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無限観念を前提しない日本的理系言語と道徳

2012.04.20

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http://www.sunamajiri.com/blog/diary.cgi?no=199
から続き(^-^)/

理系のガラパゴスと言語混乱の共有に至るツイートまとめ:

フーコーの専有https://t.co/75zjlUv9 といえば、人が神化することへの警戒、人の相対化だが、それは神の絶対視と同義なのかと、國分スピノザの方法をじっくり読みながら考えていた。https://t.co/slwl1GMM
posted at 18:11:05

RT @shingoinao: 「他者からの愛は権力である、つまりその権力を使えばその相手を支配できる」みたいな馬鹿なつぶやきをしていた人間がいたが、それは間違ってはいないが当然正しくはない。先のフーコーのリツイートにある「専有」とはこの間違った権力のことを指すと思う。ただ、自己の変化を目指す試練というのは…?
posted at 18:05:15

(忘備)専有の対立項は真の順序だ。それは起源というより体系の記述順の真http://t.co/Nbrn1AOP のことだ。つまりいかにも真の順序というデカルトはフーコー的だが、その厳命を守ったスピノザはフーコー以上に専有的だ。認識と神証明の困難な問題を浮き彫りにするからだ。
posted at 18:23:50

(読書メモ)國分4章の4、186~193p。読書忘備録。いよいよ認識と神証明の矛盾性という厄介な問題をはらむスピノザとデカルトの公理の比較。真の順序にデカルトを整序するスピノザは、観念と実在、つまり認識の原因の公理でデカルトと真逆の注釈をつける。
posted at 18:26:32

(読書メモ)國分186~193p。真の順序にとって認識の原因とは何か? それは無限の実在との無矛盾性であるはずだ。それをデカルトは神証明として明示した。認識とは観念の原因を実在とする想定だが、にも関わらずその想定が認識の全ての根拠だとすると、認識できない観念を存在させてしまう。
posted at 18:40:00

(読書メモ)國分186~193p。観念の無限が認識できない、神が存在しない、というのは、単に「観念の中の実在性の量」が体系に前提されていないからだ、としてスピノザはデカルトへの注釈を書く。ところがここではじめてスピノザの記述に明確な混乱の痕跡が記されている、と國分は言う。
posted at 18:43:42

(読書メモ)國分186~193p。國分的スピノザを読むのは、良質な推理小説より楽しい。だからじっくり読んでいるので、読書忘備録はすべて途中。何らかな見解ではないので念のため。
posted at 18:46:48

読解塾の生徒さん、学校の二人の国語教師のうち、現代文の担当者が受験教材のマニュアル音読しかしない。もう一人は、自然対神とか近代の話をしてくれる、という。確かに前者の教師は分かっていないと言えるのかもしれないが、だからといってもちろん現代文は道徳の教科ではない。
posted at 19:00:42

もちろんデカルトもスピノザも高校では国語ではなく、公民で教えられるはずだ。ところで、國分をじっくり読む傍ら、無数の本を読んでいる。さっき30分ほどで読んだのは、日本人の美徳を育てた「修身」の教科書 (PHP新書) 金谷 俊一郎 http://t.co/lMoL9eDp
posted at 19:02:48

(読書メモ)https://t.co/TswoLUbW もちろん観念の無限を認識できないというのは、「本当は分かっていない」「それを他人に説得する必要はない」とスピノザ的國分は論じていることになる。いわば無限の原因(いや原因の無限かな?)なのだろうか?
posted at 19:08:53

(続)それに対して、戦前戦中の修身http://t.co/lMoL9eDp という教科は、空気、共有、分かるはずだ、という教育なのだろう。もちろん現代の教育に美徳が欠如しているというのは誤解だ。それは自己相対化する国語力のない読みにすぎない。だから現代文が重要なのだ。
posted at 19:17:07

RT @yutakioka: 虐待を受けてる子供が親に虐待されてると言い出せなくしている倫理観の一つ。

posted at 19:29:26

RT @LitoSnowfield: まぁ…文系が非論理的というお話自体が非論理的なのですが…(*uou)>
posted at 19:27:40

RT @LitoSnowfield: と…いうか(*u_u)> いわゆる一つの理系な方々が非論理的である場合も少なくない…というのを改めて知った一年間でもあったりで…(*uou)>
posted at 19:30:37

RT @yutakioka: @dongyu_chiba たぶん、命題論理と述語理論に触れていれば大丈夫だと思います。たまに様相理論的な内容も出てきますがw。デイヴィッドソンの後にクリプキを読まれるとスムーズかと思います~。クリプキはかなり難解ですがw。
posted at 19:32:11

↓様相論理とかクリプキすら、最近は現代文に出題されるのよね。少なくとも大手予備校の模試は最近そういうの好き。クリプキはけっこう楽しいよ。そのあたりで思考停止したがww(^-^)/
posted at 19:33:19

知らない生徒さんのためにクリプキをWIKIと思ったら、一文しか書いてなかった。辞典的定義が出来ないクリプキ (^-^)/ http://t.co/JCU865nI
posted at 19:35:24

クリプキのWIKI記述が一行なの笑った。「「基盤のない真理」の概念に分析を加えて自己言及のパラドックスの議論に貢献、指示の因果説などの言語哲学分野での貢献、ウィトゲンシュタイン研究。」
posted at 19:36:13

