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寄ってたかって「分からない」を捏造する寄生虫たち

2012.07.27

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2012年07月27日(金)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120727


日本では偏向報道が最大の問題だが、これhttps://t.co/GYg3MN12 を報道するロイターを買収する前のトムソンの日本支社長として言わせてもらえば、その頃お雇いCEOなどいなかった。ビジネススクールの餌食にするための論調作りはよくないよ。

posted at 17:55:55

それは疑問だ、FBがどうのというより一般論としてCEOが骨までしゃぶると、何も残らなくなる。舵取りなんて任せなくて良い(^-^)/ RT: コラム:フェイスブックには新たなCEOが必要 http://t.co/8D9F13bU

posted at 17:47:41

RT @Roseate_Rosy: 報道されない真実ってやつですね。マスコミは自分たちの伝えたいことを伝えたいようにしか報道しない  RT @futoshi_chuo: 石垣市民の有志でつくる「沖縄の平和を守る県民の会」オスプレイ配備歓迎!これ、報道して! http://t.co/Yg99Fhao

posted at 17:41:56

子供たちはほんとにかわいい。世の中の少子化というのも、この実親が子供に分からせられない何か、という幻想がプレッシャーになって、親になりたがらない人が続出したからに過ぎないが、子供たちをみていると、ほんとに子供ほしいと思ってしまう。(^-^)/

posted at 17:21:45

この、実親では子供に「分からせられない」何か、というのがいわゆる近代性の本体なのだと思うのだけれど、逆説すれば、そんなものを分かったところで、何かが分かったことになるのかと、反抗期という概念が消滅した最近の子供たちを見ながら、考え込んでしまうのだ。(^-^)/

posted at 17:19:20

確かに教育、つまり「分からせる」というのは、人海戦術だから、利権になりやすいんだろうけど、学校だから、大手予備校だから分からせられる、というのはちっとも実践的=リアルに聴こえない。くしくも東電の社長が大手予備校の創業一族らしいが、念頭にあるのは利権だけなんだろうな。

posted at 17:09:31

うちの弱小塾が、周りの大手塾から営業妨害の嫌がらせを受けるらしいのだが、その言い分が、お前に教育する権能はない、という風情なのよね。それじゃ予備校が公教育に代って教育する権能があるのかしらね? それどころか親に代わって公教育っていうのは、一体どういう了見の権能なのかしらね?

posted at 17:01:49

RT @Novalis_bot: 子ども(主観)には、信仰を持つこと―行動を引き起こす原理(客観)の絶対的な受容―が期待される。 『一般草稿』

posted at 17:00:43

それにしても、世の中のあらゆる利権の原型モデルって、どうやら誰が実親に代わって子供を教育するか、という教育覇権の競争原理が原型なのよね。そのためにあらゆる自己正当化や言い訳で、利権が生み出されるのよね。教育という近代的行為が諸悪の根源の気がするな(^-^)/

posted at 16:54:25

月末だからお小遣いがたらないというのに・・・。お小遣いがないのが、一番機嫌悪くなるよー私。どっかのお小遣いくれるCEOをパパにしたいわねーwww(^-^)/

posted at 10:23:52

なんだ、せっかく美容院とエステにいって、のんびりしようとおもったのだが、週明けまであんまりお小遣いないわねー。美容院の予約キャンセルしようかなー。お小遣いつかえないから、月末まで家篭りしようかしら?(^-^)/

posted at 10:18:04

大手の予備校がPTAを使って、消費者センターにクレームをいう嫌がらせとか、してるんだろうな。塾業界って陰湿そう。かかわりたくないww たとえ他の業者の嫌がらせでなくても、モンスター親とかがやりそうだしなー。(^-^)/

posted at 10:14:28

というのは、うちの塾は、周りの学生が教える大手予備校より、月謝が安いらしいのだが、それでもペイするのは、新規営業を拡大するからのようで、それが強引に写って嫌がらせを受け、消費者センターが圧力かけてきたらしく、営業部長が解雇されてしまったそうで、やばいんじゃないの?って訊いた。

posted at 10:12:24

CEOといえば、うちの塾を買収した社長に今電話した。給与振込みがおくれてるからなんだが。25日支払いが今月は月末になるそうだ。なので経営大丈夫なんでしょうねー?ってまくし立てちゃったww(^-^)/ 

posted at 10:08:15

そうそう創業家族経営でない雇われCEOは首になるからいいけどねーw とにかく妙なCEOを雇った大企業は、製品がどんどんだめになるのは、もう歴史が証明してる気がする。 @mimi_smpc000 評価はパフォーマンスベース:期待される「目に見える」アウトプットがないとCEOもクビw

posted at 10:06:23

RT @nakazawa_quotes: 日本人の労働観の根底にあるのは、自然の中に入って行って、そこから富を取り出してくるというか、いただいてくる技術者だという誇りですよね。そういう日本人の自然観に根ざした環境政党をつくりだすことが大事なんだと思います。~『日本の文脈』

posted at 09:46:38

そうそう、学問としては、資本の永久運動を幻想する方は、あまり高級ではないし、おもしろくないからねww   @mimi_smpc000 勿論資本主義社会前提で考えると「使える」のは高給(=要するに需要が高い)職業かもしれないけど 学問として考えれば結局は自分の好きな勉強が一番。

posted at 09:45:27

もともと会計屋に経営権を譲渡するという類のことは、文系がいわば理系に対して階級闘争したようなものだが、コンサルト屋はあくまでアウトソーシングで下請けに出せばいいだけの話。彼らに組織や製品についての創意工夫ができるわけではない。

posted at 09:43:38

経営効率のような分析というのは、それを持ち出すMBA出が、自分の給与だけを上げる効率を問題にしている場合が多いように、製品や組織の現場を、実体的に捉える経験値がないときに、数値の分析という言い訳を持ち出す。大抵小心者のデブが多いw

posted at 09:34:46

もっと使い物にならないのは文学部や哲学部だけど、その使い物になる、という価値観も疑わないとね。 @mimi_smpc000 一時は私もMBAにしようと思ったけど。。。ネコも杓子もだし。 でも一番使い物にならない学部は心理学。あれは大抵ソーシャルワーカーぐらいにしかなれない。

posted at 09:33:39

そういえば、去年、理系が体たらくだから原発事故になるって話に、文系の経営者がだめにした、とマイミクから反論されたのだけど、じつは私も同意見。MBA出のような連中は数字だけで掌握するのだが、それはほとんどの場合、現場と渡り合えないために、苦し紛れで持ち出す言い訳に過ぎない。

posted at 09:28:12

文理という実学的対立の限界。

2012.06.20

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理系嫌いになりそうだが、そういう訳にも行かない。


2012年06月20日(水)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120620/asc

それにしても、読解や哲学をこう考えたら?という言い方に、毎回突っかかってくるのが日本では理系の石頭だ、というのが解せないな。彼らには、文や比喩や哲学が原理に触れているはずがない、という強い思い込みがあるとしか考えられない。つまり頭が硬い。こういう理系がどうしても日本的に見える。
posted at 02:29:27

文の読解は、たとえ最極端のスピノザの幾何学的定理のような書き方であっても、躓くと痛い目にあうのだが、その理系の方々は、それに本当に躓いてくれる。たとえば、文中に神とあったら、そんなものがあるはずがないと、いきなり実体化して読んでしまう。つまり存在論に躓くらしい。
posted at 02:34:05

この存在論が、言語の主述による表現に固有の形式だ、ということが通じない人達がいるというお話だ。言語は比喩や遊びであり、従ってどんな原理も表していないはずだというのは、カッコに入れるエポケー(判断停止)に相当しているはずだが、毎回突っかかってくる理系の人達は、文を真面目に読まない。
posted at 02:38:49

難しい言い方をしたが、文は関係性だ ということなのだが、頭が硬いと、一々「人間って何ですか?神って何ですか?」と自問して、答えが得られない文章など無意味だ、と躓いてしまうということ。それが経験上、日本ではなぜか理系に多いという話。
posted at 02:44:43

昨日、文学や哲学のネチネチした話題をツイッターからMIXIに転送するのは不快だ、と突っかかってきたマイミクさんも、どうも文章など全てナンセンスで読むに値しない、と高をくくっているようなのだ。しかしこれは職業柄、見過ごせない。
posted at 02:53:25

読解塾で一番手を焼くのが、文など無意味だと言って、文に躓く生徒で、特に理系の男子に目立つ。一々、文中の概念と自分のプライドの背くらべになり、文中の対比が読めなくなってしまう。
posted at 02:57:07

そういう生徒にどう分からせるか、というのをツイートしているだけなのだが、そのマイミクさんを逆なでしてしまうらしい。
posted at 02:58:37

こういう風に、毎回躓いてくれるのが、みんな理系というのは、多分偶然ではない。言葉は無意味なはずだ、と高をくくっている。まあだから日本では理系に行くのかもしれないが、民生品でも原発でも官僚並みに頭が硬そうだ。
posted at 03:06:31

そのマイミクさんが、震災直後、原発がああなったのは理系が頭が固いのではなく、文系の経営者の創意工夫がたらないからだ、と反論していたのだが、どうしてこれほど日本では理系文系という訳の分からない分断の仕方が定着してしまったんだろう。それが日本の限界に見える。
posted at 03:09:32

幾何学(順序)の時間化から脱構築へ

2012.06.18

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幾何学(順序)の時間化から脱構築へ
http://www.sunamajiri.com/blog/diary.cgi?no=234

デリダが脱構築するハイデガー的な時間は、もちろんフッサール的な内部時間だが、フッサールの省察を読むと、内部時間とは、スピノザがエチカ定理8までに終わらせた神を括弧に入れる証明の順序と大差なく見える。

