクスト内にある言語の幾何学性とは何か? あるいは神を排除した非明示的なテクスト性という反証について・・・・。 http://t.co/DPhKtJPM
posted at 12:11:05

(読書)あらゆるテクスト論は、テクスト中の命題や語彙が、テクスト内の何を指すのかという論であるべきだが、前項では、所与の真という観念が、デカルトのように太陽の知覚ではなく(非十全な観念)、幾何学という真理が明晰判明なものを指示対象としていることが、検証された。
posted at 12:13:31

(読書)http://t.co/DPhKtJPM の項では、エチカという方法では説明するが、知性改善論では説明しないものが、知性であると、指示論証される。自己原因は知性を説明しない。知性を説明するのは方法であり、それは方法論とは異なる。ゆえに方法が十全な観念だ、という指示関係。
posted at 12:17:42

(読書)知性を説明するのは、自己原因ではなく、真理のある幾何学的な説明であり、それが十全な観念という指示関係。説明=言語は幾何学的でなければ、神を含むことができない。それ以外の説明では、単に神が(テクストの)外部にあることになる。
posted at 12:20:10

(読書)このいわば(スピノザに対する)テクスト論的転回は面白い(ただし國分氏のテクスト論は、やや循環論的で、その検証は後日に譲る)。なぜなら、テクスト内に実在する語彙(方法や幾何学や神)が、テクスト内で何を指し示しているのかを、厳密に有意味化できるからだ。
posted at 12:27:34

(読書)極論すると、それはテクストから「神」という語彙が排除や非明示化される経緯をも反証するに過ぎない。神という語彙が言説から排除されるのは、単に先行するテクスト内部の神という語彙の、指示内容を誤読することでしか可能にならない(と思える)からだ。
posted at 12:32:41

(読書)しかし、こうしたテクスト論(テクスト内での厳密な指示対象読み)は、「歴史的」な説明とは異なり、解釈学的であり、私のテクスト読みのスピードが、この20年で著しく劣化していることを突きつけてしまう。だから、とても頭にきているのだがw しかしただ読む分には面白い。(^-^)/
posted at 12:37:09

スピノザはどんな問題かというと、いわば煩悩の話。様々な欲望に苦しむスピノザは、ある気づきが欲望とも折り合ってしまう。それを他人に解説しようと知性改善論を書くが、その過程でデカルトとは異なり、厳密な幾何学で神を表現することでしか、それを他人に説明できないと気づいてしまう。そんな話
posted at 12:51:50

近頃の健康的な性の話https://t.co/GCMpFoto をみていると、神を幾何学としないでも、煩悩とは折り合ってる人が多そうなので、殆どの人には必要のない話のようにも思えるのだが、私にもあんまり必要なさそうだが(^-^)/
posted at 12:54:00

https://t.co/3a7hb7Qb 思わず、(スピノザの)「オナニズム的転回」って言葉https://t.co/8UMHUcWK が浮かんだが、叱られそうなのでやめた(^-^)/
posted at 13:03:48


2012年05月19日(土)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120519

RT @curatorshinya: デカルトがコギト、すなわち「我思う故に我在り」という物心二元論を説くに至った背景には、イエズス会出身の彼が三十年戦争にてカトリック派のバイエルン公の軍隊に従軍したことが大きく影響しており、故に三十年戦争開始翌年の「1619年11月10日、学問の驚くべき基礎を発見した」のだろう。
posted at 09:48:08

RT @curatorshinya: しかしデカルトは、自らの庇護者エリザベート王女からの「心とからだの関係」に関する質問に対して、「精神と身体との合一を理解するようになるのは、生と日常の交わりだけを用い、省察したり想像力をはたらかせるものを研究したりすることをさし控えることにおいてです」と説いている。
posted at 09:48:13

RT @curatorshinya: つまりデカルトは、心身二元論と自らが言っていることは学問上の理論であり、日常生活の場面においては心とからだは一つだと述べたと思う。このデカルトの述べる二元論の矛盾に、マラーノであるスピノザと三十年戦争を経験したライプニッツは十分自覚的で、二人はきっとそういう話を交わしたのだろう。
posted at 09:48:19


2012年05月20日(日)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120520

若い哲学論文に何か病理がある気がして読んでる。たとえば國分氏は相似の論証が連続するが、前までの論証との差異が明示的ではない。これは柄谷行人の断言体とはどこか正反対だ。あれ?またそれ?今までの論証と何が違うの?が明示的でない? http://t.co/wizp1ok4
posted at 00:14:34

そのために、Evenoteに命題をメモりながら精読しないと、論述自体を見失う。画像は第六章読了時のノート。幾何学は真偽のある虚構だが神は虚構ではないとした知性改善論は、個物と神を同列定義するエチカの方法になっているか?という問。 http://t.co/cUZEKAVz
posted at 00:17:51

つづいて國分第7章冒頭。エチカは著者名を含む論述の外部を必要としない匿名的テクストだ。から始まり、知性改善論では定義で(神の存在を)証明しようとしていたが、エチカ冒頭の定義は証明が不要な神の命名だ、という趣旨。 http://t.co/j5rJL66K
posted at 00:21:40

荷物は、じつは河出の思想体系全集を2千円(ゴミみたいな値段)で落札した荷物だったのだが、和訳低本の畠中訳ではない、高桑訳のエチカ冒頭の定義の翻訳は、凄まじいことになっている(・_・;) http://t.co/Qu3H80Cz
posted at 00:28:18

國分本の同箇所は、畠中訳+國分訳かはまだ確認していないが、ちょっと違う。いずれにせよ、知性改善論の定義と異なり、エチカでは定義は用語の命名(凡例)で、証明が不要だ。 http://t.co/gKehg00E
posted at 00:30:54

個人的には、1)日本のスピノザ受容(訳出と言説化)、2)ポスト東というか國分氏の世代の哲学論の文体に直感する、何らかな病理の解明に動機づけられて、国語読解としてテクストを読んでいる。
posted at 00:32:10

今日の読解は、行き帰りの30分ずつの電車で、1時間足らずの読解だったけど、ちょうど第七章に移行した時に、証明がどっかいって、命名に変わった、言語論的転回を通過した気分だった。
posted at 00:33:04

清水禮子の破門の哲学というスピノザ論http://t.co/FWJDK5mG も数百円でゲットしたから、半分ぐらい読んだが、同じく東大の博論なのに、別に引っ掛かりもなく普通に読める。國分のあの膠着的論法は何なんだろう? ちょっと病的に思えてきている。命題を探りながら書いてるのか?
posted at 00:58:28

RT @femmelets: @sunamajiri @slitsandfrills どうもどうも。私は、宗教が大嫌いなのですよ。アウグスティヌスや内村鑑三が文化遺産であることとキリスト教を信じるかどうかは全く別問題です。私は宗教を信じてみるつもりは絶対にないですね。性は端的に自由なだけですよ。それだけです。
posted at 01:28:41

スピノザみたいに2回破門されちゃうわよーwww それにしてもアメリカは文学やエンタメから大統領演説まで信仰告白なのに対して、私達ってなぜか無信仰潔癖告白の文学になりそうなのよねー(^-^)/ @femmelets @slitsandfrills
posted at 01:28:49

なんか清水禮子の破門の哲学この前読んだら(半分まで)、冒頭にリベルタンがいっぱいうようよしてた(^-^)/ @femmelets 私はデカルトやスピノザの神すら信じませんからね。私はリベルタンです。
posted at 01:34:19

RT @slitsandfrills: 私も事実として信じているかと言われると信じてませんねw 聖書w RT @femmelets: @sunamajiri 無信仰潔癖告白とかではありませんよ。ただ単に、事実として信じないだけです。どれだけ非人間的であろうともね。
posted at 01:53:27

RT @femmelets: @slitsandfrills @sunamajiri 私が《事実として信じない》といったのはそういう意味ではありませんよ。『聖書』が一字一句事実かどうかというようなことではなく、《私は信じない》ということが誰にも決して覆せない事実だと申し上げているのです。
posted at 02:10:45

RT @slitsandfrills: 面白い文章を書きますね。信じる、信じないはあなたの内面的な精神作用だと思いますが、それを外的な客観的事実かのように提示するんですね。「私は信じていない」は事実ですがね。@femmelets @sunamajiri 《私は信じない》ということが誰にも決して覆せない事実だと申し上
posted at 02:25:51

(RT引用中略)

なんか↑の対話、信仰者を説得(共有)することに腐心したデカルトに対して、スピノザが「分かることを分かる」を共有しようとせず、言語論的な転回(言葉の定義)だけになったというのと、無神論者が無神論を、他者と共有したいというのは、メビウスの輪の表裏みたいに感じた。(・_・;)
posted at 02:49:19

信じるという問題は、多分社会的ということなのだろうが、社会的でない私はいまいち分からない話。信仰者でも無神論者でもない気がしているのも、そこが原因なのね。何も他者と共有したがらないという点で。よくわらんが(・_・;)
posted at 02:53:02

茅ヶ崎北口政治演説合戦で何かと思ったら、一方は映画の宣伝だったのだが、皆遠巻きで近づかない。何かと思ったら日本奪還という新興宗教の映画だった。みてたらスタッフが説明にきて、日本を中国から奪還するとかいってる(´・_・`) http://t.co/LvaQkaNO
posted at 15:26:50

なんかその(新興宗教の)映画、昨日のhttp://t.co/YoZd1Mjq じゃないが、無神論者から信仰を奪還する物語力学(懐かしい造語だ)なのが全く笑えない=イロニーの不在を感じて怖い(´・_・`)
posted at 18:37:24

言説に一義的に真に受ける人っていないものと、いつも一貫して捉えてるんだけど、真に受けるてる人って本当にいるんかなー、私の周りにはいない。@femmelets QT: http://t.co/HsBm2o3b
posted at 23:43:27

電車の中で永井均の西田幾多郎・デカルト論、思う故に思いあり、なるとこを読んでたら、電車と溶け込んで、ねんこしちゃったよ~(^-^)/
posted at 23:57:31


2012年05月21日(月)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120521

「妄想世界の痴的洞察」って書いてあるよー(^-^)/@virusyana 「太陽は本当に核融合で輝いているかどうかは分からない。光彩よりも周囲のコロナの方が桁違いに高い温度を示すことから、実はプラズマ発光しているのでは?とも考えられており」http://t.co/kJa0TAJ4
posted at 21:22:19

RT @LitoSnowfield 腐女子さんがあるのだから…腐男子さんもいらっしゃる…のだろう(*uou)>
posted at 21:23:45

うん、オタクの生徒に前きいたら、いるらしい。でもどういうシロモノかがいまいち理解できなかった(^-^)/ @LitoSnowfield 腐女子さんがあるのだから…腐男子さんもいらっしゃる…のだろう(*uou)>
posted at 21:25:45