大手予備校の現代文の模試で、クリプキ論とかでてきて、クリプキって何ですか?って生徒さんが質問してきたときは、さすがの私もぶっ飛んだ(^-^)/
posted at 19:37:37

高校生にクリプキの可能的、あるいは様相論理を説明するのまんどくさいから、これが高校生が読める解説書、だから新書を読めってば(^-^)/ 哲学の最前線―ハーバードより愛をこめて (講談社現代新書) 冨田 恭彦 http://t.co/Q2SKLYeW
posted at 19:39:26

クリプキとか様相論理ついでに言えば、今朝読んでいたスピノザ的國分http://t.co/Nbrn1AOP は可能性、偶然性、必然性という問題で、クリプキ向き(^-^)/ http://t.co/AIgvlocm
posted at 19:42:12

にしても、どうして近頃の高校生は(大学生もだろう)、新書というのを知識源にすること忘れているのだろうか? 新書はPHPとか新興勢力が、サラリーマンの儒教教育するメディアになってきてしまってるね。本当は最も良質な受験参考書なのに。(^-^)/
posted at 19:45:14

RT @LitoSnowfield: というか…理系の方の言葉の使い方に独特な癖や誤りがある為に、話が通じなかったりややこしくなったり…なケースも少なくなかったような(*uou)>
posted at 19:46:18

言葉の共有を極限まで問い詰めてないのが日本の理系にありがちなパターンだから、私的言語の宇宙で何か喋って、そこから抜け出せなくなる。(^-^)/ @LitoSnowfield 理系の方の言葉の使い方に独特な癖や誤りがある為に、話が通じなかったりややこしくなったり
posted at 19:47:33

最新の高校生向けの新書でお薦めはこれだね。タイトルが「生きる」とかなってて誤解するけど、中身は現代文のキーワード解説ね。(^-^)/ いまを生きるための思想キーワード (講談社現代新書) 仲正 昌樹 http://t.co/WCI6Z02m
posted at 19:49:36

養老孟司なんかも高校生が国語でやらされると撃沈するよw @LitoSnowfield これは私的言語である”ということに無自覚の為に、以前にsunamajiriさんが仰っていた“単語に躓く”のをよく見掛けましたし、違う筋道を持ち出し始めるというのも多いようでした(*^o^)>
posted at 19:53:21

RT @LitoSnowfield: 日本の理系さん達、ご自身がガラパゴスだったり…と少し心配だったり…(*u_u)>
posted at 19:58:58

おお、今日の金言、あほりずむ(^-^)/ @LitoSnowfield 日本の理系さん達、ご自身がガラパゴスだったり…と少し心配だったり…(*u_u)>
posted at 19:59:27

うさちゃん、なんかちはやぶりたくなってきたー(^-^)/
posted at 20:02:23

RT @LitoSnowfield: 実は…ドキドキしながらのTweetでしたが(*^o^)> 自分の生まれ育った国の言葉を論理的に使えなくて…理系と仰るのは少し恥ずかしくないですか?…と思うときが少なくなかったりでした(*uou)>
posted at 20:03:00

欧米では考えられない便宜的な科学(カテゴリー)が日本の理系なのよね。西欧のエンジニアなら国語(言葉を共有すること)の達人であるはず。日本の文系の私的造語も然り。@LitoSnowfield 自分の生まれ育った国の言葉を論理的に使えなくて…理系と仰るのは少し恥ずか
posted at 20:07:42

RT @LitoSnowfield: ん〜…(*u_u)> 養老さんの文章は分かり易い方だと思うのだけれども…(*uou)⁇

まだマシな方ですが、それでも養老が戦後の自由とか語り始めちゃうと、高校生気の毒なほどに言語混乱をきたすよー。こういうのを授業でだすんですよ。これは入試問題でもあるし。http://t.co/uN1BtPh5 @LitoSnowfield 養老さんの文章は分かり易い方
posted at 20:13:04

実在は可能性ではない。人文の真ということ。

2012.04.20

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國分『スピノザの方法』読書忘備録

第四章の3 171-186pの忘備録です。

(読書メモ)國分4章の3。國分氏の論は、よりテクスト内的になり、量VS実在、観念VS本質(実在)、可能的VS必然的など、デカルトの公理の用語をスピノザがどのように再公理化されたかがテクスト実証されている。なかなかスリリングで、個人的には当分楽しめるという感じ。(^-^)/
posted at 05:56:00

(続)攝津氏が「人文に真はない、つねに相対的だ」とツイートしていたが、國分的スピノザも同じ観点でデカルトを批判的に再定式化する。そこでは、順序だけが真だ。デカルトは先行するものは後続するものより優先する、と命題化しているが、その言いつけを守り、より真となる順序をスピノザは導く。
posted at 05:56:32

(続)真の順序は、デカルトの並べ替えを要請する、と國分はいう。ここでは、ホッブスがデカルトの最大の謎といった「実在性の量」の公理が真の順序に置換される。デカルトにとっては自明な「量」だが、これをスピノザは削除できない。デカルトの3つの神証明の論拠だからだ。
posted at 05:58:51

(続)次に、可能的と必然的という公理が書き換えられる。デカルトは実在を可能的=含有量と公理するが、それをスピノザは実在に対する観念に布置する。観念=実在の量=可能的は、単に実在(本質)ではない。つまり、デカルト的な明晰判明の量は実在を示さない。実在は量=可能性の問題ではない。
posted at 06:01:55

