記事一覧

気持ちのよい70年代の気持ちの悪いジャズ

2012.04.21

ファイル 201-1.jpg

最近のyoutubeは長時間ものがアップできるので、ジャズもライブ丸ごとの映像が沢山あっていいのだが、どうしても映像化されたジャズは、70年代のつまらなさを表面化しちゃうなー。名人芸を披露する巨匠も、ロリンズもショーターも、とくに4ビートにオーラがない。映像意識しすぎてるのかなー
posted at 06:58:59

フュージョンとかブレッカー以降の最近のとくにヨーロッパのジャズフェスの映像は、とても活き活きしてるのだけど、これは70年代の映像がサウンド以上に色あせてみえるからなのだろうか。いややっぱり70年代のジャズはつまらないなー。気持ちが入ってない興業ばかりで。フュージョンは面白いのに。
posted at 07:01:15

80年代のライブアンダーザスカイとか、オーレックスとか、斑尾とか、マウントジャズとか、バブル日本のジャズフェスは、興業を超えて結構熱い演奏が多いのだけど、やはり70年代は、みんな4ビート、やる気がなかったのが、映像化されると生生しく伝わって見てられないことがある。(・_・;)
posted at 07:04:44

しかし、70年代というのは個人的には良い時代の思い出なのだが、映像化されると、4ビートジャズに限らず、国内海外問わず映画やドラマでもなんでも、どこかボヤけた時代に見える。ベンソンのBreezinみたいな明るさもあるけど、何かしまりがない心象だなー。今の子にはどう見えるんだろう?
posted at 07:11:12

ジャズが興業でしかなくなったと言ったけど、何もかも作り物になったのが70年代なんだよね。ビートルズは本物でも、後はアイドルつくっちゃおうとか。ポップスになるまでの歌謡曲も。ドラマの演出もどこかわざとらしい。これはアメリカの映像にも感じるな。70年代はわざとらしいのだろうか?
posted at 07:14:57

70年代は明るくよい時代だったが、振り返るとジャズにかぎらずどれもこれも作り物の腑抜け、あるいは不自然に感じるツイートhttps://t.co/b5uByfaQ の続き。
posted at 23:24:52

ジャズの動画は70年代のジャズの停滞を可視化してしまう。あの時代に何か死んでいた。音楽が何かだ(たとえば心だ)と論じるのは無意味だ。しかし確かに生き生きとは感じられない、それが70年代の動画を見ると過ぎってしまう。それは作り物になった、と言い換えることも出来る。
posted at 23:26:06

音楽を何かだと論じるのは無意味だが、しかし達成感であることは事実だ。つまり奏者当人の問題で、聴き手はあくまで部外者だ。それを奏者の精神とリスナーが形容するのは虚しいが、しかし確かに奏者当人にとってはそうだっただろう。なぜなら70年代の音からはヤル気もオーラも感じられないからだ。
posted at 23:27:59

リスナーに共有されようがされまいが、ミュージシャン当人が頂上に達したら、それが自然とリスナーに伝わる、そういう自然さが70年代にはなくなってしまった。商業化され全部アイドル化された。しかし一方で、アイドルの気持ち悪さとは対照的に70年代は気持ちよかった。そういう齟齬、過渡期。
posted at 23:34:24

70年代の気持ち悪さとは、偶像の作り手が気持ちよさに気づいていない点に尽きる。じつはミュージシャンだけが独占する達する感覚、というのは、その言葉でしか表現できないからだ。リスナーが共有できるのも、もちろんミュージシャンの精神ではなく気持ちよさだ。それに気づくまでの停滞が70年代。
posted at 23:40:40

ところで、たいていそういう作り手は、自分が音楽の境地に達し損なって、子孫に託すように、誰かを育てるという感じだ。つまり、自分か子孫かという例のいやらしい問題が、70年代の気持ち悪さににじみ出てしまう。あの時代、子孫に託す親は、あまりよい親ではなかったのだ。
posted at 23:56:33

自分が敗北者なのに子供を育てる。自分が気持ちよさを体現できなかったから、子供を気持ち悪く育てる。そんな感じに70年代の偶像の作り手は、気持ち悪いもばかり作ろうとした。だから、偶像の外が豁然と気持よかったのかもしれない。逆に今は気持ちよさと偶像が渾然一体だ。
posted at 23:58:34

無限観念を前提しない日本的理系言語と道徳

2012.04.20

ファイル 200-1.jpg

http://www.sunamajiri.com/blog/diary.cgi?no=199
から続き(^-^)/

理系のガラパゴスと言語混乱の共有に至るツイートまとめ:

フーコーの専有https://t.co/75zjlUv9 といえば、人が神化することへの警戒、人の相対化だが、それは神の絶対視と同義なのかと、國分スピノザの方法をじっくり読みながら考えていた。https://t.co/slwl1GMM
posted at 18:11:05

RT @shingoinao: 「他者からの愛は権力である、つまりその権力を使えばその相手を支配できる」みたいな馬鹿なつぶやきをしていた人間がいたが、それは間違ってはいないが当然正しくはない。先のフーコーのリツイートにある「専有」とはこの間違った権力のことを指すと思う。ただ、自己の変化を目指す試練というのは…?
posted at 18:05:15

(忘備)専有の対立項は真の順序だ。それは起源というより体系の記述順の真http://t.co/Nbrn1AOP のことだ。つまりいかにも真の順序というデカルトはフーコー的だが、その厳命を守ったスピノザはフーコー以上に専有的だ。認識と神証明の困難な問題を浮き彫りにするからだ。
posted at 18:23:50

(読書メモ)國分4章の4、186~193p。読書忘備録。いよいよ認識と神証明の矛盾性という厄介な問題をはらむスピノザとデカルトの公理の比較。真の順序にデカルトを整序するスピノザは、観念と実在、つまり認識の原因の公理でデカルトと真逆の注釈をつける。
posted at 18:26:32