私もそうなのかとおもってたけど、腐女子とおなじように、男子同士を妄想して、しかもゲイではない、とかいう話を生徒がしてて、びっくりした(^-^)/ @LitoSnowfield 女性同士のアレコレを妄想
posted at 21:29:02

え?なんで?(・_・;) @murarumi428 私って鬼!?
posted at 21:31:05

たぶんコミックの世界では、男子同士は女が読んでも男が読んでも腐りものなのかしら? それに対して女子が描かれると萌えるのねきっと、と思った・・・けど違うのかな? コミック(動物が出てこない人間の擬人化)は全く読まないからわからん(^-^)/ @LitoSnowfield
posted at 21:33:24

どうもコミックやアニメでは、女は萌えと表象され、生物学的な男は、女から見ても男から見ても生物学的に腐りものと表象されるってこと? と単純に感心したけど、違うのかしら?(^-^)/ @LitoSnowfield 私も…マンガは読みますが…あまり分からない世界です(
posted at 21:42:27

うん、でもアメリカで文学研究って、こういう妄想の研究だから、ほとんど同じよ。日本だと文学研究って事実の研究って妄想してるけどw @virusyana フルスロットルの煩悩ですから。w 薫さんは近づいてはいけませんよ。w(^o^) @sunamajiri 「妄想世界の痴的洞察」
posted at 21:43:42

いやー、女同士のレズものは、男女読者とも腐じゃなく、たぶん萌えなんじゃない? ちがうのかなー?(^-^)/ @LitoSnowfield 腐りモノ…あはは(笑) まぁ…同性同士というのは男性、女性にも昔からありましたからね(笑)
posted at 21:50:23

たぶんそうなんでしょう。男子ってゲイ多そうだしねー。でもゲイとは違うらしい。彼らの心情はよくわからないとこがあるよー(^-^)/ @LitoSnowfield 腐女子さん達が感心する作品のレベルが上がったので男子?も読むのでしょうね
posted at 21:52:09

でしょ?日本人は生物学マシンだから意外に妄想が単純よ。でも、もっと恐ろしいのは、おばさん=鬼? レディコミとかって、メンヘラとかすごい物語性になってそう(・_・;)@LitoSnowfield 男性同士=腐 女性同士=萌え
posted at 21:54:57

そうかもねー。ホモフォビアがレズになれるとはおもえないけど、男子の場合は潜在的にそうだって聴いたことあるよー(^-^)/ @blueshaven ホモフォビアはゲイだと見て間違いないみたいです。 @LitoSnowfield
posted at 21:57:37

いや、そうでもない気がする。まだホモフォビアの裏返しの男子のゲイ願望なんてカワイイもの。こわいのは萌えられなくなった鬼が、レズっぽくなっちゃう物語性だと最近感じてる(・_・;)@blueshaven あ、なんか外したリプライみたいで失礼しました(笑)@LitoSnowfield
posted at 21:59:00

いわゆるヤオイ(女が男子のゲイに憧れる)は、10年前の文学研究の最前線だったしねー。でも底から分かるのは、萌えられなくなる主体は、読者という主体になるしかない、みたいな話だったような・・・。男子はいつまでも腐れるからいいのよねー。女は鬼になる。(・_・;)
posted at 22:00:57

え~~。それは知らなかった。バカに詳しいですねーww 勉強になった(^-^)/ @LitoSnowfield あは(*^o^)> それを…“ドンデン”というらしいですね(笑)@blueshaven
posted at 22:07:25

ジュネーヴ大の日本古典文学の先生が、源氏もなにもかもゲイの話で読み替えちゃって、いやーちょっと違うだろう、昔のヤオイの話ならわかるが、といつもおもってたんだけど、よくわからない。
posted at 22:08:45

ちなみに、ヨーロッパで大学の教授は間違えなくほとんどゲイなので、ゲイでないとアカデミズムの人脈がつかめない。大学だけでなく政界や経済界もアートもだけど。だからゲイを自称する人が多いって聴いた。ヘテロは労働者階級とかなりバカにされるらしい(・_・;)
posted at 22:10:45

うん、男子はゲイとカムアウトしないと、ヨーロッパでは多分出世できないんだって。アメリカだとちょっと違う気がするけど。女子はその蚊帳の外。(^-^)/ @slitsandfrills へー
posted at 22:21:48

http://t.co/y46f4Uy3 永井均の西田幾多郎論楽しい。コギト命題=デカルト循環(欺く神に対して疑いようのない私)を、スピノザなら幾何学的に画定するが、永井によると西田は、私を与格にして、彼思う故に彼ありにした~ http://t.co/hqncGI21
posted at 22:19:18

現代では、ゲイのカムアウトがヨーロッパの信仰告白にみえ、アメリカはそれに抵抗してるようにみえちゃって、萌えを表象する日本の男子の生物学的な私が、与格に見えちゃう。さて懐疑はどこにあるのか?(^-^)/
posted at 22:29:08

デカルト的循環=懐疑の近代化?は、國分さんがうまくまとめている。欺く神があってこそ懐疑があるという話。スピノザはそれをスルーするが、西田幾多郎はどうしたんだろう、というのは日本の近代的な言説で、一番面白い話に見える。(^-^)/ http://t.co/qYvWBRic
posted at 22:33:14

信仰告白の近代化がゲイのカムアウトの儀式になって、アメリカは陰謀的に何か抵抗する文学(的妄想)に見える、とかいうと、私は自分が魔女ではないかと、最近良心の呵責が募ってきているのだった。だって何も懐疑がないから(・_・;)
posted at 22:34:55

永井の西田論鋭い。欺かれることが無いのよね。だからか近頃の入試国語で西田幾太郎が通奏低音に感じるのは、魔女的陰謀論なのかしら?(・_・;) http://t.co/qANu49bS
posted at 22:47:52

2012年05月22日(火)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120522

魔女化?(^-^)/ 『ブレードランナー』、女性主人公で続編制作へ http://t.co/IjyGECzK
posted at 00:32:50

スピノザ幾何学の爽やかな朝(^-^)/

2012.05.16

ファイル 217-1.jpg

スピノザを神即自然と読むと、幾何学としての言語が歪んで受容される。日本の西欧化でことさら言われる自我性も、実はそうした歪んだ幾何学が原因?

という文脈のツイートの自分用切抜きです。(^-^)/


2012年05月15日(火)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120515

おお、ついに究極の3DマップエンジンC3 Technologiesが実装されるのねこれはすごい(^-^)/ 「非Google」の新iOS地図アプリ http://t.co/7Dzfqwe1
posted at 07:25:08

国内にいると疎くなるが、あちらでは3Dマップがコンピューティングの最先端みたいなところがあって、このC3 Technologies凄いと思ってたんだが、アップルが買収するとは。元々は軍事技術。http://t.co/1PEYBIAZ
posted at 07:44:30

コンピューティングは元々道具だから、自分の外の世界のマシン化に向かうのだが、日本人は手塚治虫ではないが、すぐに人間のマシン化や、マシンの人工知能化を連想してしまう。非常に対照的なカルチャーだからか、こういう3D技術に疎い。自分をマシン化したがるのって、変じゃない?
posted at 07:57:00

道具といえば、哲学や思惟もそう。自分の周りの世界の哲学化であるよりも、まず自己の哲学化に専念するのが近代化と思ってたりしそう。これは哲学でも科学でも工学でも全部同じ。コンピューティングがいつも後手なのも、たぶん自分をマシン化しようとするからね、きっと。(・_・;)
posted at 08:01:57

RT @ginnyushijin: ヨーロッパの文化史のうちで、どこまでも理性に基づいて創作したのは、スピノザとバッハであるように思える。
posted at 07:00:17

RT @heidegger_bot: ユークリッド幾何学の結果は移動や回転や鏡像には無関係です。ユークリッド幾何学の定理はこれらの変換にたいして不変なのです。これらの事実にもとづいて、数学者クラインは幾何学を、ある特定の変換群にたいする不変量の理論として定義しました。「カッセル講演」
posted at 05:31:10

RT @wit_bot: フロイトの夢判断の理論に取り柄があるとすれば、それは人間の精神が、どんなに複雑なやり方で事実の像をつくるのか、を明らかにした点である。
posted at 05:31:33

RT @elles_je_te: @junjacques スピノザは、自分の書いたものは読まれたいけれど、誤解されるくらいだったら大衆に読まれたくない、なんて言っていますかねー。さいきん、耳にして、いろいろ腑に落ちる言葉だと考えたので。
posted at 05:44:29

RT @tora3_ph: @kvcq デカルトは一人称接続法を使ってやや含みを持たせるんですよね。「私は〜は・・・だろう」という感じ。スピノザはこれに対して三人称直説法が多め。「AはBである。従ってBはCである」を繰り返している感じですね。スピノザ読みとしてはどうしてもスピノザの肩を持ちたくなりますが。
posted at 05:45:38

RT @ysAhnk: 岩波文庫『エチカ(上)』スピノザ #dokusyo 1677。「世間一般の哲学は被造物から始め、デカルトは精神から、私は神から始める」。世界を創造し人間を愛し時に罰する人格神をバッサリ否定。「神即自然」と称される、全ては神の表れである、という世界観をユークリッド幾何の方法で示した
posted at 05:48:24


2012年05月16日(水)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120516

RT @Chisaka_Kyoji: しかし、経験的に思っていない時も思っている我の思いとは何だろうか。スピノザはそれを神の属性にするのだが、その神は実は何も思っていなかったりする。何しろ自己原因であるのだから。
posted at 03:46:44

RT @Chisaka_Kyoji: では自己原因とは何だろうか。ハイデガー式にいえば循環論であり、そしてスピノザの対極とされるフィヒテなどは循環論の権化でもある。しかし、そういうことはどうして可能になるのか。ここでもまた物神性の問題が顔を覗かせたりする。
posted at 03:46:48

RT @suzukiyou: 構想力ってなんなんだよいったい。多数の表象を統一する必要があるのはわかるが、だからといってなんで統覚が悟性の領域に置かれているのだと。「最初から統一されている」のでもいいと思うしそうするとスピノザと同じになる。必要性があるのはそうだが。
posted at 03:56:15

RT @royterek: 「現代思想のトラウマとしてのスピノザ」 科研「近現代哲学の虚軸としてのスピノザ」第8回研究会 5月19日(土)と20日(日)の両日、大阪大学豊中キャンパスにて http://t.co/fLfJrruI 関係してないけど、スピノザに遭いに行くというより合田さんに遭いに行きたい感じ。
posted at 04:12:16