(続)國分171-186pを命題化すると、真の順序ではデカルトの量(可能的)は観念になり、実在を示さない。つまり明晰判明さが自己を示すものではない、となりそうだ。スピノザにとってはそれだけがデカルトの3つの神証明と無矛盾だった、と國分は論証している。今日はここまで。
posted at 06:08:10

(続)ところで、攝津氏のhttps://t.co/bcFYd71O を人文に真はないと要約するなら、私にはそれが無神論というより、人には真がなく(つまり人間の言動は懐疑すべきだ)、何か神的なものに真がある、ということに近似して聴こえてしまうのだが、どうなのだろう?(^-^)/
posted at 06:25:16

画像はhttp://diseaseoftheweek.wordpress.com/2010/03/10/thw-wednesday-post-10032010/
からで、他意はありません(^-^)/

哲学=コギト解決から多数者支配の解決へ

2012.04.19

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コギト解決つまり悟りは、民主主義の敵なのだろうか?

國分功一郎『スピノザの方法』を「解決』と読んだ私に対して、攝津氏がそれは解決ではなく、むしろ民主主義に対する犯罪として読める、というお話だったので、民主主義をなぜ絶対化出来るのか、について考えざるを得なくなりました。

@femmelets 氏。國分→スピノザが回避するややこしいこと=懐疑論の徹底こそ困難https://twitter.com/#!/femmelets/status/192617555037405184 で、それはhttps://twitter.com/#!/femmelets/status/192620485958307840 サドはいいがナチはだめ→戦後民主主義が自明でないhttps://twitter.com/#!/femmelets/status/192618220371443713

https://twitter.com/#!/sunamajiri/status/192640604117807104 と@femmelets s氏が、國分氏が悟りのようなものというスピノザの「分かることを分かるを他人と共有しない」→懐疑論の回避は、犯罪級(サドやナチやオウム問題)と同義、というまとめだったのですが、徹底した懐疑論はなぜ困難なのか?

懐疑論者を説得しない→スピノザ→國分を、今朝私はhttps://twitter.com/#!/sunamajiri/status/192416138762780672 で哲学の解決と名付けた。@femmelets はそれは民主主義が自明でない→犯罪と同義というのだが、スピノザは道徳的https://twitter.com/#!/femmelets/status/192581586246569984 なだけなのだろうか?

國分によるスピノザ→「分かることを分かる+説得で共有しない」といういわば「コギトの解決」と、それに対する民主主義の破壊→オウム事件https://twitter.com/#!/femmelets/status/192623088033214464 的な命題。しかし、「分かることを分かる」を説得しないという証明(コギト解決)は、本当にその対立項なのか?

つまり コギト解決https://twitter.com/#!/sunamajiri/status/192650161237934082 は、むしろオウム的犯罪とこそ向きあっていたのではなかったか? そういう問として再措定して考えるのは無駄なんだろうか?(^-^)/

https://twitter.com/#!/sunamajiri/status/192650655092056064 をパラフレーズしてみると、「コギト解決」=道徳であろうが悟りであろうが共有(説得)しないことは、本当に民主主義なるものの敵なのだろうか? そういう話のようだ。(^-^)/

https://twitter.com/#!/sunamajiri/status/192651525758259200=コギト解決としてのスピノザを敵対するものとした民主主義とは、柄谷行人の最新テクスト『哲学の起源』では、(おそらくノマドに対立した)多数者支配のことであり、自由の対語ですらある。

柄谷『哲学の起源』は民主主義は自由の対立項だという命題として読めるが、確かにヒトラーは危険https://twitter.com/#!/adolfhitler_bot/status/192246701451522049 だろう。だからといって、オウムもナチもスピノザ的コギト解決と同義なのだろうか?
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https://twitter.com/#!/sunamajiri/status/192656287614517248 多数者支配=民主主義による独裁に置き換わった現代からみると、必ずしもスピノザが単なる道徳や宗教には見えない。國分氏の言説は論文ではあるが、そういう哲学やコギトの解決を、解明しているように見える。それは単に誤読なのか?

・・・國分氏を擁護してみましたが、個人的にも多数者支配こそ敵です。

以下追加です。

RT @femmelets: 幾つか考える必要がありますが、まず、私は民主主義一般を疑ったのではなく、1945年以降の日本に存在した戦後民主主義に言及しました。勿論民主主義一般も問題ではあろうと思います。例えば民主主義だけでは、橋下徹が力を持つのを誰も止められません。
posted at 07:52:11

RT @femmelets: 徹底的な懐疑論が不可能ないし困難な理由は、誰でも生きているというそれだけのことです。どんな人でも生きるうえでは何かを信じなければ生きることができません。《この世界がある》ことすら信じない人々が生きることができるでしょうか。
posted at 07:52:13

RT @femmelets: 懐疑論の問題を提起したのはフーコーですが、ではフーコーの思考からみて可能な徹底的懐疑はどういうものでしょうか。何でも手当たり次第に疑うのでしょうか。そうではないと思います。Xという或る体系について、その起源や系譜を問い、劃定することでしょう。
posted at 07:52:15

RT @femmelets: 我々はそのXの内部にいるかもしれないし、Xを抜け出た直後なのかもしれません。(例えば我々はもう19世紀の思考から自由なのでしょうか。20世紀ならどうでしょうか。)そのXが真理であるとか妥当するというのは保留してそのXの条件を調べるというようなことです。
posted at 07:52:17