2012年06月16日(土)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120616

フッサール省察第十三節超訳。思っている我を問わないデカルト的省察からの拡張は、我=主観性を研究対象に転換し、そのことで超越論的主観性の間主観性をも対象とでき、独我論を回避できる。
posted at 19:05:51

同十四節超訳。思う=意識なら、何を思うのかを問える。デカルトは思う対象を問わずに、思っている我だけを述定した。しかし、我が思われるよりも前から世界が信憑されているように、思っている我より、意識の対象を問うこと。志向性の地平化。
posted at 19:07:32

感想。スピノザによれば、デカルトは神を対象にするために我を置いている。つまり神を思う故に我あり。このように、デカルトは神しか思っていないから、思う対象を問わずに、思っている我を述定してしまった。フッサールは、我が思っているということより、何を思っているのかを、志向性と呼ぶ。
posted at 19:15:40

イデーンをデカルト的と反省する省察第十五節長くても超訳。自然的態度では世界存在が前提され、思っていることを問えないが、世界存在をエポケーすれば、先入観を免れて、思っていることを対象に思うこと=記述できる。それは自我分裂ではなく、同じ対象をめぐる自然的ではない超越論的態度だ。
posted at 20:17:34


2012年06月17日(日)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120617

フッサール省察第十六節の超訳。何かを思っているという意識の志向性を考えずに、感覚与件から心理学をすると、形態(ゲシュタルト)を先行する全体とする先入観に陥るが、先行するのはあくまでもデカルト的な思っている我であり、それを前提に心的内容も記述しなければならない。
posted at 18:54:02

フッサール省察第十七節の超訳。我が思う何かと何かを結びつける綜合こそ意識に固有とする哲学的方法(現象学)では、意識は何を知覚するかという心理主義を脱して、それと平行した想起などの直観も、我が思う何か(志向対象)として記述する綜合=意識の述定となる。
posted at 19:31:55

2012年06月18日(月)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120618

フッサール省察第18節。綜合としての内的時間。スピノザが原因を幾何学した綜合的証明手続きをフッサールは反省される内的時間と名付けてるだけね。我に遡行する内的時間以外は疑いの余地のある無限遡行ってスピノザの定理8迄の趣旨と大差なしね。 http://t.co/Jpytczbe

http://t.co/Jpytczbe - まるで、スピノザは定理8以降、原因をいわばエポケーするのだが、そうした幾何学的遡行を、フッサールは時間性として、外部の時間性に対する内的時間と名付けてるだけね。それによって、思っている我に遡行するという。
posted at 18:42:16

フッサール省察第18節の超訳。物を同一や他や矛盾と捉えるのは意識による綜合であり、意識もそれによって統一されるが、その思う(意識)が対象によって時間的に発生するなら無限遡行となる。よって、普遍的な全体を常に前提して「我がそれだけで存在する」という内部時間が見出される。
posted at 18:47:43

フッサールの内部時間って、スピノザの定理8までの幾何学的証明手続きの代替にしかみえない。ただしそれを順序ではなく時間性と言い換えた。抽象化かもしれない。
posted at 19:00:22

國分氏の結論http://t.co/WKHxYfS1 だと、スピノザはエチカ定理8以降、いわば神を括弧にいれてしまう。フッサールは、同じ無限遡行の問題を外部時間に対する内部時間として、括弧に入れるみたいなんだけど、フッサールはスピノザのように本当に我に遡行できているのかが問題だ。
posted at 19:08:10

このhttp://t.co/WKHxYfS1 國分さんの総括にある「しかるべき順序で導出するためにはまず神の観念」に「名目的に」「到達」すれば、他のものが実在化するというのは、読解の授業で、まず神という名目を踏まえさせると、文が自動的に読めるようになるというのと完全に同じ。
posted at 19:29:06

http://t.co/WKHxYfS1 國分氏の立論では、デカルトは神という観念に到達するために、つまり神を思うために我を命題化したが、到達していない。しかしスピノザは名目的神を実在性と証明することで、定理9以降、神を括弧にいれて、我を語り始めてしまう。それが順序という概念。
posted at 19:31:50

そのスピノザの神を括弧に入れて我に遡行する(我が神以外を思えるように自動化する)順序を、フッサールhttp://t.co/Jpytczbe は神という名目を禁忌にしながら、内部時間や現出と抽象化していってしまう。もちろんその後デリダが脱構築するわけだが。大した問題に思えない。
posted at 19:33:32

フッサールの内部時間を、ハイデガーは時間と言い換えるのだろうが、そうした現出(神という名目により物が実在的に思えるようになること)は、脱構築が可能にしか見えない。
posted at 19:35:01

なので、國分さんは、証明手続きの総括http://t.co/WKHxYfS1 で、「出発点に到達するために出発するという(西欧哲学)の矛盾は(すべて)解決されている」と述定したことになるように、見える。つまりスピノザは決定論という「通用の仕方」は、誤読に見える。
posted at 19:38:29

・・・ということで、QED(証明終わり)ならぬ、脱構築ほぼ終了。外部時間にもどる(^-^)/
posted at 19:40:16

スピノザの自動性からエポケーのタルムード化まで

2012.06.14

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自動化する自由という話

國分氏がスピノザから取り出す(指導の)自動性。17世紀の「先行する実体=欺く神」という証明が齎した主体性。証明のエポケーとしてのフッサールから、タルムードに回帰するレヴィナスの流行を批判するデリダまで。

先ほどhttp://www.sunamajiri.com/blog/diary.cgi?no=232 の続き。

2012年06月14日(木)

ふつう世間では、疑われたい疑われたいってキョドってる人って、それだけでうざがられるのよねー。それにしても日本語ってすごいね、キョドるの一言で西欧哲学の全容を表現してるものねー(^-^)/
posted at 17:16:24

私もたまーにブルースとかやってて、一分ぐらい寝てる時あるよー。自動化するよ。(^-^)/ @issop0730 今日はフルート吹きながら寝てしまったし、あほみたい。よく落とさなかったものだ
posted at 19:16:53

寝てそっちいっちゃたら困るけど、あっちいっちゃうのは自動化だからいいのよ。めざせ音楽の自動化(^-^)/ @issop0730 プロではないにせよ、演奏中に寝るやつっているか
posted at 19:17:51

そうそう、1~2分寝てても、ブルースが正確に自動化されてて、そういうのがイイ。ビートのある音楽だからできるので、クラシックでは真似しちゃダメよーww (^-^)/ @issop0730 そうでしたか、たまにある事だったのですね。自動化はいいですね(^^)
posted at 19:20:18

ほんとは自動化したほうがいいきもするけど、心こめろとか言われると自動化したくなるしwww (^-^)/ @issop0730 そうでしたか、クラシックは自動化に不向きと、φメモメモ
posted at 19:36:09

RT: 3.11を契機とし法治国家は解体され、「強制的同一性」という抑圧体系が樹立され、この社会はレミングの群れのように姿のない扇動者が破滅へと加速させている。~すでに我々はイデオロギーによって人間性を喪失しているのかもしれない。http://t.co/h3mCa60J
posted at 22:51:02

ちなみに國分氏が、デカルトの実在性の量(自我)と対置したのが、スピノザの(証明手続きの破棄による指導の)自動性だ。その対局がフッサールの(自動性の)留保と仮定して、本当に自動性は操られて、こういうファシズムの原因になるのだろうか? http://t.co/h3mCa60J
posted at 23:14:26

さっきの纏めでは、疑われるから自動性への道が生まれる、という話になっていた。「疑われ」が先にあると、実在性の量で説得するか、無視して自動化するかしかない。つまり、自動性と操る主体は単に別人というだけではないか?
posted at 23:14:51

そもそも、疑うのは、そういう操る主体を対象にした疑いだ。それ以外に具体的に疑うものがあるわけではない。自動性は疑いによって齎されているものの、それが操られる原因というのは、循環論だ。つまり自動化させるイデオロギーが操られる原因とは思えない。
posted at 23:15:16

実際の自動性https://t.co/YMIi3Ls9 は、中沢新一氏がいうようにhttps://t.co/FN0WLL3t イデオロギーというより音楽で、操られて気分を害したら、ただ音楽の自動性がストップする、というだけに思える。それでも操られるのだろうか?
posted at 23:34:27

RT @nakazawa_quotes: 「神」とよばれるその知性体は、音楽という言葉の構造をこえた構造をとおしてはじめて、ぼくたちの生きる知覚と感情の世界に、巨大なそのすがたの一端を浮上させる。~『バルセロナ、秘数3』
posted at 19:46:45

自動化が自由意志と反対なのではなく、自動化する自由がある、とかそんな具合に見える。マインドコントロールのように操作されることと、自動化を同一視することこそ、何らかな論理操作に見える。
posted at 23:45:49


2012年06月15日(金)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120615

どうも体調がすぐれず寝床にいるとRT連投してしまう。TLは、やはり世界の非常識の日本の原発ね。下級官吏のような修身安定に憑かれた社会主義人間だらけだから、日本だけやめられないんでしょ。やめられないのは理性ではなく、貧乏根性よ。あそこの社員は死んだ魚のような表情じゃない?
posted at 06:50:27

理性というのは、明日はどうなるかわからない、ということに対処する能力なのに、それが怖くて、家族の安定や保身だけに走る社会主義人間は、単なる本能的な動物。ああいうものを人間扱いしてはだめ。私は徹底的にああいう安定志向の人間はいじめる。(^-^)/
posted at 06:53:16

夜半 https://t.co/YMIi3Ls9 の続き。そもそもデカルトが省察するとおり、我が疑われるのは、欺く神(操やつる神)によってであって、スピノザのような欺かない神は疑いもしない。にも拘らず無神論者は、無際限に操られていると疑うのだ。もちろんそこに理性があるのではない。
posted at 07:18:59

