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スピノザの宇宙の言論的転回

2012.05.11

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2012年05月08日(火)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120508

変な思弁を書き留める夢をみた、曰く「神は語義だから非超越者にならず単に存在する。宇宙も語義としてなら有限にならない。 神を存在という語義以外とすれば却ってそれは存在できない。神=語義が存在できる。この言明だげが固有な発言者=人に属さない。この言明だげが人を超越者にさせない。 」
posted at 21:13:46

夢の中の思弁の続き「神という語彙を抑制すると超越者が生まれるか、その語彙が言及されずとも神という語義があることになるかのいずれかだ。神という語彙も単に存在する。」どうも十七世紀という近代の根本問題に思いを馳せすぎると、やはり言語論的転回で神という語彙が再出現してしまうらしい。
posted at 21:21:23

RT @femmelets: 多分大本さんがお書きのことはそれほど意味不明にならないと思いましたが。近代人が神の観念を厄介払いしても、神の代わりに他の何かを信じないなら、その人の生活は成り立たないんじゃないでしょうかね。全く何も信じないというのは事実上不可能だと思いますよ。恐らくは。
posted at 21:36:37


2012年05月09日(水)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120509

國分第二部は先日堪能しすぎた。その総括の通り、デカルトのいう観念が、既存の神の表象のことだとスピノザによって転回された。実在としての神(の妄想)に匹敵することなく、語彙としての神の存在を証明すること。まさに表象論的転回だ。 http://t.co/bDqGOBSk
posted at 03:20:03

17世紀という近代の根本問題を勉強していると、夢までみてしまう。https://t.co/q0r4umEM まるでスピノザがデカルトの精神分析者や、ソシュールに見えてしまう。近代が神という語彙を不可能にし、神を実在化させる(超人化させる)問題として、再度整理されるかのようだ。
posted at 03:24:09

スピノザをソシュールに重ねる(つまり言語論的転回として見る)と、神の実在というより、神という語義の存在証明に見える。そういう話なのだが、最近はそういう夢ばかり見るようになってきてしまった。https://t.co/IhPto3sO
posted at 03:27:02

個人的には、近代の日本語への受容という一点だけが関心事だ。言い換えると、神という語義が、日本語の近代化から、どのように抜け落ちていったかに関心がある。なぜなら、スピノザが言うように神という意味は、語義としてのみ存在できるからだ。
posted at 03:40:54

その点で、スピノザが日本では全集化が失敗し、マイナーな部分的訳出として言説化されているのも興味深い。乱暴に言えばドイツ観念論のカウンターなわけだが、それが日本語化されていないとも言える。ある重大な語義を日本語化しないことで、日本語の近代化が成立している。
posted at 03:47:28

國分氏はスピノザを脱表象論とみなすことで、明確に「哲学の解決」と言明するのだが、それはまるでドイツ観念論的な日本の「哲学部」の解決に見えてしまう。彼が哲学部でないことが重要だと、私はこの本を読み始めた時に言ったのだが、それが実感となってきている。
posted at 03:51:10

日本語の近代化とは、先日ムハメット氏https://t.co/i5VmpyjQ が言うように、西欧の漢字化であるわけだが、それは西欧の神を表象化した反面、じつはスピノザが証明するような神という意味の存在を、漢字化=存在化できない、ことのように思えた。
posted at 04:00:35

https://t.co/FeNG1WCG デカルトが存在証明した神は実在の神(既存の表象化した神)だが、スピノザは神という語義が存在できるかを証明する。しかしそれが日本語化されていない。
posted at 04:04:07

日本でスピノザ全集は一度2巻まで出されたが、ドイツ語からの間接訳と、畠中氏に指摘されて中断したのだという。https://t.co/39cHlsHI
posted at 04:06:52

畠中訳を踏襲する國分氏だが、一点だけ畠中訳の重大な誤訳を指摘するのも、スピノザの観念が、デカルトとは異なり、実在(の神)を指示していないのに、実在の表象(再現)であるかのように誤解させる箇所だけだ。http://t.co/bKtLHwPW
posted at 04:11:55

RT @femmelets: そのカントにいいたいことは、神や宗教といった捏造物を信じるのを即刻やめるべきであるだけではなく、くだらない道徳を信じるのも今すぐ直ちにやめたほうがいいということだ。神は理論的に認識できない理念だとかいっても、道徳的、実践的に神が復活するなら全く無意味である。
posted at 10:48:17

素晴らしい(^-^)/@femmelets まさに、道徳的、実践的にこそ、神を否定すべきなのだ。デカルト、スピノザ、カントなどよりも、17世紀のリベルタンの思想と実践のほうが、遥かに優れているし有意義である。哲学者連中は、不敬虔な民衆のことを悪く言い過ぎるというのが、通例である。
posted at 10:49:00

RT @femmelets: ベルクソンよりもアランが好ましいし、アランよりもヴァレリーが好ましい。カミュよりもサルトルのほうが好ましいし、メルロ=ポンティはもっと好ましい。フーコー、ドゥルーズ、デリダを読むことに意味があるとは思わない。マルクス、ニーチェ、フロイトは粗雑で不確実である。
posted at 10:49:18

ところで、このメルロ=ポンティの素晴らしさというのが、私は知らないので分からない。教えて(^-^)/ @femmelets ~メルロ=ポンティはもっと好ましい。フーコー、ドゥルーズ、デリダを読むことに意味があるとは思わない。マルクス、ニーチェ、フロイトは粗雑で不確実である
posted at 10:50:30

RT @femmelets: @sunamajiri 心身の両義化といえるのかどうかちょっと分かりませんが、メルロ=ポンティには彼なりの心身問題についての考え方があり、『心身の合一』という題名だったか、本になっているはずです。議論の細部は忘れましたが、確かにデカルト的二元論では全くありませんでした。
posted at 13:52:52

知覚される身体は、対象を持たない言語と同じように、主客両義的という話なのかなと、なぜか勝手に思い込んでいたのですが、ちゃんと読まないとだめですね(・_・;)@femmelets 確かにデカルト的二元論では全くありませんでした。
posted at 14:05:43

RT @femmelets: @sunamajiri メルロ=ポンティにとって身体は、精神か物体かというデカルト主義的二元論で割り切れるようなものではなく、《生きた肉体》であり、最終的に『見えるものと見えないもの』で《肉》と規定されます。《自分に触れる身体が同時に触れられる身体でもある》交差配列(キアスム)。
posted at 14:16:33

現代思想は性感論みたいに聴こえることがよくあるんですが、このあたり非常に晦渋な雰囲気があります、和訳を読んで理解できるかなー(・_・;) @femmelets ~《肉》と規定されます。《自分に触れる身体が同時に触れられる身体でもある》交差配列(キアスム)。
posted at 14:21:24

ちなみに精神科に入院してしまう哲学者が、ポンティ論をやっていて、たしか俗っぽくいうと、性感の話から気が触れちゃう、という印象があるので、怖いので近づかないようにしていたんです。彼の論文がどっかにあるんですが、途中から読めなくなる(・_・;) @femmelets
posted at 14:24:05

思わず性感論的転回とか言いそうになってるんですが、私に理解できるか自信ないです。WIKIをちょっと確認したのですが、「既に言葉と対象を一致させた次元から始めるのではなく、そもそもの言葉の生成からの考察がある。」が気になりました。(・_・;) @femmelets
posted at 14:29:50

しかし、ハイデガー→メルロ=ポンティーが、思想的に前景化してくるようですね。存在の肯定がどれほど困難かという否定的な意識はたぶん思想たりえないのでしょう。ちょっと勉強の(研究ではないです)射程にいれないとならなさそうですね。(・_・;)@femmelets
posted at 14:34:32

ほんとはクリプキをもう一度読んで、ウィットゲンシュタインをもう一度読んで、ゲーデルの数式が理解できない辺りを慰めようとおもっていたのですが、そんな《作られたパラドックス》に囚らわれるより、実存か現存在か身体をもっと肯定してあげないと、殺されるだけなんだわきっと(・_・;)
posted at 14:37:58


2012年05月10日(木)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120510

RT @femmelets: @sunamajiri 私はハイデガーの哲学思想についてはそれほど詳しくありませんが。ただ、彼は、著作よりも講義のほうが遥かに分かりやすいというタイプの思想家の一人です。そういう人々は結構います。例えば、『カントと形而上学の問題』を読むより、同じテーマの講義のほうが読み易いです。
posted at 04:46:05

RT @femmelets: @sunamajiri 触わる、触れる、触覚というところから考察する人々は、メロ=ポンティ以外、余りいないように思います。触覚が五感のうちで根源的だという発想は結構あるのですが。
posted at 04:46:08

RT @femmelets: @sunamajiri それほど難しい話ではないですよ。《自分で自分が話している声を聴く》(デリダ)、《自分の手が自分の手に触れるのを感じる》(メルロ=ポンティ)というのは、一般的にいえば、カント以来の《自己触発》という問題系に属しています。
posted at 04:46:20

RT @femmelets: @sunamajiri 流行の後には沈黙するといいますか、ジャン=リュック・ナンシー、ラクー=ラバルト以降フランス思想がどうなったのか、全く情報がありませんね。
posted at 04:46:23

私は薬物は合わないのでやらないのですが、アメリカでマリファナやらされたときに、急性中毒みたいに気を失って、数分後に意識が戻ったら、自分は喋ってないつもりなのに、自分が喋ってる声が彼方で聴こえる、という幻覚体験をして、デリダのはそれかなと思ってたんです。@femmelets 《自分で自分が話している声を聴く》(デリダ)、《自分の手が自分の手に触れるのを感じる》(メルロ=ポンティ)
posted at 05:01:11

この存在・無というのは、どうも大戦への言及性がありそうなんですよね。今度読んでみましょう(^-^)/ @aoinatsunosora 第二次世界大戦というアクションへの両者の違いがよく分かる本です。そしてそれは互いの「存在・無」への示唆に充ち満ちています。面白いですよ。
posted at 05:05:14

フランスの思想は、ナショナルランゲージの存在論みたいに見えて、彼らの言う「存在」が何を指しているのかは、あまり役に立たないようにずっと思ってたんです。国語思想の論点としては宇宙的な印象はあるんですが。何かあるのだろうか?(^-^)/ @aoinatsunosora
posted at 05:17:00

RT @Novalis_bot: 因果性の概念は、たとえば、ある種の関係の恣意的記号(超越論的記号)である。超越論的論理学。 『一般草稿』
posted at 06:00:04

RT @wit_bot: 他人の深層をもてあそぶな。
posted at 06:59:02

RT @femmelets: @sunamajiri デリダは《自分で自分の声を聴く》という伝統をカントというよりも、プラトンにまで遡って批判していたはずです。デリダの特異性は、自己触発や自己の自己への純粋な現前を徹底的に批判していることでしょう。彼以外にそういう意見を知りません。
posted at 09:10:58

RT @femmelets: @sunamajiri 恐らくそういうことではなく、超越論的な思考そのものへの批判でしょうね。それはカント以降と考えるのが普通ですが、西洋哲学は最初からそういうものだった、というのがデリダの意見です。
osted at 09:11:00

そうですね、私はデリダは結構昔英語で読んでましたので、わかります。わからないのはメルロ=ポンティのほうがすごい、という昨日の点なんです。デリダは超越論的なものを脱構築しますが、それに対してメルロ=ポンティには何があるんでしょう?知覚? @femmelets
posted at 09:13:37