スピノザは現代思想のトラウマhttps://t.co/l3ZvqUvh だそうだが、その受容をめぐって、國分氏の清水禮子「破門の哲学」論。 http://t.co/vzNMBB6p
posted at 04:15:41

(読書)國分氏は注釈で清水禮子「破門の哲学」を単なる伝記書ではなく、スピノザのテクスト中の「与えられた」という語彙に着目する世界に類例のない理論書とするが、清水がスピノザの「真」という語彙を捉えきれず、憧れや混乱と形容する点を鋭く論駁する。
posted at 04:20:10

そうです。國分氏の論駁は、とても面白いです。(^-^)/ @aoinatsunosora いわゆる「自然発生性」についての捉えかたの部分ですね。
posted at 04:21:04

(読書)神を観念化(神という語義を有効化)する定義の任意性を、清水禮子はスピノザの挫折や混乱と看做したようなのだが、スピノザは、清水が捉えるような任意の「真」という憧れや混乱ではなく、単に与えられた所与の真の観念と記述したに過ぎない。所与の真の記述。
posted at 04:26:50

(読書)國分氏は、スピノザのテクスト中の「真の定義」を、幾何学でなく(デカルトのように)自然と短絡すると、清水禮子のように、スピノザのいう「真」が、任意や混乱や憧憬のごとく、形容されるに至る、とする。
posted at 04:30:19

そうそう。スピノザのテクストに読み込みたくなる恣意的な部分を、國分氏は見事に排除していきますね。スリリングでもあります。(^-^)/ @aoinatsunosora 固い読みができてると思います。(偉そうですが。笑
posted at 04:33:48

(読書)エチカの太陽の刺激の例は、実はデカルトが起源で、この点はほとんど論じられたことがないという。太陽の熱さを知覚しても、科学的な太陽の大きさや距離が判明になるわけではない。だから、所与の真、与えられた観念は、定義上の真偽が判明な幾何学でなければならない。
posted at 04:42:38

(読書)言語を幾何学と捉えること。つまり言語の外に神があるわけではない。それを神即自然のように前提して、スピノザのテクストを読むと、幾何学的定義の外にあるわけではない文中の「真」を、清水禮子のように混乱や憧憬と形容するようになる。(むしろ自然即神こそがデカルト的だ)。
posted at 04:45:42

(読書)幾何学的定義にしか関心がないスピノザを、神=自然と恣意的に読むと文中の「真理」を憧れや挫折と妄想的に読むことになる。だから清水は伝記を書くしかない。そのようなものこそ存在しないスピノザのテクスト自体は淡々と発生的定義の幾何学をするのみで、そこには自然も入り込む余地がない。
posted at 04:56:34

(読書)要するに、言葉即神という幾何学を想定せず、神即自然と発想する読みこそ、実はスピノザのテクスト自体に存在しない、何か妄想的な要素なのだ、という國分氏の読み、朝のこの時間にふさわしい爽やかさだ。
posted at 04:59:32

ということで朝のスピノザの方法タイム終わり。毎日ではないけど、なぜかこの國分氏の博論だけは、早朝のこの時間帯しか、頭が受け付けない。他の本はいつでも読めるんだが。たぶん、爽やかすぎるからだろう(^-^)/
posted at 05:00:36

(読書)ところで、日本のスピノザ受容。日本の近代性は思惟する自我の輸入と言われるわけだが、スピノザのテクスト自体と対比すると、そうしたデカルト的な要素は、西欧化より以前から日本にないわけではない。神即自然はアニミズム的であり、ないのは言語即神のようなユダヤ文学的な要素だ。
posted at 05:15:05

(読書)スピノザとの対比で明らかになるのは言語即神とは異質な、自然即神を思惟する自我が、西欧化で輸入された近代性ではないという点だ。むしろ自然即神が日本では先鋭化してしまい、言語即神という読みが中途半端になるため、つねにデカルト的な西欧を、自我性として憧れてしまうのかもしれない。
posted at 05:20:39

みんな早起きさんねー。私は早朝スピノザタイムがおわったので、そろそろ頭切り替えて、楽器だけが宇宙に戻り、ご飯を食べて、今日はお休みだから宇宙即寝るになるのだ(^-^)/
posted at 05:25:04


画像は「もうひとりの女神と幾何学模様の呪縛」
http://vabu.blog37.fc2.com/blog-entry-129.html

超越=解説する主体のいかがわしさ

2012.05.14

ファイル 216-1.jpg

超越する解説言語のいかがわしい分かりやすさ

http://www.sunamajiri.com/blog/diary.cgi?no=215
からの続き。

言語を超越する主体とは、解説する主体だ。しかしそうした解説文は、分かった気にはさせるが、実は「分かる」とは別物だ。だから、超越はいかがわしくみえる。そういう文脈の、自分用ツイートまとめです。

2012年05月11日(金)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120511

RT @lethal_notion: 俺はこの〈世界への超越〉というのが、やはり良く分からない。いや、ある意味では分かる。そして、そうだったらなんかいいな、という気持ちすらある。しかし、本当に人間は〈世界への超越〉を生きているのだろうか。動物と人間を比較していろいろなことは言えるだろうが、けれど、
posted at 20:33:29

言語に対しても存在に対しても恣意的な逆説者であるのは、日本の書き手だからといって免れない、という攝津くんのように、超越を前にして肉を超越しない意志も、人間と見られていて人間でないつもりの私と同じぐらい、たぶん大変なんだとおもう(^-^)/
posted at 20:59:00

https://t.co/2VrVb2OZ 超越というのは、書き手となることなのだと思うのだが、なぜ人は書き手となることで人になろうとするのだろう。書き手にならないという決断があってもいいだろう。実際、音楽の即興では書かない。ある週の没頭があるだけだ。
posted at 21:04:46

かつて、書き手になるとは一つの逆説の実践だったはずだが、いまやその逆説の逆説を書こうとする。そうした超越に、何か意味があるだろうか? そんなお話をしている夢を見た(・_・;)
posted at 21:06:05

パラドックスがあるから書ける。だから多くの人は書かない(むしろ読むことで矛盾が転移するだけだ)。書かないことが証明だ。でも書いて超越してしまう。だからいつまでも逆説がある。証明が終わらない。
posted at 21:20:04

あまりツイートしない國分さん、なんか今夜はツイートしてるねー、どうしたんだろう? 私は人(他人)が書き始めると心配になる。@tadashisettsu 國分功一郎さんのツイート面白いですね。確かに、ハイデガーのいう現存在の超越などをそのまま鵜呑みにしていいかどうかは疑問ですね。
posted at 21:23:06

そうなの。人(他人)が書き始めると、ただ心配になる。私ですら書く時にはなにかしら危ない葛藤があるからなんだけど。言葉にならない何かを言葉にしようとして、思わず書いてしまう時は、結構危ない。(・_・;)
posted at 21:26:04

だから、他人の書いたものを、まず信用しない、疑ってかかるというのは正論だと思う。鵜呑みにしたら、自分に残るのは多分、他人が省察しようとしたパラドックスだけだから。受験生の国語でも、兎に角、他人の書いたものを鵜呑みにするなと教える。書かれたものは、言われたことより超越的だからだ。
posted at 21:31:41

https://t.co/Fw0EtIca プラトニックは危険よね。そうね、それが嵩じると隠れて動物虐待とかする病者になりかねないのかも。病的なイケノブさんの顔がとっさに浮かんだ(・_・;)
posted at 21:46:22

いつからか、書き手になりたがる人を疑るようになった。何故人は作者になりたがるのかという命題が重要でもない。殆どは自己顕示欲とさほどかわらないからだ。それがより唐突に現れるジャズセッションで言うと分かりやすい。自分が楽しむより、自己顕示欲を楽しんでいる人の演奏は、禁欲的に聴こえる。
posted at 22:01:59


2012年05月12日(土)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120512

厚木になんか旅客機みたいにみえる飛行物体が進入して行った、はじめてみた(^-^)/ http://t.co/G7xBCeim
posted at 17:06:56

RT @jyunnda: アメリカ大富豪が日本に続々と移住しているそうだから、その連中ではないか?@sunamajiri 厚木になんか旅客機みたいにみえる飛行物体が進入して行った、はじめてみた(^-^)/ http://t.co/3y8Lizbu
posted at 18:52:42

何で日本に移住?(^-^)/ @jyunnda QT: アメリカ大富豪が日本に続々と移住しているそうだから、その連中ではないか?@sunamajiri 厚木になんか旅客機みたいにみえる飛行物体が進入して行った、はじめてみた http://t.co/G7xBCeim
posted at 17:46:11

RT @jyunnda: @sunamajiri 何処かには出てると思うが、私はまだ掴んでない。ただ、彼らはゼオライトによる、放射線除去の方法を確立してるようだから、私が今のところ推測しているのは、東日本から人を追い出しておいて安くで買い叩こうという魂胆ではないかとみている。日本の国力は知っているから。
posted at 18:52:42

彼等が知っているというその「日本の国力」というのがxっぽいですね。欧米の大富豪の選民的な願望は日本人になりたいという話? でも日本人追っ払われたんでしょうか、なかなかしぶといですよ(^-^)/RT @jyunnda ~魂胆ではないかとみている。日本の国力は知っているから。
posted at 19:05:43

ところで、超越は「いかがわしい」という話に対して、書く人が心配に見える、と昨日言ったのだが、超越=書くこと、超人は書く人(著者性)とはいっても、いまや読み手に移行した超越性の方が、遙かにいかがわしく見えたりする。
posted at 19:15:20

この話を考えながら「分かることを分かる」は解説=超越できないという國分本を読むと、いかがわしさ=分からない、に思えてくる。つまり、超越とは解説したり解説されたりすることなのだが、それで、分かっていたものが分からなくされる。それがおそらく「いかがわしさ」ということなのだろう。
posted at 19:18:09

つまり、彼等のいう「いかがわしい超越性(著者性)」というのは、解説されると「分からないこと」が作られる、という陰謀論と同じ構造なのが興味深い。解説とその受け手は、いかがわしい=分かっていない。だから超越がいかがわしく感じられるのではないか?
posted at 19:23:19

最近の書物は分かりやすさを念頭に解説しまくる。新書のような解説書は欧米にないジャンルだが、日本語はこのように超越論的=解説書に満ちている。受験現代文のいう評論というのは、純度百パーセントの解説文だ。だからその解説にいかがわしい主体性を重ねると、分かっていないと不正解になるだけだ。
posted at 19:28:40

RT @jyunnda: 原発事故は仕組まれたものだから、そういう狙いがあると思う@sunamajiri 米の大富豪が日本に移住したくて日本人を追っ払う?汗 RT @jyunnda 彼ら はゼオライトによる放射線除去の方法を確立してるようだから、私が今のところ推測しているのは、東日本から人を追い出し
posted at 19:30:07

