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「神」を禁句にしたのはスピノザか?

2012.04.16

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國分「スピノザの方法」読書メモ

ツイートまとめ:

2012年04月15日(日)

RT 攝津正@femmelets: デカルトの直観主義、それを批判するライプニッツの形式主義。では、スピノザの「幾何学的方法」はどう位置づくのだろうか。スピノザはコギトから出発せず「神から始める」が、それは可能なのだろうか。

國分氏によるとスピノザはデカルト『諸根拠』をcogitoではなくsumから始めるから明晰さと説得を不要にしたということらしい、@femmelets では、スピノザの「幾何学的方法」はどう位置づくのだろうか。スピノザはコギトから出発せず「神から始める」が、それは可能なのだろうか。
posted at 14:24:52

そのエチカに至る道でスピノザは『デカルトの哲学原理』で、『省察』の第二反論への答弁の『幾何学的様式~諸根拠』で、デカルトにとって(?)自明でないsumを、自明的に扱ったと、国分氏は立論してるのかな? sum=自己存在だけを基準に再体系化するという話のようで。@femmelets
posted at 14:35:15

読了してませんが、スピノザは実体に触れてないように読めました。RT @femmelets デカルトにおいてsum, existoは「考える」「疑う」思惟と分離できなかったのに対し、スピノザの実体が「ある」というのは違うでしょうね。実体の存在が自明かどうか分かりませんが。
posted at 14:44:32

RT 攝津正@femmelets: デカルトの19-20世紀ヴァージョンがフッサールでしょうが、主要な違いは、デカルトは多産な自然学をもたらしたがフッサールはそうではないという点でしょうね。そしてスピノザとハイデガーの対比はより困難です。ハイデガーの哲学史はスピノザにほとんど触れません。
posted at 17:07:14

そう聞くと、ハイデガーの存在なる言い方は、益々何らかな撞着みたいにきこえる。RT @femmelets
posted at 17:10:06

RT 攝津正@femmelets: 木村敏が文芸批評家(マイナーな人です)に反論して、テキストに即して、ハイデガーにおいては存在は超越的である(存在者に対して超越であるという意味です)といっていましたが、もし彼が正しければ、スピノザの神・自然・実体とは違うということでしょうね。
posted at 18:02:41

RT 攝津正@femmelets: 仮に存在を実体、存在者を様態に対応させようとしても、私の理解、記憶が正しければスピノザの実体は様態を離れて自存するものでも超越的なものでもなかったはずです。そういう意味でハイデガーの存在論はスピノザとは異質なのではないでしょうか。
posted at 18:02:56

実体vs非実体、人vs神、自己vs他者という術語をどう駆使しても何か正反対な気がしますね~RT @femmelets 木村敏が~、ハイデガーにおいては存在は超越的である(存在者に対して超越であるという意味です)~が、もし彼が正しければ、スピノザの神・自然・実体とは違うということ~
posted at 20:17:13

そう思えます。RT @femmelets 仮に存在を実体、存在者を様態に対応させようとしても、私の理解、記憶が正しければスピノザの実体は様態を離れて自存するものでも超越的なものでもなかったはずです。そういう意味でハイデガーの存在論はスピノザとは異質なのではないでしょうか。
posted at 20:18:19

なんでスピノザからフッサールとハイデガーに話が飛んだのかと思ったんですが、そこですか(^-^)/ @femmelets QT: ~でも現象学が具体的現実や「事象そのもの」への復帰にみえたのだろうと推測することはできます。本当にそうだったのかは非常に疑問ですが。
posted at 21:51:37

デカルト→フッサール、ハイデガー→スピノザという話ですが、國分によるとスピノザの疑問は、デカルトの観念が「表象であること」に向かっているのだそうで、デカルトを捉える読解枠がスピノザのそれと反対なだけに思えてくる。(^-^)/ RT @femmelets ただ、フッサールのように
posted at 22:30:49

注釈すると、國分氏の問題にした「自明」というのは、デカルト「省察」の「諸根拠」のテクストにとっては自明なという意味で、それと國分氏のいうデカルトのスピノザによる解決が自明な実体を指すのかは読了してないので分からないです。多分違うと思います。@femmelets 実体の存在が自明か
posted at 22:38:26