(読書メモ)國分186~193p。真の順序にとって認識の原因とは何か? それは無限の実在との無矛盾性であるはずだ。それをデカルトは神証明として明示した。認識とは観念の原因を実在とする想定だが、にも関わらずその想定が認識の全ての根拠だとすると、認識できない観念を存在させてしまう。
posted at 18:40:00

(読書メモ)國分186~193p。観念の無限が認識できない、神が存在しない、というのは、単に「観念の中の実在性の量」が体系に前提されていないからだ、としてスピノザはデカルトへの注釈を書く。ところがここではじめてスピノザの記述に明確な混乱の痕跡が記されている、と國分は言う。
posted at 18:43:42

(読書メモ)國分186~193p。國分的スピノザを読むのは、良質な推理小説より楽しい。だからじっくり読んでいるので、読書忘備録はすべて途中。何らかな見解ではないので念のため。
posted at 18:46:48

読解塾の生徒さん、学校の二人の国語教師のうち、現代文の担当者が受験教材のマニュアル音読しかしない。もう一人は、自然対神とか近代の話をしてくれる、という。確かに前者の教師は分かっていないと言えるのかもしれないが、だからといってもちろん現代文は道徳の教科ではない。
posted at 19:00:42

もちろんデカルトもスピノザも高校では国語ではなく、公民で教えられるはずだ。ところで、國分をじっくり読む傍ら、無数の本を読んでいる。さっき30分ほどで読んだのは、日本人の美徳を育てた「修身」の教科書 (PHP新書) 金谷 俊一郎 http://t.co/lMoL9eDp
posted at 19:02:48

(読書メモ)https://t.co/TswoLUbW もちろん観念の無限を認識できないというのは、「本当は分かっていない」「それを他人に説得する必要はない」とスピノザ的國分は論じていることになる。いわば無限の原因(いや原因の無限かな?)なのだろうか?
posted at 19:08:53

(続)それに対して、戦前戦中の修身http://t.co/lMoL9eDp という教科は、空気、共有、分かるはずだ、という教育なのだろう。もちろん現代の教育に美徳が欠如しているというのは誤解だ。それは自己相対化する国語力のない読みにすぎない。だから現代文が重要なのだ。
posted at 19:17:07

RT @yutakioka: 虐待を受けてる子供が親に虐待されてると言い出せなくしている倫理観の一つ。

posted at 19:29:26

RT @LitoSnowfield: まぁ…文系が非論理的というお話自体が非論理的なのですが…(*uou)>
posted at 19:27:40

RT @LitoSnowfield: と…いうか(*u_u)> いわゆる一つの理系な方々が非論理的である場合も少なくない…というのを改めて知った一年間でもあったりで…(*uou)>
posted at 19:30:37

RT @yutakioka: @dongyu_chiba たぶん、命題論理と述語理論に触れていれば大丈夫だと思います。たまに様相理論的な内容も出てきますがw。デイヴィッドソンの後にクリプキを読まれるとスムーズかと思います~。クリプキはかなり難解ですがw。
posted at 19:32:11

↓様相論理とかクリプキすら、最近は現代文に出題されるのよね。少なくとも大手予備校の模試は最近そういうの好き。クリプキはけっこう楽しいよ。そのあたりで思考停止したがww(^-^)/
posted at 19:33:19

知らない生徒さんのためにクリプキをWIKIと思ったら、一文しか書いてなかった。辞典的定義が出来ないクリプキ (^-^)/ http://t.co/JCU865nI
posted at 19:35:24

クリプキのWIKI記述が一行なの笑った。「「基盤のない真理」の概念に分析を加えて自己言及のパラドックスの議論に貢献、指示の因果説などの言語哲学分野での貢献、ウィトゲンシュタイン研究。」
posted at 19:36:13

大手予備校の現代文の模試で、クリプキ論とかでてきて、クリプキって何ですか?って生徒さんが質問してきたときは、さすがの私もぶっ飛んだ(^-^)/
posted at 19:37:37

高校生にクリプキの可能的、あるいは様相論理を説明するのまんどくさいから、これが高校生が読める解説書、だから新書を読めってば(^-^)/ 哲学の最前線―ハーバードより愛をこめて (講談社現代新書) 冨田 恭彦 http://t.co/Q2SKLYeW
posted at 19:39:26

クリプキとか様相論理ついでに言えば、今朝読んでいたスピノザ的國分http://t.co/Nbrn1AOP は可能性、偶然性、必然性という問題で、クリプキ向き(^-^)/ http://t.co/AIgvlocm
posted at 19:42:12

にしても、どうして近頃の高校生は(大学生もだろう)、新書というのを知識源にすること忘れているのだろうか? 新書はPHPとか新興勢力が、サラリーマンの儒教教育するメディアになってきてしまってるね。本当は最も良質な受験参考書なのに。(^-^)/
posted at 19:45:14

RT @LitoSnowfield: というか…理系の方の言葉の使い方に独特な癖や誤りがある為に、話が通じなかったりややこしくなったり…なケースも少なくなかったような(*uou)>
posted at 19:46:18

言葉の共有を極限まで問い詰めてないのが日本の理系にありがちなパターンだから、私的言語の宇宙で何か喋って、そこから抜け出せなくなる。(^-^)/ @LitoSnowfield 理系の方の言葉の使い方に独特な癖や誤りがある為に、話が通じなかったりややこしくなったり
posted at 19:47:33

最新の高校生向けの新書でお薦めはこれだね。タイトルが「生きる」とかなってて誤解するけど、中身は現代文のキーワード解説ね。(^-^)/ いまを生きるための思想キーワード (講談社現代新書) 仲正 昌樹 http://t.co/WCI6Z02m
posted at 19:49:36

養老孟司なんかも高校生が国語でやらされると撃沈するよw @LitoSnowfield これは私的言語である”ということに無自覚の為に、以前にsunamajiriさんが仰っていた“単語に躓く”のをよく見掛けましたし、違う筋道を持ち出し始めるというのも多いようでした(*^o^)>
posted at 19:53:21