余りにも「分かりやすく」解説するもので、却って現代文の勉強法が「分からなくなる」のか、今日は授業が暇。このように解説より、読解は生徒に実践させるべき、というのが最近の私の判断。分かりやすさを売りにしてから本も売なくなった。塾が暇だから國分本で哲学タイム(^-^)/
posted at 19:48:41

超越文、つまり評論も近代小説も解説文として捉える現代文は、命題を解説してしまうと、生徒の読解の実践が停止する。それで文を模式図とか絵に書かせ、それを命題文に記述させる、という授業をしないと、生徒が分かった気になって、こなくなるようだ。もちろんそれは「分かる」や「正解」ではない。
posted at 19:59:48

前任の哲学者の現代文の先生は、とにかく殆ど解説してなかったと思う。黙ってその場で生徒に文を図解させ、その間、先生は勝手に自分の読書時間に当ててたようだ。たしかにその方が生産的なのだが、生徒がじーっと黙り込むのが、どうしても対面授業では間がもてなくなる。それがいけない。(・・;)
posted at 20:09:37

「分かる」を解説で共有させることは、授業でもできない。解説は分からせない。その話題からも、上野修氏の新書では、エチカの解説書と位置づけられたスピノザの『知性改善論』を、エチカが「排した」テクストと読む國分氏がやはり面白い。 http://t.co/sX1UQEho
posted at 20:33:45

RT @femmelets: ついおしゃべりが過ぎるこの私がリツイートしてみるなう。RT @Indianteachings: ■「話しすぎる人間は他人の想像力を侮辱している。」【アパッチ族】
posted at 21:25:02

RT @simoneweil_bot: プラトンの大怪獣──マルクス主義は、真理としてならば、大怪獣についてのプラトンの一ページの中にそっくりそのまま述べつくされている。そしてまた、その反証もそこに述べつくされている。

少なくとも私みたいに地球時間の規則を超越じゃなく逸脱しちゃう人は、哲学とか絶対に向かないのだけは確か。カントなんてあまりに規則正しい生活で、周囲がカント時計とあだ名してたらしいが、そういうの無理(・_・;)
posted at 22:55:46

RT @gendaibuntan: アニメとか、芸術の批評で「テクスト」とかいう言葉が使われているのは見たことある? 「テクスト」というのは芸術に込められたメッセージのことね。近代では作者の意図と作品が単線的な図式としてあったのだけれど、「テクスト」はもっと自由で多様な解釈を肯定しているの。
posted at 20:54:33

一昨日RTされてきた現代文BOTのツイートhttps://t.co/808XMXNt どれもさっきの解説のさらなる解説みたいで、受験生が読むとさらなる混乱をきたしそうで、ちょっと心配。大人が読む分にはよいのだろうが。
posted at 22:58:09

https://t.co/808XMXNt 解説の解説の解説をするとw、テクストのメッセージ性がどうのではなく、テクストとは作者の作品ということ。伝記とか評判とかと異なる作品自体のこと。
posted at 23:02:03

現代文たんhttps://t.co/aKHYcBlr 、おもろいのだけど、今のほとんどの高校生はたぶん、何の話か分からなさそう。彼らの、分かるをあんまり汚さないで(^-^)/
posted at 23:11:02

言語を超越する主体性

2012.05.14

ファイル 215-1.png

言語を超越する主体性

http://www.sunamajiri.com/blog/diary.cgi?no=214
に続く、ツイートの個人用切抜きです。

超越(超越性や超越論)という言語は何なのか? 言語は人のものなのか、人は言語で人でなくなるのか、という文脈ですが、攝津氏とのツイッター上での会話の続きです。

2012年05月11日(金)

このNHK出版の哲学のエッセンスという冊子本シリーズは、デカルトを神証明から、スピノザを無神論者の汎神論?から、そしてカントも神の問題で扱っていて、なかなかクセモノなのか、アマゾンの読者レビューが「人VS神」化してて面白い(^-^)/ http://t.co/UYcAmPDv
posted at 09:42:48

RT @femmelets: @sunamajiri 東浩樹さんの「存在論的」と「郵便的」とを対比する議論は私にはよく分かりませんし、デリダの或る時期からの奇妙な書き方へのそれほど有効な説明でもないような気がしますが、どうなんでしょうかね。
posted at 08:40:21

RT @femmelets: @sunamajiri 基本的には、デリダによるラカンの脱構築の試み『真実の配達人』を中心とした議論でしょうね。郵便的なシステムにおいては手紙が宛先に届かないこともある(必ず届かないというわけではない)、誤配の可能性がある、それも原理的に、というのはその通りでしょうが。
posted at 08:40:26

RT @femmelets: @sunamajiri ただ、その誤配可能性というのをただ単に事実問題として、或いは経験的に語るだけではなくて、原理的にいうことができるかどうかというのはちょっと分かりませんが。コミュニケーションに失敗や誤解の可能性が孕まれているのは自明でしょうが、原理的にそうなのでしょうか。
posted at 08:40:28

RT @femmelets: @sunamajiri 私は現代数学に詳しくなく、ゲーデルを内在的に理解できませんから、その議論の評価は控えますが、柄谷行人の「形式化」の妥当性は極めていかがわしいのは、彼のテキストだけからも窺えるように思えますが、sunamajiriさんはどう思いますか?
posted at 08:40:30

そうなんです。あの形式化のいかがわしさのようなものが、不可解なんです。あれは何なんだろう? @femmelets 柄谷行人の「形式化」の妥当性は極めていかがわしいのは、彼のテキストだけからも窺えるように思えますが、sunamajiriさんはどう思いますか?
posted at 08:42:49

RT @femmelets: @sunamajiri 分かりませんねえ。ゲーデルの不完全性定理にありとあらゆる思想的問題を詰め込むことができるとかいうのは、どこからどうみてもただの妄想以外のものではないでしょう。私は、そう思いますが。
posted at 11:05:50

そうね、証明不可能、はい終わりみたいな。柄谷さんがそうかは知りませんが(・_・;) @femmelets ゲーデルの不完全性定理にありとあらゆる思想的問題を詰め込むことができるとかいうのは、どこからどうみてもただの妄想以外のものではないでしょう
posted at 11:07:11

詩的すぎる吉本隆明を意識しすぎたとか?@femmelets 証明不可能、はい終わり、かどうか知りませんが、ゲーデルで全部片付くはずがないでしょう。柄谷行人は詩的に語る曖昧さが厭だったそうですが、それはともかく、曖昧さを斥けること=全部数学で処理すること、ではないはずですよね。
posted at 11:18:21

RT @femmelets: @sunamajiri 証明不可能、はい終わり、かどうか知りませんが、ゲーデルで全部片付くはずがないでしょう。柄谷行人は詩的に語る曖昧さが厭だったそうですが、それはともかく、曖昧さを斥けること=全部数学で処理すること、ではないはずですよね。
posted at 11:18:58

RT @femmelets: @sunamajiri 吉本隆明は《巨匠のように語る》小林秀雄とは違って、理論を地道に構築しようと『言語にとって美とはなにか』を書きましたが、どこからどうみても、言語を日本近代文学の観点から語ることができるはずがないでしょう。
posted at 11:24:45

言語を固有名詞と捉えたり、神話の固有性を再生産したり、そういう話?(・_・;) @femmelets どこからどうみても、言語を日本近代文学の観点から語ることができるはずがないでしょう。
posted at 11:29:09

RT @femmelets: @sunamajiri 私は、文芸批評家が哲学者の代理をすることなど全くできなかったと思いますよ。
posted at 11:29:23

そうですね。日本ではあまりに近代性が特異なのか、文学的な現象みたいに見えていたのでしょうか? そこに宇宙の始まりも終わりもないのに。@femmelets 私は、文芸批評家が哲学者の代理をすることなど全くできなかったと思いますよ。
posted at 11:31:08

RT @femmelets: @sunamajiri 自己表出と指示表出の度合いや比率から言語を捉えることなどできるはずがないということですよ。文学とは関係がない日常言語をどうするのでしょうか。
posted at 11:34:32

RT @femmelets: @sunamajiri 西田幾多郎よりも小林秀雄に優位があるというのが文学者連中の意見ですが、本当なのでしょうかね。私はそう思いませんが。
posted at 11:37:00

そういう文学が柄谷じゃないけど、終わってしまってますからねー。@femmelets 西田幾多郎よりも小林秀雄に優位があるというのが文学者連中の意見ですが、本当なのでしょうかね。私はそう思いませんが。
posted at 11:37:43

ところで私は哲学者のつもりがないのだけど、攝津さんは、そのあたり、彼らはどうすべきだった、と考えているんですか?@femmelets 自己表出と指示表出の度合いや比率から言語を捉えることなどできるはずがないということですよ。文学とは関係がない日常言語をどうするのでしょうか。
posted at 11:39:22

RT @femmelets: @sunamajiri 西田幾多郎のテキストがおかしな意味で《孤独》であるというのは事実でしょうが、小林秀雄が平明で読解可能だとしても、どうみても逆説だらけでしょう。そういう小林秀雄のほうが一般読者に開かれているなどといえるのでしょうかね。坂口安吾がいうように《教祖》でしょう。
posted at 11:41:53

その平明と逆説ゆえか、四半世紀前は受験国語の王者だったそうですね小林は。@femmelets 西田幾多郎のテキストがおかしな意味で《孤独》であるというのは事実でしょうが、小林秀雄が平明で読解可能だとしても、どうみても逆説だらけでしょう。
posted at 11:42:50

RT @femmelets: @sunamajiri メルロ=ポンティ、ラカン、吉本隆明のソシュール理解、より一般的にいえば言語理解は妥当ではないと思いますよ。表現としての言語とか、満ちたパロールとか、自己表出などは成立しないのではないでしょうか。私はそう思いますが、どうでしょうかね。
posted at 11:47:02

RT @femmelets: @sunamajiri 小林秀雄の文章は、とにかく普通に読むことはできますよね。ところが彼は、論旨の展開の重要な部分を逆説的な表現で済ませているのではないでしょうか。そうすると、そういう彼の意見を思い込みや信仰以外で理解できるのでしょうか。『様々なる意匠』などはどうでしょうかね。
posted at 11:47:05

指示表出に対する自己表出というのは、「私が」という場合の主体性のことですよね?@femmelets メルロ=ポンティ、ラカン、吉本隆明のソシュール理解、より一般的にいえば言語理解は妥当ではないと思いますよ。~自己表出などは成立しないのではないでしょうか。私はそう思いますが、
posted at 11:48:22