『弔鐘』は批評空間で昔読みましたが手許にないです。東が『郵便論的~』で否定神学としてのハイデガーに絡めて何か言ってましたね。RT @femmelets メルロ=ポンティのほうが凄いというよりも、デリダの主張、特に中期はよく分からないところが多いということですよ。『弔鐘』とか。
posted at 18:17:45


2012年05月11日(金)
http://twilog.org/sunamajiri/date-120511

ところで、國分本は、同じく博論の東の郵便論的~との対照で読みたくなったと前ツイートしたんですが、東の冒頭に、ゲーデル問題、あるいはハイデガーの否定神学に呼応して、デリダは散種・弔鐘・手紙で非形式言語化した、というのがありましたね。この点はいかがですか? @femmelets
posted at 06:29:42

最近はWIKIに存在論的郵便論的のまとめまであるのね。びっくり(・_・;) http://t.co/fExegdDE
posted at 06:36:18

デリダの中期をゲーデル問題とハイデガーの否定神学へのある種の抵抗として東が博論を書いたわけですが、WIKIでは東が依拠した柄谷行人のゲーデル理解は誤謬という指摘があったんですね。http://t.co/fExegdDE @femmelets
posted at 06:41:49

東の博論は出版当時2~3度読み返しましたが、デリダ中期の非形式性を手がかりに、ハイデガーを否定神学http://t.co/57xSlpIO と見做すんでしたっけ?そろそろ思い出せなくなっています。時間が立つのが早い。(・_・;) http://t.co/PcsDNKmq
posted at 06:47:09

ところで、日本には新書という、専門書とは別の系の教養書が充実していて、これは欧米にはない事情だと以前ツイートしたんですが(続)
posted at 06:54:41

(続)講談社新書の上野修のスピノザhttp://t.co/VYvlndQFは、NHK出版の「無神論者」は宗教を肯定できるか」http://t.co/brXT29sZというコピーライティング的に弄れたタイトルをつけたシリーズより、直球で面白いです。
posted at 06:58:52

(続)國分氏が「分かることを分かる」のを「伝えられない」という逆説を指摘する知性改善論から上野修も新書を書いていて、哲学を「どう生きるか」より前に、事物に語らせる幾何学(いわば形式化)だ、と見做しているのが、大変面白かったです。 http://t.co/O3RFRxfr
posted at 07:05:20

そして、観念と事物が、神という語彙において、存在するほど転回される?という、スピノザの逆説を探るべく國分氏にまた回帰してしまう。この逆説は東が見逃したらしいゲーデル的矛盾を、どこか解決するように見えてしまう? そんな夢を見そう。http://t.co/bDqGOBSk
posted at 07:10:38

■ツイートまとめブログ■「スピノザの宇宙の言語論的転回」http://t.co/eiHIv89H 言葉が存在する(^-^)/
posted at 07:22:07

RT @curatorshinya: 言語の違いとは、宇宙の切り取り方の違いに他ならない。私は異なる言語を通過していく中で、異なる言語の型によって切り取られた宇宙が、顕在意識として認識される以前の無意識の段階でどうなっているのかさえ、もう少しだけ正確に把握できる様になれた気がする。
posted at 07:25:03

RT @curatorshinya: 敵対概念を不可避的に生み出してしまう、ギリシアの民主主義から発達した近代国民国家から脱却できる様、知恵を絞る正念場に来ていると思う。自由意志を前提とした現行型のシステムではなく、梵我一如を前提とした新たなシステムを、アジアから、日本から構築できないだろうか?
posted at 07:31:21

RT @curatorshinya: 日本人という、想像上の存在がネーションとして固定化して行った歴史は、まだ150年ほどしかない。そうだとしたら、何故私達の中にあるエジプト人やペルシャ人の文明の歴史を感じて、それを近代によって成立した想像上の存在以上に大きなものとして大切にし、共有することができないのだろうか?
posted at 07:31:48

RT @curatorshinya: 近代から生まれたフィクションのフィクションを連続体として捉え続けることで成り立っているのが意識であり、それを可能にしているのが時間ではないか、とふと考えたら、私はデリダの差延と結局同じことを考えているのではないか、と気がついた。
posted at 07:37:15

スピノザが精神分析するデカルト

2012.05.04

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スピノザが精神分析するデカルト

この前の摂津氏とのこの対話は、私が深夜、彼が昼間、という時差のため食い違っていたような面が強く、流してしまうべきなのですが、いちおう個人用に一部略しながらログっておきます。なおツイログは
http://twilog.org/sunamajiri/date-120502

スピノザに性差(ジェンダー)論を持ち込む無益さは承知のうえだが、デカルトはどうだろう、という文脈になっていたようです。

結果的に、私がフロイトからスピノザをデカルトの精神分析者、と読もうとしていた、ということなわけですが、それは私は確信犯的なのです。すなわちこれは、それが明らかになるまでの過程として記録したいのです。

2012年05月02日(水)

今度は社会の問題だとはじまるでしょ? 國分のテクストに社会なんて語は現在までのところは乗ってないんですよ。無神論なんて話もでてこない。私は何一つ解釈で加えてないですよ。それは最初から何度も言及していることです。@femmelets
posted at 06:52:55

國分氏が論じているスピノザとデカルトは、神という語義がある。それは全てを含む等という語義らしい。それは理解が出来る、といっただけなんだけどなー。なんで無神論がどうのとか、私の主体性に問題があるということに、されるのだろう。神はスピノザを論じてても禁句か何かなんだろうか?
posted at 07:06:22

そもそも哲学の問題として読んでいるのであって、宗教や無神論の問題だといわれるたびに、それは違うのでは?といっているに過ぎない。だから見解が異なるとも思えない。
posted at 07:22:04

17世紀のスピノザだろうと今日の國分氏だろうと、彼らの論じている問題が、神学の問題ではなく哲学の問題なのは、素人にも分かるでしょう。それを神がいるとは思えないと言われても、なぜそう思うの?としかききようがない。私に関心があるなしにかかわらず。どうでもよいのだけどねそれは。
posted at 07:32:36

そんなこたないだろう。情念は誤解のようだが、要約を一々意味不明な文脈に持ち込んでるのは、私の方ではない。たしかにお話自体は楽しくないわけではないし、同意がないわけではないが、そういう主観的な批判を受ける覚えはない。@femmelets
posted at 08:08:27

はじめに左翼とか主体性ありき、という哲学の偏向した読み方が、いまだにあるとはおもわなかった。そんなものは遠の昔に終焉してるのかとおもっていた。すさまじい抵抗だな。
posted at 08:14:30

たしかに現代文は左翼的な言説と直面するが、國分氏のような純粋に精緻な研究まで、直接読むな、留保しろと言われる筋合いはないのである。もしそうなら異様すぎる。海外生活者の感じる違和感が、必ずこうして排除される言説空間なのよね。こまったもんだなー。
posted at 08:29:56

子供に匿名と実名の違いを教える時代で、匿名だと男が偉いといえても、実名でそれ正論になる?って訊かざるをえない。だから、画一より多様性が正論なのよって。子供たちわからないからね。右傾⇔左傾もこの関係あるよねー。
posted at 08:49:03

左翼は自己になろうとするけど、特に左翼でないというか、売名的でないと、とくに自己になろうという動機がないのよね。他者のままというか(^-^)/
posted at 08:50:03

RT @femmelets: 私は、例えば、《性的主体》への飛躍が困難だといいたいだけです。無理にデカルトやスピノザと関連づけるならば、恐らく、《懐疑》ではなく《身体》の問題として考えるべきでしょう。純粋思惟には性別はないからです。
posted at 10:22:23

なるほど。それはそうですね。國分氏はスピノザの欲求する主体の話を何度かしてますが、確かにスピノザ自身が傍論にしてますね。スピノザが論じる範囲のデカルトに於いては微塵もその要素はない(意識化)されてなさそうですね。@femmelets 、https://t.co/cxeoDc1G
posted at 10:27:53

これは面白い点ですね。性(差)の話で先日言いたかったのは、それこそ個人的な話ですが、性的表象のような客体愛というのが男性的な特徴に思え理解できないということだけです。しかしそれは別にデカルトからではなく、ただ身体がそこにあったと。@femmelets 純粋思惟には性別はない
posted at 10:34:20

RT @femmelets: スピノザがはっきり女性や恋愛、性について書いているのは一ヶ所です。男性が愛する女性に振られますと、彼は苦しみ彼女を恨みます。ところが、彼女が彼を再び迎えてくれたら、あれほど苦しんでいたのをさっさと忘れてその女性のところに戻ってしまいます。
posted at 10:35:38

RT @femmelets: スピノザにとってはそれは人間の情念、隷属の問題でしたが、私はもし、人々がプラトンやスピノザなどの哲学者の忠告に耳を傾けていたなら、人類はとっくに滅びていたはずだと思います。
posted at 10:36:37

RT @femmelets: @sunamajiri 客体愛というか、《見る》ことの特権視、そして、感覚及び認識というのは考えてみると面白いかもしれませんね。認識が眺めること、《観照》のイメージで考えられてきたわけです。眺められるのは美しい女性や少年でしょう。そこには性的な欲望や動機があったかもしれませんね。
posted at 10:43:13

RT @femmelets: @sunamajiri プラトンは《美しい少年》から離れて、《美そのもの》、《美のイデア》を観照するのだという話になりますが、プラトンがどう考えたかはともかく、美しい女性や少年を眺めることなしには美のイデアもあり得ないでしょう。
posted at 10:43:24

この見られる快感というのは、何となく理解できなくないんです。見る快感というのは、個人的には謎なのです。まあ目の保養なのでしょうけど。@femmelets 《観照》のイメージで考えられてきたわけです。眺められるのは美しい女性や少年でしょう。そこには性的な欲望や動機があったかもしれ~
posted at 10:46:56

RT @femmelets: @sunamajiri デカルトやスピノザではなく科学の考え方ですが、身体、特に脳なしには意識も思考もないでしょう。そして性欲も、性器ではなく脳に由来するそうです。ですから、前近代における去勢された宦官からも性欲はなくならなかったそうです。
posted at 10:47:31

性の話といえば、フロイトから読むのはいかがですか? ちょうど今朝のツイートまとめでフロイトまで思わず行ってしまったhttps://t.co/pao38tzh デカルトはそこまで明文化しないが、フロイト的には語られていなくても、より大きな全体があるみたいな。@femmelets
posted at 10:54:30

RT @femmelets: @sunamajiri 性を思考できないのはデカルトだけではなく、ジェイムズやフッサールなどの19-20世紀の哲学者もそうでしょう。彼らはフロイトを読みましたが、あれこれと引っ掛かって同意できなかったそうです。そのことには幾つか理由があったでしょう。
posted at 10:59:43

RT @femmelets: @sunamajiri ウィリアム・ジェイムズはともかくフッサールはデカルト的ですが、《内観》という彼らの方法では、リビドーであれ、自我-超自我-エス、性衝動-死の欲動であれ見出せないし、神話的な思考だと考えてしまうことになるでしょう。

面白い話なのですが、目がしょぼしょぼで限界です。どうも夜型の私は攝津さんとは時差があるようです。そろそろ離脱モードです(^.^)/~~~ @femmelets
posted at 11:11:35

