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ある種の女は私と国語の大敵

2012.04.12

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↓結論から言うと、自立が悪いのではなく、自立してない女が、どうも私の大敵のようだ。(^-^)/

笛で遊びすぎて狂いまくってきたら、急に猛烈にお腹すいてきてヤバイ。www この遊ぶのが人生という感覚が、世の大半の女子には理解できないから、女子は悟れないと仏教では諭すんだなー、という感じの遊びまくり(^-^)/
posted at 06:31:40

遊べない人は、すぐ遊んでる人の邪魔しようとしたり、しちゃう。それが世の女性像だったりするから、女子は心して遊びまくってその女性像を払拭しないと、お腹すかないよー、遊んでくるいまくるために生きてるのよー(^-^)/
posted at 06:33:20

田舎じゃなく京は都だから自己中なのよ。頭悪い人って天動説になるよ。うちの母がそのタイプ。他者が困っていると自分に迷惑が掛かるという視点からしか物事みれない。@198819952007 赤か青かの証言のときも、「自分は大型バイク嫌いだから、原付の味方する」と言った警備員がいた。
posted at 20:09:39

階下工事の騒音で午前中寝て出講するためには来週はホテル暮らしだとかツイートしたら、母が自分に火の粉が掛ると思ったのか、うちには泊まる場所がない、ホテル代もあげれないとメールしてきた。さんざん愛人囲って私をよせつけなかった過去のある母だが、これだから女というか婆婆は苦手だ。w
posted at 20:43:13

誰もお前なんざ当てにしてないのに、予防線張ってくるのが家の女どもの常套。世間が期待する母性本能がなく、極端なファザコン。子供嫌いで、私が子供好きとか言うと信じられない、というような母。自分の話しかしない。最近呆けてきているが、元々病気だあれは。これで私がある種の女性性嫌いになる。
posted at 20:50:50

フロイトはダ・ヴィンチの昇華(性衝動から芸術への昇華)は、義母の寵愛によるというが、私の女性性は、まさに母のアンチ寵愛、母にヘイトされることで、昇華してる感じだ。
posted at 20:52:54

私の女性性が反転してる原因である、うちの女どものファザコンは、満鉄と戦後運輸を牛耳った曽祖父と、出来が悪くて慶應で医学者になって愛人つくって出てった祖父に向けられている。全く下らん。ファザコン家系だからか、私の女性性は、マザコン男性を受け付けない。そういう反転。
posted at 20:59:44

国語で自然VS労働と教えると、自立という女性的強迫観念ほど学問を新卒採用に同一視しちゃって誤答する子が出てくるhttps://t.co/sCueqBYm のだが、こういうリストラとかあの子たちはどう捉えてるんだろう? ソニー1万人リストラhttp://t.co/JA27k4IQ
posted at 21:30:11

日本の従来の国語教育というのは近代を脱封建制として読むhttps://t.co/v5rkOKyW のが、目を瞑っていても正解なわけだが、近代=自然=労働を、躓いて就職と思い込む女性的感性というのは、国語教育の可能性に拍車かける源泉ね。 https://t.co/snCI277x
posted at 21:37:20

画像は龍女成仏(りゅうじょじょうぶつ)
http://www.syo-kazari.net/sosyoku/jinbutsu/hokekyo/hokekyo7.html

私の大敵の遊びを知らない自立をしらない女は、まさに龍神成仏http://t.co/PiG5dmZi に出てくる女そのもの。母に法華経比喩経(ぼん)でも読ませとくかww http://t.co/vnxgxjMa
posted at 22:07:57

私の大敵の遊びを知らない自立をしらない女は、まさに龍神成仏http://t.co/PiG5dmZi に出てくる女そのもの。母に法華経比喩経(ぼん)でも読ませとくかww http://t.co/vnxgxjMa
posted at 22:07:57

龍女成仏http://t.co/PiG5dmZi で女は法華経=比喩を読むと成仏できるというが、女は比喩=国語を比喩と思えないで、へんな宗教に縋っちゃったりするから、困るのよねー。宮沢賢治とか絶対にわからないんだろーなーあいつらは(^-^)/
posted at 22:19:49

証明されるものとしての存在という誤謬

2012.04.12

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(読書メモ)國分氏によるスピノザとデカルトの対照は、近代的自我の捏造性に切り込んでいてほんとに痛快。スピノザが取り上げるデカルトは、不確かなコギトを確定するのが神だといったマイナーなテクスト。スピノザとデカルトでは極論的な対立項になるが、非西欧人にはさほど難しい問いではない。

(読書メモ)スピノザはコギトを論じて、神観念(神が何であるかを知ること)に一言も触れない。対するデカルトは、人々の神観念が不純であるから、コギトは不確かだ、つまり「考えるゆえに我あり」の自我存在の不確実性は、既存の神観念が不純だからだ、と明言している。

(読書メモ)つまり、デカルトは既存の神観念の不純さを精錬して、自我存在の不確実性の払拭を命題と捉えている(不純な神観念から存在の証明へ)。対するスピノザはそんなことに頓着しない。まるで自我が実在しているのだから、既存の不純な神観念以上に、存在は証明されている、とデカルトを解決してしまう。

(読書メモ)端的に言えば、デカルトは既存の信仰に対して人の存在の証明を目論見、証明できないものを作ってしまったが、スピノザがデカルトを論じると、既存の信仰を相手にせず、存在が証明されてしまっている状態になる、とでもいうように。國分氏スピノザ論第三章朝の読書終わり。

