記事一覧

本の単一性を疑う多量な本

2012.06.14

ファイル 230-1.jpg

本の単一性を疑う多量な本

フッサール省察を乱読しはじめた、最初の意識の流れ。本の単一性から、転向を証明する多量な本、用もないのに他人の悪口をいう日本語まで。


2012年06月10日(日)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120610

乱読態勢中。ウィットゲンシュタインの哲学は言語の誤謬だで正気を保ちながら、実は嫌いなフッサールのデカルト的省察を読み始めた。懐疑論→実在性の量→神証明の破棄不能→経験→認識→エポケー→現象という閉鎖的な系は、言語の誤謬に見えて、あまり好きではない。(^-^)/
posted at 12:11:38

実在性を量にすると信憑性の問題が起こり、分かっていても相手を分からせられるとは限らないから、エポケーしてバカはスルーしようという系、エポケー(判断停止)という用語も最近はめっきり聞かなくなった。何にどう言い換えられて拡散霧散したんだろう?脱構築?(^-^)/
posted at 12:49:22

フッサールの省察、デカルトの陥った幾何学では明証な経験という学問の真正のイデアは得られない。あらゆる現前=経験に先行する第一経験こそが十全な明証だ。量的すぎて証明手続きを破棄する述定に至らずウロウロしてるだけね。病気ね(^-^)/ http://t.co/sSCUUxp7
posted at 20:29:45

今日買ったブックカバーhttp://t.co/gCgMyXEp 合皮の色合いがきにいった。お花柄の裏地が表にちらっとでてるのも。ご本はカバーに入れて読むと、宇宙に唯一の本みたいになるよー。いろんな本がごちゃごちゃあると錯乱するから、本は一冊で聖化するのが好き。でも教徒ではない。
posted at 23:19:32

大抵の錯乱病(サクランボウと呼んでる)は、ご本が宇宙に五万とあって、参照関係がカオスになり、何言ってるのか読解できなくなると発病するはずだから、一回文明を終わらせて、一冊だけのご本にすると、みんな元気になるかもよ(^-^)/
posted at 23:22:11

RT @deleuzebot: 概念とは、思考がたんなる意見や見解に、あるいは議論や無駄話になりさがるのをさまたげるもののことを指す。したがってあらゆる概念が逆説となる。それで当然なのです。(『記号と事件』)
posted at 23:44:38

おお、時代は量ね(^-^)/ @sskyt 第83回哲学/倫理学セミナー■6/30(土)@文京区民センター3-B会議室■真田美沙「ヘーゲル哲学における量論について」■中原真祐子「ベルクソンにおける表現の問題」■自由参加 http://t.co/MtBw5ODz
posted at 23:54:17


2012年06月11日(月)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120611

おお、ドナルド・デイヴィッドソンhttp://t.co/OiGdRHQw はこの10年で邦訳されてたのか。http://t.co/6fqOAkxg 久々に英文を引っ張りだしてきて読もうかと思ってたんだが。
posted at 07:53:27

ところでデイヴィッドソンのような、人間に主体はないhttp://t.co/lQKMG9CX みたいなことをいうと、結局それは厳密には○○主義の亜流で目新しくない、というのが日本の哲学部出身者の主体性になってそうで、困るなー。
posted at 07:54:14

哲学部の輩の厳密性は、何かの系について中心化した論者を、系統の樹のどの枝葉の何々主義と名辞化するか、それが収まらないと固有名で呼ぶというだけだ。しかしそれは哲学という行為とは真っ向から矛盾する述定だし、実は最も厳密性から程遠い態度だ。スピノザではないがあらゆる系に固有名はない。
posted at 08:02:23

國分氏が最も論じられていないスピノザの著作として取り上げた『デカルトの哲学原理』は、当時としては異例なデカルト論(固有名を論じたテクスト)なのだという。しかし、今や哲学部の言う厳密性は、◯◯論として定立できているかという、論に指示対象があるという錯覚だけだ。
posted at 08:08:18

スピノザが、他人であるデカルトの論を書名にしたのは当時として異例で、解説本を書いて欲しいという周囲の要請の結果らしい。非常に近代的な事情だ。近代とは解説文の空間だからだ。
posted at 08:11:26

このように、AさんがBさんを論じるというのが哲学的厳密性というのは、最も信用ができない。普通、哲学とは用語間の関連性を証明する営為だからだ。なので先ほどのデイヴィッドソンのような、系を移動する哲学者を、◯◯主義と分節化しても、おそらく無意味だ。哲学者とは厳密にそういう主体だろう。
posted at 08:14:20

フッサールは、おそらく◯◯主義と呼ばせないために、いち早く(かどうかはしらないが)、◯◯学的な造語をしたのだろう。もちろん、◯◯主義という系に中心化される前に(言われる前に)、自分で名付ければいい。世界のあらゆる事柄は、厳密には名乗りでしかないので、そういうことになる。
posted at 08:17:44

たしかに論証は、Aという言い回しを、Bという言い回しに、言い換えることでしかない。それを◯◯氏の後期は、◯◯氏の前期からの転向だ、と論証するために、誰それ論という、指示対象論にしてしまう。それは哲学としてもっとも厳密性を欠いた証明に見える。欧米の大学でそういう論文は全否定される。
posted at 08:31:42

つまり日本では転向を論じるのが論証のようになってしまっているが、これは西欧社会では学問とは見なされない。ところで日本では国文学部が、誰それ論(作家論)を書く。哲学部と代わり映えがしない。日本では文芸批評と哲学が混淆するのもそのためだ。日本の近代性は文学の中にしかないのだろう。
posted at 08:39:46

日本の現代文から西欧を取り払えば主体はない、それがいかなる場合でも現代文の確定的正解、といつも高校生に教えるのだが、大学未満の高校には、誰それ論こそ存在していない。ある意味健全である。ところが学部生になると、とたんに転向論になるしかない「誰それ論」に陥る。
posted at 08:51:28

この「誰それ論」で身を立て転向する、ということを回避するためには、日本では「可能性の中心」や「探求」に収斂したわけだが、そうした探求は社会学にはまだかろうじてあるように見える。しかし、柄谷はだめでもサンデルのストレートさは大衆受けしたのだ。
posted at 08:56:13

RT @M_Foucault_jp: ヘレニズム・ローマ期の哲学における、ひとが生涯を通じて行ってきた救済、救済の行為、救済の活動が齎す報いの二つの形式。 アタラクシア:動揺の不在。ひとがいかなるものによっても動揺させられないようにする自己の統御 アウタルケイア:自己以外の何者も必要としない自己充足 -主体の解釈学-
posted at 14:58:59

RT @gameover1001: 日本人は、なんで用もないのに知らん人間の悪口を言うのに必死なんだ?と日本に住んだ中国人が不思議がっていたが、日本語インターネットに出入りしだして以来、わしも同感である。他人のことも他国のことも、どーでもいいんちゃうか?なんで、そんなに「他」が気になって悪口を言いたいのか謎である
posted at 22:25:00