それにしても、男子は見る楽しみがあって羨ましい。女子もイケメンを目の保養にはするが、だからといってポルノみて楽しいと思ったことないからなー。気持ち悪いじゃない?(・_・;)
posted at 11:14:46

RT @inazumaoryu: @sunamajiri そうですよねー(-_-)でも、私には理解不能なんですが、少女漫画のホモもの好きな女子は沢山いますよね。男子がレズもの見るのと同じ感覚なのでしょうか(・∀・;)
posted at 21:15:45

さあ?腐女子っていうんだけど理解できないね。自分は参加せず見ているだけといことらしいけど。この見る性(セックス)というのは、感覚的に理解できない。@inazumaoryu 私には理解不能なんですが、少女漫画のホモもの好きな女子は沢山いますよね。男子がレズもの見るのと同じ感覚
posted at 21:17:27

津田さんっていう最近売れているネット評論家が、この前、腐女子が女子のデフォルトだとツイートしてたけど、参加しないで見ているだけ、というのが何で女子の性的なデフォルトなのか、いまいち理解不能だった。男子空はそう見えるのかな? @inazumaoryu 、少女漫画のホモもの好きな女子
posted at 21:18:56

忘備録:スピノザ→デカルトを、フロイディアンで、デカルトの意識化として読む。そんな話を午前中していた記憶がある。以上、メモメモ。
posted at 21:20:42

RT @inazumaoryu: @sunamajiri 覚えています。あれは考えてしまいましたよー。私は女性ホルモン足りないからわからないのかなーって思ってました。見るよりやるほうがいいに決まってる(^_^;)
posted at 23:22:21

女子ホルモン足らないと、参加しないで、見てるだけとか、考え込んだりするらしいよー(^-^)/@inazumaoryu QT: あれは考えてしまいましたよー。私は女性ホルモン足りないからわからないのかなーって思ってました。見るよりやるほうがいいに決まってる
posted at 23:44:04

フロイト以降の私達にとっては、スピノザがデカルトの精神分析者にみえちゃうという罠。
posted at 20:24:18

無神論は真に可能なのか?

2012.05.02

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無神論(全てを含まないこと)という随意は可能か?

2012年04月29日(日)

RT @femmelets あなたの意見が分かりません。「数学や無限や神」などと等置できるのでしょうか。「表象する自己」との関係をそれほど簡単にいえるのでしょうか。私にいえるのは、17世紀の哲学が神を無限者として、自己(私)を有限者として捉えたということだけです。

2012年05月01日(火)

土日は授業の合間なので十分に汲み尽くせないことがあるのですが、ご指摘の点は同意です。勿論、17世紀の無限=神と、現代数学の無限は同定できない(差異がある)。どうもTL上、直前の読書ノートへの反論と、寝ぼけた車内で誤解したようなレスをしたみたいです(^-^)/@femmelets
posted at 23:09:32

國分テクストの読みが土日から中断してますが、私は何も17世紀の無限=神を、現代の複素数の無限性に同定したかたったわけではなく、逆説的に言えば、たしかに17世紀のテクストには「無神論は実在していなかった」という、確認をしただけでしょう。@femmelets
posted at 23:20:45

私も宗教を前提に17世紀テクストの問題を読んでいるつもりはないですが、逆になぜその後無神論が可能になったのか、という興味は否定できない。哲学的に神という語義は「全てを含む」程度でしょう。その語義を前提としない無神論的テクストが本当に可能なのかと考えるわけです @femmelets
posted at 23:30:57

RT @femmelets: 17世紀の主要な哲学者のテキストには無神論は存在しないでしょうが、同時代のリベルタンにおいては存在していたでしょう。
posted at 23:31:47

つまり歴史的にはそうなんでしょう。しかし今日があります。なぜ「全てを含む」という語義に過ぎないものを、皆無化できたんでしょうか? @femmelets 7世紀の主要な哲学者のテキストには無神論は存在しないでしょうが、同時代のリベルタンにおいては存在していたでしょう。
posted at 23:33:38

そこで國分氏の論を読んでいるわけです。私ではなく、國分氏がデカルト=表象論と明示した訳ですが、その延長で、「全てを含む」という数学的な語義が、何らかな歪み被っただけではないのかと仮説を立てて、読まざるを得なくなっているのです。つまり無神論は可能なのかと。@femmelets
posted at 23:41:54

おそらく、デカルトは、「全てを含む」が存在するというのは、詭弁になるから懐疑論者を説得するために、アナロジーで「広大な存在ならある」とするわけですが、それは単なる便法にみえるのです。つまり懐疑論は可能なのかと、思えてしまっているのです。@femmelets
posted at 23:46:42

同時に17世紀と現代のタイムラグがある。その間に超越論的転回もあった。しかし現代数学では単に無限は有限の先ではない、というだけです。この名付ければ無限の転回から捉えると、すべての懐疑は実は懐疑ではないのではないか、そんな危険な仮説から読んでいます(笑) @femmelets
posted at 23:50:21

もちろん、この國分氏を哲学の解決として読む読み方は、危険、つまり哲学的主体、あるいは私性や、懐疑する私の、全面否定なので、大変危険な匂いがするのですが、しかし対立項として立てるのには、面白い気がしています。まあ個人的にはそれだけなんですが・・・ @femmelets
posted at 23:57:52


2012年05月02日(水)

というのは、この懐疑主体の素朴な否定は、17世紀の無神論者のリベルタンでもそうですが、性の主体性の問題になってしまう。単純に、性が繁殖だけのためで、主体の快楽のためではない、という論点に帰着しそうです。懐疑の解決はしかし、そういう二分法の解決なのでしょう。@femmelets
posted at 00:04:40

こうした懐疑・無限・性という問題を、何らかな形で隠蔽してしまうのが、その後の転回的な言説なのかしら?と素朴な疑問が浮かんでくるほどなのです。いかがでしょうか?(^-^)/ @femmelets
posted at 00:06:15

よくわからないのだが、デカルトとカントをマルクス的史観でくらべると、主体が何かを隠蔽するものとして立ち現れると感じる。史観はしたがって、もう一度転回されなければならないのだろう。つまりマルクスよりカント、カントより柄谷的哲学の起源へ。もちろん哲学とは宗教的懐疑なのだろう。
posted at 00:15:55

RT @femmelets いろいろな問題をそれはそれとして考察しなければなりません。懐疑は懐疑であり、性は性であるというしかないでしょう。
posted at 00:15:55

懐疑というのは「含む」ことへの対立項なので、たぶんそれが「無神論」なるものを存在させた原因であるだけだ、という感じなのですかね? @femmelets いろいろな問題をそれはそれとして考察しなければなりません。懐疑は懐疑であり、性は性であるというしかないでしょう。
posted at 00:17:25

ちょっと生理作業をすべく、ツイッターを離脱するよー(^.^)/~~~
posted at 00:18:51

全てを含むべく生理作業離脱するのだが、あっち方面を特に含むことを黙示しませんので、念のため。でも確かに主体性って快楽は誰のものか?という命題に行き着く気がしてきた。でも全てを含むとミイラになっちゃいそう(^-^)/
posted at 00:30:36

だんだん昇華してきた。パワーアップ(^-^)/
posted at 00:37:00

生理作業終わり。食事だったのだがww 昇華はこれから?(^-^)/
posted at 01:46:54

コレにアレは含まれない。この事柄の弁別が、たとえば科学的史観とか唯物的史観で、そうしなければ主体性が奪われるわけなのだが、主体的になろうとすればするほど、有限と弁別された、あるいは有限の先ではない、対立項としての「無限」が単に出現してしまう。困ったものだ。
posted at 01:55:18

この「無限」なるもの、つまり対立項を伏せてしまうと、弁別されたもの、あるいは弁別する主体が、分からなくなってしまう。主体のいわば非科学化みたいなことになる。つまり却って宗教的みたいになる。単に対立項を弁別できなかったために。
posted at 01:55:30

RT @nonomurax: 転移を証明することは難しい。
posted at 01:56:24

確かに(日本のような)宗教的サンクチュアリでは、弁別(コレにアレは含まれない)だけが科学的に見えるのだが(実際、学習やテストもそうやる)、じつはそれが一番宗教的に見えてしまう。有限だけでは対立項が単に弁別されてないから。そんな思考に陥りそう。困ったものだ。
posted at 01:59:00

この宗教と無神論とか、無限と有限の妙な戦争状態こそ、徹底した弁別の方法が必要に見える。スピノザの方法でも何でもいいが、真の弁別、あるいは懐疑を真にすること。無神論は単にあったわけではないだろう。それは多分、テクスト内的=唯物史観的にも存在しない気がする。
posted at 02:03:53

というより、國分氏が論証するように、スピノザの方法は、単に主体性を、偽の懐疑や、偽の弁別や、偽の科学から、奪い返すことのようにしか見えない。なぜそれを懐疑でないとか、弁別でないとか、科学でないとか、主体でないと、言い切れるのか、そこが私には分からん。(^-^)/
posted at 02:05:37

例えば國分氏のスピノザの方法を私の主体性で敷衍すると、それは弁別されてなくて非科学的で、テクスト内的でなく唯物的でないという批判に晒されかねない。しかし、國分氏のテクスト自体は、「全てを含む」を真に弁別して、偽の懐疑を解決してるに過ぎない。
posted at 02:10:11

そう考えると、そこ(17世紀的なスピノザの問題意識)に、含まれない問題があるのか、と考えざるを得ない。性の問題が性の問題だけで、数学の問題が数学の問題だけで、と弁別するのは、たぶん転回としても偽に感じられてしまう。たぶん、批判をすると、真は可能なのか、という批判になるのだと思う。
posted at 02:13:20

科学=含まないこと、というのはそれだけで可能なのではない。だいたいテクスト論や唯物論というのは、それこそスピノザの写本の例ではないが、テクストの丸写しのことではない。テクスト性とはそういう問題ではない。
posted at 02:17:11

テクスト性は寧ろ全てを含むことだww 写本の例ではないが、それこそスピノザが転移してきたような感じだ。そういうのをテクスト性という。https://t.co/UeXJJnbj 転移はしたがって証明されうるものであるはずだ。フロイトまで乗り移ってきそうだ。ww
posted at 02:22:47

主体性とか労働とか、そういう問題が単にそれだけであるという弁別の仕方は、おそらく真の懐疑ではない、という気がしながら、スピノザの方法を読まざるをえない。そんな感じに位置づけて良いのだろう。(^-^)/
posted at 02:28:26

ちなみに私は宗教者ではないですし、インテリジェンスデザイン(アメリカの進化論否定科学)、とか眉唾どころではありません(^-^)/

それにしてもこの唯物とか科学の問題は、現代文で、神なんて対立項いらないですよ、対立項なんかで読まなくても読めるはずだ・・・・ところで、文中の「神」とか「人間」ってどういう意味ですか?と質問に来る受験生と、同じ知的レベルに見えてしまうのは私だけなのだろうか?
posted at 03:20:29

国語で、命題をテストできるというのは恐らく日本独特だ。文脈を読んでいて、コレはアレでなく、アレはコレに含まれない・・・、あれ?結局アレは何だっけ?となる様な読み方や、それゆえ書き方は日本語にしか存在しないといっても過言ではない。だから命題を客観テストするのが国語になってしまった。
posted at 03:24:24