(読書メモ)スピノザの言説をデカルトの「解決」として読む國分氏。デカルトが存在を証明する必要があったのは、デカルト自身が言うように、不純な神観念が先行したからだ。既存の神観念から存在を証明する。それが明らかなのは、デカルトを論じたスピノザがそれを回避したからだ、という超越論。

(読書メモ)だいたい、あらゆる矛盾は存在を証明しようとしたところからはじまる。デカルトは証明が必要な理由を神と言明するが(デカルトはコギトの神による保証という)、スピノザはコギトとしか言明しない。それがスピノザによるデカルト論だという。國分第三章、追加メモ、終わり。

國分スピノザ論よんでると、しかしまあなんで近代人は存在を証明対象と強迫するようになっちゃんたんだろうねー、と感慨深くなるわ。自分の存在が不確かだとか、存在から証明しなければならないから、というのはスピノザによるデカルト論では、どうみても誤謬に思えてしまうから凄い。

さて第三章http://www.sunamajiri.com/blog/diary.cgi?no=190 が味わい深かった國分スピノザの方法、第四章は、スピノザによるデカルトの再体系化の実論証。デカルト『諸根拠』を論じたスピノザが、何(表象)をどう再体系化(脱表象論化?)しデカルトをどう解決し(乗り越えた)のか? 歯ごたえありすぎw

自然は神だという近代の誤読

2012.04.07

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(読書メモ) デカルトの生得説を無限遡行しないために方法(≒創出的方法)と方法論も逆説を抱えるというスピノザの知性改善論の論考、國分氏の『スピノザの方法』の第一部、朝読み終わったけど、総括はとてもよくまとまっていた。(^-^)/ http://twitpic.com/96fxcn

(承前)國分はスピノザ「知性改善論」は、知性は生得的だという論証の無限遡行の回避をしながらも、その方法を論じる無限遡行に陥っているが、エチカで解決したのではなく、そこには方法と方法論のスピノザによる混同があった、と立論しているようだ。

(承前)國分が批判するヴィオレットは、エチカで自然=神を思惟の端緒(神は生得的)とするためには、デカルトのような自然から神に近づく方法論は不要だった、だからスピノザは方法序説=知性改善論を挫折したと論じている。國分はそれに対する反論を用意しているようだ。第二部が楽しみ(^-^)/

(承前)知性=神の思考が(自然に)生得的というのは、無限論証を回避するソクラテス的言明であると同時に「転回=改心」とされるのだが、たまたま攝津君がFBでデカルト生得説とスピノザとカントの話をしていた。曰くスピノザは思惟を実体から属性にした。そこからカント=超越論はあと一転回。

(承前)スピノザは知性改善論で煩悩と気づきの話をしていて、その気づきをデカルトのように方法論に出来るか迷っている。つまり自然が神だと気づく=認める気づきを、どう教育したものか悩んでいる。自然が神に思える気づきは、偶然にしか起こらない。その偶然性の払拭を目論んでいるのだそうだ。

神を擬人化していない日本人には、自然が神に思えることが、何故こんな無限遡行=論証を生むのか、なかなか理解出来ない。そのために、自然に神を見るためのデカルト的近代以降を誤読する。たぶんハイデガーのテクネーを原発だ、という詭弁が成り立つのも、そういう文脈なのだろう。

神は神と言わないというスピノザ(^-^)/

2012.04.02

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2012年03月29日(木)

國分功一郎の博士論文『スピノザの方法』おもろい。スピノザという異端によって可能だった哲学の近代性を「反省」するとスピノザの「幾何学的方法(定理)」に至るという、三角形の形してない神様の話。デリディアンの著者が東大でも哲学科でないのが楽しいhttp://t.co/QQOOTyQj
posted at 23:52:53

國分は1974年生まれ、私より10も若い。つまり東某と同世代。東の郵便論的という東大哲学科の博士論文にあった混乱が、どうもないようだ。東の混乱はただ目立ちたがりのファルスに陥ったが、國分には哲学を感じるなー(^-^)/
posted at 23:57:47


2012年03月30日(金)

國分スピノザ論の序文。近代を論じるならこういう気概が必要。スピノザならそのきっかけになるが、音楽の、ましてや啓蒙的伝統には、近代論の契機はない。それは三角形の神でじつはアニミズムですらない。伝統は実は擬人法でアニミズムではない。 http://t.co/HJBseer1
posted at 04:29:08


2012年04月01日(日)

國分『スピノザの方法』をじっくり堪能しはじめてるが、超人は超人だと自己証明しないという命題、あるいは知り得てる人は知り得ていることを証明する必要のないことを知っている、というデカルト的近代、つまり自己証明としての近代性への根本的反措定が見えて、やはり爽快感があるね(^-^)/
posted at 20:02:37

勿論、國分のスピノザ論に「超人」という言葉が出てくるわけではない。たまたまさっきTLにそういう論争を見掛けたので。知ってる超人は知ってるとは言わない(証明しない)。なぜなら証明はソフィストの無限連鎖に陥るから。にも拘らず証明しようとしたデカルトをスピノザは批判しているのだという。
posted at 20:14:54

読みはじめたばかりの國分スピノザ論を、擬人論に超訳すると、神は自分で神と言わないから神だ、という話になるようだ。デカルト的近代は、無限連鎖や神を自己証明するものと仮定した新たな擬人法という話になりかねない。別に神は死んだわけではなさそうだ笑(^-^)/
posted at 20:21:55