理性を失わせる安定志向や、諸々の社会主義的な国有化が今や妄想に見えてきているように、無神論者の論理操作https://t.co/BaaF6NWl は、単なる詐術だろう。無限の疑い(欺く悪霊)があってこその問いだ、ということを判断留保できるわけではない。
posted at 07:39:38

いわゆる17世紀の問題を、一文に纏めれば、先行する実体は欺く神だった、という普遍論争の解決だったのだろう。実体という先行するものは単に欺く神(無際限に我が疑われること)だというのが、彼らの存在証明だ。フッサールも言うようにそれをエポケーできるわけではない。
posted at 07:46:05

私は無神論という安易な逃避は誤謬だと思っていて、好き嫌いで言うと嫌いなのだが、マルクスの存在論でさえ、無神論と誤解できないと、なんとなく感じていた。安定志向の制度化のようになった社会主義的なものが、いま非理性的な様相に見えるのも、そういう直感からのように思える。
posted at 07:50:35

RT @femmelets: 残念なことですが、私は、絶対的で徹底した無神論者です。 @sunamajiri 私は無神論という安易な逃避は誤謬だと思っていて
posted at 08:00:49

RT @femmelets: 私が完全且つ執拗に否定し続けるのは、神だけではなく、神のように見え、神の代理をするありとあらゆるもの、エコロジストにとっての自然、マルクス主義者にとっての歴史、プロレタリアートなど、一切合切全部です。 @sunamajiri
posted at 08:00:54

そうですね、でも徹底は悪いことではないと思う。無神論も必要なのです、徹底しているならば。@femmelets 残念なことですが、私は、絶対的で徹底した無神論者です。 @sunamajiri 私は無神論という安易な逃避は誤謬だと思っていて
posted at 08:01:36

RT @femmelets: 神を残酷に否定する幾通りもの、無数で無限の方法が存在します。つまり、とんでもない帰結を徹底的に推し進めてみるのだ、ということですが、そうしますと、一切の救いや慰めなどがなくなります。非常に荒廃し荒涼としたワールドです。そこには見棄てられた人々が住まいます。 @sunamajiri
posted at 08:05:23

RT @femmelets: 徹底した無神論は、端的に存在しますよ。 RT @sunamajiri: そうですね、でも徹底は悪いことではないと思う。無神論も必要なのです、徹底しているならば。
posted at 08:08:34

いや、たぶん私はそれほど端的にはなれないにせよ、無神論者と大差ないとおもいますよ。多くの日本人と同様、信仰があるわけでもないし。なのであるのは、徹底や端的さと、そうではないという差異のようなものなのでしょう。@femmelets 徹底した無神論は、端的に存在しますよ。
posted at 08:08:29

RT @femmelets: 大多数の日本人は、キリスト教徒でもイスラム教徒でもない、一神教を信じていないという意味で無神論者でしょうが、仏教、神道、儒教、道教、民間信仰などはどうでしょうか。それから、あからさまに宗教の貌をしたものだけではありませんよね。自己啓発セミナーとか。 @sunamajiri
posted at 08:12:42

同感です。たとえば、中沢新一にたまたま昨夜触れましたが、あの頃のニューアカとかそういうのは、オウムと同じに見えていたほどですから。しかしオウムより、本物の官僚や東電の悪辣なのが3.11でばれた。本当に、為す術がないのでしょうか?(^-^)/ @femmelets
posted at 08:15:28

RT @femmelets: 3.11以降ばれたことは、世俗的なシステムの問題と看做すべきでしょう。政・官・財の鉄の三角形プラス御用学者連中、「原子力ムラ」の権力支配、ということですが、それは世俗的、経験的、唯物的になくすしかないものです。 @sunamajiri
posted at 08:18:22

その世俗で、安定志向や、民間なのに官僚並みの終身雇用や年金や、そんなものを機械的に欲望するだけになってしまい、遂ににっちもさっちもいかなくなっている、その急先鋒が世界の中での今の日本というのが、なんともやりきれない。@femmelets
posted at 08:20:48

RT @femmelets: @sunamajiri お気持ちは分かりますが、そこから出てくるのは、「辛うじて成り立っているちょっとした総体的安定もぶっ壊す」というような結論です。東京電力の社員連中が無意味に威張っている、経営陣がまるで責任を取らないのは問題ですから、特権を剥奪し、責任を取らせるべきですが。
posted at 08:31:08

そういえば昨夕は、(日本の)ポストモダンの不甲斐なさ、にすこし接近https://t.co/OZb5Cy2e したのだけど、省察しそこなった(^-^)/ @femmelets
posted at 08:33:42

RT @femmelets: @sunamajiri ゆっくりお休みください。私が「社会主義」ととりあえず呼んだのは、信仰ではなく、世俗主義と合理主義の徹底であり、かつての「科学的(学問的)」社会主義の再興です。その意味で、私は、佐々木力に賛成です。彼はセクハラで罠に嵌められ、失脚、抹殺されましたが。
posted at 08:38:26

RT @femmelets: @sunamajiri 日本のポストモダンが不甲斐ないかどうかはともかく、思想の内実をまるで問わない商業主義だったことは確かで、それはレヴィナスの流行に看て取れます。レヴィナスはサルトルの先輩であり、フーコー、ドゥルーズ、デリダとは全く違いますよ。文脈が無視されたわけです。
posted at 08:46:27

RT @femmelets: レヴィナス流行が変なのは、ユダヤ教の文脈を外すことはできないはずなのに、エロス、愛撫、糧などなどの彼のカテゴリーが一見「具体的」、「現実的」だから爆発的に読まれた、ということで、『実存から実存者へ』だけの問題に切り縮められている。
posted at 08:58:49

RT @femmelets: 日本の知的流行、ファッション(衣裳)のおかしさは、カトリックの文脈からくる速度批判、テクノロジー批判を抜きにして、ポール・ヴィリリオを『速度と政治』だけで読み、評価、称賛、肯定、称揚するというような身振りにも表れている。
posted at 08:59:08

RT @femmelets: レヴィナスの「顔」の倫理はともかく、ヴィリリオの文章を総体的に読めば、過剰な速度、非人間的な速度は緩めるべきだし、近代テクノロジーは疑い抑制すべきだ、という意見になるはずではないのか。
posted at 08:59:12

RT @femmelets: デリダは『エクリチュールと差異』及び後期(『アデュー』でしたっけ?)で二度、レヴィナスを批判していますが、デリダの批判は、レヴィナスの非常に特殊、特異な哲学・倫理学だけではなく、ユダヤ思想そのものに向けられている印象です。 RT @sunamajiri: そういえばレヴィナスBO
posted at 09:05:20

RT @femmelets: @sunamajiri レヴィナスはフッサール、ハイデガーに非常に忠実な立場から出発して、誤解だと思いますが、ハイデガーを批判し、ユダヤ教・ユダヤ思想、タルムードなどの影響を濃厚に受けた倫理学を創りました。それはいいのですが、それはキリスト教思想以上に我々には疎遠なものでは?
posted at 10:03:53

あちらではユダヤ教はキリスト教の対ですが、日本はキリスト教がないために日ユ同祖論に逃げるような感じになる。@femmelets ハイデガーを批判し、ユダヤ教~タルムードなどの影響を濃厚に受けた倫理学を創りました。それはいいのですが、それはキリスト教思想以上に我々には疎遠なものでは?
posted at 10:37:56

ビビるデカルト、キョドる哲学

2012.06.14

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ビビるデカルト、キョドる哲学
http://www.sunamajiri.com/blog/diary.cgi?no=232
https://www.facebook.com/kaoru.ohmoto/posts/334992346578987

フッサール省察12節までの吟味から、ますますビビっているデカルトを感じてしまう。キョドるデカルト氏。画像は彼のお墓。


2012年06月13日(水)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120613

スピノザを國分流に「実体の放棄」と捉えた上で、フッサールの省察を読み進めると結構楽しめる。フッサールはデカルトが、疑いの余地のない前提として、超越論ではなく超越的(二元論的な)我思うを置いたというのだが、スピノザが相対化したように、それは思っている我=実体という等式のことだ。
posted at 17:54:51

デカルトが我=実体と定義したことになるのは、スピノザの再定式化によれば、実在性の量を省察=分析したからに過ぎない。神を実在性の量(リアリティー)とすると、実体は神ではなく、その対立項の「思っている我」の側に布置される。しかし等号で結ぶ鋭さは得られない。
posted at 17:57:55

それに対して、フッサールは、そうした実体の等式そのもの、つまり「疑いの余地のないこと=実体」を、「思っている我」と等号で結ぶ、という関係性を保留にしようとしているのだろう。
posted at 18:00:36

捕捉すると、フッサールによれば、デカルトが「思っている我」=「疑いの余地のないこと」=「実体」としたというのは、心身二元論でいう心の実体化、霊魂のようなものに、「閉ざす」ことなのだという。この霊魂、実体=心が、超越的な主観と呼ばれる。
posted at 18:05:11

では、フッサールは、エポケー(判断停止)を、「疑いの余地のないこと=実体」と等式で結ぼうとしているのだろうか? つまりエポケー=実体なのだろうか? おそらくデカルトと同様、等式で結ばないために、分析的な省察を行なっているのだろう。
posted at 18:09:55

通常、スピノザは様態(神を実体という本性にし、我を本質を表現する様態)にしたと見做される。この捉え方は、エポケー=実体ならぬ、エポケーで実体を隠す書き方=分析(超越論)で、やっと可能になっている。このように分析とは、実体との等式の留保のために与えられる言語だ。
posted at 18:16:27