これは従って、近代日本人の知性というか、独特なものなのだ。つまり無神論であること、科学的であること。全てに含めないこと。対立項を無視すること。そのために命題が不明になり、それを国語のテストで問えること。そういう国語があるのは、日本とそのコロニアル文化圏?だけだろう。
posted at 03:24:58

そうですね、東アジアの共産主義みたいになる人は単に頭が固いが、逆にそうならない人は、欧米のような囚われがなく突き抜ける。野うさぎの走りのように跳躍していきますね(^-^)/@aoinatsunosora けっこう日本が突き抜けるのは、そのことばによるしかないのではと考えています。
posted at 03:31:52

日本語は便利なんだよー。「対立項」なんて便利な読解用語なんてものは西欧語にはない。AとBのdichotomy(二分法)としか表現できない。神を対立項なんて言える言語は、現代日本語ぐらいかもしれない(^-^)/
posted at 03:44:36

「無限」のサンクチュアリ

2012.04.30

ファイル 209-1.jpg

無限と存在命題のマルチTL(自分用忘備録):

ここから
http://www.sunamajiri.com/blog/diary.cgi?no=208
続く・・・

2012年04月29日(日)

たしかに数学そのものは語れないかもしれませんが、数学を数学によらず理解したり解説するものが全て詭弁というのは、至近でデカルトを数学と捉えたスピノザの解説を読んでたわけですが、断定できない気がします。むしろ数学とは別な存在を哲学する方に詭弁を感じます。RT @femmelets
posted at 16:37:24

非常に素朴な疑問ですが、哲学が、数学や無限や神に取って替わるものとして、表象する自己を据え、その後、数学も神も、そうした存在論から捨象できた、というのが近代観、つまり転回や超越論なら、それが詭弁でない保証が気になるところです。どう考えたらよいのでしょうか? @femmelets
posted at 16:50:28

(読書)読解塾、後半すこし暇になったので、國分スピノザの方法http://t.co/aUPfZsei 辺りから、自分読書メモ再開(^-^)/
posted at 20:17:49

(読書)國分234-5p デカルトは、無限(という語義)に存在が直接「含まれる」=存在の自己原因は、「自分より広大」「無尽蔵な能力」という無限の本性を「含め」られないので否定的だという。そのために自分より広大で無尽蔵な無限だけが存在すると証明する。
posted at 20:24:14

(読書)しかし、無限という語義に存在を含めるかという証明は、肯定的起生原因(自分より広大なというアナロジー)が混入したことによって、自己原因(無限がそれ自体で存在すること)を証明できず、スピノザのような自己原因の肯定化に成功していない。つまりデカルトは自己原因を肯定できない。
posted at 20:26:05

(読書)このように、存在の自己原因としての無限(無限は有限の結果ではない)を否定するために、「より広大な」というアナロジーを表象論の主体とするデカルトに対して、スピノザは無限を無限という語義どおり有限と対比せずに肯定する。さもなければコギト(思惟する主体)は単に歪むからだ。
posted at 20:32:56

(読書)國分235p 無限を単に否定して、表象だけに存在を見てしまうことに対して、スム(主体性)は、無限とは異なる、と無限の単独での自己原因を「肯定」すること。そのあたりがここでの自分用読書メモでした。(^-^)/
posted at 20:41:26

RT @jyuusyoku: まずは安っぽくても自分の思考を持ち、それを周囲に晒して磨いていく又は篩にかけていく、の順では駄目ですか?RT @FukushimaKokugo: 「安っぽい自分の思考」、同感。個性偏重教育の弊害。 RT @inosenaoki: 新型うつ。… …自分に意見があると思うのは錯覚
posted at 22:08:25

RT @FukushimaKokugo: 「自分に意見があると思うのは錯覚/安っぽい自分の思考を消せ」ということに関して疑問がある方は、芦田先生 @jai_an にたずねるのが一番です。最適な答えをあなたに与えてくれます。ただし今、沈黙中ですが。
posted at 22:52:32

RT @femmelets: あなたの意見が分かりません。「数学や無限や神」などと等置できるのでしょうか。「表象する自己」との関係をそれほど簡単にいえるのでしょうか。私にいえるのは、17世紀の哲学が神を無限者として、自己(私)を有限者として捉えたということだけです。
posted at 23:46:30

おお、寝過ごしそうだからたすかる。意見? 私を含めどこにも意見なんてないと思うし、その意味で私は一度も私見は語ったことがないよー。サンキュー無事に寝過ごさずに電車下りれた(^-^)/ @femmelets
posted at 23:50:54

私はそれこそ、自らの意見にぬらないために言葉化するのがせいぜい。とくに他者が意見を所有する場合は、なおさら透明人間になります。まして國分本の自分用メモは読んでて浮かんだ事柄の忘備録であり、私が所有する議論の命題ではない気がしています。単に随意です(^-^)/@femmelets
posted at 23:59:08


2012年04月30日(月)

それはおかしい。それじゃまるで読書経験は私的に言葉にするなときこえる。もし私に意見がある場合、もっと直接の命法になると思います。@femmelets QT: 意見が存在しないというのはよく分かりません。少なくともあなたご自身がお書きになったツイートがあり、あなたがそれに責任が
posted at 00:03:53

RT @femmelets: 読書を言葉にするなということではなくて、あなたが私に質問されるとしたら、論理的な日本語で表現していただかなくてはお返事することができないというだけのことです。例えば、数学と無限と神はどういう関係にあるのでしょうか。それが私には不明です。
posted at 00:11:44

了解です。しかし私にもわかりません。私のテクスト読みの随意は、テクストに何があって何がないか、という判別に近いので、原テクストに何か本質的に逆接するものを読み込まないというだけです。そこに無限が神存在と書かれていれば、肯定も否定もできない。ただそれだけです。@femmelets
posted at 00:21:26

RT @FukushimaKokugo: 「意見文を書く」ことよりも、「仮想意見文を書く」ことが大事なんだよな。自分の実際の主張である必要はない。「根拠さえあれば、こういう意見が通用するはずだ」という文を書くこと。これが大事。
posted at 00:29:43

寝過ごしたら上りが終わっていて戻ってこれないすんでのところで、攝津氏のツイートで起こしてもらって、感謝(^-^)/ 福嶋先生の↓RTは、完全に同感です。
posted at 00:31:35

私はライブリアンではないので、今手許にスピノザとデカルトの原文はおろか邦訳も揃っていない状態で國分を読んでる。つまり國分を完結したテクストと仮定して、どこまで読めるかの遊びをしてるんで、研究的態度ではない。國分本を真としてどこまで読めるか、というだけです。@femmelets
posted at 00:36:23

そのうえで、何か無限に違いがあるのか、をただ個人的には思索中で、結論があるわけではないです。もしろ、教えていただきたい。つまり、哲学史的な無限を含め、あらゆる無限とは何であるのか?という命題について、私の側には、私見はないです。@femmelets
posted at 00:39:23

ただし、オイラー→リーマン以降は、無限は複素数、あるいは素数の無限性で、それは無限は有限の先にはない、ということらしいです。それは、たしかにデカルトの時代にはなかった知見なのでしょう。
posted at 00:44:59

どうやら現代数学では無限は有限とは、断絶的に無限があるのです。デカルトがこれを知って彼の無限公理のアナロジーを維持できたかは興味深いところです。
posted at 00:45:47

RT @femmelets: 一般には無限はルネッサンス思想(ブルーノ)から考えるのが普通だと思います。それ以前、例えば古代世界においてどうだったのかは検討すべき問題です。ソクラテス以前の哲学者にも無限概念はありそうですが、彼らは唯一の存在は球形であると考えてもいます。
posted at 00:55:25

RT @femmelets: もし本当に無限をそのものとして考えるならば、それは球形であるともイメージできないのではないでしょうか。球を考えれば、どうみてもその外部がありそうですよね。ブルーノは読みにくいですが、少し面白いと思います。
posted at 00:55:27

RT @femmelets: 例えばヘーゲルには《真無限》という概念がありますが、数学的な無限とは少し違うはずです。彼の真無限は円のようなものです。他方、悪無限はどこまでも続く直線のようなものです。その違いを読むと面白いかもしれません。
posted at 00:55:30

ヘーゲルはむかし愛読してましたが、ことその無限の点からいうと、何か有意味なことを言ったようには思えていません。ところでカントは精読してませんが、無限をどう扱うのかご存知でしたらご教示を(^-^)/ @femmelets
posted at 00:59:39

さらにデカルトにとっては、(國分によらないでも)無限=神という同義語ですが、神証明といえばカントを連想します。Wikiにもカントの神証明の類型がでてますね。カントは無限を神と同定してるんでしょうか? http://t.co/S0sFrKYk @femmelets
posted at 01:02:12

しかし表象論者のいう自我というのは、気色が悪い。表象それ自体が爽やかに萌えられるのとは、対照的だ。表象論以外の論はどこかにないものなのだろうか?(^-^)/
posted at 01:12:10

表象はかわいいけど、表象論者はキモい。ただそれだけだなー、私見するとすれば。でもこれ私見ではない気がする。私見って可能なのかが最近益々分からない(^-^)/
posted at 01:13:49

うん、というかもう神学か、ユダヤ教神学か、もうちょっと頭が冴えてたら数学専攻しに学校もどりたいけど、もう無限に帰するのみ(・_・;) @aoinatsunosora 解釈学はやらないんですか?
posted at 01:20:47

おお、確かにその点は言えてますね。日本は宗教的にはサンクチュアリだ。ゼロから行ける。でもたいへんそうだなー、すぐ西欧かぶれが西欧かぶれじゃないつもりで反論しそう。@aoinatsunosora そうです。特定の宗教観に偏らない死生観の考察に、今の日本は向いていると思います。
posted at 02:00:07

うーむ、恋愛観も結婚観も西欧化の結果だし、宗教的先入観がないとはいえ、完全にゼロともいえないですしね。@aoinatsunosora 大変そうなので、レターだけこっそり読んでます。笑 さっきのプロジェクトは今年終了し、こっちに移ってます。http://t.co/JzhpqbyS
posted at 02:04:22

ぜひ今度具体的に(話せる範囲でww)聞かせて下さい(^-^)/ @aoinatsunosora 自分は現象学的なアプローチであっちこっち揉んでるところです。
posted at 02:06:44

私は批判とか私見とかとは無縁で、いうとすれば、たとえばAさんの無神論は何が聖典(キャノン)なの?ぐらいなので、人畜無害です(^-^)/ @aoinatsunosora 笑
posted at 02:08:49

聖典性(キャノン)とか言ってたら、アメリカの大抵の大学文学部の教科書になってた脱構築派ブルームのThe Western Canon http://t.co/ifGYZguY が書棚からドカッと落ちてきた(^-^)/ http://t.co/dKL12EHl
posted at 02:24:12

最近、動物化する機械とか、動物化する理系とかが頻出しすぎる気がする。これも元を辿れば表象論的デカルトの自我を鵜呑みにした宗教サンクチュアリ日本だから?汗 QT: http://t.co/tqZLffz9

posted at 13:16:57RT @yutakioka: そもそも個人の性的指向の話と、産業としての売春の話は別なわけですが。 RT @guriko_ そんな個別の話ではなかったですよね?それと性的指向とセックスワークに従事することは違うのではないですか
posted at 13:29:04

