http://www.trend-review.net/blog/2012/02/002206.html
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の匿名ブログをめぐるツイートまとめ日記です。(^-^)/
しかしこれ面白いね。ガリレオも地動説をラテン語で書いてればよかったのか。国語(俗語)で書いたから処刑されたのね。国語は死刑ね。(^-^)/ 近代科学の成立過程18~十六世紀ヨーロッパの言語革命はキリスト教と金貸しの共認闘争だった http://t.co/C1nf9zq3
ラテン語カーストの外部である俗語に翻訳された知識は、意外とそのあたりの経緯を隠蔽してしまうのね。国語(俗語)への翻訳が隠蔽するのは支配関係ね。実際、翻訳者はラテン語では自明の観念を俗語化させない。そのままでは国語は支配を隠蔽するから、国語教育はそれを暴露しようとするもののようね。
ニュートン(遠隔作用説)もデカルトの近接作用説(機械論)も、人が自然を支配するというアーリア特有の自然略奪思想で近代に固有ではないという話。→魔術から近代科学へ1 ギリシア自然哲学も近代科学も、略奪集団による自然支配のパラダイムにある http://t.co/sPfjmT3g
弁証法すると、魔術(遠隔作用説)が科学(機械論)となるのが、近代に固有と錯覚するのは、ギリシャ哲学と中世を切断する(従来の)読みによる。ギリシャ哲学をアーリア固有の自然支配思想として読むことで科学的近代は相対化される、という話のようね→ http://t.co/sPfjmT3g
http://bit.ly/yv9YV2 となるとやはり、キリスト教神学がギリシャをアーリアと切断できたのはなぜかという関心に戻るわけだが、この2つの切断によって近代が「魔術的」に形成された、と仮定するのが早そうね。
フロイト以降の現代思想ってドゥールーズにしても何にしても結局性感帯論にしか見えないんだけど、占星術もそうだったのね→ 「星座と性感帯に相関関係がある」とTwitterで話題! あなたはどこかな~? – ロケットニュース http://t.co/bWShNWFZ
https://t.co/Jk6yueFQ の循環論法からいくと、現代思想が性感帯論(魔術?)https://t.co/MkLxSvwv に回帰するのも、わからないではないなー(^-^)/
ノマドという話題が流行ってるが、在野https://t.co/AyHAOxds とかじゃないとマトモな視点を持てないというのも凄いわな。東大話法ではないが、アカデミズムでもメディアでも何かに帰属した瞬間、単なる属国の言説になってしまう。非支配国というのをひしひしと痛感しちゃうね。
CIAが大衆という無意識を支配するためと公言http://bit.ly/x7tIiV するSNSが、日本では政治的自由の装置と思えてしまう被支配。(^-^)/ #BLOGOS 「一般意志2.0」が橋下市長の“独裁”を止める?http://t.co/acFONNAA
ええ、先程wikiで拝見しました、凄そうな方ですね。西欧だとそれこそ中世科学史は哲学的な観念で抽象化されウヤムヤにされると言って過言ではないですが、非西欧ならではのストレートさで、興味津々です。(^-^)/ @voyager9872 山本先生は全共闘委員長です。歴史上の人物
「キリスト教に代わって、私権拡大を正当化する近代思想(自由・個人・民主主義)が作り出された。実際、中世の教会は大衆が書物を読むことを警戒したが、15世紀以降は逆に大衆に書物を読ませ、金貸しの市場拡大に都合のよい恋愛観念や近代思想で洗脳した」http://t.co/nleXAdi3
http://bit.ly/yv9YV2 で紹介したブログが、一つ重要なキーワードを排除(無意識的な除外)してると思って山本義隆氏の本文にあたったら、予想通り「擬人」だった。西欧のあらゆる論点は擬人の有無を観念化しただけだから。 twitpic.com/8toe72
山本義隆氏の科学史は、唯物論史観(唯物とは文献に書かれたものだけという意味)ですら観念論に陥る西欧ではある種不可能な言説。全共闘委員長で在野だからこそ、観念論を相対化する史観になってるのだろう。アマゾンレビューにあったが英訳こそすべき。西欧でベストセラーになるよこれ。
近代=科学は、擬人法だけが論点だった西欧にしか生まれなかった。しかしそれがどのように生まれたかは観念論的にしか語られない。現代思想ですらそうだ。面白いのは非西欧の日本では擬人法は非観念的な文化(擬人化)になり、非アカデミズムの山本義隆氏は非観念的に科学史を明らかにしている。
http://twitpic.com/8tjuu2 アマゾンレビューのとおり英訳すべき。西欧社会ではベストセラーになりかねない。それと全共闘委員長という出自を重ねるのは本人が望まないらしいが、非西欧の実践が日本ではアカデミズムの外部でしかなされない、という点に尽きるのだろう。