では、國分功一郎氏が結論した、スピノザによる証明(実体)の放棄とは何なのだろう? おそらく、従来の超越論(分析)では取り出すことが困難だった何かだ。
posted at 18:24:30

スピノザは実在性から量を捨てることで、実体の証明を終結させる。つまり従来は、実体が量と等号で結ばれていたということだ。分析(超越論)やエポケーは、じつは量を実体と等式で結んでいる、ということなのだろうか?
posted at 18:25:32

余談だが、思考停止ならぬエポケーは、私達にはむしろ自然だ(もちろん、フッサールは自然を、デカルトのような、霊魂=実体、つまり実体のほうに置くのだが)。その自然的にエポケーな私達が、西欧文明に接触してまず獲得したのが、超越的な主観、つまり霊魂的な内心だったのも興味深い。
posted at 18:34:53

明治以降、内面を文学的に作ろうとして(日本近代文学)、現在の国語教育(現代文)では、それを読解させて、内面性の否定を合理性とする、というのも面白い話だ。
posted at 18:37:44

とにかく困ってしまうのは、デカルトが心を実体と等式で結ぶために、実在性の量(リアリティー)にされてしまった神という語彙が、明治になって日本語に流入してしまったことなのだ。そのために、内面が生霊のように実体化し、子供たちが読解できなくなる日本語が生まれたのだ。
posted at 18:43:01

彼らには等式は「疑いの余地のないこと=実体」なのだろうが、もちろん私達には「実体=疑うこと」(実体とか言うから疑いが生まれるんだろ)にしか見えてない、という、このなんとも厄介な話。だからみんな思考停止したり、自分の内面に閉ざされてしまうのかしら?(^-^)/
posted at 19:19:26

「疑いの余地のないこと=実体」というのは、だから実際にはどれだけ、という量になってしまい、原発をめぐっては、こんなhttps://t.co/SuZLUEGc あほな言い方が生まれるんだろうねー。
posted at 19:22:08


2012年06月14日(木)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120614

エチカ定義一原文。Per c a u s a m s u i intelligo id, cuius essentia involvit existentiam, sive id, cuius natura non potest concipi nisi existens.
posted at 03:18:02

エチカの原文サイト。http://t.co/rxSB0QCJ
posted at 03:22:53

エチカの英訳サイト。http://t.co/wNoX6JC5.
posted at 03:23:29

エチカの和訳(畠中訳を定訳にした)サイト。http://t.co/np0HexO2
posted at 03:25:00

英訳は140字で収まらないが、By that which is self-caused, I mean that of which the essence involves existence, or that of which~、より和訳のどこか直接的に見える。
posted at 03:26:56

ちなみに、河出の高桑訳は「自己原因とは~解する」ではなく、「自己原因によって私は、それの本質が、それの存在を含んでいるようなもの、もしくは、それの本性が、存在しつつあるものとしてしか考えられないようなもの、のことを理解する」と、英訳(独訳)からの直訳調に見える。
posted at 03:29:41

國分氏が定訳として使った畠中訳が「自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの、と解する。」
posted at 03:31:31

ん? 柄谷のNAMって攝津君の批判ぐらいでしか心得ていないのだけど、エチカと直結してるってこと?(^-^)/ @aoinatsunosora NAMか・・ RT @sunamajiri: エチカの和訳(畠中訳を定訳にした)サイト。http://t.co/rGgwYDYX
posted at 03:44:08

NAMは全然わからない。攝津君が憤怒してるなということぐらいしか。柄谷はhttp://t.co/NGFg5O1m の時点以降、最近まで読んでなかった。坂部さんはご近所さんで、どう柄谷がカントを正しくしたのか、質問しようと思ってたら他界してしまった。@aoinatsunosora
posted at 03:51:01

最近はWEB発信もするのよね(前からかなのだろうけど)、これhttp://t.co/iJAUSHMP は、数カ月前に読みました。(^-^)/ @aoinatsunosora 彼のサイトはたまに覗きますね。http://t.co/c3QJmh1D
posted at 03:57:15

日本語の西欧哲学用語ばかり読んでると、勘が鈍るのでたまには英文で。デカルト派的二元論では人間にしか心がないことになるが?といういつものアレ。Was Descartes a Cartesian? (デカルトはデカルト派だったか?)http://t.co/rnteyNvq
posted at 06:13:22

FBみたら攝津君が今朝はますます共同体の話にいってるみたい。そんなに人間と交わりたいのかなー。私は人間を遮断したいぐらいなのだが(死ぬ時ぐらい静かに一人になりたいじゃない?まだ死なないがw)、彼は遮断してるから交わりたくなるのかなー。私は人間よりうさぎさんと交流したい(^-^)/
posted at 06:34:40

昨日の攝津氏は、パスカルは神より職業選択の偶有性が面白いというのと、悲劇的でない現代文学に悲劇を探そうとした吉本隆明が複雑に交差してて、人との交流の糸口の話なのね、って思ってたのだが、まだ若いのよね。あれで孤独になる話ができたら本物というか面白いのに(^-^)/
posted at 06:41:49

たぶん柄谷行人のNAMというのも、べつにアソシエートするつもりがなかったのに、周りが集まってきちゃって、え?って感じだったのかなー、と勝手に想像してしまった。何とか村とかみたいよねアソシエーションって。(^-^)/
posted at 06:49:10

一人になるか、二人でいるか、それが問題だ。(^-^)/
posted at 06:49:21

RT @gendaibuntan: 人間と他の動物の違いっていろいろあるけれど、よく挙げられるのが「言語を使用する点」ね。最初は学習できる点が違うとか考えられていた時期もあったけれど、マウスだって学習することが研究によって分かってきた。だから、言語という「思考を成すもの」を他の動物との違いとするの。
posted at 16:01:46

現代文たんhttps://t.co/DWKi6BzA 私の昔の髪型ににてて、かわいい(^-^)/
posted at 16:02:41

フッサールの第二省察12節。私にだけ先立ってある我(主観)は、他人からは疑われる。デカルトの我は、疑われる我、絶対的でなく空疎な同一性だ。しかしそれを放棄すればいいのではない。
posted at 16:05:53

12節続き。確かに個別の経験には疑いの余地がある。しかし、自己経験も多様だ。それを経験の構造と素描できた時、自己経験が無限になり、アプリオリ(先立つ)規則を素描する学問になる。
posted at 16:08:17

感想。國分氏が指摘するようにスピノザが実体の論理構造の解決(神の描出による証明の破棄)なら、フッサールは、デカルトが描出しなかった(疑われる)我の論理構造を解決しようとしているかのようだ。
posted at 16:16:02

よくポストモダンに対する批判で、主体も心もないというのは他のもの(神?)により操られる決定論だ、というのがある。たしかにスピノザの仕事は、実体の論理構造の解決ではあるが、そのままでは単に倫理になる。それは疑われる我の解決ではあるが、勿論、フッサールはその先を考えなければならない。
posted at 16:20:14

どこまでも他人に疑われる(ているように思える)自分。まあ気持ちの持ちようよ、という話なのではあるが。そのために、フッサールは12節で、それ(明証)を、スピノザのように、方法論と名指している。
posted at 16:22:54

デカルトのままでは疑われる我で、デカルト主義者=操られない主体性のようにはなっていかないという話だが、これでは人間以外は心のない機械だという天動説に回帰してしまう。勿論在るのは心ではなくて言語だからだが、その言語は本質的には疑う他人がいないと、発せられそうもない。
posted at 16:48:56

このように人間であるための証明はw、疑う他人ありき、ということになるのだろう。当たり前だが、アプリオリというか先行するのは「疑う他人」でしかない。疑われているからこそ言語を発して、人間様になる。しかし、そういう偉そうな人間が、個人的には疑いの対象だったりする。(^-^)/
posted at 16:52:02

もちろん、この疑う他人を現実にはなかなか得られない、得難い懐疑論者、得難い先行者というのが、実際上問題になる。それで、疑う他人ほしさに、色々な言葉を発する人が出てきってしまう。しかしそれは病理に見える。
posted at 16:53:41

スピノザの知性改善論によれば(それによらずとも)、疑いこそ無限連鎖なわけだ。しかし、神が死んだように、じつはこの無限の疑いも、どこかに消えてしまったように見える。だから疑われたくて仕方がない人達、病人が出現してしまったのだろうか?
posted at 16:56:50

・・・以上、フッサールのデカルト的省察http://t.co/rrrRDwmW 第二省察12節までの、途中感想文でした(^-^)/
posted at 16:59:50

デカルトってなんかキョドってる(^-^)/
posted at 17:25:34

キョドってる人って嫌い、ばかみたいなんだもん(^-^)/
posted at 17:25:44

デカルトの場合、キョドるじゃなくて、びくついてるって感じなのが、すごいのかしら?(^-^)/
posted at 17:26:55

ふつう世間では、疑われたい疑われたいってキョドってる人って、それだけでうざがられるのよねー。それにしても日本語ってすごいね、キョドるの一言で西欧哲学の全容を表現してるものねー(^-^)/
posted at 17:16:24

RT @aoinatsunosora: @sunamajiri raison d'etreに煽られたんでしょうね。
posted at 17:32:16

なんか、びびりまくってるわよねーデカルト氏(^-^)/ @aoinatsunosora raison d'etreに煽られたんでしょうね。
posted at 17:32:43

FBのほうが読みやすいか。■ツイートまとめ■ビビるデカルト、キョドる哲学 https://t.co/eQnUd3AG フッサール省察12節までの吟味。疑うあなたが欲しい(^-^)/
posted at 19:02:04

デカルトの幽霊は怖いのか?

2012.06.14

ファイル 231-1.jpg

デカルトの幽霊は怖いのか?