宗教文化圏はフリーセックスしたがってるし、サンクチュアリは動物圏なのか、近代的自我から超越論的自我、平たく言えば産業まで動物化させたがってるし、人間の欲望はとどまるところを知らないねー。というか猿の惑星のテーゼそのもの(・_・;)
posted at 13:32:56

動物化というか、動物の機械化というか、なんでサンクチュアリでは、人間はマシンになりたがるんだろう。表象論も、超越論も、機械論ですらも、ただ単にエンジニアリングみたいに思えちゃうのが不思議。哲学工学。シナプス哲学。ヘーゲリアン的な他者の欲望も機械的反応だったりして(・_・;)
posted at 13:42:17

RT @guriko_: 子どもも大人と同じように性的指向や自由意志を持てるという主張だったですよね?それは一部の天才児だけだということですか?http://t.co/BiyGoaa4 @yutakioka
posted at 14:27:52

RT @yutakioka: あなたは、「ある」と「つね」にという量化詞の区別ができていない。「あるXが存在する」という主張の否定は「そのようなXは一つもない」でなければならないのですよ。 RT @guriko_ 必ずしもそうではないとは?
posted at 14:28:01

RT @yutakioka: 論理的間違えを指摘したら、話のすり替えといわれたんですけど。議論って妥当な推論でないと成り立たないので、すり替えではなくて、論理的に正しい立論、反論って議論の基礎だと思うんですけどね。
posted at 14:37:13

滝岡さんのTLみてると、毎回、好悪とか非論理とかが、漠然とあるという思い込みが暴露されるのが面白い。多くの日本人が、そういうものがあると思い込みたい、というのを実感するな。だが、そういうものはない。https://t.co/BP7jp0YN
posted at 14:39:12

RT @neajazz: んー。ほんとに頭かたい子が多いな。コピーとオリジナルとか、作曲と演奏とか、その境界がなにか一本の線ででも区切られているかのように考えてしまう生徒が多い。
posted at 14:28:24

益々硬化している日本人にジャズが出来るかは大いに疑問だ。バップですらスタイルのコンサバだと思ってたりする。@neajazz ほんとに頭かたい子が多いな。コピーとオリジナルとか、作曲と演奏とか、その境界がなにか一本の線ででも区切られているかのように考えてしまう生徒が多い。
posted at 14:29:12

その生徒さんはアドリブを天地創造するタイプ?(^-^)/ @neajazz アドリブが語法である以上、無から生まれている訳でもないですよ。「これはペンです」と話すときに、「ペン」という単語をその瞬間に創造している訳じゃないのだから。
posted at 14:31:52

RT @neajazz: また、フリージャズとか前衛とか、そういった話を持ち出す人がいるけど、それも例えば、「これはンペです」という効果も「ペン」という前提(共有認識)があってはじめて「ンペ」は成立している訳で。それは逸脱な訳。逸脱できるということはルールが存在するからはじめて可能な訳で。
posted at 14:39:27

RT @neajazz: と、思ってる訳ですよね。結局ドミナントモーションとか使ってる訳ですが、それを自分で創造したと勘違いしている。苦笑。@sunamajiri その生徒さんはアドリブを天地創造するタイプ?(^-^)/ @neajazz アドリブが語法である以上、無から生まれている訳でもないですよ。「
posted at 14:39:45

天地創造の神様になれるというノーテンキが日本人の取り柄なんだけど、言語でも音楽でも、とても海外では通用しないわね、といつも思う。ガラパゴス。@neajazz と、思ってる訳ですよね。結局ドミナントモーションとか使ってる訳ですが、それを自分で創造したと勘違いしている。苦笑。
posted at 14:40:33

RT @yutakioka: うーん、どうもあなたは読解力に問題があるみたいですね。一から説明するのが嫌なんですけど。RT @guriko_ え?どの文脈の「子」「子供」が慣習的な使い方と同値ですか?
posted at 15:02:12

RT @yutakioka: 存在命題の真の条件を理解しています?RT @guriko_ あなたは20の成人よりも合理的判断能力がある12歳がいる、そしてその子を指して「子供」「幼児」と表現しましたけど、その12歳は多数ではない。
posted at 15:08:34

RT @yutakioka: もう一度聞きます。存在命題の真の条件は理解していますか?RT @guriko_ 私は現実の子どもの話をしていますが?
posted at 15:08:36

文化とか習慣とか国を天地創造しちゃうからか、論理や物理法則まで天地創造できちゃう不思議なサンクチュアリ。日本の国語ではまず命題というのが理解されない。だからテストできる。ウマウマ(^-^)/
posted at 15:10:09

日本人は心象とかそういうので理解するので、話の前提とか命題に弱い。だからテストするのは簡単。それで大学産業ウハウハ。でも欧米ではそんなものは鼻先もかすらない。だから相手にされないパラダイス鎖国が天地創造されそう(^-^)/
posted at 15:19:28

RT @guriko_: 存在命題の真の条件とは(`・ω・´)シャキーン
posted at 15:22:36

RT @yutakioka: 「経験」、「現実的」とかいきなり言い出す人には注意が必要。たぶん論理的な思考力が低い可能性が高い。
posted at 15:27:43

RT @genronjin: 100%は「死」だけ RT @arabian_m: センター国語の代表的な錯乱肢ですね RT @yutakioka: ゼロとか100%とか、必ず、常に、絶対的にという極端な言葉を好んで使う人は危険ですよね。そもそもゼロは多くの場合証明できないw。
posted at 16:10:38

■画像引用:http://www.mineralienguild.com/g2/main.php?g2_itemId=11483

無限ではない無限を表象するデカルトの自我

2012.04.28

ファイル 208-1.jpg

無限ではない無限を表象するデカルトの自我

ここから
http://www.sunamajiri.com/blog/diary.cgi?no=208
続く・・・

RT @femmelets: スピノザの『エティカ』の神は超越神・人格神・創造神ではありません。パスカルのようなカトリック信者にとっては、既にデカルトの『省察』の神が「哲学者の神」として否定されるべきものでした。デカルトやスピノザが彼らなりに敬虔だったとしても宗教家には関係ないのです。
posted at 13:13:

無限は観念としては信じれても、例えば無限小はゼロより大きいか?という命題が起こるのでしょう。無限を信仰に飛躍させても意味がないのと同様に、無神論を実体化させることはできない、なぜなら無限=観念が存在するからだ、という強い意味に思えました。幾何学なのかと。@femmelets
posted at 13:26:29

現代からみれば当然素朴な数学として、なぜその数学的観念=無限という語義で、倫理や神学まで演繹する余地があるのか、ということに興味が湧くだけですね。彼らのテクストを帰納(神という特殊な語義から一般を導出する)と見なすのは、くだらなそうです。@femmelets
posted at 13:38:53

そうです、だから質問したのです。上野さんがキリスト者でスピノザを無神論者としたいのか、あるいは逆にご自分が無神論者でスピノザを無神論者と意味付けているのか? 後者でしょうね。(^-^)/ RT @femmelets 上野修さんのスピノザ論の題名が『無神論者は~』というものです。
posted at 13:44:08

RT @femmelets: 上野さん自身のことは分かりませんが、今度調べてみます。
posted at 13:55:10

RT @femmelets: 現代人からみれば無限を宗教的に捉えることそのものが意味不明でしょうね。ただ、17世紀でも経験論者は有限主義的だったと思います。合理論では無限を認識可能だと考えられたということでしょう。
posted at 13:55:19

そうです。スピノザの無限証明では無神論も信仰も無意味です。しかし現代数学は総合ではなく分析的になり有限的なのでしょう。なぜなのかが面白いのかと。@femmelets 現代人からみれば無限を宗教的に捉えることそのものが意味不明でしょうね。ただ、17世紀でも経験論者は有限主義的だった
posted at 13:58:22

RT @femmelets: 無限の問題は20世紀以降も解決していないようです。ウィトゲンシュタインは数学的に「厳格な有限主義」だったそうですが、数学者達は全員そのウィトゲンシュタインに反対したそうです。いずれが正しいのか分かりません。
posted at 13:58:30

そういう点からの(スピノザへの)関心しか起こらないと思います。敬虔云々は演繹です。@femmelets 無限の問題は20世紀以降も解決していないようです。ウィトゲンシュタインは数学的に「厳格な有限主義」だったそうですが、数学者達は全員そのウィトゲンシュタインに反対したそうです。
posted at 14:00:29

RT @femmelets: 綜合(総合)ではなく分析的というのはよく分かりませんが。数学の判断はカントの主張とは異なり分析判断だというのがラッセルの意見でしたが、それが現在でも維持されているかどうかは私は知りません。
posted at 14:13:17

ゲーデルで振り出しに戻されそうですね。(^-^)/ @femmelets 綜合(総合)ではなく分析的というのはよく分かりませんが。数学の判断はカントの主張とは異なり分析判断だというのがラッセルの意見でしたが、それが現在でも維持されているかどうか
posted at 14:14:36

ですね。にも関わらず、素数の無限性がリーマン予想として可能だったりする。そのあたりが(わからないけど)面白そう。@femmelets ゲーデル自身はプラトン主義的だったそうですね。そのへんはややこしいですから、よく分かりません。
posted at 14:18:23

RT @femmelets: ゲーデル自身はプラトン主義的だったそうですね。そのへんはややこしいですから、よく分かりません。
posted at 14:26:49

いやー、数学は命題の立て方だから大した問題じゃないですよ、冗談ですが笑(^-^)/ @femmelets QT: そのことについては、私はよく知りません。子供の頃から数学が苦手でしたからね。
posted at 14:29:42

読解塾比較的暇なので、國分スピノザの方法の(自分用)読書メモでもして、時間を潰すか(^-^)/
posted at 16:35:07

(読書)國分5章4 ア・プリオリな証明。神という語義に存在が含まれるかという命題の証明。スピノザはこのデカルトの証明に同意するが、しかしデカルトがこの証明を中心に据えなかったのには、根本的な不満があると國分。
posted at 16:40:06

(読書)証明というのはむしろ語義定義に近い。無限vs神の差異で捉えるのが現代の我々だ。つまりそのように、神を無限から、無限から神を相対化させる読みからは、スピノザによる証明は、神を無限と同定するようなものに見える。しかし、デカルトはそうではない。神が必ずしも無限に含まれない。
posted at 16:56:18

(読書)國分~233p ア・プリオリな証明は、神という語彙に真理という語義が「含まれるか」という証明だが、デカルトは「神がある」と最初に言うと証明ではなく詭弁になるから、(懐疑論者を)説得するために、無限ではない無限を証明してしまう。この幾何学的体系の不徹底にスピノザは不満がある
posted at 16:57:05

(読書)國分233p スピノザが証明の前提となるデカルトの公理から削除したのは「神の本性の広大さが、神存在の原因だ」という一文。つまり人より大きな神というデカルトのアナロジー(このアナロジーを可能にするために、デカルトは表象論を構築する)。
posted at 18:04:56

(読書)スピノザが削除したデカルトの一文「神の本性の広大さが、神存在の原因だ」。デカルトはアルノーから「神は三角形と同じに、〈誰が存在させたか〉と起生原因を問えないから神なのではないか」と反論されている。そこで思わずデカルトはスピノザが後に使う「自己原因」とポロッといってしまう。
posted at 18:06:13