あの手の文は生徒が持ってくるとうんざりです。@femmelets 小林秀雄の文章は、とにかく普通に読むことはできますよね。ところが彼は、論旨の展開の重要な部分を逆説的な表現で済ませているのではないでしょうか。そうすると、そういう彼の意見を思い込みや信仰以外で理解できるのでしょうか
posted at 11:50:52

RT @femmelets: @sunamajiri 正確にいうためには『言語にとって美とはなにか』から引用して検討を加えなければなりませんが、とりあえず、吉本隆明は対象を指し示す言葉とは異なる何かを想定したということでしょう。ところが、言葉のそのふたつの側面を分けることなどできるのでしょうか。
posted at 11:51:37

「自己表出」って吉本さんの造語でしたっけ?@femmelets ~吉本隆明は対象を指し示す言葉とは異なる何かを想定したということでしょう。ところが、言葉のそのふたつの側面を分けることなどできるのでしょうか。
posted at 11:54:23

RT @femmelets: @sunamajiri ええ、そうです。
posted at 11:58:47

RT @femmelets: @sunamajiri 機能主義的な言語観を論駁したかったというのが吉本隆明の動機ですが、ソシュールに限らずウィトゲンシュタインなどもそうですが、単なる機能主義、有用性の観点だなどといえるのでしょうかね。私は、そうではないと思いますが。
posted at 11:59:05

RT @femmelets: @sunamajiri 受験国語(現代文)、小論文などでは、試験(テスト)の正解をいわなければならないでしょうが、小林秀雄の文章の真意の解釈や特定に正解などあるのでしょうかね。小林秀雄は一見深遠に、実ははぐらかしているだけではないでしょうか。そうすると、正解などもないでしょうね。
posted at 11:59:38

だからそうとう前に時代遅れになり、その後の暗中模索みたいなのが現代文にみえます。@femmelets 受験国語(現代文)、小論文などでは、試験(テスト)の正解をいわなければならないでしょうが、小林秀雄の文章の真意の解釈や特定に正解などあるのでしょうかね。
posted at 12:01:11

言語が今やあまり問題になりませんね。@femmelets 機能主義的な言語観を論駁したかったというのが吉本隆明の動機ですが、ソシュールに限らずウィトゲンシュタインなどもそうですが、単なる機能主義、有用性の観点だなどといえるのでしょうかね。私は、そうではないと思いますが。
posted at 12:05:14

RT @femmelets: @sunamajiri デリダの『声と現象』は面白いですが、機能主義批判などではなく、むしろ表現というような観点への批判です。具体的には、孤独な心的生において主観が記号の意味を解読し劃定する、といった発想(フッサール)の批判的吟味です。
posted at 12:05:46

話が戻りますが、柄谷はどう見えます?@femmelets デリダの『声と現象』は面白いですが、機能主義批判などではなく、むしろ表現というような観点への批判です。具体的には、孤独な心的生において主観が記号の意味を解読し劃定する、といった発想(フッサール)の批判的吟味です。
posted at 12:09:53

RT @LitoSnowfield: そいえば…小林秀雄さんは(・o・)> 私の上の世代では“知のヒーロー”な感じだったなぁ〜…(*^o^)>
posted at 12:12:24

おそらく、四半世紀前まで国語テストは、ああいう逆説や飛躍を信仰するのがある種の正解になり、だから解釈問題は出せず、より単純な文中の指示問題しか作れなかったのかも知れませんね。@LitoSnowfield 小林秀雄さんは私の上の世代では“知のヒーロー”な感じだった
posted at 12:16:38

RT @femmelets: @sunamajiri 柄谷行人の、自己表出とは実は「自動表出」のようなものなのだという意見は面白いですね。『言語にとって美とはなにか』を生産的、有意味に読むにはそれしかないでしょうが、しかしながら、吉本隆明の発想そのものはそういうものではなかったでしょうね。
posted at 12:17:56

私もそっちの方がしっくりきます。ところでそれが攝津さんのいう、機能主義ではない表現と、どう布置されるのかが、いまいち理解できていない。@femmelets 言語は依然として問題でしょうが、ソシュールなどの20世紀以降の言語学だけではなく、英米系の哲学・思想も参照すべきでしょうね。
posted at 12:20:09

という風に、機能主義ではない表現という問題系について、色々伺いたいのですが、そろそろ睡魔が限界なので、離脱します。また具体的に教えてくださいね(^-^)/ @femmelets
posted at 12:22:48

RT @femmelets: @sunamajiri 恐らくソシュールで考えようと、ウィトゲンシュタイン以降のアングロサクソン哲学で考えようと、言語は機能主義的とも自己表現ともいえないと思いますよ。デリダはフッサールもソシュールも両方批判(脱構築)していますが、そのことは彼なりの言語観があってのものでしょう。
posted at 12:23:13

RT @femmelets: @sunamajiri ソシュールは、言語体系(ラング)は社会的なものだといっていますが、彼のいう社会的ということがどういうことなのかが問題にされます。デュルケムの社会実在論の影響があったといわれるのが普通ですが、どうみてもそれだけではないでしょう。
posted at 12:23:39

はい、ありがとう(◍′◡‵◍) RT @femmelets どうもお疲れ様です。ゆっくり休んでくださいね。
posted at 12:37:01

画像はThe Conflict Between Salvador Dali and Immanuel Kant

スピノザの宇宙の言論的転回

2012.05.11

ファイル 214-1.jpg

2012年05月08日(火)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120508

変な思弁を書き留める夢をみた、曰く「神は語義だから非超越者にならず単に存在する。宇宙も語義としてなら有限にならない。 神を存在という語義以外とすれば却ってそれは存在できない。神=語義が存在できる。この言明だげが固有な発言者=人に属さない。この言明だげが人を超越者にさせない。 」
posted at 21:13:46

夢の中の思弁の続き「神という語彙を抑制すると超越者が生まれるか、その語彙が言及されずとも神という語義があることになるかのいずれかだ。神という語彙も単に存在する。」どうも十七世紀という近代の根本問題に思いを馳せすぎると、やはり言語論的転回で神という語彙が再出現してしまうらしい。
posted at 21:21:23

RT @femmelets: 多分大本さんがお書きのことはそれほど意味不明にならないと思いましたが。近代人が神の観念を厄介払いしても、神の代わりに他の何かを信じないなら、その人の生活は成り立たないんじゃないでしょうかね。全く何も信じないというのは事実上不可能だと思いますよ。恐らくは。
posted at 21:36:37


2012年05月09日(水)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120509

國分第二部は先日堪能しすぎた。その総括の通り、デカルトのいう観念が、既存の神の表象のことだとスピノザによって転回された。実在としての神(の妄想)に匹敵することなく、語彙としての神の存在を証明すること。まさに表象論的転回だ。 http://t.co/bDqGOBSk
posted at 03:20:03

17世紀という近代の根本問題を勉強していると、夢までみてしまう。https://t.co/q0r4umEM まるでスピノザがデカルトの精神分析者や、ソシュールに見えてしまう。近代が神という語彙を不可能にし、神を実在化させる(超人化させる)問題として、再度整理されるかのようだ。
posted at 03:24:09

スピノザをソシュールに重ねる(つまり言語論的転回として見る)と、神の実在というより、神という語義の存在証明に見える。そういう話なのだが、最近はそういう夢ばかり見るようになってきてしまった。https://t.co/IhPto3sO
posted at 03:27:02

個人的には、近代の日本語への受容という一点だけが関心事だ。言い換えると、神という語義が、日本語の近代化から、どのように抜け落ちていったかに関心がある。なぜなら、スピノザが言うように神という意味は、語義としてのみ存在できるからだ。
posted at 03:40:54

その点で、スピノザが日本では全集化が失敗し、マイナーな部分的訳出として言説化されているのも興味深い。乱暴に言えばドイツ観念論のカウンターなわけだが、それが日本語化されていないとも言える。ある重大な語義を日本語化しないことで、日本語の近代化が成立している。
posted at 03:47:28

國分氏はスピノザを脱表象論とみなすことで、明確に「哲学の解決」と言明するのだが、それはまるでドイツ観念論的な日本の「哲学部」の解決に見えてしまう。彼が哲学部でないことが重要だと、私はこの本を読み始めた時に言ったのだが、それが実感となってきている。
posted at 03:51:10

日本語の近代化とは、先日ムハメット氏https://t.co/i5VmpyjQ が言うように、西欧の漢字化であるわけだが、それは西欧の神を表象化した反面、じつはスピノザが証明するような神という意味の存在を、漢字化=存在化できない、ことのように思えた。
posted at 04:00:35

https://t.co/FeNG1WCG デカルトが存在証明した神は実在の神(既存の表象化した神)だが、スピノザは神という語義が存在できるかを証明する。しかしそれが日本語化されていない。
posted at 04:04:07

日本でスピノザ全集は一度2巻まで出されたが、ドイツ語からの間接訳と、畠中氏に指摘されて中断したのだという。https://t.co/39cHlsHI
posted at 04:06:52

畠中訳を踏襲する國分氏だが、一点だけ畠中訳の重大な誤訳を指摘するのも、スピノザの観念が、デカルトとは異なり、実在(の神)を指示していないのに、実在の表象(再現)であるかのように誤解させる箇所だけだ。http://t.co/bKtLHwPW
posted at 04:11:55

RT @femmelets: そのカントにいいたいことは、神や宗教といった捏造物を信じるのを即刻やめるべきであるだけではなく、くだらない道徳を信じるのも今すぐ直ちにやめたほうがいいということだ。神は理論的に認識できない理念だとかいっても、道徳的、実践的に神が復活するなら全く無意味である。
posted at 10:48:17

素晴らしい(^-^)/@femmelets まさに、道徳的、実践的にこそ、神を否定すべきなのだ。デカルト、スピノザ、カントなどよりも、17世紀のリベルタンの思想と実践のほうが、遥かに優れているし有意義である。哲学者連中は、不敬虔な民衆のことを悪く言い過ぎるというのが、通例である。
posted at 10:49:00

RT @femmelets: ベルクソンよりもアランが好ましいし、アランよりもヴァレリーが好ましい。カミュよりもサルトルのほうが好ましいし、メルロ=ポンティはもっと好ましい。フーコー、ドゥルーズ、デリダを読むことに意味があるとは思わない。マルクス、ニーチェ、フロイトは粗雑で不確実である。
posted at 10:49:18

ところで、このメルロ=ポンティの素晴らしさというのが、私は知らないので分からない。教えて(^-^)/ @femmelets ~メルロ=ポンティはもっと好ましい。フーコー、ドゥルーズ、デリダを読むことに意味があるとは思わない。マルクス、ニーチェ、フロイトは粗雑で不確実である
posted at 10:50:30