RT @LitoSnowfield: 日本の理系さん達、ご自身がガラパゴスだったり…と少し心配だったり…(*u_u)>
posted at 19:58:58

おお、今日の金言、あほりずむ(^-^)/ @LitoSnowfield 日本の理系さん達、ご自身がガラパゴスだったり…と少し心配だったり…(*u_u)>
posted at 19:59:27

うさちゃん、なんかちはやぶりたくなってきたー(^-^)/
posted at 20:02:23

RT @LitoSnowfield: 実は…ドキドキしながらのTweetでしたが(*^o^)> 自分の生まれ育った国の言葉を論理的に使えなくて…理系と仰るのは少し恥ずかしくないですか?…と思うときが少なくなかったりでした(*uou)>
posted at 20:03:00

欧米では考えられない便宜的な科学(カテゴリー)が日本の理系なのよね。西欧のエンジニアなら国語(言葉を共有すること)の達人であるはず。日本の文系の私的造語も然り。@LitoSnowfield 自分の生まれ育った国の言葉を論理的に使えなくて…理系と仰るのは少し恥ずか
posted at 20:07:42

RT @LitoSnowfield: ん〜…(*u_u)> 養老さんの文章は分かり易い方だと思うのだけれども…(*uou)⁇

まだマシな方ですが、それでも養老が戦後の自由とか語り始めちゃうと、高校生気の毒なほどに言語混乱をきたすよー。こういうのを授業でだすんですよ。これは入試問題でもあるし。http://t.co/uN1BtPh5 @LitoSnowfield 養老さんの文章は分かり易い方
posted at 20:13:04

実在は可能性ではない。人文の真ということ。

2012.04.20

ファイル 199-1.jpg

國分『スピノザの方法』読書忘備録

第四章の3 171-186pの忘備録です。

(読書メモ)國分4章の3。國分氏の論は、よりテクスト内的になり、量VS実在、観念VS本質(実在)、可能的VS必然的など、デカルトの公理の用語をスピノザがどのように再公理化されたかがテクスト実証されている。なかなかスリリングで、個人的には当分楽しめるという感じ。(^-^)/
posted at 05:56:00

(続)攝津氏が「人文に真はない、つねに相対的だ」とツイートしていたが、國分的スピノザも同じ観点でデカルトを批判的に再定式化する。そこでは、順序だけが真だ。デカルトは先行するものは後続するものより優先する、と命題化しているが、その言いつけを守り、より真となる順序をスピノザは導く。
posted at 05:56:32

(続)真の順序は、デカルトの並べ替えを要請する、と國分はいう。ここでは、ホッブスがデカルトの最大の謎といった「実在性の量」の公理が真の順序に置換される。デカルトにとっては自明な「量」だが、これをスピノザは削除できない。デカルトの3つの神証明の論拠だからだ。
posted at 05:58:51

(続)次に、可能的と必然的という公理が書き換えられる。デカルトは実在を可能的=含有量と公理するが、それをスピノザは実在に対する観念に布置する。観念=実在の量=可能的は、単に実在(本質)ではない。つまり、デカルト的な明晰判明の量は実在を示さない。実在は量=可能性の問題ではない。
posted at 06:01:55

(続)國分171-186pを命題化すると、真の順序ではデカルトの量(可能的)は観念になり、実在を示さない。つまり明晰判明さが自己を示すものではない、となりそうだ。スピノザにとってはそれだけがデカルトの3つの神証明と無矛盾だった、と國分は論証している。今日はここまで。
posted at 06:08:10

(続)ところで、攝津氏のhttps://t.co/bcFYd71O を人文に真はないと要約するなら、私にはそれが無神論というより、人には真がなく(つまり人間の言動は懐疑すべきだ)、何か神的なものに真がある、ということに近似して聴こえてしまうのだが、どうなのだろう?(^-^)/
posted at 06:25:16

画像はhttp://diseaseoftheweek.wordpress.com/2010/03/10/thw-wednesday-post-10032010/
からで、他意はありません(^-^)/

哲学=コギト解決から多数者支配の解決へ

2012.04.19

ファイル 198-1.jpg

コギト解決つまり悟りは、民主主義の敵なのだろうか?

國分功一郎『スピノザの方法』を「解決』と読んだ私に対して、攝津氏がそれは解決ではなく、むしろ民主主義に対する犯罪として読める、というお話だったので、民主主義をなぜ絶対化出来るのか、について考えざるを得なくなりました。

@femmelets 氏。國分→スピノザが回避するややこしいこと=懐疑論の徹底こそ困難https://twitter.com/#!/femmelets/status/192617555037405184 で、それはhttps://twitter.com/#!/femmelets/status/192620485958307840 サドはいいがナチはだめ→戦後民主主義が自明でないhttps://twitter.com/#!/femmelets/status/192618220371443713

https://twitter.com/#!/sunamajiri/status/192640604117807104 と@femmelets s氏が、國分氏が悟りのようなものというスピノザの「分かることを分かるを他人と共有しない」→懐疑論の回避は、犯罪級(サドやナチやオウム問題)と同義、というまとめだったのですが、徹底した懐疑論はなぜ困難なのか?

懐疑論者を説得しない→スピノザ→國分を、今朝私はhttps://twitter.com/#!/sunamajiri/status/192416138762780672 で哲学の解決と名付けた。@femmelets はそれは民主主義が自明でない→犯罪と同義というのだが、スピノザは道徳的https://twitter.com/#!/femmelets/status/192581586246569984 なだけなのだろうか?

國分によるスピノザ→「分かることを分かる+説得で共有しない」といういわば「コギトの解決」と、それに対する民主主義の破壊→オウム事件https://twitter.com/#!/femmelets/status/192623088033214464 的な命題。しかし、「分かることを分かる」を説得しないという証明(コギト解決)は、本当にその対立項なのか?