それにしても、表象(心に浮かんだり、絵に描いたりするすること)に比べて、表象論(心像を自我と同定しようと論じること)は、一言キモイ。以前、近代は音楽論の不可能性(音楽が何であるかは古代数学の命題だ)と言ったが、その代わり表象論者が自我という。なんかオタッキーでキモイ(^-^)/
posted at 18:17:29

デカルトの言い訳、オタクとか東何某とかロリコンとかの言い訳と重なって、キモくて正視できないほどかも。こいつらのいう自我にだけはなりたくない、と虫唾が走ってしまう。完全拒否反応(><) http://t.co/aUPfZsei
posted at 18:33:36

「無限を有限に結びつける偉大なるζ(ゼータ)は、虚数i と円周率πによってできている。幻想と思われた無限大∞は、目に見えない虚数i と永遠なる超越数πによって我々の目の前に現れてくるのです」「感動する数学」有限の先にはない無限 http://t.co/zL2aeWRv
posted at 23:21:37

■写真は、無限な素数の並び間隔を表す数式が、偶然、原子核運動の不規則性を表す方程式と一致してしまった、という図解。
http://www.scientifictopcs.pureheart-counseling.com/new-interpretation-of-physics/prime-numbers

思わされるより思いたいね(^-^)/

2012.04.28

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思わされるデカルトと思うスピノザ? 思わされるより思いたいね(^-^)/

無限語義のラビ的思惟の出現 http://www.sunamajiri.com/blog/diary.cgi?no=206

以降のツイートまとめです。

2012年04月27日(金)

(読書)『スピノザの方法』読書ノート、少し再開。第二のア・ポステリオリな証明から、デカルトの神証明として有名な第一のア・ポステリオリな証明。
posted at 10:29:16

(読書)第二のア・ポステリオリな証明はスピノザによる前提の書き換えでアナロジーであると暴かれた。無限という字義は、人より広大というアナロジーではない。しかし無限をアナロジー(実在性の量)とすると、外部によって存在させられる無限、というデカルトの第二のア・ポステリオリな証明となる。
posted at 10:31:31

(読書)先程までの読書ノートをブログhttp://t.co/noLcaxzg に纏めたように、デカルトの第二のア・ポステリオリな証明は、無限に対する外部者の証明だ。
posted at 10:37:41

(読書)デカルトの外部者に存在させられる無限は、思惟によって存在させられる(つまり無限に対する外部者=思惟)だけでなく、第三者によって思惟を強いられた無限であるのは、第一証明の前提からも一貫して明らかだという。しかしスピノザはそれが誰とは問わず、ただデカルトの解説者に専念する。
posted at 10:46:51

(読書)デカルトの神証明として有名な第一証明は、観念が神の原因だというものだが、解説者スピノザにとっては書き換えの必要がない。すでに証明が依拠する公理を書き換え、無限に対する第三者が暴露され矛盾がないからだ。しかしスピノザはエチカでは全面的にこの第三者性を削除する。
posted at 10:59:00

(読書)以上、國分『スピノザの方法』五章3項まで、(自分用)読書メモでした。(^-^)/
posted at 11:00:22

萎縮というか老化はCTスキャン撮るとショック受けるよ。石灰化の塊が白い影となって脳の中のいたるところにみえたりするよ。始めてみた時ショックだったけど正常なんだそうだ。(^-^)/ @femmelets 自分の脳が萎縮しているかどうかを観察することはできないだろう。
posted at 11:25:43

解剖図とか見るのは平気なんだけど、でも脳をデカルトみたいに対象化するのはできない。たぶん医学生の全身解剖で脳だけは、直視できそうもない。何か考えるだけで力が入らなくなる。他の臓器とかは観察してみたいとおもうのだが、医者にはなれないな。@femmelets
posted at 11:36:28

思えば、このデカルト的というか、オブジェというか、特にビジュアルで性対象を客体視するという男性性だけは、どう頭捻っても理解できない。男子ってポルノみて興奮するんでしょ? ゲイの人に女性のヌードみせたら、そのままトイレに直行して吐いちゃったけど。@femmelets
posted at 11:39:12

この性対象を視覚的に捉えて、萌えたり興奮したりという、男性的な精神構造は、完全に謎なのだ。そう考えるとデカルト的なものって、単に女子の二次元に萌える男子にしか見えない。対象化、客体かというのが、生理的に理解できないレベル。ポルノ男優に同一化するのかな? @femmelets
posted at 11:41:54

うん、私もポルノとか、あとビジュアルみたいなもの、AKBでもなんでも、もし感情が起こるとしたら、そこにビジュアライズされてる女の子に、同一化(自分を重ね合わせる)ことしか絶対に出来ない。ピグのアバターみたいにみえる。@femmelets 私はポルノは全然見ないです。
posted at 11:43:44

うん、二次元文化なんて、その先鋭化にみえるし。客体化原理主義みたい(^-^)/ @femmelets 人間の感官は視覚だけではないし、性については触覚が重要なのは当然でしょうが、視覚優位に考えられてしまうのは不思議ですよね。
posted at 11:45:31

なんていうか、それがスピノザ的にというか、では、表裏一体、神がいることとおなじになっちゃうのが、すごいわね。性的にもスピノザは自分自身が欲するのに、デカルトだと見た対象に刺激されて欲させられる、とかなるしww @femmelets 私自身は神はないと思う。あらゆる意味で。
posted at 11:50:02

今日は哲学の日として有名なんだそうで、哲学しております。性は対象なのか、という哲学になりそうですが。欲してるのに、欲させられるというデカルトによって、私達は近代的自我になったらしい。一度でいいから、欲っさせられてみたい。(^-^)/
posted at 11:53:05

どんな神なんだろう?((((;゚Д゚)))) @femmelets どうみてもスピノザは彼なりの「神」を第一原理にしているからです。
posted at 11:56:31

でも私がいるらしいじゃないですか、あの國分氏の流れでは。@femmelets 神/世界/私はただの信仰であり虚構かもしれません。しかし、神も世界も私もないのだと考えながら生きるのは非常に困難でしょう。
posted at 11:59:17

この神VS自然は難しいですよね。宇宙に外はなさそうだし。(・_・;) @femmelets ネグリは神さえ省略すれば、能産的な(生み出す)自然が残るからいいのだと思ったようですね。
posted at 12:00:32

そこまではわかるんです。@femmelets 『デカルトの哲学原理』においてまず「考える私」の存在が確証されるのは自明ですが、スピノザそのものは絶対無限の神即自然から開始したと看做すべきでしょう(『エティカ』)。
posted at 12:03:53

たしかに。それはくだらなすぎる。@femmelets スピノザを論じる上野修などは、無神論者がいかに神を「信じる」かという問題にしてしまいますが、私はくだらないと思います。スピノザを盲信するとそうなります。
posted at 12:08:47

RT @femmelets: 神/世界/私はただの信仰であり虚構かもしれません。しかし、神も世界も私もないのだと考えながら生きるのは非常に困難でしょう。
posted at 12:09:11

RT @femmelets: ネグリは神さえ省略すれば、能産的な(生み出す)自然が残るからいいのだと思ったようですね。
posted at 12:09:14

RT @femmelets: @ただ、太古の昔から、多数の(無数の)世界、宇宙が成り立つという主張は結構多くあったようです。
posted at 12:09:21

寧ろ分からないのは、対象化している側の主体が自我だという同定の方。相手を見ている自分に酔ってるのが自我なのかと思えるほど、個人的には生理的に理解できない。病気なのかなー?(・_・;)
posted at 12:15:19

先ほどの性対象の話でいえば、なぜ対象に萌えられるの? 性が欲動なら、それは対象から来るのかな? 自分から起こるのだと思っていたのだが。相手によって「私」にさせられる、という自我観は生理的には、よく分からない。(^-^)/
posted at 12:16:07

ちょっと哲学の日だから、考えてしまったけど、生理的に理解できないので、そろそろ寝るのだ(^-^)/
posted at 12:16:53

RT @Novalis_bot: 学問はいずれも―哲学となったあとに―ポエジーとなる。 『一般草稿』
posted at 21:01:41

RT @Novalis_bot: 数体系は、真の言語記号体系の模範である―われわれの文字は数に、われわれの言語は算術になるはずである。 『数学ノート』
posted at 21:04:50

ノバーリスbotのアイコンがイケメンというか美しくて参ってるとこ(^-^)/ QT: http://t.co/iutZskPQ
posted at 22:33:20

画像はhttp://blogs.yahoo.co.jp/uuatanabetakahiko/10020873.html
より、広隆寺の弥勒半跏思惟像

無限語義のラビ的思惟の出現

2012.04.27

ファイル 206-1.jpg

信仰VS無神論という音楽論http://www.sunamajiri.com/blog/diary.cgi?no=205 をしてしまったが、スピノザとデカルト、どちらが無神論というのもあまり意味がない。マルクス的無神論や唯物というのは、文字通りにという意味だから、現代からそれを曲解すれば、それこそ魔術になる。
posted at 03:20:12

つまりデカルトが無神論なのか、スピノザが無神論なのか?という問いそのものが、マルクス的唯物論にこそ反する命題に見える。最近の言葉ではテクスト論的ではない。だいたい先述したように、無神論という字義通りがあるわけではない。
posted at 03:23:42

何度も断っておくが、無神論とか唯物論というのはテクスト論と同義のはずだ。書かれたものがすべて=唯物論、実在するテクストに後になって何か神格化を付け加える読み方(解釈)が、無神論に反する何かというだけで、原理的に考えても無神論それ自体が存在するとは誰も書いていないし書けないはずだ。
posted at 03:28:46

その点で、哲学者は宗教者と差異があるというだけだ。哲学者はマルクスでなくても、テクストに忠実な唯物論者であるだけだ。恣意的解釈ができないから、それはテクストというだけだ。文学研究では聖典性(キャノン)という。そうしたテクスト性がないテクストは単にテクストではない。
posted at 03:33:05

もっと言えば、テクストとは破綻がないということだ。矛盾があればテクストとして成立しないからだ。破綻は存在できない。だから哲学者を唯物論か否かという命題自体がナンセンスだ。言い換えると、テクストの無破綻性を、恣意的に神格化するなど解釈するというのは、単に権力でしかない。
posted at 03:41:30

たとえば、日本的近代は唐突にテクスト(西欧のテクスト性)を恣意的に解釈する主体になってしまった(権力を創造しようとしたのだから当然だ)。そのため諸々の反転が起こり、唯物論もそれ自体で存在するように見えただけだ。しかしそれは恣意的解釈に原因があるだけで、テクストに起源はない。
posted at 03:44:04

そうなんです。たとえば無神論と和訳語にした途端、問題がスケールダウンする。だから本論の蚊帳の外にいつもなってしまう。たぶん近代以前もそれがありつづけたはず。要は辺境だったんです。@aoinatsunosora 御意。「くつがえせなさ」の桁がぜんぜん違いますね。
posted at 03:51:49

さて、國分氏のテクスト論は、スピノザがデカルトのテクストの破綻性をどう修復して、より無破綻なテクストを作ったか、という実証研究です。つまり破綻がないテクストです。
posted at 03:59:36

超訳すると、無限は比較ではないのに、デカルトは「より大きなもの」と規定したために、無限も有限も外部の第三者によって存在させられていると証明してしまった。つまりデカルトにとってその外部がコギトなわけですが、スピノザはこのアナロジーの破綻を修復してコギトを書き直しエチカに至る・・・。
posted at 04:07:29