日本人なら2ちゃんねるでも、神というのは自分で神といわないから神だ、という感覚を共有しているのだが、西欧人は神なら神と言うに違いない、と擬人法していたりしそうだ。音楽の天才も自分で宣伝する奴は似非っぽい、というのと極めて相似。(^-^)/
posted at 20:26:30

しかし、もちろんこんな擬人論で超訳しても「分かったこと」にならないから、デカルト以降の近代の証明性は厄介なのだろう。命題と理由節で厳密にテクスト論をしようとする國分氏の叙述は緩慢だ。思わず眠くなるのだが、それでもそこで言われてることにはワクワク感がある。(^-^)/
posted at 20:33:16

スピノザの方法 國分 功一郎 http://www.amazon.co.jp/dp/4622075792/ref=cm_sw_r_tw_dp_LvoEpb1JAGD5W

震災後の柄谷行人と対自然

2012.03.28

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3.11直後、池田信夫がハイデガーのテクネーを引き合いに出して、柄谷行人の脱原発を猛烈に批判したのはネット界では有名。それで両者の言説比較を試みている。

柄谷行人は、震災前に「世界史の構造」で、脱文学的になっていた。それは、生産関係(対自然=資源の所有関係)ではなく、交換関係(人対人の資本論的関係)で、マルクス主義を批判するという大著。

柄谷は震災後に「哲学の起源」という新たな連載をスタートさせて、「世界史の構造」に不十分だった対自然関係への探求を開始したのだが、それを先取りした単行本「震災後に読む世界史の構造」を出版。それを読み進めながら、イケノブの柄谷批判という誤読が、なぜ可能なのかをツイートしています。

以下、ツイッターより。

ノマドになれないストレス。柄谷行人もイケノブも交換=経済の原点はノマド(遊動性)と一致するほど本源的?(^-^)/ヒルズ族よりノマド族(若者、地方へ)  :日本経済新聞 http://t.co/9tyXD5XL
posted at 14:49:02

帰ってきて仮眠してしまって起きたら頭がフリーズしてるのだが、漱石のテスト対策した複数の学校の生徒さんたち、みんなほぼ満点とれていて、いままでビリッケツだった子が学年トップになったり、すごいことになっていた。しかし、今日の考える命題はノマド論だった(^-^)/
posted at 05:00:29

(再掲)柄谷行人は生産(対自然)に対する交換(対人)の本源にイオニアや遊動性を、イケノブはハイエクの部族社会に公平性の遺伝子をみて、結局同じノマド論になっているようにしか見えない。 http://t.co/ZtL8Aof9
posted at 05:00:46

ここから、考えていたのだった。イケノブは遺伝子にそなわる公平性でハイエクの部族社会を捉えるが、柄谷はイオニアで相似的な遊動性(つまりノマド)を捉える。そのイオニアとは擬人法の問題だ。
posted at 05:02:51

何の話かというと、原発を脱という柄谷を、ハイデガーのテクネーを引き合いに出して真っ向から批判したイケノブだが、なぜそのような言説上の対立(誤読)が起こるのか、震災後の日本の論点はいかに可能になってるのかを見極めるという話だ。例えば両氏は遊動性への着目でシンクロしていた。
posted at 05:24:28

あらゆる近代論は西欧中世からの差異のみで、ある本源的な命題を隠蔽してしまう。つまり近代がそれを隠蔽するのだが、そのため山本義隆は近代科学史をギリシャ以前の隠蔽と捉え、イケノブはハイエクで人類史的遺伝子に言及する。(続く)
posted at 05:30:05

一方柄谷は、震災以前、生産(対自然)ではなく交換(人から人へのマルクス的命がけの飛躍)で世界史の構造を捉えていたが、震災後の世界史の構造で、人対自然という二元論に立ち返り、ギリシャ以降の哲学が、イオニアの擬人法批判を隠蔽したと言及している。 http://t.co/IDn8Gx2c
posted at 05:32:21

イケノブにとっては公平性は遺伝子の突然変異の問題。柄谷にとってデモクラシー(多数者支配)ではない自由は、イソノミア(イオニアのノマド的無支配)の自然哲学。ギリシャ以降、このイオニアの哲学(擬人法=共同体を批判し遊動的=自由ゆえに平等)が隠蔽され、デモクラシーが出現したという。
posted at 06:00:27

近代という近眼状態からは、デモクラシー(多数者支配)を自由と倒錯してしまうが、柄谷によるとイオニアの自然哲学(擬人法批判)から見ると、多数者支配としてのデモクラシーは共同体的で、自由はノマド的移動(イソノミア)にしかない。近代ではアメリカ植民のタウンに垣間見られただけという。
posted at 06:28:28

したがって重要なのは擬人法批判としてのイオニアの自然哲学ということになるわけだが、これが震災後の柄谷の世界史の構造の修正だ。生産に対する交換は人から人へのマルクス的命がけの飛躍だが、それでは却って対自然や擬人法批判を隠蔽して、共同体をデモクラシーとして復活させてしまうのだろう。
posted at 06:32:09

もちろん日本に論点などない。言論界というのも議論があるわけでなく、誤読の応酬、まさに言論ノマド状態。互いに俺は他人のことはしらない、と論じてる。ところが受験生は、こういう問題もあるああいう問題もあると言及してるだけじゃ合格しない。ある意味、子供たちは非常に理不尽な目にあっている。
posted at 07:34:45

つまり日本にあるのはハロルド・ブルームの誤読の不安だけ。たしかに日本の近代は西欧にはない近視眼的な近代で、いかにも論点があるように錯覚するのだが、大人たちは責任放棄して勝手なことほざいている。可哀想なのは受験生の子供たち、論点を明確化して論じ切らないと慶應なんか入れない。笑
posted at 07:37:59