フッサール省察の第一省察読了前後のツイートまとめです。デカルトの創りだした危険な二元論的な心、つまり幽霊は、そんなに怖いものなのだろうか?という話が中心でした。


2012年06月12日(火)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120612

RT @femmelets: 柄谷行人『「世界史の構造」を読む』(インスクリプト)、読了。柄谷は、政治、経済、社会、歴史の話をするのをもうやめ、「普遍宗教」とかいうくだらない妄想だけ語るべきだし、9.11に衝撃を受け、ゼロから考え直すためにNAMを解散しようとした、などという虚偽を撒き散らすべきではない。
posted at 09:27:58

それは、9.11の直後柄谷行人は数学に没頭していたし、その後の委員会では浅田彰、山城むつみと一緒になって「9.11はただの犯罪だ」という空疎な結論に到達した、という客観的な事実である。
posted at 10:34:15

RT @femmelets: ところが、柄谷行人や浅田彰は、9.11はただの犯罪だから、犯罪としてのみ処理すべきだし、暴力はよくないのだ、というような陳腐で空虚な意見に終始したのである。
posted at 10:34:55

RT @Chisaka_Kyoji: シェリングのついでに言うと、フィヒテとシェリングは個別の研究者以外では、カントとヘーゲルの通路のように見られがちかもしれないが、フィヒテの「非我」やシェリングの「無底」は、カントの先験的統覚やヘーゲルの絶対精神からすれば他者的な可能性を開いていることを見る必要があるだろう。
posted at 16:10:13

RT @Chisaka_Kyoji: テロ肯定論者はテロを行うこと、その是非を問う場合が多い。しかし、人間にとってはテロは行うものではなく、行われるものということだ。人間が実行犯となるテロは、いかなる理由であれ全否定されるべきだ。ベンヤミン風にいえば神的テロのみが肯定されるが、その場合、神性たる所以の神義論が必要だ。
posted at 16:19:41

ジャズもロック(スピリッツ)だぜい。うそうそ(^-^)/ RT @neajazz: もちろん僕の話している「ロック」は、スピリッツ(精神)の話ではなく、単純に音楽的な話です。スピリッツの話などし出したら、AKBだって長渕剛だってそれに「ロックを感じれば」ロックなんだから。
posted at 21:22:10

デカルトのように幾何学的公理にこだわって、思っている我を心(スピリッツ)のように実体化されるとえらいことになるわけだが、音楽もスピリッツになった時(音楽的に)つまらなくなるからなー。スピノザみたいに(自己)証明を破棄しなきゃだめよー(^-^)/
posted at 21:25:49

RT @neajazz: 大本さん「だぜい〜」とか、すげー似合わない笑
posted at 21:36:27

RT @heidegger_bot: ほとんどデカルトと同時に、パスカルは計算する理性の論理学に対して、心情の論理学を発見している。心情空間の内面と不可視性は、計算する表象行為の内面よりも内面、従ってより不可視的であるばかりか、それは同時に、単に作成しうるところの諸対象の領域よりも、さらに大きい…「乏しき時代の詩人」
posted at 22:34:19


2012年06月13日(水)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120613

おお、さすが鋭いですねー(^-^)/ @YoNakagawa わざわざ、楽しんでいる人もいる音楽に、もしもし、あなたミミないですね~なんて悲しいこと言うのが、音楽評論家の仕事ではないのです。
posted at 00:21:49

幽霊は二元論だから怖くないけど、宇宙人はほんとに草葉の陰からでてきそうで怖い((((;゚Д゚)))) @nakagawasun "こわい(・・;) RT「宇宙人に注意」 #自分のピクチャフォルダの中で一番意味が分からないものをうp http://t.co/Q0jOzEVV"RT
posted at 00:46:49

RT @nakagawasun: @sunamajiri あら(^^)。幽霊が二元論?(今のところ全然わかってないけど、おほほ)私は墓場は恐い方よ。
posted at 01:05:14

うん、改めてフッサール読んだら、デカルトは我思うって定義しようとして、身体とは別に心を霊魂にしちゃった(心身二元論)、あいつは困ったものだ、って書いてあったよー(^-^)/ @nakagawasun あら(^^)。幽霊が二元論?(今のところ全然わかってないけど、おほほ)
posted at 01:06:54

対立項が因果律(つまり存在ということ)をどう捉えてきたかは、意外と面白いねー。エポケーしてたから(実体=存在の哲学は)つまらないと思ってたんだが(^-^)/
posted at 01:39:11

デカルトの省察だと因果律の定理が不徹底になり、「思っている我」を実体化(霊魂)→二元化させてしまう。なのでスピノザの方法は、証明を破棄する証明をする平行論になる。フッサールは省察しなおして、証明自体の停止(エポケー)と世界を二元化させちゃう。みんな帳尻が合ってしまう。
posted at 01:44:43

RT @B_Pascal_jp: あまり早く読んでも、あまりゆっくりでも、何も解らない。§69 パスカル
posted at 02:00:14

RT @nakagawasun: @sunamajiri ワタシは、きっとこれから質問して教えていただきたいことがでてくるかもしれません、そのときは、どおぞよろしくぅ~。とりあえず、今、電池がすくなくなりまして。じゃ。
posted at 02:12:28

たいしたこと教えられないよー。因果律は歯が立たないもん(^-^)/ @nakagawasun
posted at 02:12:51

デカルトのようにすると、真心とか霊魂とか、そういう生霊みたいのがどんどん生み出されちゃうから、けっこう怖いよねー、って話でした(昨夜の話)(・_・;)
posted at 08:32:50

うん、あちらの哲学は、根本原因を汲みつくす言葉は書けるか?って話だからね、それができなくて、色んな物(化物)が飛び出すよー(^-^)/ @nakagawasun 因果律?電池があと20%
posted at 09:16:39

おお、解説本ではないから論述はめんどくさいとこありますが、解説文でないだけにあるポイントに達してて面白い本ですよー(^-^)/ @nakagawasun 「スピノザの方法」買ったんです。國分功一郎ってそんな若いとも知らなかったし、こうゆう人いるんだなあと思いまして。
posted at 12:56:22

國分さんがカルチャースクールで、一般向けにスピノザの方法講義をしてるみたいですよ。なんか毎回、感極まって泣く人がでるらしい。それだけ哲学を解決してるのかしら。あるつっかえが抜けるのは確かだと思います。@nakagawasun ありがとーございます~♪(^^)通信教育講座みたい~♪
posted at 13:54:59

RT @LitoSnowfield: 確かに…国分さんの“スピノザの方法”は頭の蓋が開くような感じはあるかもなぁ〜…(*uou)> ただ…私はそれを説明出来る程は理解していないので読込みは続くのでありますが…(^o^;)>
posted at 14:01:50

RT @nakagawasun: @sunamajiri それは現代文たんツイートで「現代の哲学は哲学そのものを問う哲学の懐疑ね、ウフッ♪」っていうアプローチなんですね?素朴に解らないのは、科学領域研究が高度にぶもんごとに細分化されるのはそうだろうな、と納得できて「哲学」が誰はハイデッガー、誰はプラトン、
posted at 14:15:34

RT @nakagawasun: @sunamajiri (西洋哲の場合)そうやって、一筋研究になるのが、解らないです。(長くなりました)すごく素朴に。
posted at 14:15:36

デカルトの情念VSスピノザの感情https://t.co/6x0wzS8p やヘーゲルの精神https://t.co/6yqoXdEz は國分本には出て来ません、その前提となる証明の破棄の話です。証明を破棄できないと情念や精神になるのでしょう。@nakagawasun
posted at 14:15:00

疑わなくてもすむための原因を証明するのが彼らの哲学ですよ。それをやめられない。たぶんスピノザだけが証明をやめる証明を見出したという感じ。フッサールですら判断停止と言いつつ証明を続けますから。@nakagawasun しょうめいのはき…
posted at 14:32:31

ハイデガーといえばフッサールの第一省察の付論「デカルトは超越論的な転換に失敗した」では、デカルトの先入観が説明されているけど、スピノザの方法のように、それを実体との関係で証明(証明の破棄)できてないんです。http://t.co/yYCfvcXQ @nakagawasun
posted at 14:38:33

一貫した論点しかないからねー。必ず先行者への言及(批判)だし。当然ギリシャ人がいけないことしちゃったわけなので、彼らの実体http://t.co/1KQWSTwd という語彙が危険すぎるのです。(^-^)/ @nakagawasun 時代が前後するのは気にしないんでしょうか?
posted at 15:01:29

たとえばデカルトの空の例や太陽の例に対してスピノザがどうしたとか、そう読むといい。でも太陽の例に対してスピノザは幾何学というのだが、それも最後に裏切られて、幾何学定理を片付けて(実体の証明手続きの破棄)次に進むのがエチカだ、とかなるのだけど。@nakagawasun
posted at 15:17:57

ねおたんスピノザみたいね。デカルトまでずっとそれやってて、それあほらしいからこうするともう言えなくなるだろう、とやっちゃった。@neajazz 1+1=2であったら、世界は何と楽なことか。しかしまた、で、あったなら、芸術なんて確実に必要ないだろう。だって、書くことないもの。
posted at 15:24:23

シュタイナーhttps://t.co/ShJIn8YF と現代文たんhttps://t.co/UqP8fZ4J が同じようなこと言ってる。教育だからね。教育は必ずしも哲学ではない。
posted at 17:18:09