2012年04月16日(月)

RT 攝津正@femmelets: 國分功一郎さんのスピノザ論は読まなければ分かりませんが、スピノザに限らず、表象=再現在化(再現前化) representation を批判する論理といっても様々あるから、一概にはいえません。表象は知性で把握されたものではなくイメージだという批判はありがち。
posted at 00:34:46

ぜひ読んでみて。このスピノザ論が困難とするなら、それはそれこそ一概に言っても意味ないことなんです、もはや体系化としか言いようがない。先ほどの自明は、デカルトにとっては自明でもスピノザにとっては自明でない、よってスピノザは再定式化した、という意味で論じられます@femmelets
posted at 00:35:52

スピノザはデカルトを批判して、神と一言も言わないように実体とも一言も言わない。ただデカルトの神証明に付随する要請(読者へのお願い)を全部削除して、デカルトの定義に基づいて、もっと正確に再定式化できるだろう、ということにしか興味が無いみたいです。@femmelets
posted at 00:41:42

RT 攝津正@femmelets: ただ17世紀独特の認識論、真理論があります。デカルトでは「明晰・判明な観念」、スピノザでは「十全な観念」であり、彼らにそれぞれ特有の定義があります。彼らの意見では、知性が観念を形成したらそれはもう表象知ではないということですが、そうなのでしょうかね。
posted at 00:48:35

圧倒的な差異があるみたいですね。國分氏は「観念の原因を実在に求めない」と「観念と実在の因果関係、つまりアプリオリな神存在証明では説得されないというデカルトの執着に徹底して無関心になること」と第二部総括に書いてますね。分かることが分かるとはそういうことらしい。@femmelets
posted at 00:54:54

RT 攝津正@femmelets: 明晰・判明な(または「十全な」)観念を知性が形成することと真偽性や存在・実在は別なのではないかと思うのが普通ではないかと思いますが、どうでしょうかね。
posted at 01:07:15

國分によると、デカルトのような「神によって明晰判明な観念の正しさを保証する」ということをスピノザは回避しようとしている、らしいですね。@femmelets 明晰・判明な(または「十全な」)観念を知性が形成することと真偽性や存在・実在は別なのではないかと思うのが普通ではないかと~
posted at 01:10:30

よって暴論すると、デカルトの観念が神という表象に保証されていただけと仮定するなら、確かにそれ(神)抜きでスピノザが、コギト命題から再体系化したいという気持ちはわからんでもない。どの実在も神というフィルターで見えていただけで、自然が見えてたわけではないのね、とかいう話(^-^)/
posted at 01:23:34

人VS自然(=神)という対立項を読解枠にすると意外と見えづらいのだが、神VS自然という、ごく平たい対立項で読むと、たとえ実在に原因のある表象であれ、明晰判明さであれ、無限遡行の回避であれ、それほど修行が必要な悟りには思えなくなる。(^-^)/
posted at 01:26:31

哲学プロパーでないのが幸いだから平たく言うと、神という用語を禁句にした現代哲学は、哲学の不可能性でしかない、とかそういう話しにも見える。いいのよ神だ神だっていっておけば、減るものじゃないしww (^-^)/
posted at 01:32:41

なんで関心があるかというと、哲学という学科のない高校生に大学にはない国語という学科のゲームのルールを教える時、神という用語ほど読解枠として不可欠なものはないからなんだが。それを隠蔽するとたぶん正解はヤブの中になる。だからといって神が何かは勿論問うてはいない。
posted at 01:34:40

したがって、もし現代哲学が、スピノザが言うように、神に保証を求めたデカルトの誤読で「神」という術語を禁忌にしただけの言説とするなら、それはそれで面白い文学として読めるな、というだけの話ではある。
posted at 01:37:50

スピノザにとって自明でないのは、デカルトの身体だけではなく(デカルトは心身二元論で心を自明としてわざわざ定理化しない)、心も自明でないがために、定理化を行う、というページを引用してみます。http://t.co/SVb55rJm @femmelets
posted at 03:16:46