スピノザはもし三角形が神を考えたら神は三角形の形をしてると揶揄した→私が神を考えたら、うさちゃんの形してそう(^-^)/
posted at 07:50:33

悲しく聴こえる音楽たち

2012.03.21

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空中散歩のサントラhttp://t.co/M5HoCAgO 、作者わからないんだけど、ループ再生してたら、またジャズ聴けなくなったw 昨日はジャズ漬けだったのに。外食産業もジャズじゃなくヒーリング系をBGMにした方が、私は食欲出るのに。(^-^)/
posted at 07:08:10

というか、外食系BGM、ジャズをお洒落というなら、わたしならソウルの方がしっくりくるなー。テンヤでセロニアス・モンクとか、焼肉屋でコルトレーンとか、ベタジャズほんとに食欲も音感も調子狂いまくるのよ(^-^)/
posted at 07:09:54

そもそも音楽と食欲って個人的には水と油。音楽をやりたい、聴きたいという音楽欲の時は、いくらお腹空いていても兎に角音楽漬けになりたくてしかたなくなる。半日ぐらい平気で食べない。あと物欲。楽器に集中してる時は楽器だけが宇宙で唯一の物体になるから、物欲というのを前後数日の幅で忘れる。
posted at 07:13:48

テンヤや焼肉屋やラーメン屋をおしゃれにしようというのは、フランチャイズだからなんだろうなとは思うんだけど、なんか居心地悪い(^-^)/ @LitoSnowfield BGMでジャズをお洒落と思って流されているのを聴くと…脱力してしまうのですた…(*uou)=3
posted at 07:16:44

たぶんジャズがおしゃれに聴こえるというのは、メロディーをフェイクして主張してないように聴こえるからなんだとはおもうんだけど、ダンモというのは、シングルノートの自己主張の音楽だから、ピアノトリオですらBGMで流されると、食欲に気が回らなくなる。音楽があると寝付けないのと同じ。w
posted at 07:18:38

あとジャズが大人っぽさに酔うみたいな感覚もついてけない。瑞々しいソロもおやじくさく聴こえる感受性って。たしかにマンネリジャズはオヤジっぽい。どうせやるならオーネット以上にぶっ壊してるロバーノぐらい脱力すると、かわいいw http://t.co/WhWcxmSu
posted at 07:29:03

結局ジャズがおしゃれや大人っぽさに聴こえるのは、自分でジャズったことのない人の音感。この他人にどう聴こえているかというのは人目を気にして初めて自我になるというのに似てるが、音楽は特異で、どう聴こえていようが演ってる当人が没頭できてるかどうかしかない。そこが言葉と音楽の最大の違い。
posted at 07:35:31

悲しく聴こえる音楽も、それを今その瞬間に演奏している当人は、ハッピーと感じてるのかもしれない。そのぐらいの開きがある。音楽と印象は完全に別物。むしろ非対称ですらある。
posted at 07:41:35

言葉による歌詞で失恋を歌えば確かに悲しい音楽と「言える」だろうが、インストルメンタルは悲しい曲調(印象)でも、それを演奏(ジャズの場合は即興)してる当人はハッピーなのかも知れない。だから音楽を印象で語ることはできない。特にジャズは印象で捉えさせない意識がモダンジャズに萌芽した。
posted at 07:49:00

ハマヌーンの話http://www.sunamajiri.com/blog/diary.cgi?no=185が出たが、前任の読解の先生が訳出したhttp://t.co/Tq0yitHH のように、人類の宗教の原始状態は没頭だ。没頭を文化に高めて人間になった。当人がトリップしてるなら傍観者がどう感じるかはお構いなしだ。悟りは当人にしかわからないから悟りなのだ。
posted at 07:58:10

ここまで言えば、悲しく聴こえる曲を悲しく演奏させて悲しみを考えさせるのを演奏の正確さと教える日本の音大教育が、啓蒙主義的でとても問題があるのがわかるだろう。ところがジャズの場合、その考え方では教えたことにならない。だから面白い。印象ではなく音楽そのものを教育できる突破口だから。
posted at 08:28:28

ところで、https://t.co/uqWoRvPJ で紹介した東大受験本の著者が演劇論専攻で、冒頭で東大の演劇論を題材に、今私が音楽で言ったことと同じことを言っている。役者が嬉しいという気持ちを演じることについての東大出題だが、大手予備校の解答例はそれを汲み尽くせない。
posted at 08:34:13

印象と音楽は非対称といったけど、音楽は万国共通言語といわれるように、心が伝わってしまう。問題は感情って何よ?というさっきの東大過去問http://t.co/kIiI9XQW みたいな話になる。
posted at 09:01:50

話を整理すると、ジャズが特殊という話になる。感情や心は作られるものだ。作曲家ならそのように作るだろう。しかしジャズの即興は、ロマン派的メロディーをフェイク=壊すことがきっかけ(モチーフ)になっている。だから一筋縄にはいかないが、露骨に音楽に直面してしまう。そういう話。
posted at 09:05:23

国民文学、国民音楽というように、近代国家は創り上げられる。しかも言葉以上に音楽は心をストレートに現前させてしまう。心は音楽なのではないかと思えるぐらいだ。音大でも作曲科以外では、どうやってその感情が作り出されるのかという教育が徹底されてこなかった。それではジャズにならない。
posted at 09:17:43