本の単一性を疑う多量な本

2012.06.14

ファイル 230-1.jpg

本の単一性を疑う多量な本

フッサール省察を乱読しはじめた、最初の意識の流れ。本の単一性から、転向を証明する多量な本、用もないのに他人の悪口をいう日本語まで。


2012年06月10日(日)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120610

乱読態勢中。ウィットゲンシュタインの哲学は言語の誤謬だで正気を保ちながら、実は嫌いなフッサールのデカルト的省察を読み始めた。懐疑論→実在性の量→神証明の破棄不能→経験→認識→エポケー→現象という閉鎖的な系は、言語の誤謬に見えて、あまり好きではない。(^-^)/
posted at 12:11:38

実在性を量にすると信憑性の問題が起こり、分かっていても相手を分からせられるとは限らないから、エポケーしてバカはスルーしようという系、エポケー(判断停止)という用語も最近はめっきり聞かなくなった。何にどう言い換えられて拡散霧散したんだろう?脱構築?(^-^)/
posted at 12:49:22

フッサールの省察、デカルトの陥った幾何学では明証な経験という学問の真正のイデアは得られない。あらゆる現前=経験に先行する第一経験こそが十全な明証だ。量的すぎて証明手続きを破棄する述定に至らずウロウロしてるだけね。病気ね(^-^)/ http://t.co/sSCUUxp7
posted at 20:29:45

今日買ったブックカバーhttp://t.co/gCgMyXEp 合皮の色合いがきにいった。お花柄の裏地が表にちらっとでてるのも。ご本はカバーに入れて読むと、宇宙に唯一の本みたいになるよー。いろんな本がごちゃごちゃあると錯乱するから、本は一冊で聖化するのが好き。でも教徒ではない。
posted at 23:19:32

大抵の錯乱病(サクランボウと呼んでる)は、ご本が宇宙に五万とあって、参照関係がカオスになり、何言ってるのか読解できなくなると発病するはずだから、一回文明を終わらせて、一冊だけのご本にすると、みんな元気になるかもよ(^-^)/
posted at 23:22:11

RT @deleuzebot: 概念とは、思考がたんなる意見や見解に、あるいは議論や無駄話になりさがるのをさまたげるもののことを指す。したがってあらゆる概念が逆説となる。それで当然なのです。(『記号と事件』)
posted at 23:44:38

おお、時代は量ね(^-^)/ @sskyt 第83回哲学/倫理学セミナー■6/30(土)@文京区民センター3-B会議室■真田美沙「ヘーゲル哲学における量論について」■中原真祐子「ベルクソンにおける表現の問題」■自由参加 http://t.co/MtBw5ODz
posted at 23:54:17


2012年06月11日(月)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120611

おお、ドナルド・デイヴィッドソンhttp://t.co/OiGdRHQw はこの10年で邦訳されてたのか。http://t.co/6fqOAkxg 久々に英文を引っ張りだしてきて読もうかと思ってたんだが。
posted at 07:53:27

ところでデイヴィッドソンのような、人間に主体はないhttp://t.co/lQKMG9CX みたいなことをいうと、結局それは厳密には○○主義の亜流で目新しくない、というのが日本の哲学部出身者の主体性になってそうで、困るなー。
posted at 07:54:14

哲学部の輩の厳密性は、何かの系について中心化した論者を、系統の樹のどの枝葉の何々主義と名辞化するか、それが収まらないと固有名で呼ぶというだけだ。しかしそれは哲学という行為とは真っ向から矛盾する述定だし、実は最も厳密性から程遠い態度だ。スピノザではないがあらゆる系に固有名はない。
posted at 08:02:23

國分氏が最も論じられていないスピノザの著作として取り上げた『デカルトの哲学原理』は、当時としては異例なデカルト論(固有名を論じたテクスト)なのだという。しかし、今や哲学部の言う厳密性は、◯◯論として定立できているかという、論に指示対象があるという錯覚だけだ。
posted at 08:08:18

スピノザが、他人であるデカルトの論を書名にしたのは当時として異例で、解説本を書いて欲しいという周囲の要請の結果らしい。非常に近代的な事情だ。近代とは解説文の空間だからだ。
posted at 08:11:26

このように、AさんがBさんを論じるというのが哲学的厳密性というのは、最も信用ができない。普通、哲学とは用語間の関連性を証明する営為だからだ。なので先ほどのデイヴィッドソンのような、系を移動する哲学者を、◯◯主義と分節化しても、おそらく無意味だ。哲学者とは厳密にそういう主体だろう。
posted at 08:14:20

フッサールは、おそらく◯◯主義と呼ばせないために、いち早く(かどうかはしらないが)、◯◯学的な造語をしたのだろう。もちろん、◯◯主義という系に中心化される前に(言われる前に)、自分で名付ければいい。世界のあらゆる事柄は、厳密には名乗りでしかないので、そういうことになる。
posted at 08:17:44

たしかに論証は、Aという言い回しを、Bという言い回しに、言い換えることでしかない。それを◯◯氏の後期は、◯◯氏の前期からの転向だ、と論証するために、誰それ論という、指示対象論にしてしまう。それは哲学としてもっとも厳密性を欠いた証明に見える。欧米の大学でそういう論文は全否定される。
posted at 08:31:42

つまり日本では転向を論じるのが論証のようになってしまっているが、これは西欧社会では学問とは見なされない。ところで日本では国文学部が、誰それ論(作家論)を書く。哲学部と代わり映えがしない。日本では文芸批評と哲学が混淆するのもそのためだ。日本の近代性は文学の中にしかないのだろう。
posted at 08:39:46

日本の現代文から西欧を取り払えば主体はない、それがいかなる場合でも現代文の確定的正解、といつも高校生に教えるのだが、大学未満の高校には、誰それ論こそ存在していない。ある意味健全である。ところが学部生になると、とたんに転向論になるしかない「誰それ論」に陥る。
posted at 08:51:28

この「誰それ論」で身を立て転向する、ということを回避するためには、日本では「可能性の中心」や「探求」に収斂したわけだが、そうした探求は社会学にはまだかろうじてあるように見える。しかし、柄谷はだめでもサンデルのストレートさは大衆受けしたのだ。
posted at 08:56:13

RT @M_Foucault_jp: ヘレニズム・ローマ期の哲学における、ひとが生涯を通じて行ってきた救済、救済の行為、救済の活動が齎す報いの二つの形式。 アタラクシア:動揺の不在。ひとがいかなるものによっても動揺させられないようにする自己の統御 アウタルケイア:自己以外の何者も必要としない自己充足 -主体の解釈学-
posted at 14:58:59

RT @gameover1001: 日本人は、なんで用もないのに知らん人間の悪口を言うのに必死なんだ?と日本に住んだ中国人が不思議がっていたが、日本語インターネットに出入りしだして以来、わしも同感である。他人のことも他国のことも、どーでもいいんちゃうか?なんで、そんなに「他」が気になって悪口を言いたいのか謎である
posted at 22:25:00

主体性の量という信心を放置するサディズム

2012.06.09

ファイル 229-1.jpg

実在性の量(デカルト)から指導の自動性へ(スピノザ→國分氏の方法)。それは可能的自由や主体性という信心を限りなく疑う素直さのことなのだが、しかし東アジアはその(哲学という問いの)外部であるらしく、とくに日本では現代文でそうした(主体性という)宿痾の読解を課せられる。しかし、分からない人に、分からせるのが教育ではない。そういうサディズムについて。


2012年06月08日(金)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120608

哲学は必然性とは何かという話しかできないのに、主体性の外の(所有できない)世界https://t.co/FyJ2DYHk は偶然だhttps://t.co/9FOXjp03 というS君の思想は、東アジアなだけに北朝鮮や中国とあまりに安易に直結して見えてしまって困っている(笑)。
posted at 06:11:25

確かにコミュニズムの外には宗教しかない。それはまるで東アジアの内部にだけ、宗教とは異質な主体性があるかのように想定するのと相似だ。しかし実際にあるのは、しみったれた現実https://t.co/vzdMWIck か、そこから出家して帰依する世界があるだけ。その方がよほど偶発的だ。
posted at 06:12:30

国語教育でも、この東アジア的な主体性との格闘しかない。そしてそれは大抵の場合、合理的に不正解なのだ。現代文から西欧を取り払えば、何一つ主体的なものは残らないからだ。なぜそれほど(合理性の)外部を希求するのか? その情熱がいまいち理解できない。個人的には主体性は嫌いだ。(^-^)/
posted at 06:25:45

RT @TAKEMITSU_bot: たしかに音楽は数理的な秩序のうえに成り立っているものでしょう。けれどもそれはヨーロッパの音楽ということであって、その規則とはべつにぼくは音のなかで生活し、太陽を見てくしゃみをし、地下鉄の振動をみんなとともに感じつつ、作曲の着想を得てきたのです。武満徹
posted at 08:33:03

RT @sasakitoshinao: 「オウム真理教の代わりになるものはいまも存在していない。魂は行き所なくいまも浮遊し続けているのでは」と。あれから17年、拠り所がさらに消滅した現在にオウムの意味をもう一度問い直す必要があるかも。/浮遊した17年間 47NEWS http://bit.ly/LgvI4j
posted at 08:39:34

RT @tokaiama: 意思によって世界が進むなら、もちろん意思によって変えられる。世界はパラレルワールドである。たくさんの意思の結果が生じ、たくさんの存在が同時進行しているとも考えられる。大量死の起きる日本も、起きないで平和な日本も、どちらも意思の結果であり真実なのだ。我々は心の望む世界に生きている
posted at 05:04:19


2012年06月09日(土)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120609

今北産業なのでこれから拝見します、トートロジー?(^-^)/ @yutakioka 「言葉の定義は人それぞれ(任意の言葉は個人がどのように解釈してもよい=言葉の意味は決定できない)?」をトゥギャりました。 http://t.co/xeemBQTM
posted at 02:24:45

https://t.co/eajY2CxB トートロジー(命題の同語反復)以外は、宿痾の現象学になる人がいるのかな?→懐疑論者?(^-^)/ 
posted at 02:30:01