國分氏によるスピノザhttp://t.co/RLOu1R0t は寧ろそれ(後述されたフーコですらも)に相似して見えるのです。スピノザは単にデカルトの不徹底を改正しようとしただけに見える。@femmelets 誰でも生きているというそれだけのことです。
posted at 08:00:57

國分的スピノザは、http://t.co/RLOu1R0t その一点のみに思えました。「私は存在している」という命題を、「ゆえに」とすれば、下手すると「不存在」を強いられる。それでは徹底した懐疑が不可能だ、それが國分的スピノザなのかと。@femmelets 「私」と書くこ
posted at 08:05:46

ですから、國分的スピノザ(ゆえにを廃した私存在)を、民主主義の不可能性と読むより、そこからあらゆる懐疑が徹底されると読むほうが建築的と思えました。(國分的)スピノザが問題にしたデカルトは、懐疑する主体の不存在そのもの、に見えます。@femmelets 民主主義と衆愚政治を区別~
posted at 08:14:26

RT @femmelets: スピノザや國分さんは「ある」に定位するのでしょうが、「思考する私がある」「絶対無限の実体=神即自然がある」のと「この世界がある」のは少し違うのではないでしょうか。晩年のフッサールが想定したのは根源的「臆見」です。
posted at 08:17:51

RT @femmelets: opinionであってknowledge, truthではありません。「真知」というほどのステータスを要求できないし、だから理論的認識ではなく単なる信憑であるということになります。私が世界はあると思うとしても、論証できません。
posted at 08:17:54

勿論そうです。つねに相対的です。國分的スピノザもデカルトとの差異です。しかしそこからは「あり得ない真知」を想定しているのはデカルトだ、という明証しか読めない。スピノザを真知とみなす論拠はないように見えました。@femmelets
posted at 08:26:04

その点は確かに難しいですね。それが現実といってしまえばそれまでなんですが。さて、そろそろ夕方まで睡眠を、またです(^-^)/ @femmelets 民主主義は不可能ではなく困難です。スピノザが民主主義者でも政治的に慎重だったのは、みんなが「自由な人間」などではないからです。
posted at 08:27:22

國分功一郎氏の明証性、哲学の解決

2012.04.18

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http://www.sunamajiri.com/blog/diary.cgi?no=196
からの続きのツイート集

勿論、私は哲学研究に興味があるのではなく、あくまで日本語の言説の達成度に関心があるだけ。一頃まで日本の哲学者の言説は思弁的に随意の弁証法で、論点を模索=探求するスタイルが主流だった。その点で國分氏の言説は博士論文だからか「解決しました、今から説明します」という様式で差異を感じる。
posted at 08:54:45

この差異は、もしかしたら日本のアカデミズムの中でむしろ哲学の方が、論点の混沌とした現代の欧米より、一歩先端に開けてしまってるのではないか、と思えるほどだ。
posted at 08:57:14

しかし、本当にそうなのか?という言説読みでは、國分氏の解決がテクスト内的実証であるため、読み手が弁証法で命題を補いながら読む負担がかかる。しかしそれでもなお、一頃まで何を哲学するのかを哲学=探求していた人達と比べて、ある哲学的な明証があるようで、欧米の言説より充実してるようにみえる。
posted at 09:03:16

おそらく欧米より混沌としていない哲学の明証性に行き当たっているというのは、欧米がやはり擬人法の、つまりキリスト教の文化圏であることを免れないからだと思う。もちろん日本的近代も西欧化だが、國分氏はスピノザのようにそれを相対化し、解決が見えてしまっているようだ。
posted at 09:08:06

もちろん、ここhttp://t.co/7BFrloai で読書メモした、デカルトとスピノザの対称性は、デカルトのコギトが擬人神に担保された三段論法で、スピノザはそれを前提としない主体という命題という話だ。
posted at 09:11:17

柄谷行人ですら、最新のテクストでは、擬人法の有無しか論じない。当たり前だが、言葉の問題は擬人法しか論点がない。平たく言えば、神は言葉をしゃべるか否かという点だ。しかし、國分氏はそうした弁証法をするわけではない。もちろんテクスト実証的(たぶん分析的)だからだ。
posted at 09:17:39

だから、読みやすいようで読みづらい。読者が弁証法しながら読まなければならないテクストだからだ。しかし、國分氏がいうように、テクスト内実証すると、スピノザの方法が確かに哲学的解決というのも頷ける。コギトの明証性は普通ゲーデルに至る矛盾でしかないが、スピノザにとっては解決だからだ。
posted at 09:22:50

それは「哲学的解決」といってよいかもしれない。國分氏は講演では悟りみたいなものと説明したそうだが、その「解決しました、だから説明(証明)します」という言説は、西欧の証明とは正反対の混沌とした言説にはない布石にみえてしまう。もしそうなら日本の言説は凄いことになっている。
posted at 09:26:20

コギトを真としない幾何学と真とする幾何学

2012.04.18

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國分『スピノザの方法』(2012)167-8p読書ノート

分析と総合(幾何学的様式)

デカルトの省察=分析(非幾何学的様式)→コギト命題(スピノザは命題ではなく大前提のある三段論法というCogito ergo sum)

デカルトの諸根拠=総合(幾何学的様式)→神の3つの証明(アプリオリな神証明と2つのアポステオリな神証明)