サンドバーhttp://t.co/NPVBO2Rn 寄ろうと思ったら定休だった。サンドバーもSOUL系のBGM。ジャズがおしゃれ系とかいうけど、私の知る限りお洒落系はSOUL、野暮ったいおじさん系がジャズ。ボサはおばさん系。スタバはポストBOP(^-^)/
posted at 20:49:07

この前もサンドバーカフェ寄ろうと思ったら、けっこう店内に20~30代の男女がいて盛り上がってる雰囲気で、ちょっと入り込めなかった。おしゃれなSOUL系だからその年齢層がくる。ジャズだとおじさんホイホイになる。ボサだとおばさんホイホイ(^-^)/
posted at 20:50:40

スタバはジャズをベタに扱わない。ポストジャズな感じ。ボサもポストな感じ。かといってベタにSOULに行かない。そういうポスト(モダン?)な選曲だから、女子高生からおじさんまで、違和感なくおしゃれなのかしらー(^-^)/
posted at 20:53:29

でもあまりディープにSOUL系、DJ系だと、2~30代の適齢期の男女が、おしゃれを競い合っちゃって、ちょっと空気に入り込めない。ところがポストSOULって、ポストジャズよりイメージわかない。開き直り系?(^-^)/
posted at 20:55:42

あと、スタバはポストジャズ、ポストボサを、ディープにDJ系しないで、クラシックと並列にあつかったりするから、なおさらポストモダンな感じ。DJ系はポスト30代だと、ちょっと男女の逢引がうざい感じ。ナンパとかされそうじゃない? 一人がいいじゃんって感じなのよねー(^-^)/
posted at 20:59:03

そういえば、マーケ屋さんが、ショッピングモールでジャズをBGMにすると売上が数割あがると言っていたけど、逆にDJ系のお店だとポストリア充世代は、ナンパされたりうざいから、ジャズに逃げるのよねー。でもベタジャズは、ソニー・スティットみたいになると野暮ったいのよねーw
posted at 21:04:32

でもDJ系のお店で、イケメンに見つめられると損得脳で得した気分になるし、美人さんがいるとうれしくなるのよねー。ベタジャズのお店だと、キモオヤジが話しかけてきたりするのが、大損した感じなのよねー(^-^)/
posted at 21:09:10

自由意志2.0で監視する自己言及ども

2012.03.21

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文学関係のツイートまとめ

●監視社会を自由意志2.0という日本のおかしな言説。
●大江健三郎と村上春樹のとりかえばや物語
●自己言及の不可能性を実践する日本近代文学
●詩の自己言及。大いなる文法学者の猿
●90年代最大の文学論争、漱石は「こころ」で性転換した

イケノブ氏も指摘していたが、監獄の発明者ベンサムの功利主義が、「個人の効用=心理から均衡」という現在主流の経済学なんだろうね。(^-^)/RT「ソーシャル」という罠 ―プライバシーが消えてゆく─フーコーの警鐘に従うなら「可視性は罠」なのだ http://t.co/wQeFX6eY
posted at 23:30:16

ベンサムへの言及はハイエク本のここ(^-^)/ http://t.co/i3DxNubQ
posted at 23:43:33

イケノブ氏は自由報道協会や柄谷的現代思想に批判的のようだ。確かにハイエクの両義的な自由論の観点からは、監視社会を自由意志2.0と意図的に誤読する日本の言説は素朴な革命論にしか見えない。ネットもマスコミのように煽ろうとしているが、受け手には実は固定観念はない、つまり国民が賢いのだ。
posted at 00:07:43

国語教育も固定観念の駆除が目標だが、生徒に固定観念があるはずだという前提自体が偏見である場合が多い。生徒は自信なげに世間や規範の正解を質問しに来る。無論、世間や空気と感じるものが自信喪失の原因なのだから、それを考えさせる。国語の9割はこれ。つまり個々人に偏見があるわけではない。
posted at 00:38:24

この相手には思考の曇があるはずだ、という勧善懲悪的設定が、監視社会を一般意志2.0と革命論に素朴に誤読させる固定観念。つまり上から目線ということだが、これはコロンビア出のhttp://t.co/6PhEJkMV が言うような、最近の風潮というわけではない気がする。
posted at 01:01:22

この本 https://t.co/zrTNy05z に(amazonレビューなどでも)賛否が寄せられてる点も、東大記述問では、大手予備校の解答例に紛れ込んだ偏見・固定観念が、国語の正解法ではないという点。その偏見によって、国語力のない子が再生産される。
posted at 01:45:46

RT @americanjokebot: 経済学会にて、ある重大な定理について、多くの質問があった。イギリス人「その定理は経験によって裏付けられているだろうか?」ドイツ人「その定理はいかなる基本定理から演繹されたものであるか?」フランス人「その定理をフランス語で言ってください」日本人「あなたの先生は有名ですか?」
posted at 02:02:02

RT @Onl_y: 大江:芸術の問題としてそれ(死ぬまでに問題を解決できないこと)を捉えようとしていた。ベートーベンやR・シュトラウスの晩年の作品の破滅的な調子。そういうことを研究していた。彼は死に、私は残された。私は最後の仕事を書こうとしている。個人的なカタストロフィを通じて書くつもりだった。
posted at 02:23:14

大江健三郎の話題がRTされてきたが、それで思い出したのだが数日前なぜか大江さんが徘徊老人になって、大きな書店のフロアに寝転んで駄々をこねている場面に遭遇する夢をみたwww(^-^)/ 
posted at 02:24:21

