言語の事物化という話や、永井均の西田幾多郎論から脱線して、西欧を和訳するのは仏典の日本語化以上に何かを欠如させる、日本語は言語ではないのかもしれない、という文脈の自分用ツイート切抜きです。
2012年05月23日(水)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120523
RT @jai_an: 世の中の人は、みんな同じように間違っている。これを超越論的仮象と呼ぶ。言い換えれば、正しく間違っている。
posted at 01:58:49
芦田氏のhttps://t.co/8phFdk3h は、日本の哲学界https://t.co/wbndZCDd の不甲斐ない、翻訳https://t.co/E1TXry0G つまり日本語化された西欧哲学の何らかな誤訳という意なのかな?(・_・;)
posted at 06:56:49
芦田氏の話https://t.co/AiOOA0rg 多分、明治以來の西欧哲学の和訳化は、それこそ大野晋http://t.co/fNBL4aAu じゃないが、かつての仏典や漢語の和訳?化より、問題を孕むということだろう。特に存在より言語という概念の誤訳が孕まれてそう。
posted at 07:06:39
外来の概念を素朴かつ軽薄に受け取れる、という脳天気が気になるわけだが、それ以前に仏典も満足に薬籠中とできなかったというのは、和訳というか、訳そうとする側の言語がどこか不全なのかなと、いつも考えてしまう。膠着語にアーリア語族は訳出しない方がいいのかもしれないw
posted at 07:18:50
よく日本語は柔軟というが、じつは根本的に日本語に訳せない事柄があって、それに真摯に向き合えるかどうかだけが、国内では学者の真価になってしまうという話。なかなか面白い。
posted at 07:32:00
極論だが最近、日本語は言語ではないのではないか、とさえ考えてしまう。大抵の人は日本語は柔軟で外来のすべての概念を吸収しているつもりなのだが、最も肝心な事柄だけが日本語にできない。そんな気さえする。
posted at 07:38:13
二葉亭四迷から夏目漱石に至る言文一致の成立史、つまり日本近代文学も、じつは翻訳文体が確立できず、翻案をすることで、何かを取り忘れるという系譜だったのかも知れない。かつての仏典以上に、近代化した西欧的主体、つまり懐疑という問題は翻案では訳出しきれず、寧ろ欺く神を翻案した気さえする。
posted at 07:49:32
出版不況とか読者離れといわれるけど、実は新書とか最近の解説書はかつて無い程充実してるから、興味のあるテーマを片っ端から読むだけで、かなり意識がしっかりしてくるよ(^-^)/ @yango_ritsukosk わかりました!
posted at 07:57:54
RT @neajazz: はっとさせられました。なるほど。RT @sunamajiri: 極論だが最近、日本語は言語ではないのではないか、とさえ考えてしまう。大抵の人は日本語は柔軟で外来のすべての概念を吸収しているつもりなのだが、最も肝心な事柄だけが日本語にできない。そんな気さえする。
posted at 08:07:34
意識ってそのままでははっきりしないからね。人は何かの因果関係を意識しようとして、対立点(対立項)が生じた時、何か概念的な明確な意識になるだけだから。それ以外に、意識が確かにあるわけではない。だから常に対立項に身を晒さないと、どんどん不随意になっていくよ、つまり寝ちゃう(^-^)/
posted at 08:08:40
寝るときに、何か対立的な悩みがあると、なかなか意識が消えないでしょ? だから意識をしっかりさせるためには、常に対立点を模索していないと、たぶん寝ちゃう。(^-^)/
posted at 08:10:33
よく日本語では主客は問題点にはならないという話をきく。言語は主述で主客の対立を起こす、おそらく意識化なのだろうが、ご存知のように主語を省略したほうが自然な日本語では、主客を問題にしづらいということなのだろう。まるで対立点のない意識の睡眠状態にすら見える。
posted at 08:29:29
今私がツイートした文にも主語がない。この文にも主語がない。もし主語を付けるなら「私は、今私がツイートした文にも主語がない、と~した」とかになるが、従節だけで疎通ができてしまう。それが日本語の不思議なのだが、一方で、事物自体を直接客体化しやすい、ということはあるのだと思う。
posted at 08:34:02
最近の米語なども、一人称(や二人称)という主節を省略して、従節だけのコミュニケーションになりつつあるように聴こえる。つまり、哲学の近代化は観念論というより、従節であった事物そのものの主体化、みたいなところがあったのだと思う。客が主になるような言語を、どれだけ意識化するかみたいな。