無限の外部者というデカルトの命題を修復しようとするスピノザ。極限的な話で、140字で超訳を試みようとすると、これは無理ではないかと疲れてしまう(^-^)/
posted at 04:21:19

無限をより大きなもの(アナロジーを証明)とすると、無限の外部者(他者原因)を想定してしまう。それがコギト・エルゴ・スムとすると、それは無限ではない、というスピノザの証明。
posted at 04:23:22

いま宗教者デカルトVS哲学者スピノザみたいな対立項になっているんですが、たぶん哲学者なら丸呑みにするんだろうなーやはり(^-^)/@aoinatsunosora 私はあの「絶対矛盾的自己同一」は、くつがえせぬ世界をひとまず丸呑みしなければならぬ、という決意表明だと読んでいます。
posted at 04:30:12

無限は有限のアナロジー(対比)であり、無限は有限のように存在させられ得る(デカルトの神精錬)。つまり無限の外部者がコギトエルゴスムだから無限は存在させられる、というデカルト的証明を、スピノザはそれは無限が予めないという思い込みであり、思惟(コギト)ではない、と証明しているようだ。
posted at 04:36:38

無限に外部者があるというのは、無限という語義と矛盾する。だから無限という語義はある、と捉えるのが、コギト(真の思惟)であり、スム(存在)は、コギトエルゴスム(偽の思惟)を原因としない。コギトエルゴスムは命題ではなく三段論法(小前提)だ、そんな話にまとめていいのかな?(・_・;)
posted at 04:42:13

うーむ、デカルトは丸呑みしようとしてるんでしょうね。スピノザはぜんぶ吐いてしまう(汚い表現になってきたっw)のかな?(^-^)/ @aoinatsunosora ところでスピノザよりデカルトの方が丸呑みできてますよね。
posted at 04:44:52

なんというかユダヤ教的というか、デカルトとは違うね。相容れない気がする。スピノザはユダヤ教からも破門されたそうですが、真のラビかも(・_・;)@aoinatsunosora スピノザはそういう意味で、ぜんぜんデカルトを継いでいません。笑
posted at 04:48:38

ラビさんって文字通りと語義通りを永遠比較するからなー。無限という語義を思惟するわけね。
posted at 04:50:40

もっぱら、ラビさんたちにとっては、文字通りと語義通りの差異の永遠性が無限だったりしそうだからなー。たしかにそれは無限な気がする。
posted at 04:53:37

無限というと、神というより、個人的にはリーマン予想(無限な素数)の話しにみえてしかたがない。リーマン予想は整数論的には素数頻度の話(最近では原子核運動の頻度との偶然の一致の話)だが、無限の話に思えるなー。
posted at 05:02:54

滅びが前提のコギト国語教育

2012.04.25

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帰ってそのまま仮眠してしまったww 起きてTL眺めてたら、言葉が通じない話と、その通じない国語をどうしようか、という話でうまってて笑った。(^-^)/
posted at 03:50:27

阿吽とか空気に依存しすぎると、本当に言葉が通じない局面があるよねー。それで国語教育がコミュニケーションといって頑張るのはいいのだが、中途半端な命題を与えると、ポリティカル・コレクトネスの例があるように、却って「やっちゃいけないこと」ばかり意識化してしまう。結局空気を卒業できない。
posted at 04:09:24

(続)国語教育の命題というのは、もちろん単に、国語は規範ではない、というだけ。だからコミュニケーションが先にあるのではなく、規範から飛躍させる様々な能力を身につけさせてこそ、結果としてコミュニケートできる、というだけでしょう。そういう命題を整理せず国語教育といってはいかん(><)
posted at 04:10:37

(続)命題がない思考はぼやけて規範にしかならない。国語が規範(やっちゃいけないこと)に陥る子は、国語のそうした単純命題を伏せられているだけ。それも日本独特な、国語テストの客観性のために、命題だけが伏せられることの弊害であるに過ぎない。国語が分からない子は人為的に作られているだけ。
posted at 04:24:24

(続)伏せた命題を、あるテクストから示唆されたかどうかをテストするというのは、もちろん国語テストとしては不十分。しかしそのために、空気ばかり読み、字義通りに怯える、萎縮した国語力の子が増産される。一言で言えば自信の収奪だ。勿論、国語はまず命題を開示し、それに肉付けする学科だ。
posted at 04:25:48

(続)国語は自信を与える学科だ。教育の意図、つまり命題をはぐらかし子供たちの生得の自信を奪う学科ではない。それでは心理的あるいは精神的弱者しか増産しない。しかし、教育の能力も問題になる。本当に彼らは命題を提示する実力があるのか、疑わしいケースは実際多い。
posted at 04:36:57

(続)国語を規範と思わせたら教育の負けだ。個別指導ををしていると、実際に心理カウンセリングの様相を呈することが多々ある。子供たちは、本当にそう考えていいものなのか自信を得たくて質問に来る。つまり空気を読みに来る。だからその都度、何が命題なのかを明確に教える。言語は確定的なだけだ。
posted at 04:45:50

自殺文学に依拠した国語教育で思い出したが、スピノザから見るとデカルトのコギトは、存在を滅びるものと前提するから、より大きな存在を存在させようとしてしまう証明の矛盾に陥るのだった。滅びからは捏造が起こるのだな(^-^)/
posted at 22:04:14

(続)言語が恣意的というのは言語学という学問上の話で、国語教育とは直接関係がない。子供たちは言語の確定性に自信がないため、やっちゃいけない規範があると錯覚し萎縮してしまう。言語学や構造主義の中途半端な知識で、国語を恣意的に教えてはならない。言語は物理法則のように厳然と確定的だ。
posted at 04:53:26

ということで、TL上に言葉が根本的に通じないという話に並行して、混沌とした国語教育の話が押し寄せていたので、恣意的な言語はそういう規範にしかならず、言語力にはならないよ、という連続ツイートをしてしまった。ここからは言語の確定性、つまりスピノザ的デカルトの神証明の読書ノートへ。(略)
posted at 05:01:39

RT @miu7200: マスターのときは国語教育の授業も取ったけれど、確かにその国語教育の先生は、「国語教育史において、文学に重点を置いた国語教育と言語重視の国語教育は交互に現れては消えている」とおっしゃっていましたね。それでももう少し言語技術を磨けるタイプの国語教育が、いいかげん出てきてもよいと思う。
posted at 21:47:49

英語の講師に「日本の国語は、自殺の文学を教科書で堂々と教えてて、不謹慎だ。なぜアメリカのような国語にしない」と問い詰められて困ったことがあるのだが、はい、それが皆大好きな日本流近代的自我、コギトちゃんなのです。(^-^)/
posted at 21:55:56

自殺文学で滅ぼされるのは生徒の自信なのだろう。そういえばそういうツイートを今朝していたのだった。滅びがあるから抵抗として存在させてしまうデカルトに似てるね。日本の近代的自我そのものかもね
posted at 22:13:51

「我思うのは誰か」から非分析的記憶術へ

2012.04.23

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虚偽の記憶=分析的記述と、非分析的記憶術

デカルトが益々表象論にしかみえなくなるという、國分のスピノザの方法。
posted at 00:27:14

スピノザはデカルトの観念を表象論としてのみ受け入れ、デカルトの神証明を整序した、という國分第五章で、10年前に読んだ本を思い出した。デカルト―「われ思う」のは誰か 斎藤 慶典http://t.co/Vft6ZjvU
posted at 00:32:11

この斉藤の「我思うのは誰か」http://t.co/Vft6ZjvU はNHK出版の教養書で國分のような論証はないが、デカルトの「私」は誰でもない。「思う」とは神証明だ、という解説本。高校生でも読めるから一度読んでみるとよい。(^-^)/
posted at 00:34:11

こうした17世紀観念思想の問題は、表象論的な今日の問題でない、と攝津氏がいっていたが、カントの起源をイソノミアに求める柄谷行人も、スピノザから見れば、結局はデカルト的=分析的にしか見えない。もしかするとカント的転回である超越論も、実は幾何学的でないだけなのかもしれない。
posted at 00:38:55

だとすると、今日の問題はじつは、十七世紀の観念思想が生み出した分析や表象論の問題でしかなく、それ以外のいわば誤解は、単に解決されるしかないのではないか、と思えてくるから、國分的スピノザはなかなか味がある。ちなみに第五章冒頭ではドゥルーズの一点が批判される。
posted at 00:39:06

コギトは分析だが、神証明は総合=幾何学と言ったのはデカルトだ。幾何学とは定義から始まり定理にいたる書き方、つまり体系のことだ。しかしそのためには彼は表象論に陥る。ドゥルーズもそれに言及するが、スピノザだけが、分析VS総合を偽の対立項として触れず、コギトも幾何学で定理してしまう。
posted at 00:45:47

ところで、スピノザ的國分は、それを解決と明言し、実際私も、表象論から超越論に至る哲学的転回、つまり矛盾の単なる解決にみえてしまう。しかし斉藤の『「われ思うのは誰か』http://t.co/Vft6ZjvU という本は、証明ではなく教養本のために自他論に陥っっていたのを思い出した。
posted at 00:49:21

あ~寝た。最近疲れると身体が朦朧とする。歳なのだろう。頭は至って明晰なのでとくに身体の疲れが際立つ。連日寝不足で授業したので、身体がまだ鉛のようだ。頭は直前に考えていことを殆ど失わなくなったから、そういう苦しみはなくなったのだが、その分、身体にくるなー。
posted at 11:26:21

RT @kyototekken: というわけで、哲学を勉強してて字義的解釈つまんねえなと思ったら哲学史を学びましょう。哲研的には詩人のハイネが書いた『ドイツ古典哲学の本質』がおすすめです
posted at 11:27:56

RT @kyototekken: 哲学書の序文に「今までの哲学は○○ということに気づいていなかった、それに気づいた私の哲学が絶対のものだ」と書いてるのを鵜呑みにし、哲学史を学ばなくてもその本だけ読めばいいんだ、わからないなら字義的解釈をすればわかるようになるんだ、と思う罠。それステマで大抵の哲学書に書いてあるから
posted at 11:28:04

京大の哲学サークルからフォローされたと思ったら、國分氏が今日は京都講演なのか。ところで、國分氏の論書は、https://t.co/1qg51NFA のいわば一つの極北(極限の意)かもしれないな。https://t.co/8W9NEe5k
posted at 11:31:44

https://t.co/MyrKd3us で触れた斎藤「我思うのは誰か」。省察とか神証明で思い出したのだが、10年前に読んでまだ家の中で発掘できない。にしてもアマゾンレビューが鋭くて笑った。http://t.co/tgmsfp2S
posted at 11:56:13