3日ぐらい前よ。変な夢見ちゃったわよ。大江さんがボケ老人で書店で寝転んで分けのわからないこといってて、書店員も有名人だから手をこまねいているという場面に遭遇する夢だったwww (^-^)/ @LitoSnowfield ひ…ひどい~~(*^o^)ノシ☆
posted at 02:37:38

文学的エゴ強そうよね。エゴが強いとボケるww(^-^)/ @LitoSnowfield 何故かリアルなイメージが伝わるのですが(笑) 昔に読んだ大江さんの叔父さんがホームレスのお話を思い出しました(*uou)>
posted at 02:51:15

ノーベル賞直前の緑の木三部作は何らかな突き抜け感があったと記憶してるけど、性遍歴という実存からの救済とやっと単純化できたのがカタストロフとかそんな感じ。作家は重層的円環的に前作に言及しながら後続作品を書くものだけど、ポジティブさになるまで苦しみすぎ。@LitoSnowfield
posted at 03:10:43

大江の緑の木三部作http://t.co/jciishOc のどことなく突き抜けた感じと、村上春樹の海辺のカフカが、なぜか同じ読後感。と思ったら、たしか両者とも語り手が性同一性障害なのよね。日本文学はとりかえばや物語するしかないみたい。(^-^)/
posted at 03:14:55

そうそうポンポン前作を忘れるタイプと、同じ所ぐるぐる回る夏目漱石型がいるよねー。たしか四国を舞台に性同一性障害が語り部という、大江のノーベル賞受賞タイミング作と、村上春樹はかなり似てる。@LitoSnowfield 近作は読んでいないのですが…。グルグル同じところを回られて…
posted at 03:21:25

日本の作家が同じ所ぐるぐる回るほうが文学性が高く見えるのも、前作や文学史という空気への自己言及が日本では近代文学という雰囲気だからかな。村上春樹は大江と同じで周りの文学状況に自意識過剰。だからそこから抜けだす物語性を毎回実験する。でも西欧では文学は自己言及は矛盾として斥けられる。
posted at 03:33:22

ゲーデルではないが自己言及は不可能。なのに日本では近代文学は、文学史と前作への自己言及性と、そこからの脱出が唯一の物語性だった。大江も村上春樹もそこから脱出したい。ところで文学も近代以降は西欧にしか可能性がない。西欧とは擬人法の三態、物の人化、神の人化、人の神化。
posted at 03:40:05

ノーベル文学賞で思い出したが、オクタピオパスの「大いなる文法学者の猿」という本が、どっかいってしまっったんだが、アマゾンで売ってない(・_・;) http://t.co/k0CII276 http://t.co/iqblRz1e
posted at 03:52:59

オクタビオ・パスの『大いなる文法学者の猿』の一節がここにあった。→ハヌマーンは、古代インドの物語『ラーマーヤナ』に登場する猿の神である。ハヌマーンは文法学者でもあった。『ラーマーヤナ』の作者とされるバールミーキの友人、助言者、霊感を与える者http://t.co/4gO1dbto
posted at 05:17:20

オクタビオ・パスの『大いなる文法学者の猿』 「あらゆる詩は同じことを言い、しかもその各々が独自だ」「道を歩いていくにつれて道が消えていく」
posted at 05:20:52

大いなる文法学者の猿、引越しの時以来未開封の書籍の箱がまだ何個も残ってるのだが、その中にあるきがする。でも2つ開けてみてなかった。だいぶ本を処分したのでその時処分したかも。代わりに探していた漱石論の本を見つけた(^-^)/
posted at 06:11:23

さっき自己言及の矛盾性を突破する物語性のためには、大江と村上春樹は共通して性転換の話者を必要としたという話をしたが、箱から見つけたのは漱石はこころで、日本近代文学の倫理を反転させる性転換に開かれた、とする90年代の国文学界の最大の論争http://t.co/Xp16424g
posted at 06:27:07

なぜ近代は(が)魔術的に見えるのか(^-^)/

2012.03.09

ファイル 184-1.jpgファイル 184-2.jpgファイル 184-3.jpg

http://www.trend-review.net/blog/2012/02/002206.html
http://www.trend-review.net/blog/2012/03/002216.html
の匿名ブログをめぐるツイートまとめ日記です。(^-^)/

しかしこれ面白いね。ガリレオも地動説をラテン語で書いてればよかったのか。国語(俗語)で書いたから処刑されたのね。国語は死刑ね。(^-^)/ 近代科学の成立過程18~十六世紀ヨーロッパの言語革命はキリスト教と金貸しの共認闘争だった http://t.co/C1nf9zq3

ラテン語カーストの外部である俗語に翻訳された知識は、意外とそのあたりの経緯を隠蔽してしまうのね。国語(俗語)への翻訳が隠蔽するのは支配関係ね。実際、翻訳者はラテン語では自明の観念を俗語化させない。そのままでは国語は支配を隠蔽するから、国語教育はそれを暴露しようとするもののようね。

ニュートン(遠隔作用説)もデカルトの近接作用説(機械論)も、人が自然を支配するというアーリア特有の自然略奪思想で近代に固有ではないという話。→魔術から近代科学へ1 ギリシア自然哲学も近代科学も、略奪集団による自然支配のパラダイムにある http://t.co/sPfjmT3g

弁証法すると、魔術(遠隔作用説)が科学(機械論)となるのが、近代に固有と錯覚するのは、ギリシャ哲学と中世を切断する(従来の)読みによる。ギリシャ哲学をアーリア固有の自然支配思想として読むことで科学的近代は相対化される、という話のようね→ http://t.co/sPfjmT3g

http://bit.ly/yv9YV2 となるとやはり、キリスト教神学がギリシャをアーリアと切断できたのはなぜかという関心に戻るわけだが、この2つの切断によって近代が「魔術的」に形成された、と仮定するのが早そうね。