バカ(懐疑論者)は放っておけ。神がいるかいないかではない、神を基準に物事考えなければ気違いになるぞ(神存在の証明手続きの破棄)といってるだけだ、というスピノザの方法(倫理)を読むと、そんな気分になってくる。(^-^)/
posted at 02:33:57

國分氏の方法。『知性改善論』が示唆する2つの逆説は、懐疑論者の説得の要請で生まれたデカルト的循環(コギト命題)を実在性の量の否認で再定式化した結果、名目から実在性を証明した神という証明手続き自体が解消され、知性・教育(分かること)の問題(自動性)に解決された。量から自動へ。
posted at 02:35:43

そうだろうとおもったけど、まあふくだにいわれたら同じようにやばそう(^-^)/ @yango_ritsukosk サッカーの話しですよ。
posted at 02:16:50

なんか、ある種のリアリティー(実在性の量)を感じさせちゃうらしい。いや冗談よ(^-^)/ @yango_ritsukosk なんでですかw
posted at 02:39:08

私のジョークは、アメリカンジョークより、他人に伝わりづらい、という自覚はある。(^-^)/
posted at 02:39:41

國分氏の方法。実在性の量から、指導の自動性へ。
posted at 02:41:00

一々、テクストの神と背比べhttps://t.co/8BcFnAqf する(存在証明する)懐疑論者http://bit.ly/KPjLVN たち。そういうバカに指導はいらない。分かるまで放っておけ。
posted at 02:46:18

ところで、久々にウィットゲンシュタインの論理哲学論考をひっぱりだしてきたら、悪名高いラッセルの序文をまた読んでしまった。あれは悪名高いな(・_・;)
posted at 02:50:15

まあ、存在証明の命題は、どうみてもトートロジーみたいになるわけだが、それがわからない宿痾というのが、こまったものなのだが。ラッセル先生は嫌いではない。
posted at 02:53:30

分析するから主体になるのだが、ラッセルは「主体なるものがない。というのは確かではない。点や瞬間がない、というのが確かでないのと同様である。主体なるものはあるのかもしれない。ただ、あると考える理由がないのだ」(ラッセル「命題について」より)
posted at 02:55:51

ところで、おそらく指示表出の言い換えである國分氏の指導の自動性は、分析というより存在証明するから実在性が量になる、といっているのだと思うのだが、乱暴に考えると、存在証明はもちろん分析の言い換えなのかしら? たぶんそうなのだろう。
posted at 02:59:42

男子生徒が、文中の人間とは?神とは?何か教えろ、それを分かるように教えてくれなければ、自分が国語は好きになれない。自分にはプライドがあるからだ、という時に、指導者がすべきことは、もちろん放置である。(^-^)/
posted at 03:01:52

同様に、神は何かとは問わないが、自己の主体性はあると信心するhttps://t.co/Ej4JZvEP という懐疑論者に対しても、指導者は放置すべきなのだが、しかしそこからは確かに面白い分析が成り立つ。https://t.co/WWz8AVL9
posted at 03:04:48

スピノザを、指導の自動性の方法https://t.co/iPQTiaKg にした國分功一郎氏にとって、量とは実在性の量ではなく、分からなさの量だ。分からない懐疑論者の主体などは、分かるようになる(自動化する)まで、放っておけばいい。それがスピノザの倫理、つまり指導ということだ。
posted at 03:11:04

さて、指導の自動性=存在証明の破棄を齎した、実在性からの量(表象でもある)の排除は、属性で実体を捉え直したことなのだが、その結果、決定論や必然性になった。ウィットゲンシュタインには、トートロジーを排除する事実や事態があるが、様相論(可能的自由?)が問われてるとは思えない。
posted at 03:19:20

わたしはプロパーではなく、遊んでるだけだが、このあたり、つまり様相論的自由などない、というので少し遊んでみると、楽しそうだ。(^-^)/
posted at 03:20:26

ふつう無限ループというのは懐疑論の側なのだが、決定論をどれだけ無限にできるか、というのがサディスティックで楽しいのであった。(^-^)/
posted at 03:26:04

RT @Schopen_bot: 本物の哲学者は世界そのものを見すえることから混乱にみまわれるのであるが、贋の哲学者にとっては、これにひきかえ書物や出来合いの体系から混乱が生じるのである。ショーペンハウアー
posted at 02:46:52

RT @deleuzebot: 哲学史というものが哲学における抑圧の機能をはたしているのは明らかだ。はっきり言って、あれは哲学におけるオイディプスだ。「あれこれ読んで、あれについてのこれを読まないうちから、まさかきみは自分の名において語るつもりじゃあないだろうな」というわけだ。ドゥルーズ(『記号と事件』)

RT @M_Foucault_jp: 1.プラトンからデカルトを経てフッサールに至る、根源性という方向。2.プラトンから聖アウグスティヌスを経てフロイトに至る経験的拡張の方向での連続的な歴史。このどちらの場合も、明示的にであれ、暗黙の内にであれ、主体の理論が練り上げられずに、背後に残されてしまう。-主体の解釈学- ミッシェル・フーコー
posted at 03:04:59

RT @wit_bot: 授業の間に優れた成果を、それどころか驚くべき成果をもたらす力があっても、それだけで優れた教師だとは言えない。というのも生徒たちは、直接教えてもらっている間、生来備わっている以上の能力を引き出してもらうにしても、自力でその高さまで伸びたわけではないので、ウィットゲンシュタイン
posted at 05:03:40

RT @wit_bot: 教師がその場からいなくなれば、たちまち化けの皮が剥がれてしまう。それは私のことか。私はあることを考えていたのだ。(マーラーが非公開のオーケストラ演奏にて指揮をしていた。彼が指揮している間は申し分なかったが、彼が指揮をしなくなってからは、オーケストラは沈み込んでしまった)ウィットゲンシュタイン
posted at 05:36:20

■ツイートまとめブログ■主体性の量という信心を放置するサディズム http://t.co/0LYnO69L 実在性の量から指導の自動性へ向かう必然性の外部に、主体性の量を信心してしまう人々(^-^)/
posted at 04:15:59

さてそろそろ寝なければならぬ。土日は読解塾が気が重い。前はストレス解消の読解塾だったが、主体性の量が低迷中なのかもしれない(^-^)/
posted at 04:17:04

國分功一郎氏の方法は分からせたのか?

2012.06.07

ファイル 228-1.jpg

■分からない人もいる。その素直な結論。

この本を読むまで、国語を教えていても、分かるを他人に伝授するのが、さほど困難とは思えていなかった。しかし、世の中には、いくら分からせても分からない人が存在する。それを素直に認めて、気が楽になれたのかもしれない。

懐疑論者(分からない人)はスピノザに自我ではなく神を見る。だから自然即神や倫理という狭い受容となる。しかし、エチカは、神の証明手続き自体を解消し、知性(分かること)の問題へと解決する。

國分功一郎氏の『スピノザの方法』は、デカルト的循環(懐疑論者を説き伏せるコギト命題の矛盾)に真っ向から立ち向かったスピノザの軌跡を、周到に取り出す。その論述はまるでオブジェクト指向のように、関数の入れ子が相次ぐ。そのため小出しに精読するはめになり、読了に時間を要してしまった。

日本語の近代化にとって、こうした17世紀の問題は、ストレートな問題意識を呼び覚ます。


2012年06月05日(火)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120605

『スピノザの方法』、國分氏の方法、つまり言い換えや証明を捉えるためにじっくり精読したのだが、いま本論やっと読了。 http://t.co/cEX6kyKt
posted at 20:00:10

懐疑論者を説得するデカルトのコギト命題が回避したコギトの状態描出で方法を得たスピノザは、無神論者の説得ではなく神の状態描出から存在証明を完成させた。スピノザの方法とは描出から導出する名目の破棄だ…という第3部結論部でした。http://t.co/cEX6kyKt
posted at 20:09:40

描出なき導出、それは神とは何か?の前に神の存在を証明してしまうデカルトのことだ。この神とは何かを回避するとデカルト的循環が生まれるに過ぎない。しかしそれは単に懐疑論者の説得のためだった。よってこれは哲学の解決だ…ということらしい。http://t.co/cEX6kyKt
posted at 20:25:27

國分テクストの手続き的な文体は、最後はかなり乱暴な畳み掛け(何を指示しているのかの明示も曖昧にした言い換えの連続)で、玄人っぽさがないのは好感が持てたのだが、言っていることが鋭いだけに、もう少し論述にキレが欲しかった印象を否めなかった。
posted at 21:08:57

特に、この十七世紀の問題は、哲学の基本語彙(存在などだけでなく、構成や表現)に対する論述になるが、記述の中の語彙が、スピノザの原文の用語を指しているのか、意図的にズラされているのかが、黙示的になることが多い書き方で、まるで高校生に出題される指示内容問題の集大成のようだった。
posted at 21:18:38

興味としては、指示関係が曖昧な論述スタイルが、なぜ生まれてくるのか、という病理分析だったのだが、そろそろ帰宅なので、また今度考えよう。
posted at 21:20:13


2012年06月06日(水)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120606

物語論に後説法というのがあって、読んでいけば後でなるほど、と思えることを先取りして書いていたりするのだが、國分氏の論述、総括まで来ると別に何の疑問も残らない。ただその過程では、関数の入れ子みたいになって、どれがどれの言い換えだか、あまり明示的ではない。
posted at 00:19:42