つまり コギト解決https://twitter.com/#!/sunamajiri/status/192650161237934082 は、むしろオウム的犯罪とこそ向きあっていたのではなかったか? そういう問として再措定して考えるのは無駄なんだろうか?(^-^)/

https://twitter.com/#!/sunamajiri/status/192650655092056064 をパラフレーズしてみると、「コギト解決」=道徳であろうが悟りであろうが共有(説得)しないことは、本当に民主主義なるものの敵なのだろうか? そういう話のようだ。(^-^)/

https://twitter.com/#!/sunamajiri/status/192651525758259200=コギト解決としてのスピノザを敵対するものとした民主主義とは、柄谷行人の最新テクスト『哲学の起源』では、(おそらくノマドに対立した)多数者支配のことであり、自由の対語ですらある。

柄谷『哲学の起源』は民主主義は自由の対立項だという命題として読めるが、確かにヒトラーは危険https://twitter.com/#!/adolfhitler_bot/status/192246701451522049 だろう。だからといって、オウムもナチもスピノザ的コギト解決と同義なのだろうか?
スーパーコピー時計
ロレックス時計スーパーコピー
ウブロ時計スーパーコピー
パネライ時計スーパーコピー
ルイヴィトンバッグスーパーコピー
ルイヴィトン財布スーパーコピー
https://twitter.com/#!/sunamajiri/status/192656287614517248 多数者支配=民主主義による独裁に置き換わった現代からみると、必ずしもスピノザが単なる道徳や宗教には見えない。國分氏の言説は論文ではあるが、そういう哲学やコギトの解決を、解明しているように見える。それは単に誤読なのか?

・・・國分氏を擁護してみましたが、個人的にも多数者支配こそ敵です。

以下追加です。

RT @femmelets: 幾つか考える必要がありますが、まず、私は民主主義一般を疑ったのではなく、1945年以降の日本に存在した戦後民主主義に言及しました。勿論民主主義一般も問題ではあろうと思います。例えば民主主義だけでは、橋下徹が力を持つのを誰も止められません。
posted at 07:52:11

RT @femmelets: 徹底的な懐疑論が不可能ないし困難な理由は、誰でも生きているというそれだけのことです。どんな人でも生きるうえでは何かを信じなければ生きることができません。《この世界がある》ことすら信じない人々が生きることができるでしょうか。
posted at 07:52:13

RT @femmelets: 懐疑論の問題を提起したのはフーコーですが、ではフーコーの思考からみて可能な徹底的懐疑はどういうものでしょうか。何でも手当たり次第に疑うのでしょうか。そうではないと思います。Xという或る体系について、その起源や系譜を問い、劃定することでしょう。
posted at 07:52:15

RT @femmelets: 我々はそのXの内部にいるかもしれないし、Xを抜け出た直後なのかもしれません。(例えば我々はもう19世紀の思考から自由なのでしょうか。20世紀ならどうでしょうか。)そのXが真理であるとか妥当するというのは保留してそのXの条件を調べるというようなことです。
posted at 07:52:17

國分氏によるスピノザhttp://t.co/RLOu1R0t は寧ろそれ(後述されたフーコですらも)に相似して見えるのです。スピノザは単にデカルトの不徹底を改正しようとしただけに見える。@femmelets 誰でも生きているというそれだけのことです。
posted at 08:00:57

國分的スピノザは、http://t.co/RLOu1R0t その一点のみに思えました。「私は存在している」という命題を、「ゆえに」とすれば、下手すると「不存在」を強いられる。それでは徹底した懐疑が不可能だ、それが國分的スピノザなのかと。@femmelets 「私」と書くこ
posted at 08:05:46

ですから、國分的スピノザ(ゆえにを廃した私存在)を、民主主義の不可能性と読むより、そこからあらゆる懐疑が徹底されると読むほうが建築的と思えました。(國分的)スピノザが問題にしたデカルトは、懐疑する主体の不存在そのもの、に見えます。@femmelets 民主主義と衆愚政治を区別~
posted at 08:14:26

RT @femmelets: スピノザや國分さんは「ある」に定位するのでしょうが、「思考する私がある」「絶対無限の実体=神即自然がある」のと「この世界がある」のは少し違うのではないでしょうか。晩年のフッサールが想定したのは根源的「臆見」です。
posted at 08:17:51

RT @femmelets: opinionであってknowledge, truthではありません。「真知」というほどのステータスを要求できないし、だから理論的認識ではなく単なる信憑であるということになります。私が世界はあると思うとしても、論証できません。
posted at 08:17:54

勿論そうです。つねに相対的です。國分的スピノザもデカルトとの差異です。しかしそこからは「あり得ない真知」を想定しているのはデカルトだ、という明証しか読めない。スピノザを真知とみなす論拠はないように見えました。@femmelets
posted at 08:26:04

その点は確かに難しいですね。それが現実といってしまえばそれまでなんですが。さて、そろそろ夕方まで睡眠を、またです(^-^)/ @femmelets 民主主義は不可能ではなく困難です。スピノザが民主主義者でも政治的に慎重だったのは、みんなが「自由な人間」などではないからです。
posted at 08:27:22

國分功一郎氏の明証性、哲学の解決

2012.04.18

ファイル 197-1.jpg

http://www.sunamajiri.com/blog/diary.cgi?no=196
からの続きのツイート集

勿論、私は哲学研究に興味があるのではなく、あくまで日本語の言説の達成度に関心があるだけ。一頃まで日本の哲学者の言説は思弁的に随意の弁証法で、論点を模索=探求するスタイルが主流だった。その点で國分氏の言説は博士論文だからか「解決しました、今から説明します」という様式で差異を感じる。
posted at 08:54:45

この差異は、もしかしたら日本のアカデミズムの中でむしろ哲学の方が、論点の混沌とした現代の欧米より、一歩先端に開けてしまってるのではないか、と思えるほどだ。
posted at 08:57:14

しかし、本当にそうなのか?という言説読みでは、國分氏の解決がテクスト内的実証であるため、読み手が弁証法で命題を補いながら読む負担がかかる。しかしそれでもなお、一頃まで何を哲学するのかを哲学=探求していた人達と比べて、ある哲学的な明証があるようで、欧米の言説より充実してるようにみえる。
posted at 09:03:16