フロイト以降の現代思想ってドゥールーズにしても何にしても結局性感帯論にしか見えないんだけど、占星術もそうだったのね→ 「星座と性感帯に相関関係がある」とTwitterで話題! あなたはどこかな~? – ロケットニュース http://t.co/bWShNWFZ

https://t.co/Jk6yueFQ の循環論法からいくと、現代思想が性感帯論(魔術?)https://t.co/MkLxSvwv に回帰するのも、わからないではないなー(^-^)/

ノマドという話題が流行ってるが、在野https://t.co/AyHAOxds とかじゃないとマトモな視点を持てないというのも凄いわな。東大話法ではないが、アカデミズムでもメディアでも何かに帰属した瞬間、単なる属国の言説になってしまう。非支配国というのをひしひしと痛感しちゃうね。

CIAが大衆という無意識を支配するためと公言http://bit.ly/x7tIiV するSNSが、日本では政治的自由の装置と思えてしまう被支配。(^-^)/ #BLOGOS 「一般意志2.0」が橋下市長の“独裁”を止める?http://t.co/acFONNAA

ええ、先程wikiで拝見しました、凄そうな方ですね。西欧だとそれこそ中世科学史は哲学的な観念で抽象化されウヤムヤにされると言って過言ではないですが、非西欧ならではのストレートさで、興味津々です。(^-^)/ @voyager9872 山本先生は全共闘委員長です。歴史上の人物

「キリスト教に代わって、私権拡大を正当化する近代思想(自由・個人・民主主義)が作り出された。実際、中世の教会は大衆が書物を読むことを警戒したが、15世紀以降は逆に大衆に書物を読ませ、金貸しの市場拡大に都合のよい恋愛観念や近代思想で洗脳した」http://t.co/nleXAdi3

http://bit.ly/yv9YV2 で紹介したブログが、一つ重要なキーワードを排除(無意識的な除外)してると思って山本義隆氏の本文にあたったら、予想通り「擬人」だった。西欧のあらゆる論点は擬人の有無を観念化しただけだから。 twitpic.com/8toe72

山本義隆氏の科学史は、唯物論史観(唯物とは文献に書かれたものだけという意味)ですら観念論に陥る西欧ではある種不可能な言説。全共闘委員長で在野だからこそ、観念論を相対化する史観になってるのだろう。アマゾンレビューにあったが英訳こそすべき。西欧でベストセラーになるよこれ。

近代=科学は、擬人法だけが論点だった西欧にしか生まれなかった。しかしそれがどのように生まれたかは観念論的にしか語られない。現代思想ですらそうだ。面白いのは非西欧の日本では擬人法は非観念的な文化(擬人化)になり、非アカデミズムの山本義隆氏は非観念的に科学史を明らかにしている。

http://twitpic.com/8tjuu2 アマゾンレビューのとおり英訳すべき。西欧社会ではベストセラーになりかねない。それと全共闘委員長という出自を重ねるのは本人が望まないらしいが、非西欧の実践が日本ではアカデミズムの外部でしかなされない、という点に尽きるのだろう。

ラインから逃げるフルートなるちゃん(^-^)/

2012.02.28

ジュリアードとコロンビアの後輩のNY在住のコンポーザー(ケニー・バロンとかそういう人のために曲書いてる女の子)http://www.facebook.com/tamamiab から、NYにはまともなジャズフルートがいないけど、やっと一人いたと、Youtubeをアップしてくれた。これはそれに続くツイートのまとめ(^-^)/

いいねー、botに投稿できるんだ知らなかった(^-^)/@tampny QT: http://t.co/z4bjtQ4Z
posted at 18:18:44

これはいい。日本のフルーティストに爪の垢のませてあげて。フルートの拘りや癖を吹っ切れてる。若いから力強いし。よろしく伝えて後は頼んだよって(^-^)/@tampny http://t.co/RvwaC7nl
posted at 18:22:34

うんいい。日本のフルートだとあれをやってもロングトーンで誤魔化す(^-^)/ @tampny QT: 共演者によるとリズムが良いと評判…メロディはまた…わたしには全然Greatに聴こえるからわからないけど共演してみて相性とか好みとかあるし…
posted at 18:28:19

ロングトーンに逃げるジャズ部外楽器ののバイオリンとフルートだったわけだけど、みんな吹っ切れ始めてる。フルートでゴリゴリは怖くてできない。ラインを止めたくなる楽器なのだ。(^-^)/ RT @tampny ちとせわしないかもだけど…バンドはバックに徹してる~(^o^)♬…
posted at 18:40:39

どんな楽器でもそうだが、フルートの人はフルートの音色にナルちゃんする人が圧倒的多数。だからライン止めたがる。私がコンポーザーなら、フルートになるべく止めさせないラインを吹かせるwww フルート嫌いにさせるのが一番(^-^)/ @tampny
posted at 19:37:38

レッスンでフルート嫌いになれというのいいかもね。ちょっと荒療治すぎるけど。勿論サックスの人はサックスが好きでしょうがなくてサックス吹くのだけど、サックスにはジャズがあるからね。フルートは単なる笛だ。サックス奏者にフルートなんて音が出ればいいだけでいいよねと言われたことがあるほど。
posted at 19:39:16