2009/11/17
By 古本屋A
レビュー対象商品: デカルト―「われ思う」のは誰か (シリーズ・哲学のエッセンス) (単行本)
デカルトの「われ思う」の解説を通して、1冊の本にしてしまい、それが、また、哲学とはこういう風に考えるのだ、ということを示してくれる真面目で親切な本。哲学の豊富な知識とか「最先端」とか現代科学の知識をひけらかすこととは対極のものだ。思想とか文学とか批評といった似た領域とも、哲学の思考は断じて違うことを、静かに語っていると思った。そういう意味でよい本だ。「われ思う」の「思う」の確実性はともかく、それが「わたし」に簡単にくっついていることに対して、デカルト的懐疑への批判や疑問は古くからある。本書では、「わたし」自体が考える、思う、という機能そのものだ、としてこの手の疑問や批判を正当に回避し得たと思う。その確実性の基盤は、しかし、同時に「無限」「絶対者」を予感させる。そこから「他者」、そして、「愛」だの「祈り」だのにエスカレーション。ついに終幕を迎える本書の流れには、とてもじゃないがついて行けない昂揚感だ。デカルト的懐疑の意味と、「他者」への飛躍に就いては、個人的には好きではないが、柄谷行人が「探究」の中で、圧倒的に鮮やかに示していたと思う。無論本書のほうが、本当の哲学的な思索だとは思うが、終盤の流れはやはり踏み外しだと思う。第一、「無際限」は「有限」だが「無限」は違う、と言い出す辺りから、哲学的思惟の良くないところが如実に顔を出していると思う。「無限」とは「有限」に対する反対概念に過ぎず、その本性から言って、有限者が「無限」の内実的な概念を想定することは出来る筈もない。また、「無際限」が「無限」と同義のこともあるわけで、「有限」を「無際限」という場合は単なる形容詞に過ぎない。なのにこの手の話に拘泥し、「無限」から「他者」を経て「愛」とか言い出して終わるのは、結局本書全体のまじめな哲学的思考の良さを台無しにしてしまった気さえする。デカルト本来の直截な語り口とも違って現象学的な宿痾の語り口だった。

http://t.co/tgmsfp2S 「現象学の宿痾」は「対立項を見失う」あるいはそれ(体系)を乱す、悪しき思弁だ、という鋭いレビュー、笑いが止まらない。困ったものだ>現象学。
posted at 12:17:31

https://t.co/MyrKd3us の斎藤「我思うのは誰か」で、「我」の他者化が起こる「現象学の宿痾」というのは、スピノザ的デカルトの対極にみえた。この本探してるのだが見つからない。省察では逆順になる3つの神証明を踏まえて、我は他者だと叫んでたような。
posted at 12:24:20

古本屋Aさん楽しい。古本屋は読んでるからなーww まるで著者の「第一原因」のようなことを言い出す。神証明って原因結果論だが、そういう単純な対立項なら高校生の方が素朴で判明。現象学の宿痾は古本屋さんから見ると嘘にみえるんだろうなー。@LitoSnowfield 楽しいレビューですね
posted at 12:45:04

書籍やブログやSNSのテクストより直接的な「原因」になるディスクール(言説)で、こりゃ永久保存ものというのがあるよね<アマゾンレビュー(^-^)/ @LitoSnowfield 今ひとつに言われてしまうAmazonのレビューですが、時々鋭いものがあって油断出来ませんね
posted at 12:55:07

古本屋A氏が指摘している飛躍としてのデカルトなら柄谷行人のほうが鋭い、というのも笑った。とはいえ斎藤「我思うのは誰か」。少なくとも神証明までは國分的スピノザが言及するデカルトの解説にはなってたような。良書ではあるよ。@LitoSnowfield 単なる書評を超えた評論になっていて
posted at 13:01:01

起訴に至る記憶も、分析的記述→表象論→現象学に匹敵するぐらい不確かなんだろーなー(^-^)/ 年間75,000件以上の起訴が、第三者の記憶のみを根拠「虚偽の記憶」を減らす方法 http://t.co/Wv3BT0wb
posted at 21:36:50

朝、最近、思考を忘れて苦しまなくなった、とツイートしたけど、あれも非分析的記憶法だったりして(^-^)/ 「虚偽の記憶」を減らす方法 http://t.co/Wv3BT0wb
posted at 21:40:04

RT @motoken_tw: より一般的には、論理または理論の背景を考える、という言い方もできるかと。 RT @e_bonobono: @motoken_tw 原因と結果を明確にしてから、因果の流れを考えるように言うとよいのではないでしょかと、ふとおもいました。
posted at 21:42:49

非分析的記憶法ってのは・・・、分析的記述=超越論や評論を、原因と結果の対立項の命題にして、つまり神証明して覚えちゃうと、絶対に記憶欠損しないのよ、ってスピノザ的デカルトな話なのだけど。(^-^)/
posted at 21:44:42

そうそう、ハッカーが国家機密に一時的敗北状況?(^-^)/ @mimi_smpc000 たまたま今朝起きがけにYouTubeで「Google Analysics」のチュートリアルビデオ観てたんですが この商業用情報トラッキング技術は元々国家防衛目的で開発されたんじゃ、
posted at 22:14:42

昔ペンタゴンの地下基地みたいなDARPA(インターネットをつくったとこ)を取材で何度か訪れたが、この米国家機密であるGoogleを一般意志2.0 http://t.co/7cdtUXPN という元表象論者のノーテンキだけは、どうしても模倣できないのだが何故なんだろう?(^-^)/
posted at 22:19:47

そうそう、私なんか絶対に本心をツイートしない(^-^)/ @mimi_smpc000 本当に考えていることはネット上に公開せず、飛脚のように手渡しで情報を伝えたり、脳内だけに留めておくのがいい。情報が見えない、というのが一番の国家脅威なはず。
posted at 22:53:32

嘘つきは嘘をつかないのゲーデルみたいに、結局、政府振り回されそう(^-^)/ @mimi_smpc000 ネット上の情報が真実である保障はないのと同様、自分が与える自分の虚像を操作する事もできる。
posted at 22:58:56

つまりだ。誰も情報に真があるとは思ってないのに、Google政府はそういう幽霊追いかけてるのよね。まあ実際にテロリストはいるのだろうけど。だからテロリストじゃない私なんか、どれが真だか儀なのか、判断しないわけで。(^-^)/
posted at 23:05:31

まあ、さっきのツイートまとめブログ http://t.co/L4U1XIbn 的にいえば、虚偽の記憶からGoogleの求める真まで、っていう感じで、実際には私に真偽はないのだった。(^-^)/
posted at 23:08:24

あれは総合的分析というよりかなーりお節介(^-^)/ あの部分が機密なのかなー? @mimi_smpc000 だからフェイスブックの「お友達ですか?」機能があったり、スマホの電話帳になぜかツイッターコンタクトが繋がってきたり、位置情報が反映されたり という総合的な分析が必要なんでしょうね。 なにより、携帯電話でその人がある程度特定できる。
posted at 23:21:33

近頃のミュージシャンは漢ではないhttps://t.co/alGdh8hF とか通じない生真面目が世代的に出現してるのは事実なのよね。字義通りに全て受け取る理系脳と同じ。そしてプライバシーがあると騙されちゃう人達とか。彼らがキレた時に何かが起こるのかなー?無事であって欲しいけど。
posted at 23:40:33

デカルトを真の表象論にしたスピノザ

2012.04.22

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音楽の軽い話のツイート終わったのだが、ちょっと國分的スピノザの軽い忘備録(^-^)/
posted at 00:29:54

(読書メモ)國分186~200p デカルトを論じるスピノザと、そのスピノザを論じる國分で、用語法(概念布置)がめまぐるしく反転して対立項が捉えづらいしこの段落は錯綜しすぎているが、観念は実在の表象ではない、というスピノザに。 http://t.co/5HtimmNg
posted at 00:34:44

(読書メモ)國分200p デカルトの公理の順では真の懐疑が不十分で、実体を表象するのは心像だけで、観念=精神は何らの表象ではない。スピノザがそれを真の順序にすると、観念は観念の表象でしかない、ということになる。つまり観念こそが表象される実体だ。この観念=実体は確かに分かりづらい。
posted at 01:01:22

(読書メモ)國分200p というか、この箇所を有意味に要約、つまり命題化することは、たぶん用語の布置の関係でほぼ不可能だ。
posted at 01:02:41

(読書メモ)國分200p したがって要約は意味ないが、スピノザは分かっている人と分かっていない人が実在してる。実在する人の観念は、外界が原因(つまり影響)ではない。にも拘らず、デカルトの公理の順では、こうした真の懐疑が隠蔽される、と言っているように思えた。
posted at 01:10:45

(読書メモ)國分200p 表象はデカルトの公理の順では、知覚=映像が心像になることで、それに対して精神である観念は独立している。つまり懐疑していない。それに対してスピノザはそれを疑っている。という意味内容だろう。
posted at 01:12:38

(読書メモ)國分200p このようにデカルトの真の順序で、スピノザがデカルトの公理を整序すると、表象が実在を表す心像(イメージ)から、観念(精神)を表す観念に、なってしまう。言い換えると、デカルトはそれを疑っていない。という話になる。
posted at 01:14:47

(読書メモ)國分200p 要約できないので敷衍すると、デカルトの公理順では、精神が原因の表象とは単に幻覚や幻聴ということになりかねない。しかし、それを整序すると、精神が実在(分かっている人)になり、分かっていない人の観念への懐疑が生まれる、そんな話に一応見える。
posted at 01:23:10

(読書メモ)國分200p デカルトの公理順は偽なので、分かっていない人(観念)の実在性を問えない。つまりむしろ観念の共有を拒否している。それは思惟していないことだ。そんな文脈のようなのだが、いまいち眠いのでわけがわからん。考える故に眠いのではないが、眠い故に命題化が出ないw
posted at 01:27:23

(読書メモ)國分200p しかし國分氏、スピノザとデカルトのテクスト論をするわりには、私のように造語こそしないが(今私は「真の懐疑」とか造語した)、テクスト内の言語と意味の相違を、説明なくいきなり「視点の相違」と言いはじめたり、もうちょっと自重して欲しいなーw
posted at 01:33:46

(読書メモ)國分200p 眠いので短絡させると、デカルトの公理のままでは、くだらないやつを判別できず、幻覚や幻聴の病気になるぞ、とスピノザが心配してる、という話のようで。そう考えると眠れそうね、そろそろ寝支度(^-^)/ 

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(読書メモ)200~204p 目が開いてしまった。これでこの章(定義~公理まで)が終わるので、メモっておこう。國分は「デカルトの観念思想は、スピノザには表象論的観念思想」に見えた。とまとめている。
posted at 04:45:27

(読書メモ)こうしたデカルトの表象=心像を、スピノザは写本と肖像画の例で注釈することで、デカルトの表象公理の維持をギリギリ達成する。言葉=表象に対する実在する書き手の意味、つまり観念が表象の原因である写本の例。肖像画が実在の人物の表象とは必ずしも言えないという肖像画の例。
posted at 05:00:55

(読書メモ)もちろん、今では表象論はあまりに当たり前だ。しかしデカルトは表象を心像として、観念や実体から切り離すことを、自己をではなく神の存在証明という定理の整合性のために必要とした。短絡すると、デカルトあるいは表象論にとっての自己とは、むしろ神同然なのだろうか。
posted at 05:07:24

(読書メモ)~204p 表象論は自己性を神と証明する妄想であるかのようだが、神の存在証明というデカルトの定理のためには、観念思想は表象論として定義~公理される。まるで近代的理性と呼ばれる表象論は、まるで神ゆえの我の構図だ。國分スピノザの方法4章末尾の忘備録終わり。
posted at 05:16:05

(読書メモ)國分スピノザの方法四章末尾。デカルトの心像論は、スピノザによって真の表象論に格上げされたようだ。これによってデカルトが意図した神の3つの存在証明の前提にある曖昧性が解決された、ということらしい。 http://t.co/tp6nbSQS
posted at 05:25:17

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