スピノザの幾何学的様式 →コギトを真とする幾何学(Ego Sum Cotitans)

《デカルト的分析とコギトを真としない幾何学》⇔《コギトを真とするスピノザ的幾何学》

(読書メモ)國分167-8p デカルトは『省察』を分析といい、総合=幾何学的様式と区別している。このデカルト的総合(つまりデカルト的幾何学観)では、アプリオリな神の存在証明から論述する順序となるが、スピノザ的総合(幾何学観)では、神証明から論述する順序に必然性はなかった。
posted at 06:29:59

(読書メモ)國分168p 幾何学とは様式だが、デカルトとスピノザの幾何学観=総合の差異。國分によるとスピノザは、デカルト的総合はコギトを真とできなかった、と考えていたことになる。デカルト的幾何学ではコギトは論証できない。そのためにスピノザは幾何学的にコギトを真にしようとした。
posted at 06:35:34

(読書メモ)同頁。神のアプリオリな証明であるデカルトの幾何学(総合)に必然性はない。それに反論するなら、コギトを真としたスピノザ的総合を反証できなければならない。つまりスピノザはデカルトの幾何学観を不完全と捉えている。デカルトにおいてコギトが真であるのは分析においてのみだ。
posted at 06:48:15

(読書メモ)國分168p デカルト的幾何学はコギトを論証していない、というスピノザ。それは、デカルトのコギトは分析(非幾何学的)だ、という論証になっている。デカルトは総合では、体系に読者への要請を混入させ、アプリオリな神証明を論述している。スピノザは同じ様式でコギトの論証を行う。
posted at 06:53:36

(読書メモ)國分168p 幾何学的様式とは定義・公理・要請・定理等の命題で論証することを指す。したがってそれは論述の順序を意味しない。スピノザにとっては、書き換えによって異なる順序(神を真とするのではなく、コギトを真とする順序)が可能だったからだ。
posted at 07:07:01

(読書メモ)國分168p 言い換えると、なぜデカルトにとってコギトは分析的様式でしか論述されず、幾何学的様式=総合では神が真であらなければならないのか? スピノザの問題意識はおそらくその一点だった。・・・という流れになっているようだ。2ページの整理でも難儀する。
posted at 07:12:44

(読書メモ)國分168p 神を真とするデカルト的幾何学観と、デカルトの分析(非幾何学的様式)では真とされたコギトを、幾何学的様式の真とするスピノザ、という同ページまでの朝の読書終わり。それを読んで、カントは数学を総合、現代数学は分析、という点を考えると頭がクラクラする。
posted at 07:15:49

(読書メモ)國分167-8pまとめ しつこいようだが、もう一度まとめると、167-8p 《デカルト的分析とコギトを真としない幾何学》⇔《コギトを真とするスピノザ的幾何学》という感じ。やっと命題に要約された。(・_・;)

参考:

カントは数学を総合、現代数学は分析。デカルトは総合で神、分析で我。スピノザは総合でも我といった。という國分氏の論述を読んでたとこだった。https://t.co/IGx8hAsx
posted at 18:23:07

RT @schizoophrenie: 純粋理性批判 http://t.co/Dmwi54FX では数学は綜合的な判断であるとされているが、現代数学は数学を分析的な判断として規定する。数学に対するこの2つの態度は、定型発達者と発達障害の論理と一定のアナロジーをなす。

RT @schizoophrenie: 綜合的判断には経験や対象が関わっているのに対して、分析的判断は記号の工学的操作によって全てが説明される。前者が定型発達的で、後者が発達障害的。ヒルベルトをアスペ的というのはこの点において(もちろん、彼の生活史や息子のことなども考慮した上である)。

他人は分からないはずだ→近代の諸問題

2012.04.13

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『スピノザの方法』の手頃なレジュメ。そうそう、分かってる人には単に分かってる。(^-^)/「ここまで言うのを我慢していたけれど(國分)、ほぼこれは「悟り」に近い。」 RT: 國分功一郎スピノザ入門第1回 その5 『知性改善論』の方法論 http://t.co/VLfTiWX9
posted at 02:07:00

分からないというある種の疎外や二元論を一々例えば心身と実体的に表象するのが近代であるのではない。自然=神こそ近代だ、というスピノザの方法を通じた問題。https://t.co/HRTogCFV
posted at 02:08:33

よく纏まっている。「スピノザを否定した近代=説得の論理=明晰判明=真理の公共性→つまり、共有できるものだけが真理」VS「スピノザは分かる+分かることが分かる」(^-^)/ 國分功一郎スピノザ入門第1回 その5 『知性改善論』の方法論 http://t.co/VLfTiWX9
posted at 02:17:04

この「分かる+分かることが分かる」という私的な悟りのようなものを、あえて他人と共有する必要があるのかとか、他人も同様に分かってると踏まえるべきなのか、というのが、したがって問われる。私はスピノザ同様、他人も分かっていると感じる。
posted at 02:30:06

他人はわかっていないはずだというこの問の立て方自体が極めて近代的だ。また自由意志2.0が言及するGoogleの汎知主義も、その点では何ら分かっていないことになってしまう。それがスピノザ的な「分かることを分かる」と認めない(共有しない)ビジネスなら、誰も自由を感じないというだけだ。
posted at 02:37:36