コンポーザーはピアノで作曲するなら、あとは楽器奏者の立場を想像するしかないわけだけど、フルートの扱いが難しくて、ついロングトーンで音色に酔わせようとしてしまう。 @tampny
posted at 19:43:14

それやるからフルート奏者は勘違いする。フルート意地悪に書いたほうがいいよ。サックスにロングトーンさせて、フルートにはタンギング無しで倍テンライン吹かせまくるとかw そんぐらいで丁度いいw とにかくゴリゴリやるのに生理的抵抗のある楽器だからw @tampny
posted at 19:44:27

こういう風に、作曲家が他の楽器の演奏者の気持ちは想像してみるしかないのと同じように、音楽というのは、傍目からは理解しがたい。やってみるまでわからない。演奏者もやってみるまでわからないほど。だから音楽は論じても無意味になってしまう。と、午前の音楽自体の論的不可能性の話。http://www.sunamajiri.com/blog/diary.cgi?no=182
posted at 19:50:47

そのうちリンクたどって見に来て絶賛されるよ。でもフルートってマイナーよ。ビートボックスフルートはYoutube全体のトップ10に入ったけど、あれは大道芸的に受けた。@tampny 曲というよりCマイナーをひたすらvampしてるらしいです。…まだ14人しか見てないよ~ (><;)
posted at 20:06:58

音楽自体の論的不可能性とは?

2012.02.28

音楽を政治や社会として論じるのではなく、音楽自体で論じることの不可能性が、近現代哲学の大きな特徴の一つになっている、という話。ツイートのまとめ(^-^)/

摂津君がFBでの哲学の話に【Facebookのみ】をつけるようになってしまったな。たしかにインタラクティブなSNSでモノローグしても、反応されてうざいということだろうけど、それならコメントできない設定のブログでやればいいのに。FBはTLがどんどん埋もれて読みづらい。(・_・;)
posted at 09:49:13

大時代の哲学の体系語りから、近年の評論語りまで、色々な語り方があるのだが、SNSだとインタラクティブですぐ腰を折られるというのを感じているのだろう。ブログのコメント禁止設定だけの問題だと思うのだが。(^-^)/
posted at 09:50:46

どういう話をしているかというと、音楽を論じることはいかに不可能か、というのを哲学史の大きな流れから、思いつくままに語っていて、たいへん面白い。だけれどFBのフレンド以外には見せない方針のようだ。発表するからではなく、責任がもてないからということらしい。懐疑的すぎるのだろう。
posted at 09:52:24

音楽自体を論じることは不可能に近い。実際、哲学者ほど音楽論を避ける。私はそれが近代哲学の特徴だと前述した。音楽は近代的な言語観とは対立的なのだ。誰かが音楽を論じるときは、必ず政治や社会など、他の事情に相対して論じてしまうのもそのためだ。
posted at 10:02:49

攝津君は、その音楽自体を論じることの不可能性となった近現代の哲学について、反証を試みようとしていて、実に面白い。http://t.co/NDdJEZaQ どんな論も試論の過程でしかなく、独断や誤謬に遠慮していたら、神しか語れないものを作ってしまう。大胆にやればいいのに(^-^)/
posted at 10:09:20

たとえば舞踊という現象なら身体論から認識することができる。しかし音楽は、つねにその身体性の外部に存在してしまう。音楽を認識するというのは知覚の問題としてしか論証できない。そのために近現代の哲学者は音楽論を避け、政治論としてしか音楽は語られなくなってしまったのではないか?
posted at 10:23:11

音楽が、舞踊のような身体性の外部に、つねに位置してしまい、なおかつ単なる聴覚以上の認識現象になる。なぜ外部なのか? それが音楽自体を論じる不可能性という命題だ。
posted at 10:24:59

政治論としてしか音楽を言語化できなくなった反動で、アンチ政治的なポップスが、一時期商業的に成功した。しかし現在、CDセールスの低迷などで、音楽のPOP性が岐路に立たされ、政治的メッセージなのか、それとも音楽自体なのか、という論点が再浮上しているのだと思う。
posted at 10:28:05

音楽自体の論的不可能性は、じつはクラシック音楽の内部からは命題化できない。攝津君の視点がおもしろいのは、クラシックの外部としてのジャズから、反証を試みようとしている点にある。ジャズもかつて実存や政治として論じられたが、いまはそうした論が不可能になってきたからだ。
posted at 10:30:10

いうまでもなく、近代国家は音楽と共にある。ナショナリズムは音楽で具現化される。だから音楽ほど政治的なものはない。POPでは、その政治性そのものを弄ぶのが音楽だ。しかしそれが音楽自体だとはとても思えない。この到来するかのごとく外部の音楽を認識できないところから、近代は迷走した。
posted at 10:42:18

音楽自体の論的不可能性という大命題は、近代論の山場だと思ってるんだけど、それへの攝津君の反証試論は、対談たりえてるのにね。@LitoSnowfield
posted at 20:18:43

音楽自体の論的不可能性こそ近代だという大命題。たとえば坂本龍一ですら音楽の政治論に陥る。その反動でジョビンはリラックスだといってボサノバやったりする。そういう支離滅裂性も実は論的不可能性の実践だったりする。@LitoSnowfield
posted at 20:19:09

作曲家が他の楽器の演奏者の気持ちは想像してみるしかないのと同じように、音楽というのは、傍目からは理解しがたい。やってみるまでわからない。演奏者もやってみるまでわからないほど。だから音楽は論じても無意味になってしまう。と、午前の音楽自体の論的不可能性の話。
posted at 19:50:47

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