おそらく欧米より混沌としていない哲学の明証性に行き当たっているというのは、欧米がやはり擬人法の、つまりキリスト教の文化圏であることを免れないからだと思う。もちろん日本的近代も西欧化だが、國分氏はスピノザのようにそれを相対化し、解決が見えてしまっているようだ。
posted at 09:08:06

もちろん、ここhttp://t.co/7BFrloai で読書メモした、デカルトとスピノザの対称性は、デカルトのコギトが擬人神に担保された三段論法で、スピノザはそれを前提としない主体という命題という話だ。
posted at 09:11:17

柄谷行人ですら、最新のテクストでは、擬人法の有無しか論じない。当たり前だが、言葉の問題は擬人法しか論点がない。平たく言えば、神は言葉をしゃべるか否かという点だ。しかし、國分氏はそうした弁証法をするわけではない。もちろんテクスト実証的(たぶん分析的)だからだ。
posted at 09:17:39

だから、読みやすいようで読みづらい。読者が弁証法しながら読まなければならないテクストだからだ。しかし、國分氏がいうように、テクスト内実証すると、スピノザの方法が確かに哲学的解決というのも頷ける。コギトの明証性は普通ゲーデルに至る矛盾でしかないが、スピノザにとっては解決だからだ。
posted at 09:22:50

それは「哲学的解決」といってよいかもしれない。國分氏は講演では悟りみたいなものと説明したそうだが、その「解決しました、だから説明(証明)します」という言説は、西欧の証明とは正反対の混沌とした言説にはない布石にみえてしまう。もしそうなら日本の言説は凄いことになっている。
posted at 09:26:20

コギトを真としない幾何学と真とする幾何学

2012.04.18

ファイル 196-1.jpg

國分『スピノザの方法』(2012)167-8p読書ノート

分析と総合(幾何学的様式)

デカルトの省察=分析(非幾何学的様式)→コギト命題(スピノザは命題ではなく大前提のある三段論法というCogito ergo sum)

デカルトの諸根拠=総合(幾何学的様式)→神の3つの証明(アプリオリな神証明と2つのアポステオリな神証明)

スピノザの幾何学的様式 →コギトを真とする幾何学(Ego Sum Cotitans)

《デカルト的分析とコギトを真としない幾何学》⇔《コギトを真とするスピノザ的幾何学》

(読書メモ)國分167-8p デカルトは『省察』を分析といい、総合=幾何学的様式と区別している。このデカルト的総合(つまりデカルト的幾何学観)では、アプリオリな神の存在証明から論述する順序となるが、スピノザ的総合(幾何学観)では、神証明から論述する順序に必然性はなかった。
posted at 06:29:59

(読書メモ)國分168p 幾何学とは様式だが、デカルトとスピノザの幾何学観=総合の差異。國分によるとスピノザは、デカルト的総合はコギトを真とできなかった、と考えていたことになる。デカルト的幾何学ではコギトは論証できない。そのためにスピノザは幾何学的にコギトを真にしようとした。
posted at 06:35:34

(読書メモ)同頁。神のアプリオリな証明であるデカルトの幾何学(総合)に必然性はない。それに反論するなら、コギトを真としたスピノザ的総合を反証できなければならない。つまりスピノザはデカルトの幾何学観を不完全と捉えている。デカルトにおいてコギトが真であるのは分析においてのみだ。
posted at 06:48:15

(読書メモ)國分168p デカルト的幾何学はコギトを論証していない、というスピノザ。それは、デカルトのコギトは分析(非幾何学的)だ、という論証になっている。デカルトは総合では、体系に読者への要請を混入させ、アプリオリな神証明を論述している。スピノザは同じ様式でコギトの論証を行う。
posted at 06:53:36

(読書メモ)國分168p 幾何学的様式とは定義・公理・要請・定理等の命題で論証することを指す。したがってそれは論述の順序を意味しない。スピノザにとっては、書き換えによって異なる順序(神を真とするのではなく、コギトを真とする順序)が可能だったからだ。
posted at 07:07:01

(読書メモ)國分168p 言い換えると、なぜデカルトにとってコギトは分析的様式でしか論述されず、幾何学的様式=総合では神が真であらなければならないのか? スピノザの問題意識はおそらくその一点だった。・・・という流れになっているようだ。2ページの整理でも難儀する。
posted at 07:12:44

(読書メモ)國分168p 神を真とするデカルト的幾何学観と、デカルトの分析(非幾何学的様式)では真とされたコギトを、幾何学的様式の真とするスピノザ、という同ページまでの朝の読書終わり。それを読んで、カントは数学を総合、現代数学は分析、という点を考えると頭がクラクラする。
posted at 07:15:49

(読書メモ)國分167-8pまとめ しつこいようだが、もう一度まとめると、167-8p 《デカルト的分析とコギトを真としない幾何学》⇔《コギトを真とするスピノザ的幾何学》という感じ。やっと命題に要約された。(・_・;)

参考:

カントは数学を総合、現代数学は分析。デカルトは総合で神、分析で我。スピノザは総合でも我といった。という國分氏の論述を読んでたとこだった。https://t.co/IGx8hAsx
posted at 18:23:07

RT @schizoophrenie: 純粋理性批判 http://t.co/Dmwi54FX では数学は綜合的な判断であるとされているが、現代数学は数学を分析的な判断として規定する。数学に対するこの2つの態度は、定型発達者と発達障害の論理と一定のアナロジーをなす。

RT @schizoophrenie: 綜合的判断には経験や対象が関わっているのに対して、分析的判断は記号の工学的操作によって全てが説明される。前者が定型発達的で、後者が発達障害的。ヒルベルトをアスペ的というのはこの点において(もちろん、彼の生活史や息子のことなども考慮した上である)。

頭の悪い子は・・・そこが人生の分かれ目(^-^)/

2012.04.16

ファイル 195-1.jpgファイル 195-2.jpg

そうだ、ホテルじゃなく同じ横浜なら、だれかのように、ぽうちゃんのおうちに転がり込むという手があったのを今思い出した(^-^)/ @KafkaParty

Kangaroo Paw ‏ @KafkaParty
いやー、ネット絡みの人でも仕事で接点がある男性のミュージシャンは泊める事ありますが…。大本さんはどっち枠なのか混乱しますがˇ…。