つまり、他人は分かっていないはずだ、という認識の枠組み自体、平たく言えば上から目線とか情報格差と呼ばれる差異の捏造こそ、そろそろ無理がある。なぜ他人が分かっていないと独り善がりに思い込むことが出来るのだろう? これが近代という問いだ。
posted at 02:44:39

国民国家であれ啓蒙であれ、全ては相手を差別的に見下す原理でしかない。そこにはいくらあがいても論理性は微塵もない。たとえば教育も、分かっていないはずがないと踏まえてこそ、はじめて言葉が通じるようになる。この点を履き違えた認識は全て「分かっていない」。
posted at 02:46:01

スタトレに、2~3語の単語を聴くとその言語が喋れるようになるエイリアンのエピソードhttp://t.co/h4zHslLs があったが。どんな知識もどんな文も、分かることが分かってる人にとっては、2~3語も読めばわかってしまうように、バベルの塔の方がよほど幻想的だ。
posted at 03:06:07

このスタートレックボイジャーを、たしか9.11以降の物語性の枯渇という文脈で、東が対談集で言及していたのを思い出した。しかし、彼が囚われているように大きな物語の終焉なんてあるのか? 確かにある種のメタフィクション性は時代を画したとは思うが、本当にそれだけか? 
posted at 03:17:23
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よくドラマで「その気持ち分かる」と同情するシーンがあるが、大抵窮地に陥ったキャラは、分からなくなっちゃってると設定されている。キャラとしてというよりストーリー上、その人物がある事柄が分からなくなってしまっていることにされる。それが「分かることが分かる」という事柄であるに過ぎない。
posted at 03:35:10

ある物語を想定しなければ「分かることが分かる」というスピノザの方法を、分からなくなった人物を捏造できないのだ。このように物語性は何も大きな物語性としてあるのではない。大きな物語性は終焉したのではなく、最初からなかったのだ。東はそう捉えられないのだろうか?
posted at 03:37:15

ある種の女は私と国語の大敵

2012.04.12

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↓結論から言うと、自立が悪いのではなく、自立してない女が、どうも私の大敵のようだ。(^-^)/

笛で遊びすぎて狂いまくってきたら、急に猛烈にお腹すいてきてヤバイ。www この遊ぶのが人生という感覚が、世の大半の女子には理解できないから、女子は悟れないと仏教では諭すんだなー、という感じの遊びまくり(^-^)/
posted at 06:31:40

遊べない人は、すぐ遊んでる人の邪魔しようとしたり、しちゃう。それが世の女性像だったりするから、女子は心して遊びまくってその女性像を払拭しないと、お腹すかないよー、遊んでくるいまくるために生きてるのよー(^-^)/
posted at 06:33:20

田舎じゃなく京は都だから自己中なのよ。頭悪い人って天動説になるよ。うちの母がそのタイプ。他者が困っていると自分に迷惑が掛かるという視点からしか物事みれない。@198819952007 赤か青かの証言のときも、「自分は大型バイク嫌いだから、原付の味方する」と言った警備員がいた。
posted at 20:09:39

階下工事の騒音で午前中寝て出講するためには来週はホテル暮らしだとかツイートしたら、母が自分に火の粉が掛ると思ったのか、うちには泊まる場所がない、ホテル代もあげれないとメールしてきた。さんざん愛人囲って私をよせつけなかった過去のある母だが、これだから女というか婆婆は苦手だ。w
posted at 20:43:13

誰もお前なんざ当てにしてないのに、予防線張ってくるのが家の女どもの常套。世間が期待する母性本能がなく、極端なファザコン。子供嫌いで、私が子供好きとか言うと信じられない、というような母。自分の話しかしない。最近呆けてきているが、元々病気だあれは。これで私がある種の女性性嫌いになる。
posted at 20:50:50

フロイトはダ・ヴィンチの昇華(性衝動から芸術への昇華)は、義母の寵愛によるというが、私の女性性は、まさに母のアンチ寵愛、母にヘイトされることで、昇華してる感じだ。
posted at 20:52:54

私の女性性が反転してる原因である、うちの女どものファザコンは、満鉄と戦後運輸を牛耳った曽祖父と、出来が悪くて慶應で医学者になって愛人つくって出てった祖父に向けられている。全く下らん。ファザコン家系だからか、私の女性性は、マザコン男性を受け付けない。そういう反転。
posted at 20:59:44

国語で自然VS労働と教えると、自立という女性的強迫観念ほど学問を新卒採用に同一視しちゃって誤答する子が出てくるhttps://t.co/sCueqBYm のだが、こういうリストラとかあの子たちはどう捉えてるんだろう? ソニー1万人リストラhttp://t.co/JA27k4IQ
posted at 21:30:11

日本の従来の国語教育というのは近代を脱封建制として読むhttps://t.co/v5rkOKyW のが、目を瞑っていても正解なわけだが、近代=自然=労働を、躓いて就職と思い込む女性的感性というのは、国語教育の可能性に拍車かける源泉ね。 https://t.co/snCI277x
posted at 21:37:20

画像は龍女成仏(りゅうじょじょうぶつ)
http://www.syo-kazari.net/sosyoku/jinbutsu/hokekyo/hokekyo7.html

私の大敵の遊びを知らない自立をしらない女は、まさに龍神成仏http://t.co/PiG5dmZi に出てくる女そのもの。母に法華経比喩経(ぼん)でも読ませとくかww http://t.co/vnxgxjMa
posted at 22:07:57