しかも、指示語が全部哲学の基本語彙ばかりで、スピノザの原文を指しているのか、それをズラして別の意味でその語彙をそこで使ったのかが、数ページ読み進めないと確定しないような書き方。これも後説法のようになっていて、結末に来ると全部関数が解けるみたいな塩梅。
posted at 00:22:52

どんな文も一筆書きではなく推敲を重ねるものだが、何度も博論が却下されて書きなおしたということなので、ちょっと複雑怪奇なところがあるようにおもえた。少なくとも素直に読み進められる文とは言えない。しかし、内容は大変鋭い。
posted at 00:24:21

指示語を関数の入れ子のようにする、この國分氏の博論の独特の論述は、まるで受験生が指示問題ばかりやらされた挙句に書くような、独特な構造をなしている。これは日本の教育の一つの集大成を成す文体に思えたほどだ。
posted at 00:28:30

ふつう文章は論述文でも、何らかな要約のしようがあるのだが、國分氏の文は、すべてが要約の連続のような書き方で、その関数の解法が示されるまで、要約が不可能な文脈が多々あった。
posted at 00:32:22

文体としては、どこか読み手を統合失調のような迷路に誘いかねない文なのだが、書き手は神の視点のように、予め全て分かった上で小出しに論証を重ねる。なので、研究者以外は寄せ付けない文になっているのだろう。
posted at 00:33:54

文はふつうA対Bが何かの理由で対比されて、その同質性が言明されたりするが、最後の最後まで、あえてテクスト外の情報を無視すると、論述がAに収まるのか、Bに収まるのか、ハラハラさせられる文脈になっていた。そういう意味ではスリリングだ。
posted at 00:35:48

たとえば結論では実体の系譜学という関数がでてくる。これはエチカの定理8までと9以降を区別する手続きを総称するものだが、それがエチカにとって真なのかとおもったら、その手続の破棄が真だ、と結論付けられる。その最後に言及されたのがデカルトだった。http://t.co/cEX6kyKt
posted at 00:41:52

この後に最終総括が1見開きくるのだが、知性にとっての矛盾(それは懐疑論という矛盾でもある)が、スピノザの名目から実在に向かった手続きでどう解決されたかが纏められ、それが恐らく哲学のあらゆる問題への鮮やかな解決に映じて見えてしまう。http://t.co/WKHxYfS1
posted at 01:01:38

結論はこの第三部の次に数ページくる。そこではこの問題が、分かる人が分かることを他人に伝えられない、という問題であると克明に示される。
posted at 01:51:44

デカルトは、その分からない懐疑論者に、お願いして説き伏せる。そのためのものがコギト命題だが、スピノザは淡々と方法を示す。それによってコギト命題がもたらす全ての、分からないという事態、無限ループに陥る懐疑論という哲学の基本問題が解決しているのだと、結論されているように思えた。
posted at 01:55:12

これは昨日、芦田先生の吉本隆明論で、自己表出(自分だけ分かる)と、指示表出(分かるを共有する)に似た問題に思えた。しかし吉本が解決できなかった問題を、確かにスピノザが解決しているように思えたのだから、國分氏の立論は当然、成功しているように見える。
posted at 01:56:44

國分氏は、スピノザの方法は従って教育論だと結論で述べていたが、日々、人にモノを、しかも文の理解を教える仕事をしていると、この自分が分かるということと、相手に分からせることの違いを、人一倍意識してしまうのだが、その意味では大変面白い論考だったと思う。教育者は読むべきだ。
posted at 01:59:20


2012年06月06日(水)午後
http://twilog.org/sunamajiri/date-120606

大著とはいえないのに、昨晩もツイートしたように、独特の読みづらさから、小出しに読んでいた國分氏の『スピノザの方法』昨日読了して、清涼な読後感だったためか、何か口寂しいのであった。
posted at 18:28:02

コギトや神観念を日本語が受容するにあたって、とんでもないミッシングリングが生まれていることだけは確かなのだが、國分氏の提起した、懐疑論者(わからない人)を分からせる必要がない、という問題は、日々現代文を教える立場としては、大いに考えさせられてしまっている。
posted at 18:28:19

独特の読みづらさというのは、オブジェクト指向というか、関数が関数の入れ子になり、そのうち値が、どちらの概念を指しているのかが、明示されないような書き方の病理だったという点なのだが・・・。
posted at 18:32:35

もちろん、このオブジェクト指向みたいになるのは、スピノザ自身の問題なのだろう。それを例えばヘーゲルのように、そうではないと受容することで起こった誤解を解くためには、また概念の入れ子のような、妙な書き方になる、という話なのだと思えた。
posted at 18:35:38

國分功一郎『スピノザの方法』を纏めれば、『知性改善論』が示唆する2つの逆説は、懐疑論者の説得の要請で生まれたデカルト的循環(コギト命題)を再定式化し解消した結果、名目から実在性を証明した神という証明手続き自体が解消され、知性・教育(分かること)の問題に解決された、という感じだ。
posted at 18:45:10

https://t.co/bQv506lS なお、私が「神の証明手続きの解消」と更に関数化したものは、國分氏の文中では「実体の系譜学の破棄」という関数で呼ばれていた。いずれにせよ、それが解消されたのは、分からない人(懐疑論者)を説き伏せるのではなく、導く合理性を得たということだ。
posted at 19:03:13

したがってこれは、國分氏が結論で明言するように、ある種の教育論になっているという点だ。わからない人に無理強いするためにはコギト命題が要請されたのだが、そこでの神は信心される神だ。しかしエチカ冒頭で破棄される神の証明手続きは、知性に矛盾なく合理性を導出してしまう。
posted at 19:07:40

この國分『スピノザの方法』が突きつける、分からない人を本当に分からせる、という問題は、現代文の授業で毎回頭が痛いのだが、昨晩指摘したように、国語教育における吉本隆明氏の「指示表出」の焦点化ともつながっていて、大変興味深い。https://t.co/1DOcqztU
posted at 19:11:28

スピノザの「神の証明手続きの破棄」の最大の誤解者は、私にはヘーゲルに見える。https://t.co/6yqoXdEz 。ヘーゲルの言う精神とは、証明手続きとしての自己原因の以前にもう一度信心する神を宿すという程度の問題のはずだ。
posted at 19:25:23

そのヘーゲルの精神云々について、もはや現代文の国語教育からは、省みられなくなった小林秀雄が、こんなことをいっているわけだ。https://t.co/sqoaZK2W
posted at 19:27:04

もちろん、世の中、分かれば天国、分からなければ地獄というだけなのだが、分からないのではない教育者は、頭が痛いのである。だが命を削ってまで教えるつもりは毛頭ないのであった。(・_・;)
posted at 19:30:31

(とくに)男子の生徒は苦手だ。現代文と自分のプライドを天秤にかけて落胆したりして、きのうも参った。女子は言語論的転回していて、一々、文中の神や存在と自分を天秤に掛けるような、妙な感情論的読み方はしない。男子って大変よねー、文と自分の背比べばかりするよ。(^-^)/ #国語教育
posted at 19:51:20

家族扶養って幕府の洗脳教育か?

2012.06.05

ファイル 227-1.jpg

扶養義務というのは社会が棄民する封建制のようだ。

RT @yutakioka: 「適切でないXはダメ」と言う話をなぜか「X一般がダメなんですね」と藁人形論法してくるバカがいる。
posted at 06:30:35

藁人形論法わらった。日本人は名目的に一般化する強迫観念に憑かれてますね。辺境ゆえの焦りなのでしょうが、最近、憑依現象に見えてますww @yutakioka 「適切でないXはダメ」と言う話をなぜか「X一般がダメなんですね」と藁人形論法してくるバカがいる。
posted at 06:32:42

RT @yutakioka: キツネが取りついたんでしょうねwRT  @sunamajiri 藁人形論法わらった。日本人は名目的に一般化する強迫観念に憑かれてますね。辺境ゆえの焦りなのでしょうが、最近、憑依現象に見えてますww
posted at 06:35:44

RT @NaturPerm: @yutakioka @sunamajiri そもそもの法律の正当性について盲目的に信奉していて、思考停止していますね。
posted at 06:38:12

憑依霊への服従というか、なんか徳川時代への埋没にみえますね。なぜそれほど自信がないのだろう?(・_・;) @NaturPerm そもそもの法律の正当性について盲目的に信奉していて、思考停止していますね。 @yutakioka
posted at 06:41:30

RT @yutakioka: 法治主義を無視して社会通念・道徳・倫理・制度を批判する人を犯罪者と言い出すこの人が考える世界こそ非自由民主主義的全体主義国家だと思うけど。
posted at 06:42:22

RT @yutakioka: これは恐ろしいですね。RT  @sweetsnakany214 一見すると単なるトンデモですが、日本において、高校までの教育で受けた知識のみを前提にすると、むしろ、一般的な思考かと思います。
posted at 06:49:57

RT @NaturPerm: @sunamajiri @yutakioka まぁ彼自身の思想に伝統的な家族観的なものが横たわっているので、それへの疑いを差し向けられてしまうと「社会正義に反してる!!」としか出てこないのでしょう。是非とも扶養義務の正当性について熱弁をふるって欲しかったですね。
posted at 06:50:46

やはりその話でしたか。個人的に親族に生活保護者がでて、役所から扶養するか?という書簡を受け取って、こっちのほうが保護されたいと、突っぱねた経緯があるので、いくらでも議論するのに(^-^)/ @NaturPerm 是非とも扶養義務の正当性について熱弁 @yutakioka
posted at 06:54:27

生活保護の家族扶養って、国民国家や社会が棄民を積極的に奨励する、封建制への回帰にしかみえない。幕府なんてもともと荘園を武力で奪った、乞食が出自の盗賊どもの統治だが。そんなものは許さん(^-^)/
posted at 07:02:34

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