そーねー、わたしみたいに(気持ちも)小さい女の子をとめたら、ちまたでは犯罪なのかもねー(^-^)/ @KafkaParty

Kangaroo Paw ‏ @KafkaParty
いろいろとリアクションに困りますw 自分もかなりメンタルは女子だと思いますが、大本さんはマジだからなー。しかも幼女とか…。どこまで面白ノリで攻めて良いのかわからんw

読解塾の女子高生のフォロワーさんが、ツイッターでは彼女より私の精神年齢ないしは年齢設定が低いので、おもしろがってたよー、まあそっちのほうが素だし(^-^)/ @KafkaParty

ちなみに読解塾の生徒さんの女子高生でも、読解力(相対化力)のある子は、私の年齢設定キャラを楽しめるんだけど、頭の悪い子は、ドン引きするみたいで、そこが人生の分かれ目よね、といって笑った(^-^)/ @KafkaParty

「神」を禁句にしたのはスピノザか?

2012.04.16

ファイル 194-1.jpg

國分「スピノザの方法」読書メモ

ツイートまとめ:

2012年04月15日(日)

RT 攝津正@femmelets: デカルトの直観主義、それを批判するライプニッツの形式主義。では、スピノザの「幾何学的方法」はどう位置づくのだろうか。スピノザはコギトから出発せず「神から始める」が、それは可能なのだろうか。

國分氏によるとスピノザはデカルト『諸根拠』をcogitoではなくsumから始めるから明晰さと説得を不要にしたということらしい、@femmelets では、スピノザの「幾何学的方法」はどう位置づくのだろうか。スピノザはコギトから出発せず「神から始める」が、それは可能なのだろうか。
posted at 14:24:52

そのエチカに至る道でスピノザは『デカルトの哲学原理』で、『省察』の第二反論への答弁の『幾何学的様式~諸根拠』で、デカルトにとって(?)自明でないsumを、自明的に扱ったと、国分氏は立論してるのかな? sum=自己存在だけを基準に再体系化するという話のようで。@femmelets
posted at 14:35:15

読了してませんが、スピノザは実体に触れてないように読めました。RT @femmelets デカルトにおいてsum, existoは「考える」「疑う」思惟と分離できなかったのに対し、スピノザの実体が「ある」というのは違うでしょうね。実体の存在が自明かどうか分かりませんが。
posted at 14:44:32

RT 攝津正@femmelets: デカルトの19-20世紀ヴァージョンがフッサールでしょうが、主要な違いは、デカルトは多産な自然学をもたらしたがフッサールはそうではないという点でしょうね。そしてスピノザとハイデガーの対比はより困難です。ハイデガーの哲学史はスピノザにほとんど触れません。
posted at 17:07:14

そう聞くと、ハイデガーの存在なる言い方は、益々何らかな撞着みたいにきこえる。RT @femmelets
posted at 17:10:06

RT 攝津正@femmelets: 木村敏が文芸批評家(マイナーな人です)に反論して、テキストに即して、ハイデガーにおいては存在は超越的である(存在者に対して超越であるという意味です)といっていましたが、もし彼が正しければ、スピノザの神・自然・実体とは違うということでしょうね。
posted at 18:02:41

RT 攝津正@femmelets: 仮に存在を実体、存在者を様態に対応させようとしても、私の理解、記憶が正しければスピノザの実体は様態を離れて自存するものでも超越的なものでもなかったはずです。そういう意味でハイデガーの存在論はスピノザとは異質なのではないでしょうか。
posted at 18:02:56

実体vs非実体、人vs神、自己vs他者という術語をどう駆使しても何か正反対な気がしますね~RT @femmelets 木村敏が~、ハイデガーにおいては存在は超越的である(存在者に対して超越であるという意味です)~が、もし彼が正しければ、スピノザの神・自然・実体とは違うということ~
posted at 20:17:13

そう思えます。RT @femmelets 仮に存在を実体、存在者を様態に対応させようとしても、私の理解、記憶が正しければスピノザの実体は様態を離れて自存するものでも超越的なものでもなかったはずです。そういう意味でハイデガーの存在論はスピノザとは異質なのではないでしょうか。
posted at 20:18:19

なんでスピノザからフッサールとハイデガーに話が飛んだのかと思ったんですが、そこですか(^-^)/ @femmelets QT: ~でも現象学が具体的現実や「事象そのもの」への復帰にみえたのだろうと推測することはできます。本当にそうだったのかは非常に疑問ですが。
posted at 21:51:37

デカルト→フッサール、ハイデガー→スピノザという話ですが、國分によるとスピノザの疑問は、デカルトの観念が「表象であること」に向かっているのだそうで、デカルトを捉える読解枠がスピノザのそれと反対なだけに思えてくる。(^-^)/ RT @femmelets ただ、フッサールのように
posted at 22:30:49

注釈すると、國分氏の問題にした「自明」というのは、デカルト「省察」の「諸根拠」のテクストにとっては自明なという意味で、それと國分氏のいうデカルトのスピノザによる解決が自明な実体を指すのかは読了してないので分からないです。多分違うと思います。@femmelets 実体の存在が自明か
posted at 22:38:26

2012年04月16日(月)

RT 攝津正@femmelets: 國分功一郎さんのスピノザ論は読まなければ分かりませんが、スピノザに限らず、表象=再現在化(再現前化) representation を批判する論理といっても様々あるから、一概にはいえません。表象は知性で把握されたものではなくイメージだという批判はありがち。
posted at 00:34:46

ぜひ読んでみて。このスピノザ論が困難とするなら、それはそれこそ一概に言っても意味ないことなんです、もはや体系化としか言いようがない。先ほどの自明は、デカルトにとっては自明でもスピノザにとっては自明でない、よってスピノザは再定式化した、という意味で論じられます@femmelets
posted at 00:35:52