RT @femmelets: @sunamajiri 心身の両義化といえるのかどうかちょっと分かりませんが、メルロ=ポンティには彼なりの心身問題についての考え方があり、『心身の合一』という題名だったか、本になっているはずです。議論の細部は忘れましたが、確かにデカルト的二元論では全くありませんでした。
posted at 13:52:52

知覚される身体は、対象を持たない言語と同じように、主客両義的という話なのかなと、なぜか勝手に思い込んでいたのですが、ちゃんと読まないとだめですね(・_・;)@femmelets 確かにデカルト的二元論では全くありませんでした。
posted at 14:05:43

RT @femmelets: @sunamajiri メルロ=ポンティにとって身体は、精神か物体かというデカルト主義的二元論で割り切れるようなものではなく、《生きた肉体》であり、最終的に『見えるものと見えないもの』で《肉》と規定されます。《自分に触れる身体が同時に触れられる身体でもある》交差配列(キアスム)。
posted at 14:16:33

現代思想は性感論みたいに聴こえることがよくあるんですが、このあたり非常に晦渋な雰囲気があります、和訳を読んで理解できるかなー(・_・;) @femmelets ~《肉》と規定されます。《自分に触れる身体が同時に触れられる身体でもある》交差配列(キアスム)。
posted at 14:21:24

ちなみに精神科に入院してしまう哲学者が、ポンティ論をやっていて、たしか俗っぽくいうと、性感の話から気が触れちゃう、という印象があるので、怖いので近づかないようにしていたんです。彼の論文がどっかにあるんですが、途中から読めなくなる(・_・;) @femmelets
posted at 14:24:05

思わず性感論的転回とか言いそうになってるんですが、私に理解できるか自信ないです。WIKIをちょっと確認したのですが、「既に言葉と対象を一致させた次元から始めるのではなく、そもそもの言葉の生成からの考察がある。」が気になりました。(・_・;) @femmelets
posted at 14:29:50

しかし、ハイデガー→メルロ=ポンティーが、思想的に前景化してくるようですね。存在の肯定がどれほど困難かという否定的な意識はたぶん思想たりえないのでしょう。ちょっと勉強の(研究ではないです)射程にいれないとならなさそうですね。(・_・;)@femmelets
posted at 14:34:32

ほんとはクリプキをもう一度読んで、ウィットゲンシュタインをもう一度読んで、ゲーデルの数式が理解できない辺りを慰めようとおもっていたのですが、そんな《作られたパラドックス》に囚らわれるより、実存か現存在か身体をもっと肯定してあげないと、殺されるだけなんだわきっと(・_・;)
posted at 14:37:58


2012年05月10日(木)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120510

RT @femmelets: @sunamajiri 私はハイデガーの哲学思想についてはそれほど詳しくありませんが。ただ、彼は、著作よりも講義のほうが遥かに分かりやすいというタイプの思想家の一人です。そういう人々は結構います。例えば、『カントと形而上学の問題』を読むより、同じテーマの講義のほうが読み易いです。
posted at 04:46:05

RT @femmelets: @sunamajiri 触わる、触れる、触覚というところから考察する人々は、メロ=ポンティ以外、余りいないように思います。触覚が五感のうちで根源的だという発想は結構あるのですが。
posted at 04:46:08

RT @femmelets: @sunamajiri それほど難しい話ではないですよ。《自分で自分が話している声を聴く》(デリダ)、《自分の手が自分の手に触れるのを感じる》(メルロ=ポンティ)というのは、一般的にいえば、カント以来の《自己触発》という問題系に属しています。
posted at 04:46:20

RT @femmelets: @sunamajiri 流行の後には沈黙するといいますか、ジャン=リュック・ナンシー、ラクー=ラバルト以降フランス思想がどうなったのか、全く情報がありませんね。
posted at 04:46:23

私は薬物は合わないのでやらないのですが、アメリカでマリファナやらされたときに、急性中毒みたいに気を失って、数分後に意識が戻ったら、自分は喋ってないつもりなのに、自分が喋ってる声が彼方で聴こえる、という幻覚体験をして、デリダのはそれかなと思ってたんです。@femmelets 《自分で自分が話している声を聴く》(デリダ)、《自分の手が自分の手に触れるのを感じる》(メルロ=ポンティ)
posted at 05:01:11

この存在・無というのは、どうも大戦への言及性がありそうなんですよね。今度読んでみましょう(^-^)/ @aoinatsunosora 第二次世界大戦というアクションへの両者の違いがよく分かる本です。そしてそれは互いの「存在・無」への示唆に充ち満ちています。面白いですよ。
posted at 05:05:14

フランスの思想は、ナショナルランゲージの存在論みたいに見えて、彼らの言う「存在」が何を指しているのかは、あまり役に立たないようにずっと思ってたんです。国語思想の論点としては宇宙的な印象はあるんですが。何かあるのだろうか?(^-^)/ @aoinatsunosora
posted at 05:17:00

RT @Novalis_bot: 因果性の概念は、たとえば、ある種の関係の恣意的記号(超越論的記号)である。超越論的論理学。 『一般草稿』
posted at 06:00:04

RT @wit_bot: 他人の深層をもてあそぶな。
posted at 06:59:02

RT @femmelets: @sunamajiri デリダは《自分で自分の声を聴く》という伝統をカントというよりも、プラトンにまで遡って批判していたはずです。デリダの特異性は、自己触発や自己の自己への純粋な現前を徹底的に批判していることでしょう。彼以外にそういう意見を知りません。
posted at 09:10:58

RT @femmelets: @sunamajiri 恐らくそういうことではなく、超越論的な思考そのものへの批判でしょうね。それはカント以降と考えるのが普通ですが、西洋哲学は最初からそういうものだった、というのがデリダの意見です。
osted at 09:11:00

そうですね、私はデリダは結構昔英語で読んでましたので、わかります。わからないのはメルロ=ポンティのほうがすごい、という昨日の点なんです。デリダは超越論的なものを脱構築しますが、それに対してメルロ=ポンティには何があるんでしょう?知覚? @femmelets
posted at 09:13:37

『弔鐘』は批評空間で昔読みましたが手許にないです。東が『郵便論的~』で否定神学としてのハイデガーに絡めて何か言ってましたね。RT @femmelets メルロ=ポンティのほうが凄いというよりも、デリダの主張、特に中期はよく分からないところが多いということですよ。『弔鐘』とか。
posted at 18:17:45


2012年05月11日(金)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120511

ところで、國分本は、同じく博論の東の郵便論的~との対照で読みたくなったと前ツイートしたんですが、東の冒頭に、ゲーデル問題、あるいはハイデガーの否定神学に呼応して、デリダは散種・弔鐘・手紙で非形式言語化した、というのがありましたね。この点はいかがですか? @femmelets
posted at 06:29:42

最近はWIKIに存在論的郵便論的のまとめまであるのね。びっくり(・_・;) http://t.co/fExegdDE
posted at 06:36:18

デリダの中期をゲーデル問題とハイデガーの否定神学へのある種の抵抗として東が博論を書いたわけですが、WIKIでは東が依拠した柄谷行人のゲーデル理解は誤謬という指摘があったんですね。http://t.co/fExegdDE @femmelets
posted at 06:41:49

東の博論は出版当時2~3度読み返しましたが、デリダ中期の非形式性を手がかりに、ハイデガーを否定神学http://t.co/57xSlpIO と見做すんでしたっけ?そろそろ思い出せなくなっています。時間が立つのが早い。(・_・;) http://t.co/PcsDNKmq
posted at 06:47:09

ところで、日本には新書という、専門書とは別の系の教養書が充実していて、これは欧米にはない事情だと以前ツイートしたんですが(続)
posted at 06:54:41

(続)講談社新書の上野修のスピノザhttp://t.co/VYvlndQFは、NHK出版の「無神論者」は宗教を肯定できるか」http://t.co/brXT29sZというコピーライティング的に弄れたタイトルをつけたシリーズより、直球で面白いです。
posted at 06:58:52

(続)國分氏が「分かることを分かる」のを「伝えられない」という逆説を指摘する知性改善論から上野修も新書を書いていて、哲学を「どう生きるか」より前に、事物に語らせる幾何学(いわば形式化)だ、と見做しているのが、大変面白かったです。 http://t.co/O3RFRxfr
posted at 07:05:20

そして、観念と事物が、神という語彙において、存在するほど転回される?という、スピノザの逆説を探るべく國分氏にまた回帰してしまう。この逆説は東が見逃したらしいゲーデル的矛盾を、どこか解決するように見えてしまう? そんな夢を見そう。http://t.co/bDqGOBSk
posted at 07:10:38

■ツイートまとめブログ■「スピノザの宇宙の言語論的転回」http://t.co/eiHIv89H 言葉が存在する(^-^)/
posted at 07:22:07

RT @curatorshinya: 言語の違いとは、宇宙の切り取り方の違いに他ならない。私は異なる言語を通過していく中で、異なる言語の型によって切り取られた宇宙が、顕在意識として認識される以前の無意識の段階でどうなっているのかさえ、もう少しだけ正確に把握できる様になれた気がする。
posted at 07:25:03

RT @curatorshinya: 敵対概念を不可避的に生み出してしまう、ギリシアの民主主義から発達した近代国民国家から脱却できる様、知恵を絞る正念場に来ていると思う。自由意志を前提とした現行型のシステムではなく、梵我一如を前提とした新たなシステムを、アジアから、日本から構築できないだろうか?
posted at 07:31:21

RT @curatorshinya: 日本人という、想像上の存在がネーションとして固定化して行った歴史は、まだ150年ほどしかない。そうだとしたら、何故私達の中にあるエジプト人やペルシャ人の文明の歴史を感じて、それを近代によって成立した想像上の存在以上に大きなものとして大切にし、共有することができないのだろうか?
posted at 07:31:48

RT @curatorshinya: 近代から生まれたフィクションのフィクションを連続体として捉え続けることで成り立っているのが意識であり、それを可能にしているのが時間ではないか、とふと考えたら、私はデリダの差延と結局同じことを考えているのではないか、と気がついた。
posted at 07:37:15

倍音の二元論=情感と虚無の倍音

2012.05.04

ファイル 213-1.jpg

RT @tampny: @sunamajiri このツィートたった今見ました、FBでは知り合いをあげましたが、もう知ってるかも…(?)...(素朴な疑問ですが、こういう音楽やりたい人って先生とか関係無く勝手にやるもんじゃないのかなぁ???)^^;

ジャズなんてその方が健全なのだが、フルートの人は間違った音を出してはいけないと刷り込まれてるみたいでレッスンをという人が多い。フルートという楽器の特性なのかいつも考えさせられる。@tampny こういう音楽やりたい人って先生とか関係無く勝手にやるもんじゃないのかなぁ???
posted at 21:12:36

