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幾何学(順序)の時間化から脱構築へ

2012.06.18

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幾何学(順序)の時間化から脱構築へ
http://www.sunamajiri.com/blog/diary.cgi?no=234

デリダが脱構築するハイデガー的な時間は、もちろんフッサール的な内部時間だが、フッサールの省察を読むと、内部時間とは、スピノザがエチカ定理8までに終わらせた神を括弧に入れる証明の順序と大差なく見える。

2012年06月16日(土)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120616

フッサール省察第十三節超訳。思っている我を問わないデカルト的省察からの拡張は、我=主観性を研究対象に転換し、そのことで超越論的主観性の間主観性をも対象とでき、独我論を回避できる。
posted at 19:05:51

同十四節超訳。思う=意識なら、何を思うのかを問える。デカルトは思う対象を問わずに、思っている我だけを述定した。しかし、我が思われるよりも前から世界が信憑されているように、思っている我より、意識の対象を問うこと。志向性の地平化。
posted at 19:07:32

感想。スピノザによれば、デカルトは神を対象にするために我を置いている。つまり神を思う故に我あり。このように、デカルトは神しか思っていないから、思う対象を問わずに、思っている我を述定してしまった。フッサールは、我が思っているということより、何を思っているのかを、志向性と呼ぶ。
posted at 19:15:40

イデーンをデカルト的と反省する省察第十五節長くても超訳。自然的態度では世界存在が前提され、思っていることを問えないが、世界存在をエポケーすれば、先入観を免れて、思っていることを対象に思うこと=記述できる。それは自我分裂ではなく、同じ対象をめぐる自然的ではない超越論的態度だ。
posted at 20:17:34


2012年06月17日(日)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120617

フッサール省察第十六節の超訳。何かを思っているという意識の志向性を考えずに、感覚与件から心理学をすると、形態(ゲシュタルト)を先行する全体とする先入観に陥るが、先行するのはあくまでもデカルト的な思っている我であり、それを前提に心的内容も記述しなければならない。
posted at 18:54:02

フッサール省察第十七節の超訳。我が思う何かと何かを結びつける綜合こそ意識に固有とする哲学的方法(現象学)では、意識は何を知覚するかという心理主義を脱して、それと平行した想起などの直観も、我が思う何か(志向対象)として記述する綜合=意識の述定となる。
posted at 19:31:55

2012年06月18日(月)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120618

フッサール省察第18節。綜合としての内的時間。スピノザが原因を幾何学した綜合的証明手続きをフッサールは反省される内的時間と名付けてるだけね。我に遡行する内的時間以外は疑いの余地のある無限遡行ってスピノザの定理8迄の趣旨と大差なしね。 http://t.co/Jpytczbe

http://t.co/Jpytczbe - まるで、スピノザは定理8以降、原因をいわばエポケーするのだが、そうした幾何学的遡行を、フッサールは時間性として、外部の時間性に対する内的時間と名付けてるだけね。それによって、思っている我に遡行するという。
posted at 18:42:16

フッサール省察第18節の超訳。物を同一や他や矛盾と捉えるのは意識による綜合であり、意識もそれによって統一されるが、その思う(意識)が対象によって時間的に発生するなら無限遡行となる。よって、普遍的な全体を常に前提して「我がそれだけで存在する」という内部時間が見出される。
posted at 18:47:43

フッサールの内部時間って、スピノザの定理8までの幾何学的証明手続きの代替にしかみえない。ただしそれを順序ではなく時間性と言い換えた。抽象化かもしれない。
posted at 19:00:22

國分氏の結論http://t.co/WKHxYfS1 だと、スピノザはエチカ定理8以降、いわば神を括弧にいれてしまう。フッサールは、同じ無限遡行の問題を外部時間に対する内部時間として、括弧に入れるみたいなんだけど、フッサールはスピノザのように本当に我に遡行できているのかが問題だ。
posted at 19:08:10

このhttp://t.co/WKHxYfS1 國分さんの総括にある「しかるべき順序で導出するためにはまず神の観念」に「名目的に」「到達」すれば、他のものが実在化するというのは、読解の授業で、まず神という名目を踏まえさせると、文が自動的に読めるようになるというのと完全に同じ。
posted at 19:29:06

http://t.co/WKHxYfS1 國分氏の立論では、デカルトは神という観念に到達するために、つまり神を思うために我を命題化したが、到達していない。しかしスピノザは名目的神を実在性と証明することで、定理9以降、神を括弧にいれて、我を語り始めてしまう。それが順序という概念。
posted at 19:31:50

そのスピノザの神を括弧に入れて我に遡行する(我が神以外を思えるように自動化する)順序を、フッサールhttp://t.co/Jpytczbe は神という名目を禁忌にしながら、内部時間や現出と抽象化していってしまう。もちろんその後デリダが脱構築するわけだが。大した問題に思えない。
posted at 19:33:32

フッサールの内部時間を、ハイデガーは時間と言い換えるのだろうが、そうした現出(神という名目により物が実在的に思えるようになること)は、脱構築が可能にしか見えない。
posted at 19:35:01

なので、國分さんは、証明手続きの総括http://t.co/WKHxYfS1 で、「出発点に到達するために出発するという(西欧哲学)の矛盾は(すべて)解決されている」と述定したことになるように、見える。つまりスピノザは決定論という「通用の仕方」は、誤読に見える。
posted at 19:38:29

・・・ということで、QED(証明終わり)ならぬ、脱構築ほぼ終了。外部時間にもどる(^-^)/
posted at 19:40:16