スピノザはデカルトを批判して、神と一言も言わないように実体とも一言も言わない。ただデカルトの神証明に付随する要請(読者へのお願い)を全部削除して、デカルトの定義に基づいて、もっと正確に再定式化できるだろう、ということにしか興味が無いみたいです。@femmelets
posted at 00:41:42

RT 攝津正@femmelets: ただ17世紀独特の認識論、真理論があります。デカルトでは「明晰・判明な観念」、スピノザでは「十全な観念」であり、彼らにそれぞれ特有の定義があります。彼らの意見では、知性が観念を形成したらそれはもう表象知ではないということですが、そうなのでしょうかね。
posted at 00:48:35

圧倒的な差異があるみたいですね。國分氏は「観念の原因を実在に求めない」と「観念と実在の因果関係、つまりアプリオリな神存在証明では説得されないというデカルトの執着に徹底して無関心になること」と第二部総括に書いてますね。分かることが分かるとはそういうことらしい。@femmelets
posted at 00:54:54

RT 攝津正@femmelets: 明晰・判明な(または「十全な」)観念を知性が形成することと真偽性や存在・実在は別なのではないかと思うのが普通ではないかと思いますが、どうでしょうかね。
posted at 01:07:15

國分によると、デカルトのような「神によって明晰判明な観念の正しさを保証する」ということをスピノザは回避しようとしている、らしいですね。@femmelets 明晰・判明な(または「十全な」)観念を知性が形成することと真偽性や存在・実在は別なのではないかと思うのが普通ではないかと~
posted at 01:10:30

よって暴論すると、デカルトの観念が神という表象に保証されていただけと仮定するなら、確かにそれ(神)抜きでスピノザが、コギト命題から再体系化したいという気持ちはわからんでもない。どの実在も神というフィルターで見えていただけで、自然が見えてたわけではないのね、とかいう話(^-^)/
posted at 01:23:34

人VS自然(=神)という対立項を読解枠にすると意外と見えづらいのだが、神VS自然という、ごく平たい対立項で読むと、たとえ実在に原因のある表象であれ、明晰判明さであれ、無限遡行の回避であれ、それほど修行が必要な悟りには思えなくなる。(^-^)/
posted at 01:26:31

哲学プロパーでないのが幸いだから平たく言うと、神という用語を禁句にした現代哲学は、哲学の不可能性でしかない、とかそういう話しにも見える。いいのよ神だ神だっていっておけば、減るものじゃないしww (^-^)/
posted at 01:32:41

なんで関心があるかというと、哲学という学科のない高校生に大学にはない国語という学科のゲームのルールを教える時、神という用語ほど読解枠として不可欠なものはないからなんだが。それを隠蔽するとたぶん正解はヤブの中になる。だからといって神が何かは勿論問うてはいない。
posted at 01:34:40

したがって、もし現代哲学が、スピノザが言うように、神に保証を求めたデカルトの誤読で「神」という術語を禁忌にしただけの言説とするなら、それはそれで面白い文学として読めるな、というだけの話ではある。
posted at 01:37:50

スピノザにとって自明でないのは、デカルトの身体だけではなく(デカルトは心身二元論で心を自明としてわざわざ定理化しない)、心も自明でないがために、定理化を行う、というページを引用してみます。http://t.co/SVb55rJm @femmelets
posted at 03:16:46

アイデンティティーの人たち可哀想(^-^)/

2012.04.15

ファイル 193-1.jpg

2012年04月14日(土)

RT @godlitespeed: この演奏は素晴らしい。大本薫さん@sunamajiri You don't know what love is.> http://t.co/pNBSH0tW
posted at 17:16:06

おお、ありがとう(◍′◡‵◍) RT @godlitespeed この演奏は素晴らしい。大本薫さん@sunamajiri You don't know what love is.> http://t.co/XbO86GV1
posted at 17:16:25

RT @godlitespeed: いえいえ本当に素晴らしいですね。でも、コメントに中に薫さんを男性と間違っている外人がいましたよ。\(@o@)/ こまわり君なら「死刑!」ですよね。
posted at 17:57:23

もう(年齢的に)菩薩のように超えてるからな~、こまわり君ってなんか懐かしい響き(^-^)/ RT @godlitespeed いえいえ本当に素晴らしいですね。でも、コメントに中に薫さんを男性と間違っている外人がいましたよ。\(@o@)/ こまわり君なら「死刑!」ですよね。
posted at 19:55:34

そうね勘違い日本人が凄まじい速度で増殖中(>_<)@neajazz QT: 学ぶことの意味が分からないゆとり世代は、たいていの場合それは知識を取り入れる事だと勘違いしている。
posted at 16:27:39

RT @neajazz: 国語とかも教えるのって大変そうですね。みな「自分なりに」読んじゃいそう。 RT @sunamajiri そうね勘違い日本人が凄まじい速度で増殖中(>_<)
posted at 17:13:52

まさにそれ。自己と自分の置かれた状況から飛翔するために読む=学ぶというのが理解できず、どんどん状況を度壺にするよね。ボケ老人のように我が強い。(^-^)/ @neajazz QT: 国語とかも教えるのって大変そうですね。みな「自分なりに」読んじゃいそう。
posted at 17:14:54

教える側の基礎が疑われる場合すらありますし。RT @Hachi_Astroboy やはり、基礎教育の方針が大切なのだと実感しますね
posted at 17:32:22

RT @kotobacyo_bot: 自己嫌悪なんてものに陥る人は、みーんなナルシスト。こんな自分は自分じゃないって思いたいわけだもの、自意識過剰とすれすれってことよ(村山由佳/BAD KIDS)
posted at 23:20:08

自分が誰であるかとかアイデンティティーなんて、それこそスピノザの方法ではないが、デカルトがいわば教会を説得するために体系を(自己の)存在証明に歪めた結果でしかないわけだしねー。(^-^)/ https://t.co/LnzHDBqk
posted at 23:40:20

フォロワーの読解塾の生徒さんとの授業で、上野千鶴子のアイデンティティー論(たしか近代の同一性は多様化しても同一性がある)を解答させつつ、私がツイッターとかSNSで遊んでるのはアイデンティティーの解消なのよねー、といってニンマリモードになった(^-^)/
posted at 23:44:28