と同時に、ジャズも大学で習うものという風潮がわをかけてる。昔はジャズなんて習うものではなく盗むものだったのだが、フルートは盗む相手もいないから、どうしても習いたくなるみたい。まあその方が近道だしね。@tampny
posted at 21:15:12

posted at 21:10:472012年05月03日(木)

■情感になった音楽を虚無にする倍音■

RT @slitsandfrills: サイトのトップにアプされてる動画拝見しました。かっこいいですね。確かにフルートでジャズはあまり取り上げられないかもしれませんね。でも、インプロが穏やかで聴きやすい気がします。@sunamajiri
posted at 22:21:57

RT @slitsandfrills: これ面白いっすね→ http://t.co/q4WMNdeP 確かにボサノバをイメージしてまいますね、フルートw ちなみにフルートが活躍しているジャズ名盤ってどんなものでしょうか?教えて頂けると嬉しいです☆ @sunamajiri
posted at 22:24:49

なかなかないですが、ジェレミースタイグとビルエバンスのアルバムはジャス名盤にカウントされますね。情念が凄まじいですが。@slitsandfrills QT: ちなみにフルートが活躍しているジャズ名盤ってどんなものでしょうか?教えて頂けると嬉しいです☆ @sunamajiri
posted at 22:29:58

RT @slitsandfrills: こんなサイト見つけました! ハービー・マンってフルート奏者なんですね。インプロヴィゼーションって教えるの大変そうですね。学生さんを思いっきりエンパワメントしてあげないと一皮むけなそうですね。z0CRorv3@sunamajiri" class="top">http://t.co/z0CRorv3@sunamajiri
posted at 22:58:11

ジェレミーはフルートが先鋭化してしまうクラシカルな音楽の情感を、情念で破壊しようとしてますね。ジャズは、メロディーをラインにして、和声を開放してしまうんですが、フルートだけでやろうとすると情念になっちゃう。(^-^)/ @slitsandfrills
posted at 23:00:25

RT @slitsandfrills: 日本の笙や尺八なんかもジャズとは相性がいいようにも思えますが、大本さんのご意見はどのようなものでしょうか。@sunamajiri
posted at 23:00:59

その意味で尺八はフルートより情念強いです。タンギングしないでもフルートより音量(怨霊?)がでかいですから。でも笙はどうかなー。サウンドとしては面白いんですが、邦楽とジャズの短絡はなかなか難しそうです。(^-^)/@slitsandfrills 日本の笙や尺八なんかもジャズとは相性
posted at 23:02:53

RT @slitsandfrills: DJ Krush - Still Island http://t.co/8Z7wtUvM これとかどうでしょうねぇ 海外でも有名な日本のhiphop/jazz DJなんですが @sunamajiri
posted at 23:09:35

音色というか倍音は尺八の方が豊かで面白いですよ。こういう風にリズムやグルーヴを、旋律から分節化できてしまうと、たしかに笛は倍音になる。しかし、ジャズは実は倍音としての和声から、リズムを解法することだったので、これは事後的ですかね。(^-^)/ @slitsandfrills
posted at 23:11:37

つまりジャズというよりロックの魂に聴こえる。乱暴に言うとジャズは倍音からの自由、ロックは倍音の情念みたいな、そんな風に聴こえる。倍音から自由になるためにライン(メロディー)を細分化するには、フルートのようなか細い楽器は聴こえない、というだけなんです@slitsandfrills
posted at 23:14:06

RT @slitsandfrills: メモメモ 面白いですね では、安易な図式で想像すると尺八でも倍音から自由な演奏をすればジャズ? @sunamajiri
posted at 23:19:26

バッハ以降の西欧音楽というのは、2つの倍音列の二元論=終止形の情感なんです。全てそのために書かれ、演奏もその情感を忠実に表現するんです。ジャズではこのドミナントモーション=終止形が、リズムの細分化で、半音階の音列の自由になってしまったんです@slitsandfrills
posted at 23:19:36

倍音というのは縦の構造、つまり時間の停止なのです。西欧音楽はリニアな終止形で2つの倍音列が二元論のように交互に現れるというか。なので単管の単独の倍音は、西欧的には時間的静止、フェルマータに聴こえるんです。静止画の世界です。@slitsandfrills
posted at 23:21:54

しかし、単独の倍音列、つまり静止画はインパクトがあるのです。なので、リズムが後ろで鳴ってくれれば、その方が情感をぶっ壊す情念になる。でもその単一の倍音列は、リズム、アフリカの太鼓のような開放感、を多分作れないで、虚無僧になります。虚無ですw @slitsandfrills
posted at 23:26:16

たぶん、アフリカの太鼓はバッハ(西欧音楽)になれても、アフリカ人は虚無僧にはならない気がします。たぶん虚無=単独の倍音は他から来ていると思います。音楽というより音色なのです。@slitsandfrills 安易な図式で想像すると尺八でも倍音から自由な演奏をすればジャズ?
posted at 23:34:56

そうです。アフリカ人は笛は吹いても虚無僧は多分思いもつかない。そんな話です。音色と音楽はかなりの対立項です。音色は実は音楽ではない、それがジャズがやらかしたことだったと私は思います。(^-^)/ @slitsandfrills これは尺八について仰ってますよね?
posted at 23:40:45

RT @slitsandfrills: そうですかね?演歌歌手のJeroとかゴーストドッグのGZA(?)とか見てるとなれそうだけど
posted at 23:40:45

もちろん、そりゃ現代的には何だって可能ですよ。白人が演歌歌ったっていいわけです。ジャンルというより、どうやってそれが作られたか、というような起源の話です。@slitsandfrills そうですかね?演歌歌手のJeroとかゴーストドッグのGZA(?)とか見てるとなれそうだけどw
posted at 23:42:41

尺八や演歌では、たぶんジャズを創始できないんです。ジャズのリズムに乗って情念を歌えても、そのリズムは作れないんです。尺八というか邦楽器は、運指のシステムが近代化されてませんからね。ジャズは近代化以降の音楽です。@slitsandfrills
posted at 23:44:31

たとえば、アナログシンセが出た時に、いろんな音色がでるねーって遊ぶんです。でも音色だけでは音楽にならない。そういう話です。音色から音楽ができるんじゃないんです。たぶん虚無僧というのは、音楽の虚無みたいな感じなのでしょう。@slitsandfrills
posted at 23:52:42

尺八奏者がジャズのセッションにくると、一所懸命ジャズのフレーズを真似ようとするんですが、難しいらしいです。トロンボーンはうまいことやりますね。@slitsandfrills トロンボーンなんて運指関係ありそうにないですけれど、ディキシーなんかで使われてますけど。。。
posted at 23:54:39

それで、知り合いの尺八の邦楽のプロの方が、ジャズ演るために、尺八の頭部管で、下がフルートの運指システムという楽器を使うとか言っていました。跳躍の多い細かいパッセージはやはり尺八向きでないのでしょう。(^-^)/ @slitsandfrills
posted at 23:56:47


2012年05月04日(金)

普通ジャズは語らずともジャズなのだが、フルートはこうやって常にジャズであることの自己弁護みたいな話になる。しかし実際は、ただやるだけ。私は音楽が何であるのか、という絶対論は余り好きではない。でも異端の楽器ゆえに、違いに言及するだけ。別に言葉で音楽とは?というつもりはない。
posted at 00:01:42

このフルートがどこが違うか、という話は、自分用には実はあまり必要がない。ただジャズフルートを教えるという段になると、非常に必要な意識化作業になる。多分他の楽器の人には実感がわかないのかもしれない。私にはないが、フルートの人独特の囚われ方が先行するもので。
posted at 00:03:29

フルートは、尺八や閉管のパンフルートより、か細い。そのため、音符的な正確さを、と訓練されてしまう。不正確や曖昧な演奏は単に聴こえない楽器だからなのだが。これを以前バロック的と総称したのだけれど、このフルーティスト独特の心理(曖昧が怖い)というのは、ある意味面白い。
posted at 00:06:07

フルートであるからというコダワリがそもそも私にはないので、あんまりそういうことを意識したことがないというだけ。他のいわゆるジャズのメインストリームの楽器と同じように、ただ遊ぶだけ。しかし教えるとなると、大きな壁(なぜフルートでジャズをやるのかという説明)にぶつかる。
posted at 00:09:08

ジャズをするにあたってフルートを選んだ、という意識があったわけではなく(それなら他の楽器を選んだはずだ)、フルートができたからジャズし始めたというだけだったので、なぜフルートでジャズをするのですか?と訊かれるのは結構困る。ただ他のフルートの人も同じようにできるはずと教えるしかない
posted at 00:14:18

このフルートならではの自意識過剰みたいな状態は、他のフルートの方にジャズを教えるのでなければあまり起こらない。何故あなたも同じようにふつうにジャズにならないの?という説明をしはじめようとすると、いきなりそうなるだけなのよねー。みんな自然にやろうよ、という。(^-^)/
posted at 00:16:39

ジェレミーはエヴァンスとのアルバムの頃は、交通事故で口が麻痺していて、楽器を唇に接触させない独特の吹き方をしてたらしいですよ。いまは正規の吹き方をしてますが。@slitsandfrills もう楽器のチューンニングから変えて純正の音が出ないフルートでやってしまえばww 
posted at 00:19:29

さっき隣の隣の母娘が、凄まじいヒステリー喧嘩してるのが、家にまで聴こえた。以前ライブのお客さんで来てくれたこともあるのだが、たまに凄まじい甲高いヒステリー声のがなり合いをする。女同士の情念のぶつけあいは、怖い。フルートでは絶対に負ける(・_・;)
posted at 00:27:02

おお、ギターでチックのピアノをコピー、すごそう。フルートの人に爪の垢煎じて飲ませてあげて(フルートの人はフルート以外をコピりたがらない)(^-^)/ @neajazz 久しぶりにコピー欲が湧いて、チックコリアをコピり中。今さらながら偉大さを再確認。むずい。集中集中。
posted at 00:23:02

メルドーは今更ながら凄い。あのバッハ数人態勢みたいな左手が(・_・;) @neajazz 最近メルドーとかチックとか、何故か白人ブームなんです。反動かも。笑
posted at 00:28:58

このメルドーの七拍子オールザ・シングすって、もしかして半音上? わたし半音と全音移調は自然体でできるから、七拍子もついていけるのだが(ちなみに4度5度だと頭こんがらがる)、左手のバッハ数人はどうなってるんだ?状態。 http://t.co/xgFDKzNn @neajazz
posted at 00:35:52