私の大敵の遊びを知らない自立をしらない女は、まさに龍神成仏http://t.co/PiG5dmZi に出てくる女そのもの。母に法華経比喩経(ぼん)でも読ませとくかww http://t.co/vnxgxjMa
posted at 22:07:57

龍女成仏http://t.co/PiG5dmZi で女は法華経=比喩を読むと成仏できるというが、女は比喩=国語を比喩と思えないで、へんな宗教に縋っちゃったりするから、困るのよねー。宮沢賢治とか絶対にわからないんだろーなーあいつらは(^-^)/
posted at 22:19:49

自然は神だという近代の誤読

2012.04.07

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(読書メモ) デカルトの生得説を無限遡行しないために方法(≒創出的方法)と方法論も逆説を抱えるというスピノザの知性改善論の論考、國分氏の『スピノザの方法』の第一部、朝読み終わったけど、総括はとてもよくまとまっていた。(^-^)/ http://twitpic.com/96fxcn

(承前)國分はスピノザ「知性改善論」は、知性は生得的だという論証の無限遡行の回避をしながらも、その方法を論じる無限遡行に陥っているが、エチカで解決したのではなく、そこには方法と方法論のスピノザによる混同があった、と立論しているようだ。

(承前)國分が批判するヴィオレットは、エチカで自然=神を思惟の端緒(神は生得的)とするためには、デカルトのような自然から神に近づく方法論は不要だった、だからスピノザは方法序説=知性改善論を挫折したと論じている。國分はそれに対する反論を用意しているようだ。第二部が楽しみ(^-^)/

(承前)知性=神の思考が(自然に)生得的というのは、無限論証を回避するソクラテス的言明であると同時に「転回=改心」とされるのだが、たまたま攝津君がFBでデカルト生得説とスピノザとカントの話をしていた。曰くスピノザは思惟を実体から属性にした。そこからカント=超越論はあと一転回。

(承前)スピノザは知性改善論で煩悩と気づきの話をしていて、その気づきをデカルトのように方法論に出来るか迷っている。つまり自然が神だと気づく=認める気づきを、どう教育したものか悩んでいる。自然が神に思える気づきは、偶然にしか起こらない。その偶然性の払拭を目論んでいるのだそうだ。

神を擬人化していない日本人には、自然が神に思えることが、何故こんな無限遡行=論証を生むのか、なかなか理解出来ない。そのために、自然に神を見るためのデカルト的近代以降を誤読する。たぶんハイデガーのテクネーを原発だ、という詭弁が成り立つのも、そういう文脈なのだろう。

神は神と言わないというスピノザ(^-^)/

2012.04.02

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2012年03月29日(木)

國分功一郎の博士論文『スピノザの方法』おもろい。スピノザという異端によって可能だった哲学の近代性を「反省」するとスピノザの「幾何学的方法(定理)」に至るという、三角形の形してない神様の話。デリディアンの著者が東大でも哲学科でないのが楽しいhttp://t.co/QQOOTyQj
posted at 23:52:53

國分は1974年生まれ、私より10も若い。つまり東某と同世代。東の郵便論的という東大哲学科の博士論文にあった混乱が、どうもないようだ。東の混乱はただ目立ちたがりのファルスに陥ったが、國分には哲学を感じるなー(^-^)/
posted at 23:57:47


2012年03月30日(金)

國分スピノザ論の序文。近代を論じるならこういう気概が必要。スピノザならそのきっかけになるが、音楽の、ましてや啓蒙的伝統には、近代論の契機はない。それは三角形の神でじつはアニミズムですらない。伝統は実は擬人法でアニミズムではない。 http://t.co/HJBseer1
posted at 04:29:08


2012年04月01日(日)

國分『スピノザの方法』をじっくり堪能しはじめてるが、超人は超人だと自己証明しないという命題、あるいは知り得てる人は知り得ていることを証明する必要のないことを知っている、というデカルト的近代、つまり自己証明としての近代性への根本的反措定が見えて、やはり爽快感があるね(^-^)/
posted at 20:02:37

勿論、國分のスピノザ論に「超人」という言葉が出てくるわけではない。たまたまさっきTLにそういう論争を見掛けたので。知ってる超人は知ってるとは言わない(証明しない)。なぜなら証明はソフィストの無限連鎖に陥るから。にも拘らず証明しようとしたデカルトをスピノザは批判しているのだという。
posted at 20:14:54

読みはじめたばかりの國分スピノザ論を、擬人論に超訳すると、神は自分で神と言わないから神だ、という話になるようだ。デカルト的近代は、無限連鎖や神を自己証明するものと仮定した新たな擬人法という話になりかねない。別に神は死んだわけではなさそうだ笑(^-^)/
posted at 20:21:55

日本人なら2ちゃんねるでも、神というのは自分で神といわないから神だ、という感覚を共有しているのだが、西欧人は神なら神と言うに違いない、と擬人法していたりしそうだ。音楽の天才も自分で宣伝する奴は似非っぽい、というのと極めて相似。(^-^)/
posted at 20:26:30

しかし、もちろんこんな擬人論で超訳しても「分かったこと」にならないから、デカルト以降の近代の証明性は厄介なのだろう。命題と理由節で厳密にテクスト論をしようとする國分氏の叙述は緩慢だ。思わず眠くなるのだが、それでもそこで言われてることにはワクワク感がある。(^-^)/
posted at 20:33:16

