(読書メモ) デカルトの生得説を無限遡行しないために方法(≒創出的方法)と方法論も逆説を抱えるというスピノザの知性改善論の論考、國分氏の『スピノザの方法』の第一部、朝読み終わったけど、総括はとてもよくまとまっていた。(^-^)/ http://twitpic.com/96fxcn
(承前)國分はスピノザ「知性改善論」は、知性は生得的だという論証の無限遡行の回避をしながらも、その方法を論じる無限遡行に陥っているが、エチカで解決したのではなく、そこには方法と方法論のスピノザによる混同があった、と立論しているようだ。
(承前)國分が批判するヴィオレットは、エチカで自然=神を思惟の端緒(神は生得的)とするためには、デカルトのような自然から神に近づく方法論は不要だった、だからスピノザは方法序説=知性改善論を挫折したと論じている。國分はそれに対する反論を用意しているようだ。第二部が楽しみ(^-^)/
(承前)知性=神の思考が(自然に)生得的というのは、無限論証を回避するソクラテス的言明であると同時に「転回=改心」とされるのだが、たまたま攝津君がFBでデカルト生得説とスピノザとカントの話をしていた。曰くスピノザは思惟を実体から属性にした。そこからカント=超越論はあと一転回。
(承前)スピノザは知性改善論で煩悩と気づきの話をしていて、その気づきをデカルトのように方法論に出来るか迷っている。つまり自然が神だと気づく=認める気づきを、どう教育したものか悩んでいる。自然が神に思える気づきは、偶然にしか起こらない。その偶然性の払拭を目論んでいるのだそうだ。
神を擬人化していない日本人には、自然が神に思えることが、何故こんな無限遡行=論証を生むのか、なかなか理解出来ない。そのために、自然に神を見るためのデカルト的近代以降を誤読する。たぶんハイデガーのテクネーを原発だ、という詭弁が成り立つのも、そういう文脈なのだろう。