帰りに聴いてた曲、ツイッターに表示されたItunesのリンクにないから、Youtubeに暫定アップ。マレーシアンポップスだ、東アジアと比べて東南アジアはコロニアル的でとっても開放感があってよい(^-^)/ シーラ・マジッド ディア http://t.co/vj9mBIk0
posted at 23:50:16

東アジア人はアイデンティティーに自意識過剰だが、東南アジアにはそれがなく、開放感があるのよね。みんなアイデンティティーなんかに悩んでなさそう。明るくていいなー(^-^)/ シーラ・マジッド ディア ワニータ版: http://t.co/vj9mBIk0
posted at 23:52:17

2012年04月15日(日)

「自分になること」に必死になるのって、傍で見ていても息が詰まりそうになる。東アジア人ってどうしてそんなに不幸なんだろうって。コロニアルだからだろうけど、東南アジアってそういうのなさそう、リゾートだし、いったことないんだけど、行ったら住み着きたくなるかも(^-^)/
posted at 00:01:04

國分氏の第四章。授業の合間に少し読み始めた。デカルト『諸根拠』の定義だけそのままに、スピノザがデカルトの「定理にならない要請(読者へのお願い)」を削除して、デカルトの(自己)存在の証明から、神の証明に、再体系化するという話。(^-^)/
posted at 00:07:44

自己という存在の証明なんかしてまた愚にもつかない擬人法に陥ってるなら、さっさと他の証明しろよ、というスピノザの再定理化の話。超越論(定理で体系化できない評論)の授業ばかりやってると、やはり体系化は気持ち良い。
posted at 00:09:31

これだけ超越論より体系化の方が気持ち良いと、んじゃ一丁体系化してみるかね、という気持ちになるww 大体常識的に考えても、アイデンティティーとか自己とか、糞近代化で悩んでいなければ、普通に体系的というだけ。何が分からないで体系が崩れるのかなんて自明なので、体系的に脱超越論しようw
posted at 00:13:49

このように、超越論が体系化の反対語なら、自己とは体系化できないものの総称というだけだ。近代化なんて確定記述すれば、それは体系化できない自己の超越論だ、というだけ。したがって、国語の問題はほとんどこれだけ。
posted at 00:17:49

他人は分からないはずだ→近代の諸問題

2012.04.13

ファイル 192-1.jpg

『スピノザの方法』の手頃なレジュメ。そうそう、分かってる人には単に分かってる。(^-^)/「ここまで言うのを我慢していたけれど(國分)、ほぼこれは「悟り」に近い。」 RT: 國分功一郎スピノザ入門第1回 その5 『知性改善論』の方法論 http://t.co/VLfTiWX9
posted at 02:07:00

分からないというある種の疎外や二元論を一々例えば心身と実体的に表象するのが近代であるのではない。自然=神こそ近代だ、というスピノザの方法を通じた問題。https://t.co/HRTogCFV
posted at 02:08:33

よく纏まっている。「スピノザを否定した近代=説得の論理=明晰判明=真理の公共性→つまり、共有できるものだけが真理」VS「スピノザは分かる+分かることが分かる」(^-^)/ 國分功一郎スピノザ入門第1回 その5 『知性改善論』の方法論 http://t.co/VLfTiWX9
posted at 02:17:04

この「分かる+分かることが分かる」という私的な悟りのようなものを、あえて他人と共有する必要があるのかとか、他人も同様に分かってると踏まえるべきなのか、というのが、したがって問われる。私はスピノザ同様、他人も分かっていると感じる。
posted at 02:30:06

他人はわかっていないはずだというこの問の立て方自体が極めて近代的だ。また自由意志2.0が言及するGoogleの汎知主義も、その点では何ら分かっていないことになってしまう。それがスピノザ的な「分かることを分かる」と認めない(共有しない)ビジネスなら、誰も自由を感じないというだけだ。
posted at 02:37:36

つまり、他人は分かっていないはずだ、という認識の枠組み自体、平たく言えば上から目線とか情報格差と呼ばれる差異の捏造こそ、そろそろ無理がある。なぜ他人が分かっていないと独り善がりに思い込むことが出来るのだろう? これが近代という問いだ。
posted at 02:44:39

国民国家であれ啓蒙であれ、全ては相手を差別的に見下す原理でしかない。そこにはいくらあがいても論理性は微塵もない。たとえば教育も、分かっていないはずがないと踏まえてこそ、はじめて言葉が通じるようになる。この点を履き違えた認識は全て「分かっていない」。
posted at 02:46:01

スタトレに、2~3語の単語を聴くとその言語が喋れるようになるエイリアンのエピソードhttp://t.co/h4zHslLs があったが。どんな知識もどんな文も、分かることが分かってる人にとっては、2~3語も読めばわかってしまうように、バベルの塔の方がよほど幻想的だ。
posted at 03:06:07

このスタートレックボイジャーを、たしか9.11以降の物語性の枯渇という文脈で、東が対談集で言及していたのを思い出した。しかし、彼が囚われているように大きな物語の終焉なんてあるのか? 確かにある種のメタフィクション性は時代を画したとは思うが、本当にそれだけか? 
posted at 03:17:23
スーパーコピーブランド専門店
ーパーコピーバッグN級品
スーパーコピー財布専門店
スーパーコピー小物N級品
スーパーコピージュエリーN級品
シャネルスーパーコピー
よくドラマで「その気持ち分かる」と同情するシーンがあるが、大抵窮地に陥ったキャラは、分からなくなっちゃってると設定されている。キャラとしてというよりストーリー上、その人物がある事柄が分からなくなってしまっていることにされる。それが「分かることが分かる」という事柄であるに過ぎない。
posted at 03:35:10

ある物語を想定しなければ「分かることが分かる」というスピノザの方法を、分からなくなった人物を捏造できないのだ。このように物語性は何も大きな物語性としてあるのではない。大きな物語性は終焉したのではなく、最初からなかったのだ。東はそう捉えられないのだろうか?
posted at 03:37:15

ページ移動