posted at 08:41:11
永井均の西田幾多郎-デカルト論を読んで感じたのは、おそらく日本語だと、この客が主になるのを、あまり意識化できないのではないかという点。主従ではなく主述がうまく意識化できない。だから剥き出しの事物が言語化されてしまう。事物即言語のようになり、言語が本来意識化させるようなものがない。
posted at 08:52:10
https://t.co/xWUD4MnB 日本語は柔軟ではなく、実は根本的に和訳できない何かを抱える言語ということだが、明治以来の実学、あるいは世界の奇跡日本の学部新卒の人達が、学ぶよりも却って何かに屈託なく直面できていたというのも、言語の特性によるところが大きい。
posted at 11:02:30
とはいえ、この(対象)に直面させすぎる便利な言語https://t.co/gQjuooJL も、そろそろ限界に見える。たぶん対象がある(と信じている)時だけ、うまくいく言語だからなのだと思うのだが、そんなに(世界に)対象があるのかと、訝しく思う。
posted at 11:12:18
たとえば、現代文という学科は難読文を概念化すると正解と言ってよいのだが、それも柔軟なはずの日本語が、実際には経文のような難読文を生むからできる国語教育であるに過ぎない。西欧で古典以外の難読性は、私達にとっては安易な造語や符牒の方にあったりする。
posted at 11:31:33
日本語の病理の話ついでに、國分氏の博論「スピノザの方法」、断定を避けるために却って断定してしまうような、独特な論述の文体の飛躍があって、難読な語り口ではないものの、厄介なテクストになってしまっている。哲学科ではないものの、日本の http://t.co/6UZCWrXI
posted at 12:30:14
日本の博論がおかしいのかもしれない。たとえば断定を避けているのに、予告(参照)なく、他の概念で言い換えて断定し、その関連性は示唆だけで、はっきりと命題化されない。しかし、その枠組自体は、問題の解決と繰り返される。この示唆文体は新たな難読文なんではないかと思えてしまうほどだ。
posted at 12:31:48
結局のところ、國分氏は、知性改善論は定義論で、デカルトの太陽の刺激の例と対比して、幾何学と神を弁別したが、エチカでは、無限遡行に陥らない「命名される神」(という解決を生んだ)、という話をしているだと思うのだが、どこか論述が撞着的だ。それはスピノザにある問題ではない(気がする)。
posted at 12:35:41
https://t.co/q7IoRrku 日本人は生物機械になるの好きね。人間になるための文明とか考えない。経済が進化論で説明されるしかなくなると人間やめて機械になるのが全てと錯覚する。人間が生物なのは当たり前だろうが、その上でどう向上するか考えないから低迷するとは発想しない。
posted at 13:22:42
RT @zeroichinose: アリストテレスは個々の具体的な事物が「ある」ことを哲学上の問題として提起している。そして彼はそれら諸事物の存在が存在として成り立っている究極的な原因を解明することを試みた。
posted at 13:59:14
RT @suna_kago: 柄谷行人がクリプキの哲学を通じて言おうとしたのは、固有名の単独性と並んで、命名行為の社会性でもある。社会的な命名とは、要するに子どもを名付けること(名付け親になること)を指しており、それはすなわち、かの吉本隆明が語った「対幻想」を理論的に受け継ぐものだったのではないか。
posted at 14:00:59
https://t.co/mpD3ybmY 諸事物の原因を、存在と命名する社会性https://t.co/TlwnWDK4 まで、単純に名前を事物にする=存在化させる言語は様々だ。
posted at 14:08:44
RT @aoinatsunosora: これをコマを使って説明できないか検討中です。 RT @jai_an: とりあえず、「世界-内-存在」における〈世界〉。 RT @caviar_asai: @jai_an 昨日の議論は興味深く拝見させていただきました。ところで芦田先生ご自身は、物と物との関係は物だと思いますか?
posted at 14:33:34
RT @Schopen_bot: 事物の各個ごとの作用については、事物がまさしく今、ちょうどこの場で作用せざるを得なかった帰結についてなんらかの原因を立証することはできよう。しかし、事物がそもそも、そしてまさしくこのように作用するそのことについては、けっしていかなる原因も立証はできない。
posted at 14:46:00
今日は事物の哲学の日だな(^-^)/
posted at 14:46:20