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証明されるものとしての存在という誤謬

2012.04.12

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(読書メモ)國分氏によるスピノザとデカルトの対照は、近代的自我の捏造性に切り込んでいてほんとに痛快。スピノザが取り上げるデカルトは、不確かなコギトを確定するのが神だといったマイナーなテクスト。スピノザとデカルトでは極論的な対立項になるが、非西欧人にはさほど難しい問いではない。

(読書メモ)スピノザはコギトを論じて、神観念(神が何であるかを知ること)に一言も触れない。対するデカルトは、人々の神観念が不純であるから、コギトは不確かだ、つまり「考えるゆえに我あり」の自我存在の不確実性は、既存の神観念が不純だからだ、と明言している。

(読書メモ)つまり、デカルトは既存の神観念の不純さを精錬して、自我存在の不確実性の払拭を命題と捉えている(不純な神観念から存在の証明へ)。対するスピノザはそんなことに頓着しない。まるで自我が実在しているのだから、既存の不純な神観念以上に、存在は証明されている、とデカルトを解決してしまう。

(読書メモ)端的に言えば、デカルトは既存の信仰に対して人の存在の証明を目論見、証明できないものを作ってしまったが、スピノザがデカルトを論じると、既存の信仰を相手にせず、存在が証明されてしまっている状態になる、とでもいうように。國分氏スピノザ論第三章朝の読書終わり。

(読書メモ)スピノザの言説をデカルトの「解決」として読む國分氏。デカルトが存在を証明する必要があったのは、デカルト自身が言うように、不純な神観念が先行したからだ。既存の神観念から存在を証明する。それが明らかなのは、デカルトを論じたスピノザがそれを回避したからだ、という超越論。

(読書メモ)だいたい、あらゆる矛盾は存在を証明しようとしたところからはじまる。デカルトは証明が必要な理由を神と言明するが(デカルトはコギトの神による保証という)、スピノザはコギトとしか言明しない。それがスピノザによるデカルト論だという。國分第三章、追加メモ、終わり。

國分スピノザ論よんでると、しかしまあなんで近代人は存在を証明対象と強迫するようになっちゃんたんだろうねー、と感慨深くなるわ。自分の存在が不確かだとか、存在から証明しなければならないから、というのはスピノザによるデカルト論では、どうみても誤謬に思えてしまうから凄い。

さて第三章http://www.sunamajiri.com/blog/diary.cgi?no=190 が味わい深かった國分スピノザの方法、第四章は、スピノザによるデカルトの再体系化の実論証。デカルト『諸根拠』を論じたスピノザが、何(表象)をどう再体系化(脱表象論化?)しデカルトをどう解決し(乗り越えた)のか? 歯ごたえありすぎw