スピノザの方法 國分 功一郎 http://www.amazon.co.jp/dp/4622075792/ref=cm_sw_r_tw_dp_LvoEpb1JAGD5W

震災後の柄谷行人と対自然

2012.03.28

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3.11直後、池田信夫がハイデガーのテクネーを引き合いに出して、柄谷行人の脱原発を猛烈に批判したのはネット界では有名。それで両者の言説比較を試みている。

柄谷行人は、震災前に「世界史の構造」で、脱文学的になっていた。それは、生産関係(対自然=資源の所有関係)ではなく、交換関係(人対人の資本論的関係)で、マルクス主義を批判するという大著。

柄谷は震災後に「哲学の起源」という新たな連載をスタートさせて、「世界史の構造」に不十分だった対自然関係への探求を開始したのだが、それを先取りした単行本「震災後に読む世界史の構造」を出版。それを読み進めながら、イケノブの柄谷批判という誤読が、なぜ可能なのかをツイートしています。

以下、ツイッターより。

ノマドになれないストレス。柄谷行人もイケノブも交換=経済の原点はノマド(遊動性)と一致するほど本源的?(^-^)/ヒルズ族よりノマド族(若者、地方へ)  :日本経済新聞 http://t.co/9tyXD5XL
posted at 14:49:02

帰ってきて仮眠してしまって起きたら頭がフリーズしてるのだが、漱石のテスト対策した複数の学校の生徒さんたち、みんなほぼ満点とれていて、いままでビリッケツだった子が学年トップになったり、すごいことになっていた。しかし、今日の考える命題はノマド論だった(^-^)/
posted at 05:00:29

(再掲)柄谷行人は生産(対自然)に対する交換(対人)の本源にイオニアや遊動性を、イケノブはハイエクの部族社会に公平性の遺伝子をみて、結局同じノマド論になっているようにしか見えない。 http://t.co/ZtL8Aof9
posted at 05:00:46

ここから、考えていたのだった。イケノブは遺伝子にそなわる公平性でハイエクの部族社会を捉えるが、柄谷はイオニアで相似的な遊動性(つまりノマド)を捉える。そのイオニアとは擬人法の問題だ。
posted at 05:02:51

何の話かというと、原発を脱という柄谷を、ハイデガーのテクネーを引き合いに出して真っ向から批判したイケノブだが、なぜそのような言説上の対立(誤読)が起こるのか、震災後の日本の論点はいかに可能になってるのかを見極めるという話だ。例えば両氏は遊動性への着目でシンクロしていた。
posted at 05:24:28

あらゆる近代論は西欧中世からの差異のみで、ある本源的な命題を隠蔽してしまう。つまり近代がそれを隠蔽するのだが、そのため山本義隆は近代科学史をギリシャ以前の隠蔽と捉え、イケノブはハイエクで人類史的遺伝子に言及する。(続く)
posted at 05:30:05

一方柄谷は、震災以前、生産(対自然)ではなく交換(人から人へのマルクス的命がけの飛躍)で世界史の構造を捉えていたが、震災後の世界史の構造で、人対自然という二元論に立ち返り、ギリシャ以降の哲学が、イオニアの擬人法批判を隠蔽したと言及している。 http://t.co/IDn8Gx2c
posted at 05:32:21

イケノブにとっては公平性は遺伝子の突然変異の問題。柄谷にとってデモクラシー(多数者支配)ではない自由は、イソノミア(イオニアのノマド的無支配)の自然哲学。ギリシャ以降、このイオニアの哲学(擬人法=共同体を批判し遊動的=自由ゆえに平等)が隠蔽され、デモクラシーが出現したという。
posted at 06:00:27

近代という近眼状態からは、デモクラシー(多数者支配)を自由と倒錯してしまうが、柄谷によるとイオニアの自然哲学(擬人法批判)から見ると、多数者支配としてのデモクラシーは共同体的で、自由はノマド的移動(イソノミア)にしかない。近代ではアメリカ植民のタウンに垣間見られただけという。
posted at 06:28:28

したがって重要なのは擬人法批判としてのイオニアの自然哲学ということになるわけだが、これが震災後の柄谷の世界史の構造の修正だ。生産に対する交換は人から人へのマルクス的命がけの飛躍だが、それでは却って対自然や擬人法批判を隠蔽して、共同体をデモクラシーとして復活させてしまうのだろう。
posted at 06:32:09

もちろん日本に論点などない。言論界というのも議論があるわけでなく、誤読の応酬、まさに言論ノマド状態。互いに俺は他人のことはしらない、と論じてる。ところが受験生は、こういう問題もあるああいう問題もあると言及してるだけじゃ合格しない。ある意味、子供たちは非常に理不尽な目にあっている。
posted at 07:34:45

つまり日本にあるのはハロルド・ブルームの誤読の不安だけ。たしかに日本の近代は西欧にはない近視眼的な近代で、いかにも論点があるように錯覚するのだが、大人たちは責任放棄して勝手なことほざいている。可哀想なのは受験生の子供たち、論点を明確化して論じ切らないと慶應なんか入れない。笑
posted at 07:37:59

スピノザはもし三角形が神を考えたら神は三角形の形をしてると揶揄した→私が神を考えたら、うさちゃんの形してそう(^-^)/
posted at 07:50:33

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