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哲学=コギト解決から多数者支配の解決へ

2012.04.19

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コギト解決つまり悟りは、民主主義の敵なのだろうか?

國分功一郎『スピノザの方法』を「解決』と読んだ私に対して、攝津氏がそれは解決ではなく、むしろ民主主義に対する犯罪として読める、というお話だったので、民主主義をなぜ絶対化出来るのか、について考えざるを得なくなりました。

@femmelets 氏。國分→スピノザが回避するややこしいこと=懐疑論の徹底こそ困難https://twitter.com/#!/femmelets/status/192617555037405184 で、それはhttps://twitter.com/#!/femmelets/status/192620485958307840 サドはいいがナチはだめ→戦後民主主義が自明でないhttps://twitter.com/#!/femmelets/status/192618220371443713

https://twitter.com/#!/sunamajiri/status/192640604117807104 と@femmelets s氏が、國分氏が悟りのようなものというスピノザの「分かることを分かるを他人と共有しない」→懐疑論の回避は、犯罪級(サドやナチやオウム問題)と同義、というまとめだったのですが、徹底した懐疑論はなぜ困難なのか?

懐疑論者を説得しない→スピノザ→國分を、今朝私はhttps://twitter.com/#!/sunamajiri/status/192416138762780672 で哲学の解決と名付けた。@femmelets はそれは民主主義が自明でない→犯罪と同義というのだが、スピノザは道徳的https://twitter.com/#!/femmelets/status/192581586246569984 なだけなのだろうか?

國分によるスピノザ→「分かることを分かる+説得で共有しない」といういわば「コギトの解決」と、それに対する民主主義の破壊→オウム事件https://twitter.com/#!/femmelets/status/192623088033214464 的な命題。しかし、「分かることを分かる」を説得しないという証明(コギト解決)は、本当にその対立項なのか?

つまり コギト解決https://twitter.com/#!/sunamajiri/status/192650161237934082 は、むしろオウム的犯罪とこそ向きあっていたのではなかったか? そういう問として再措定して考えるのは無駄なんだろうか?(^-^)/

https://twitter.com/#!/sunamajiri/status/192650655092056064 をパラフレーズしてみると、「コギト解決」=道徳であろうが悟りであろうが共有(説得)しないことは、本当に民主主義なるものの敵なのだろうか? そういう話のようだ。(^-^)/

https://twitter.com/#!/sunamajiri/status/192651525758259200=コギト解決としてのスピノザを敵対するものとした民主主義とは、柄谷行人の最新テクスト『哲学の起源』では、(おそらくノマドに対立した)多数者支配のことであり、自由の対語ですらある。

柄谷『哲学の起源』は民主主義は自由の対立項だという命題として読めるが、確かにヒトラーは危険https://twitter.com/#!/adolfhitler_bot/status/192246701451522049 だろう。だからといって、オウムもナチもスピノザ的コギト解決と同義なのだろうか?
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https://twitter.com/#!/sunamajiri/status/192656287614517248 多数者支配=民主主義による独裁に置き換わった現代からみると、必ずしもスピノザが単なる道徳や宗教には見えない。國分氏の言説は論文ではあるが、そういう哲学やコギトの解決を、解明しているように見える。それは単に誤読なのか?

・・・國分氏を擁護してみましたが、個人的にも多数者支配こそ敵です。

以下追加です。

RT @femmelets: 幾つか考える必要がありますが、まず、私は民主主義一般を疑ったのではなく、1945年以降の日本に存在した戦後民主主義に言及しました。勿論民主主義一般も問題ではあろうと思います。例えば民主主義だけでは、橋下徹が力を持つのを誰も止められません。
posted at 07:52:11

RT @femmelets: 徹底的な懐疑論が不可能ないし困難な理由は、誰でも生きているというそれだけのことです。どんな人でも生きるうえでは何かを信じなければ生きることができません。《この世界がある》ことすら信じない人々が生きることができるでしょうか。
posted at 07:52:13

RT @femmelets: 懐疑論の問題を提起したのはフーコーですが、ではフーコーの思考からみて可能な徹底的懐疑はどういうものでしょうか。何でも手当たり次第に疑うのでしょうか。そうではないと思います。Xという或る体系について、その起源や系譜を問い、劃定することでしょう。
posted at 07:52:15

RT @femmelets: 我々はそのXの内部にいるかもしれないし、Xを抜け出た直後なのかもしれません。(例えば我々はもう19世紀の思考から自由なのでしょうか。20世紀ならどうでしょうか。)そのXが真理であるとか妥当するというのは保留してそのXの条件を調べるというようなことです。
posted at 07:52:17

國分氏によるスピノザhttp://t.co/RLOu1R0t は寧ろそれ(後述されたフーコですらも)に相似して見えるのです。スピノザは単にデカルトの不徹底を改正しようとしただけに見える。@femmelets 誰でも生きているというそれだけのことです。
posted at 08:00:57

國分的スピノザは、http://t.co/RLOu1R0t その一点のみに思えました。「私は存在している」という命題を、「ゆえに」とすれば、下手すると「不存在」を強いられる。それでは徹底した懐疑が不可能だ、それが國分的スピノザなのかと。@femmelets 「私」と書くこ
posted at 08:05:46

ですから、國分的スピノザ(ゆえにを廃した私存在)を、民主主義の不可能性と読むより、そこからあらゆる懐疑が徹底されると読むほうが建築的と思えました。(國分的)スピノザが問題にしたデカルトは、懐疑する主体の不存在そのもの、に見えます。@femmelets 民主主義と衆愚政治を区別~
posted at 08:14:26

RT @femmelets: スピノザや國分さんは「ある」に定位するのでしょうが、「思考する私がある」「絶対無限の実体=神即自然がある」のと「この世界がある」のは少し違うのではないでしょうか。晩年のフッサールが想定したのは根源的「臆見」です。
posted at 08:17:51

RT @femmelets: opinionであってknowledge, truthではありません。「真知」というほどのステータスを要求できないし、だから理論的認識ではなく単なる信憑であるということになります。私が世界はあると思うとしても、論証できません。
posted at 08:17:54

勿論そうです。つねに相対的です。國分的スピノザもデカルトとの差異です。しかしそこからは「あり得ない真知」を想定しているのはデカルトだ、という明証しか読めない。スピノザを真知とみなす論拠はないように見えました。@femmelets
posted at 08:26:04

その点は確かに難しいですね。それが現実といってしまえばそれまでなんですが。さて、そろそろ夕方まで睡眠を、またです(^-^)/ @femmelets 民主主義は不可能ではなく困難です。スピノザが民主主義者でも政治的に慎重だったのは、みんなが「自由な人間」などではないからです。
posted at 08:27:22