RT @slitsandfrills: もう楽器のチューンニングから変えて純正の音が出ないフルートでやってしまえばww @sunamajiri フルーティスト独特の心理(曖昧が怖い)というのは、ある意味面白い。
posted at 00:29:27

RT @slitsandfrills: 大本先生の一回目のレッスンは、生徒のフルートを柱に思いっきり打ち付けるところから始まるww すげーパンクだw それw @sunamajiri
posted at 00:29:29

そうそう。フルートの人には、譜面通りに吹くな!というだけで、今までそんなこと言われたことがない、と言われてしまう(^-^)/ @slitsandfrills 大本先生の一回目のレッスンは、生徒のフルートを柱に思いっきり打ち付けるところから始まるww すげーパンクだw それw
posted at 00:30:30

RT @slitsandfrills: 生徒の目の前で譜面を燃やすww すげー テレビで紙幣燃やしたゲンズブールみたいだな。。。 @sunamajiri
posted at 00:42:54

RT @slitsandfrills: エクリチュール優位からジャズはパロール(カンバセ―ション)の世界だという点を示すのに象徴的なイニシエーションでは?w @sunamajiri 生徒の目の前で譜面を燃やす
posted at 01:06:37

確かに。通過儀礼は必要だ(^-^)/ RT @slitsandfrills エクリチュール優位からジャズはパロール(カンバセ―ション)の世界だという点を示すのに象徴的なイニシエーションでは?w @sunamajiri 生徒の目の前で譜面を燃やす
posted at 01:07:34

スピノザが精神分析するデカルト

2012.05.04

ファイル 212-1.jpg

スピノザが精神分析するデカルト

この前の摂津氏とのこの対話は、私が深夜、彼が昼間、という時差のため食い違っていたような面が強く、流してしまうべきなのですが、いちおう個人用に一部略しながらログっておきます。なおツイログは
http://twilog.org/sunamajiri/date-120502

スピノザに性差(ジェンダー)論を持ち込む無益さは承知のうえだが、デカルトはどうだろう、という文脈になっていたようです。

結果的に、私がフロイトからスピノザをデカルトの精神分析者、と読もうとしていた、ということなわけですが、それは私は確信犯的なのです。すなわちこれは、それが明らかになるまでの過程として記録したいのです。

2012年05月02日(水)

今度は社会の問題だとはじまるでしょ? 國分のテクストに社会なんて語は現在までのところは乗ってないんですよ。無神論なんて話もでてこない。私は何一つ解釈で加えてないですよ。それは最初から何度も言及していることです。@femmelets
posted at 06:52:55

國分氏が論じているスピノザとデカルトは、神という語義がある。それは全てを含む等という語義らしい。それは理解が出来る、といっただけなんだけどなー。なんで無神論がどうのとか、私の主体性に問題があるということに、されるのだろう。神はスピノザを論じてても禁句か何かなんだろうか?
posted at 07:06:22

そもそも哲学の問題として読んでいるのであって、宗教や無神論の問題だといわれるたびに、それは違うのでは?といっているに過ぎない。だから見解が異なるとも思えない。
posted at 07:22:04

17世紀のスピノザだろうと今日の國分氏だろうと、彼らの論じている問題が、神学の問題ではなく哲学の問題なのは、素人にも分かるでしょう。それを神がいるとは思えないと言われても、なぜそう思うの?としかききようがない。私に関心があるなしにかかわらず。どうでもよいのだけどねそれは。
posted at 07:32:36

そんなこたないだろう。情念は誤解のようだが、要約を一々意味不明な文脈に持ち込んでるのは、私の方ではない。たしかにお話自体は楽しくないわけではないし、同意がないわけではないが、そういう主観的な批判を受ける覚えはない。@femmelets
posted at 08:08:27

はじめに左翼とか主体性ありき、という哲学の偏向した読み方が、いまだにあるとはおもわなかった。そんなものは遠の昔に終焉してるのかとおもっていた。すさまじい抵抗だな。
posted at 08:14:30

たしかに現代文は左翼的な言説と直面するが、國分氏のような純粋に精緻な研究まで、直接読むな、留保しろと言われる筋合いはないのである。もしそうなら異様すぎる。海外生活者の感じる違和感が、必ずこうして排除される言説空間なのよね。こまったもんだなー。
posted at 08:29:56

子供に匿名と実名の違いを教える時代で、匿名だと男が偉いといえても、実名でそれ正論になる?って訊かざるをえない。だから、画一より多様性が正論なのよって。子供たちわからないからね。右傾⇔左傾もこの関係あるよねー。
posted at 08:49:03

左翼は自己になろうとするけど、特に左翼でないというか、売名的でないと、とくに自己になろうという動機がないのよね。他者のままというか(^-^)/
posted at 08:50:03

RT @femmelets: 私は、例えば、《性的主体》への飛躍が困難だといいたいだけです。無理にデカルトやスピノザと関連づけるならば、恐らく、《懐疑》ではなく《身体》の問題として考えるべきでしょう。純粋思惟には性別はないからです。
posted at 10:22:23

なるほど。それはそうですね。國分氏はスピノザの欲求する主体の話を何度かしてますが、確かにスピノザ自身が傍論にしてますね。スピノザが論じる範囲のデカルトに於いては微塵もその要素はない(意識化)されてなさそうですね。@femmelets 、https://t.co/cxeoDc1G
posted at 10:27:53

これは面白い点ですね。性(差)の話で先日言いたかったのは、それこそ個人的な話ですが、性的表象のような客体愛というのが男性的な特徴に思え理解できないということだけです。しかしそれは別にデカルトからではなく、ただ身体がそこにあったと。@femmelets 純粋思惟には性別はない
posted at 10:34:20

RT @femmelets: スピノザがはっきり女性や恋愛、性について書いているのは一ヶ所です。男性が愛する女性に振られますと、彼は苦しみ彼女を恨みます。ところが、彼女が彼を再び迎えてくれたら、あれほど苦しんでいたのをさっさと忘れてその女性のところに戻ってしまいます。
posted at 10:35:38

RT @femmelets: スピノザにとってはそれは人間の情念、隷属の問題でしたが、私はもし、人々がプラトンやスピノザなどの哲学者の忠告に耳を傾けていたなら、人類はとっくに滅びていたはずだと思います。
posted at 10:36:37

RT @femmelets: @sunamajiri 客体愛というか、《見る》ことの特権視、そして、感覚及び認識というのは考えてみると面白いかもしれませんね。認識が眺めること、《観照》のイメージで考えられてきたわけです。眺められるのは美しい女性や少年でしょう。そこには性的な欲望や動機があったかもしれませんね。
posted at 10:43:13

RT @femmelets: @sunamajiri プラトンは《美しい少年》から離れて、《美そのもの》、《美のイデア》を観照するのだという話になりますが、プラトンがどう考えたかはともかく、美しい女性や少年を眺めることなしには美のイデアもあり得ないでしょう。
posted at 10:43:24

この見られる快感というのは、何となく理解できなくないんです。見る快感というのは、個人的には謎なのです。まあ目の保養なのでしょうけど。@femmelets 《観照》のイメージで考えられてきたわけです。眺められるのは美しい女性や少年でしょう。そこには性的な欲望や動機があったかもしれ~
posted at 10:46:56

RT @femmelets: @sunamajiri デカルトやスピノザではなく科学の考え方ですが、身体、特に脳なしには意識も思考もないでしょう。そして性欲も、性器ではなく脳に由来するそうです。ですから、前近代における去勢された宦官からも性欲はなくならなかったそうです。
posted at 10:47:31

性の話といえば、フロイトから読むのはいかがですか? ちょうど今朝のツイートまとめでフロイトまで思わず行ってしまったhttps://t.co/pao38tzh デカルトはそこまで明文化しないが、フロイト的には語られていなくても、より大きな全体があるみたいな。@femmelets
posted at 10:54:30

RT @femmelets: @sunamajiri 性を思考できないのはデカルトだけではなく、ジェイムズやフッサールなどの19-20世紀の哲学者もそうでしょう。彼らはフロイトを読みましたが、あれこれと引っ掛かって同意できなかったそうです。そのことには幾つか理由があったでしょう。
posted at 10:59:43

RT @femmelets: @sunamajiri ウィリアム・ジェイムズはともかくフッサールはデカルト的ですが、《内観》という彼らの方法では、リビドーであれ、自我-超自我-エス、性衝動-死の欲動であれ見出せないし、神話的な思考だと考えてしまうことになるでしょう。

面白い話なのですが、目がしょぼしょぼで限界です。どうも夜型の私は攝津さんとは時差があるようです。そろそろ離脱モードです(^.^)/~~~ @femmelets
posted at 11:11:35

それにしても、男子は見る楽しみがあって羨ましい。女子もイケメンを目の保養にはするが、だからといってポルノみて楽しいと思ったことないからなー。気持ち悪いじゃない?(・_・;)
posted at 11:14:46

RT @inazumaoryu: @sunamajiri そうですよねー(-_-)でも、私には理解不能なんですが、少女漫画のホモもの好きな女子は沢山いますよね。男子がレズもの見るのと同じ感覚なのでしょうか(・∀・;)
posted at 21:15:45

さあ?腐女子っていうんだけど理解できないね。自分は参加せず見ているだけといことらしいけど。この見る性(セックス)というのは、感覚的に理解できない。@inazumaoryu 私には理解不能なんですが、少女漫画のホモもの好きな女子は沢山いますよね。男子がレズもの見るのと同じ感覚
posted at 21:17:27

津田さんっていう最近売れているネット評論家が、この前、腐女子が女子のデフォルトだとツイートしてたけど、参加しないで見ているだけ、というのが何で女子の性的なデフォルトなのか、いまいち理解不能だった。男子空はそう見えるのかな? @inazumaoryu 、少女漫画のホモもの好きな女子
posted at 21:18:56

忘備録:スピノザ→デカルトを、フロイディアンで、デカルトの意識化として読む。そんな話を午前中していた記憶がある。以上、メモメモ。
posted at 21:20:42

RT @inazumaoryu: @sunamajiri 覚えています。あれは考えてしまいましたよー。私は女性ホルモン足りないからわからないのかなーって思ってました。見るよりやるほうがいいに決まってる(^_^;)
posted at 23:22:21

女子ホルモン足らないと、参加しないで、見てるだけとか、考え込んだりするらしいよー(^-^)/@inazumaoryu QT: あれは考えてしまいましたよー。私は女性ホルモン足りないからわからないのかなーって思ってました。見るよりやるほうがいいに決まってる
posted at 23:44:04

フロイト以降の私達にとっては、スピノザがデカルトの精神分析者にみえちゃうという罠。
posted at 20:24:18

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